サンティアゴ・セグラのコメディがナンバーワン*スペイン映画の2020年 ― 2021年01月04日 15:09
スペインの映画館の興行成績72%ダウンの嘆き
★2020年年明けの1月2月は増加傾向にあった客足も、新型コロナウイルスが到着すると事態は一変する。自宅監禁状態では映画どころではない、ということで1年間の興行成績はトータルで72.%ダウン下落した。なかで気を吐いたのが、7月29日に封切りされたサンティアゴ・セグラの新作コメディ「Padre no hay más que uno 2:La llegada de la suegra」(「Father There is Only One 2」)で、観客動員数2.317,888人、12,938,628ユーロ、第2位のサム・メンデス『1917 命をかけた伝令』は、1,573,320人、9,661,458ユーロ、第92回アカデミー賞の話題をさらったポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』は、987,089人、6,044,369ユーロで第7位、これもコメディですが笑いの質が違うようです。
*サンティアゴ・セグラの新作コメディの記事は、コチラ⇒2020年09月12日

★「Padre no hay más que uno 2」は2019年に公開された「Padre no hay más que uno」の続編で、コメディ好きの観客には続編が待たれていたから、ある程度は想定内のことでした。「トレンテ」のようにシリーズ化されるのかどうか分かりませんが、巣ごもりでイライラしていた向きには格好の清涼剤でした。子供と犬が活躍するコメディはヒット率が高い。セグラは12歳を頭に4歳までのこましゃくれた5人姉弟の父親ハビエルに扮する。サンセバスチャン映画祭2020メイド・イン・スペイン部門でも上映された。「映画館を潰したくなかった」と監督、同感です。

(自作自演のサンティアゴ・セグラと子役たち、映画から)
★スペイン映画の第2位は、サルバドール・カルボの「Adú」で、ポン・ジュノを抜いて第5位と健闘した。1,088,469人、6,371,655ユーロ、セグラ・コメディの半分にも満たなかったが、サハラ以南の難民問題というテーマで勝負している。カルボ監督は、デビュー作『1898:スペイン領フィリピン最後の日』(16、Netflix)で当ブログに登場させています。同じルイス・トサールとアルバロ・セルバンテスをキャスティング、スタッフも音楽をロケ・バニョス、編集をハイメ・コリスなどとタッグを組んでいます。本作はフォルケ賞2021の作品賞にノミネートされています。

★こちらも西アフリカに位置するベナン共和国生れ、当時6歳だった男の子ムスタファ・ウマルがタイトルのアドゥ役で主演しています。本作もNetflixが一枚噛んでおり、データベースでは各国一斉に配信開始(6月30日)され、日本も含まれていますが検索できません。いずれにしろゴヤ賞最終ノミネートに残るのは間違いないと予想しますので、アップ予定作品の一つです。
追記:「Adú」はスペイン語、ほか英語の字幕入りで配信されておりました。
アルモドバル、ペネロペ・クルス主演で新作 「Madres paraleras」を撮る ― 2020年07月04日 12:29
同じ日に出産した2人の女性の物語

(Efeのインタビューを受けるアルモドバル、マドリードの制作会社事務所にて)
★ペドロ・アルモドバルによると、新型コロナウイルスの感染拡大で自宅自粛をしていた3ヵ月の間に台本執筆に専念した。新作のタイトルは「Madres paraleras」で、ペネロペ・クルスを念頭において書きすすめ、本人もとても気に入ってくれた由。秋10月にクランクイン、今年中になんとかしたい。
★新作は、マドリードを舞台に同じ日に出産した2人の女性の人生が語られるようです。タイトルのパラレルは「平行線の」が語義ですから、似たような、同じような、の意味でしょうか。「幼い子供たちを育てている、今時の母親たちのフェミニンな世界が語られる」とアルモドバル。もう一人の母親役は決まっていないのか発表にならなかった。これだけではどんな映画か想像するしかありませんが、コロナがなければ新作は、初めて挑戦する英語映画、長短編2本のはずでした。
ルシア・ベルリンの小説『掃除婦のための手引き書』の映画化は中断
★短編はジャン・コクトーが1930年に発表した戯曲 ”La Voix humaine”(スペイン語”La voz humana”)の映画化、ティルダ・スウィントンの一人舞台で15分程度のもの、4月撮影開始でしたがパンデミアで中断している。まず2週間くらいの撮影を開始するが、目下遅れや中断を心配している。
★長編は、ルシア・ベルリンの小説『掃除婦のための手引き書』の映画化でしたが、これは中断するしかない。「この映画は少し複雑なうえ、ロケ地がアメリカ、言語は英語だから、一時的に中断するしかない」と監督。もともと彼は浮気っぽくて予告通りに製作してないこと往々にしてある。「製作できない映画やシリーズ物もあるが、少しずつ立ち直っていくと思う。自分は楽観主義者で、例を挙げると、週末には映画館に出かけるつもりです」。お気をつけて。
*短編&長編の紹介記事は、コチラ⇒2020年02月17日

(ルシア・ベルリン著『掃除婦のための手引き書』の表紙)
ロサ・マリア・サルダ逝く*リンパ腫癌に倒れる ― 2020年06月18日 11:01
ハリケーンのように半世紀を駆け抜けた女優ロサ・マリア・サルダ逝く

★6月11日、ロサ・マリア・サルダがリンパ腫癌で旅立ちました。親しい友人たちも彼女が病魔と闘っていることを直前まで知らなかったということです。死去する数週間前に、正確には40日前にジョルディ・エボレのテレビ番組に出演し、「もう私の人生に良い時は訪れないでしょう。78歳という年齢はだいたいそんなものです。私はどちらかというと病人、ええ、癌なんです。しかし皆さんはそのことを知らないはずです」と語ったことで、彼女が2014年から闘病しながら映画に出演していたことが分かったのでした。Netflixで日本でもストリーミング配信されたエミリオ・マルティネス=ラサロの『オチョ・アペリードス・カタラネス』(15)も、結局最後の映画出演となったフェルナンド・トゥルエバの「La reina de España」(16)も闘病しながらの出演だったということになります。


(ありし日のロサ・マリア・サルダ)
★ロサ・マリア・サルダは、1941年7月30日バルセロナ生れ、女優、コメディアン、舞台演出家、舞台女優、テレビ司会者、2020年6月11日バルセロナで死去、享年78歳でした。スペイン語とカタルーニャ語を駆使して約半世紀に渡って笑いを振りまきましたが、「自分を喜劇役者とは思っていません」と。ウィットに富んだ語り口、時にはシニカルだがパンチの利いた社会的発言、頭の回転の速さ、よく動く目と口で私たちを魅了しました。年の離れた弟ジャーナリストのハビエル・サルダ(1958)、1980年若くしてエイズに倒れた末弟フアンの3人姉弟。コミック・トリオLa Trincaラ・トリンカメンバーの一人、後に息子の父親となるジョセップ・マリア・マイナトと結婚した。1962年プロの舞台女優としてスタート、1969年からTVシリーズ、一人息子のポル・マイナト(1975)は、俳優、監督、撮影監督、TVシリーズ「Abuela de verano」(05)で共演している。

(一人息子ポル・マイナト・サルダとのツーショット、2004年)
★映画界入りは80年代と遅く、ベントゥラ・ポンスの「El vicario de Olot」(81)、ルイス・ガルシア・ベルランガの「Moros y cristianos」(87「イスラム教徒とキリスト教徒」)に出演している。1993年、マヌエル・ゴメス・ペレイラのコメディ「 ¿Por qué lo llaman amor cuando quieren decir sexo? 」 にベロニカ・フォルケやホルヘ・サンスと共演、翌年の第8回ゴヤ賞助演女優賞を受賞した。ゴヤ賞ガラの総合司会者にも抜擢され、コメディアンとしての実力を遺憾なく発揮した記念すべき授賞式だった。ゴヤ賞関連では、第13回ゴヤ賞1999の2回目となる総合司会者となり、つづいて第16回ゴヤ賞2002の3回目のホストを務め、ジョアキン・オリストレルの「Sin vergüenza」(01)で2個目となる助演女優賞も受賞している。

(ゴヤ賞ガラの総合司会をする)

(2個目となる助演女優賞のトロフィを手にしたロサ・マリア・サルダ、ゴヤ賞2002ガラ)
★舞台女優としては、1986年にブレヒトの戯曲『肝っ玉おっ母と子どもたち』に出演、1989年にはジョセップ・マリア・ベネトのコメディ戯曲「Ai carai!」を演出、舞台監督デビューをした。他に映画化もされているガルシア・ロルカの『ベルナルド・アルバの家』では、女家長の世話を長年務めた家政婦ポンシア役で演劇界の大女優ヌリア・エスペルトと共演した。エスペルトとはベントゥラ・ポンスの「Actrius」(96、カタルーニャ語「女優たち」)でも共演、翌1997年ブタカ賞を揃って受賞している。ポンス監督とはマイアミ映画祭2001女優賞受賞作「Anita no pierde el tren」(00、カタルーニャ語)他でもタッグを組んでいる。2015年には演劇界の最高賞と言われるマックス栄誉賞を受賞している。映画化もされたマーガレット・エドソンの戯曲『ウィット』をリュイス・パスクアルが演出した舞台にも立っている。

(マックス栄誉賞のトロフィを手にスピーチするサルダ、2015年)

(ヌリア・エスペルトとサルダ『ベルナルド・アルバの家』から)

(エドソンの戯曲『ウィット』に出演したサルダ)
★90年代以降は映画にシフトし、公開や映画祭上映作品として字幕入りで観られる作品が増えた。フェルナンド・トゥルエバの『美しき虜』(98、ゴヤ賞1999助演女優賞ノミネート)、ペドロ・アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』(99)、イマノル・ウリベの『キャロルの初恋』(02)、ダニエラ・フェヘルマン&イネス・パリスの『マイ・マザー・ライクス・ウーマン』(02)、イシアル・ボリャインの『テイク・マイ・アイズ』(03)、上記の『オチョ・アペリードス・カタラネス』と結構あります。

(セシリア・ロス、サルダ、ペネロペ・クルス、『オール・アバウト・マイ・マザー』から)
★ゴヤ賞以外にも、2010年スペイン映画アカデミーから「金のメダル」、同年マラガ映画祭マラガ賞、第3回フェロス賞2016 栄誉賞受賞、実弟のハビエル・サルダの手からトロフィを受け取った。同年ガウディ賞栄誉賞も受賞した。映画界入りが遅かったこともあり、晩年の活躍が目立った。
*第3回フェロス賞2016栄誉賞の記事は、コチラ⇒2016年01月21日


(フェロス栄誉賞に出席したサルダ姉弟、2016年)

(ガウディ栄誉賞のトロフィを代理で受け取った息子ポル・マイナト、2016年)
★昨年の11月にプラネタ社から ”Un incidente sin importancia”(仮訳「あまり重要でない事ども」)というタイトルの自伝を出版した。コメディアンの草分け的存在だった祖父母のこと、若くして亡くなった看護師の母親のこと、そして黒い縮れた髪、地中海の青い海とも薄暗い湖のようにも見える目をした、一番ハンサムだった末弟フアンのことなど、亡き人々へ送る手紙として後半生の30年間を綴っているようです。母親が亡くなったとき25歳だったロサ・マリアには、まだ8歳だったハビエルと、もっと小さいフアンが残された。二人の弟の母親でもあったようです。フアンは1980年、まだスペインでは謎の病気だったエイズの犠牲者の一人になった。地獄のような2年間の闘病生活を共にしたということです。あのサルダの明るさと強靭な精神は何処から来たのでしょうか。本書を「初めての世界へ旅立つのはなんて複雑なんでしょう!」と締めくくったサルダ、生涯にわたり自由人であり続けたサルダも病魔の痛みから解放された。

(”Un incidente sin importannte”の表紙)
★コロナの時代に訃報を綴るのは気の重いことですが、サルダの光と影、特に今まで語られなかった影の部分に心打たれアップすることにしました。ツイッターでは、俳優のアントニオ・バンデラス、ハビエル・カマラ、「トレンテ 2」で共演したサンティアゴ・セグラ、政界からはペドロ・サンチェス首相がサルダの偉大さについて自身のSNSで哀悼の意を捧げている。ほか多くのファンからは涙のつぶやきが溢れている。8月開催がアナウンスされたマラガ映画祭で急遽特集が組まれかもしれません。

(地中海に面したマラガの遊歩道に建立された自身の記念碑の前で、2010マラガ賞受賞)
「スペインクラシック映画上映会」のご案内 ― 2020年05月12日 16:12
スペインクラシック映画の名作10作品が週替わりで楽しめます
★この度インスティトゥト・セルバンテス東京が、文化イベント「スペインクラシック映画上映会」をVimeoチャンネルを通じて英語&ポルトガル語字幕で上映するとアナウンスしました。日時は5月9日から7月11日、毎週土曜日15:00から48時間限定です。週替わり1作ずつ10作です。第1回めは2020年5月9日(15:00~)から、オープニングはフアン・アントニオ・バルデム監督の「あるサイクリストの死」(55)です。スペイン協力開発庁(AECID Film Library)所有のカタログから選ばれたということです。上映順は分かりませんが、10作を纏めた予告編がアップされています。スペイン映画史に名を残した粒揃いの作品です。
★10作の中には「あるサイクリストの死」のように『恐怖の逢びき』の邦題で公開された作品、ルイス・ブニュエルの『ビリディアナ』のように、スペイン本国より日本で先に公開された作品、はたまたスペイン映画祭で上映されただけで未公開に終わったルイス・ガルシア・ベルランガの『ようこそマーシャルさん』(52)、ホセ・アントニオ・ニエベス・コンデの『根なし草』(51)、映画祭上映もなかったベルランガの代表作「死刑執行人」などが選ばれています。

(ガルシア・ベルランガの代表作「死刑執行人」のポスター)
★以下に原題、製作年、監督名、邦題(未紹介作品は仮題)の順で列挙しておきます。「」タイトルは未公開並びに映画祭上映もなかった作品です。映画祭としたのは、1984年10月に開催された「スペイン映画の史的展望<1951~1977>」の略です。この映画祭は一挙に23本を上映するという画期的な企画で、日本におけるスペイン映画元年といってもよいほど素晴らしいものでした。
★第1回目は終了してしまいましたが、来週5月16日も別の作品が上映される予定、以下のリストは上映順ではありません。
1)Los golfos 1961年、カルロス・サウラ、「ならず者/不良たち」(仮題)
*カンヌ映画祭1959出品、公開スペイン1961年。
2)El verdugo 1963年、ルイス・ガルシア・ベルランガ、「死刑執行人」(仮題、伊合作)
*ベネチアFF1963出品、FIPRESCI 受賞、公開マドリード1964年。
3) El pisito 1650年、マルコ・フェレーリ、「小さなアパート」(仮題)
*ロカルノ映画祭1958出品、公開マドリード1959年。
4)Calle mayor 1956年、フアン・アントニオ・バルデム、『大通り』(映画祭)
*ベネチア映画祭1956出品、FIPRESCI 受賞、公開マドリード1956年、日本未公開。
5) Viridiana 1961年、ルイス・ブニュエル、『ビリディアナ』(メキシコ合作)
*カンヌ映画祭1961出品、パルムドール受賞、公開マドリード1977年、日本1964年。
6)La vida por delante 1958年、フェルナンド・フェルナン・ゴメス、
「来たるべき人生」(仮題)
*公開マドリード1958年。
7)El cochecito 1960年、マルコ・フェレーリ、「車椅子」(仮題)
*ベネチア映画祭1960出品、FIPRESCI 受賞、公開バルセロナ1960年。
8)Bienvenido Mr. Marchall 1952年、ルイス・ガルシア・ベルランガ、
『ようこそマーシャルさん』(映画祭)
*カンヌ映画祭1953、コメディ映画賞・脚本賞受賞。公開マドリード1953年、日本未公開。
9)Surcos 1951年、ホセ・アントニオ・ニエベス・コンデ、『根なし草』(映画祭)
*公開バルセロナ1952年、日本未公開。
10)Muerte de un ciclista 1955年、フアン・アントニオ・バルデム、『恐怖の逢びき』
*カンヌ映画祭1955出品、FIPRESCI 受賞。公開マドリード1955年、日本1956年。
本上映会のタイトルは「あるサイクリストの死」と直訳されました。
★以上の10作です。クラシックといっても1950年代が主で、イタリアのネオレアリズモに影響を受けた作品から選ばれています。邦題がどのようになるか分かりませんが、一応仮題をつけておきました。この監督を選ぶなら「これよりあっちのほうがよかった」と思う作品も無きにしも非ずですが、スペイン映画の基礎をつくった作品群ではないでしょうか。巣ごもりのイライラ解消の一助となることを願っています。
2017年のスペイン映画は過去5年間の最低を記録 ― 2017年12月31日 17:12
映画業界は、最低でも落ち込んでいません!
★2017年の「スペイン映画は、過去5年間の最低を記録」と嬉しくない数字が発表になりました(12月16日)。年の瀬が迫るとこういう総括的な記事が増えてくる。2017年は「Ocho apellidos vascos」(2014年、5600万ユーロ)や昨年のフアン・アントニオ・バヨナの『怪物はささやく』(国内374万ドル、海外4357万ドル、トータル4730万ドル)のようなビッグネームのヒット作がなかったから、ある程度予想されたことでした。それでも200万ユーロ以上を売り上げた映画が13作もあったというから、観客の好みの分散化が起きているのかもしれません。12月17日調べで9560万ユーロ、まだ大晦日までに2週間あるから1億ユーロに近づけるかもしれない。

(アレックス・デ・ラ・イグレシアの「Perfectos desconocidos」から)
★1年でも暑い夏が終わり、映画館に足を運ぶようになる書き入れ時の9月から10月にかけてが振るわなかった。カタルーニャ独立問題を抱えたスペイン第二の都市バルセロナが名指しで戦犯になっている。というのは新人二人のハビ(カルボ&アンブロッシ)のミュージカル『ホーリー・キャンプ!』の公開と独立「Yes 対No」選挙が重なり、市民は映画どころではなかったからだそうです。しかし11月10日にイサベル・コイシェの「La libreria」、12月1日にアレックス・デ・ラ・イグレシアの新作「Perfectos desconocidos」が公開されて好転の兆しが見えてきた。ゴヤ賞ドキュメンタリー賞にノミネートされているグスタボ・サルメロンの「Muchos hijos, un mono y un castillo」も気を吐いているようです。サルメロン監督の母親が主人公、サルメロン一家はかなりユニークな家族のようで、これは授賞式までにアップしたい。多分受賞する確率が高い。

(ハビエル・カルボとハビエル・アンブロッシ、サンセバスチャン映画祭2017)

(「Muchos hijos, un mono y un castillo」の母親フリア・サルメロン)
★ゴヤ賞のアニメーション映画はアップしませんでしたが、有力候補というか受賞確実と言われているのが、エンリケ・ガトとダビ・アロンソの「Tadeo Jones 2: El secreto del rey Midas」、今年の出世頭第1位の1790万€とほぼ5分の1を売り上げている。第2位がゴヤ賞ノミネーション0個のアレックス・デ・ラ・イグレシアの「Perfectos desconocidos」1110万€、第3位が同じく0個のカルロス・テロンTherónのコメディ「Es por tu bien」960万€、第4位セルヒオ・G・サンチェスのデビュー作「El secreto de Marrowbone」720万€・・・と続き、彼は新人監督賞にノミネートされています。大体上位10本まではゴヤ賞と縁が薄く、ましてや作品賞受賞は稀れ、昨年の『怪物はささやく』はバヨナが監督賞こそ受賞しましたが、作品賞はラウル・アレバロのデビュー作『物静かな男の復讐』でした。

(アニメーション「Tadeo Jones 2: El secreto del rey Midas」から)

(ホセ・コロナド、ハビエル・カマラ、ロベルト・アラモ、「Es por tu bien」から)
★海外というかハリウッド映画を含む全公開作品のトップは、ディズニー不朽の名作をビル・コンドンが実写化した『美女と野獣』の2200万ユーロでした。エマ・ワトソンは頑張りましたが、130分は付添いの大人には長すぎました。ゴヤ賞にノミネーションされた作品のうち、Apache Filmsが製作を手掛けた、パコ・プラサの「Verónica」(売上353万€)、ビクトル・ガルシア・レオンのコメディ「Selfie」(製作資金1万€!)、『ホーリー・キャンプ!』(売上270万€)、アグスティン・ディアス・ヤネスの「Oro」(製作資金800万€)など、まだ正確な数字が出ていないものを含めて成果が表れている。大当たりしなくても小額当選金が積み重なれば、宝くじのように悪くないということらしい。

(新人男優賞ノミネート自撮りするサンティアゴ・アルベル、「Selfie」から)
★来年2018年の目玉は、『プリズン211』や『エル・ニーニョ』の監督ダニエル・モンソンが「Yucatán」を発表する。他に『ゴースト・スクール』や『SPY TIME-スパイ・タイム』でお馴染みのハビエル・ルイス・カルデラの「Superlópez」も目玉のようです。「映画は映画館で」という映画鑑賞の形態も変化しつつあり、みんなが同一作品を見る時代ではなくなった。
ピラール・バルデムが輝いた夕べ*祝AISGE設立15周年 ― 2017年06月13日 16:06
「母は引退を望まない、私たちも続投を望んでいる」とバルデム3兄弟
★6月5日(月)、AISGE*設立15周年祭がマドリードのCirco Price劇場**で行われた。どうしてピラール・バルデムがヒロインだったのかと言えば、AISGE設立時からの功労者、なおかつ現理事長でもあるからです。2013年から肺気腫を病み、当夜も左手に酸素ボンベをぶら下げての登壇、15周年のお祝いは、結局ピラールへのオマージュとして開催されたようなわけでした。3人の子供(カルロス、モニカ、ハビエル)と二人のお嫁さん(ペネロペ・クルス、セシリア・Gessa)ほか、参加者はビクトル・マヌエルとアナ・ベレン夫妻、ミゲル・リオス、ジョアン・マヌエル・セラ、アシエル・エチェアンディア、ロッシ・デ・パルマ、ゴヤ・トレド、アイタナ・サンチェス=ヒホン・・・などなど総勢1300人ほどが参集、他にペドロ・アルモドバル、アントニオ・バンデラス、コンチャ・ベラスコ、カルメン・マチなどからビデオで祝辞が届けられた。

(左から、登壇したバルデム一家、ハビエル、モニカ、ピラール、カルロス)
*AISGE:Artistas, Intérpretes, Sociedad de Gestiónの略、映画と舞台の俳優、声優、舞踊家、監督など、スペインのアーティストすべての権利を守るための交渉団体。2002年設立、執行部は25名、理事長の任期は4年、選挙によって選ばれる。しかし2003年以来ピラール・バルデムが連続して再選されており、常に二番手になりやすい女性アーティストの地位向上に尽力している。
**Circo Price:トーマス・プライス(アイルランド出身)が1853年設立したプライス・サーカス曲馬団が前身、スペインには1880年に来西した。1970年閉鎖した劇場跡に、マドリード市議会の肝煎りで文化施設として、2007年リニューアル・オープンした。所在地ロンダ・デ・アトーチャ、2000人収容、音楽会などイベントが開催されている。

(1列中央席のピラールと家族、フィエスタ会場にて)
★ピラール・バルデムPilar Bardem、1939年3月14日、セビーリャ生れの78歳、映画81本、舞台43本、テレビ・シリーズ31本、まさに女優一筋の人生を歩んでいる。故アントニオ・バルデム(『恐怖の逢びき』)は実兄。ゴヤ賞は、1995年、アグスティン・ディアス・ヤネスの「Nadie hablará de nosotras cuando hayamos muerto」で助演女優賞受賞、2004年、ホセ・ルイス・ガルシア・サンチェスの「María querida」で主演女優賞ノミネートの2回だけと少ない。徹底したフランコ嫌い、物言う反戦女優としても有名。2013年以来健康不安を抱えているが、まだ「引退」したわけではない。「私がすぐ死ぬことを子供たちは望んでいないし、私も第三共和制を見るまでは死ねない」とスピーチ、現在の立憲君主制は勿論気に入らない。というわけで死神は当分お呼びでない。しかし、前日打ち合わせのために母親と会ったハビエルによると、「まるでマイク・タイソンと闘った後のようだった」と冗談めかして語っている。3時間に及んだというフィエスタの夕べは、バルデム家の女家長には結構激務だったのではないでしょうか。

(「・・・第三共和制を見るまでは・・・」とスピーチするピラール、左はモニカ)
★下の写真は当夜のハイライトの一つ、コミック・トリオ「Tricicle」***の演技、毛糸の帽子とピエロの付け鼻がトレードマーク。4人なのはピラールの息子が飛び入り出演しているからだそうです(右端の赤い帽子がハビエル)。彼はアシエル・エチェアンディア(ビルバオ出身の歌手、俳優、「La novia」「Ma ma」)がイタリアの「あまい囁きParole parole」を歌ったときにはボンゴを叩いた。ミゲル・リオス、ビクトル・マヌエルとアナ・ベレンの左翼カップルも「見て、見て・・・なんてピラールは素敵なの・・!」と歌で呼びかけた。バルデム一家にとって一生涯忘れられない感激の一夜となった。

(コミック・トリオ「Tricicle」とハビエル・バルデム)

(ボンゴを叩くハビエル、「あまい囁き」を熱唱するアシエル・エチェアンディア)

(ビクトル・マヌエル、アナ・ベレン、ミゲル・リオス)
***バルセロナ演劇研究所の3人の学生が、1979年バルセロナで結成したコミック・トリオ。モンティー・パイソン、ローワン・アトキンソン、またはMr.ビーンの流れを汲むパントマイムが得意。舞台出演が主だがテレビや映画にも出演している。
アントニオ・レシネス*スペイン映画アカデミー会長を辞任 ― 2016年07月15日 09:29
不協和音がつづくスペイン映画アカデミー
★2週間前にグラシア・ケレヘタの副会長辞任が受理されたニュースをアップしたばかりですが、13日アントニオ・レシネスも会長辞任を表明、当然3人セットですから、もう一人の副会長エドモンド・ロチも右へならえです。「撤回不可能の決心」というわけで昨年5月5日に新体制が発足して以来14ヶ月の短命に終わりました。これでは都知事選同様年中行事化しかねませんが、フェルナンド・トゥルエバのように1年未満の方もおりますから、よくもったとも言えるでしょうか。混迷を深める政治経済とも絡んで現役の俳優や監督が兼職するには限界があるということかもしれません。レシネスは「アカデミーが難問山積なのは充分承知で引き受けたが、連日のように持ち込まれる些末な揉め事には対応できなかった。より作業能力に優れている人にお願いしたい」と皮肉たっぷりのコメントをいたしました。また現行の「選挙法」に問題があるという指摘もしたようです。

★野球に譬えると、現場監督(アカデミー側)と球団運営フロント(重役会)の摩擦や食い違いが常にあって、フロントからの些細な要求に納得できなかったのが背景にあるようです。前会長とポルフィリオ・エンリケスCEOとの関係は比較的良好と言われていただけに残念な結果になりました。現在の会員は約1400人、アカデミー執行部は14名、任期は6年で日本の参院選のように3年毎に半分が改選されるシステムです。次期会長はどなたになるのか、いずれにせよ会長辞任ですから再選挙がおこなわれる。
★スペイン映画芸術科学アカデミー設立の発端は、今から遡ること30年、プロデューサーのアルフレッド・マタスの呼びかけで1985年12月12日、マドリードのレストランでの会合から始まった。いわゆるマドリード派の監督ルイス・ガルシア・ベルランガやカルロス・サウラ、製作者マリソル・カルニセロ、テディ・ビジャルバ、俳優ホセ・サクリスタン、チャロ・ロペス、編集者パブロ・ゴンサレス・デル・アモ、作曲家ホセ・ニエト、美術監督ラミロ・ゴメスなどが参加した。正式な発足は1986年、ホセ・マリア・ゴンサレス・シンデ監督が初代会長に就任した。
★監督、脚本家のアンヘレス・ゴンサレス=シンデは初代の娘、社労党PSOEのホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ政権の文化教育スポーツ相就任のため、任期半ばで辞任した。映画産業に多くの予算を回したことで、国民党PPから「あなたは映画大臣ではなく、文化教育スポーツ省の大臣だ」と野次を飛ばされた(笑)。今思うとあの頃はPSOEとPPの二大政党だったのでした。『プリズン211』、『悲しみのミルク』、『瞳の奥の秘密』、『デブたち』、『ナイト・トーキョー・デイ』、『泥棒と踊り子』の名作が上映された「スペイン映画祭2009」の企画者が彼女でした。
*歴代スペイン映画アカデミー会長*
初代 1986~88 ホセ・マリア・ゴンサレス・シンデ
2代 1988 フェルナンド・トゥルエバ
3代 1988~92 アントニオ・ヒメネス・リコ
4代 1992~94 フェルナンド・レイ
5代 1994 ヘラルド・エレロ
6代 1994~98 ホセ・ルイス・ボラウ
7代 1998~2000 アイタナ・サンチェス=ヒホン
8代 2000~03 マリサ・パレデス
9代 2003~06 メルセデス・サンピエトロ
10代 2006~09 アンヘレス・ゴンサレス=シンデ
11代 2009 エドゥアルド・カンポイ
12代 2009~11 アレックス・デ・ラ・イグレシア
13代 2011~15 エンリケ・ゴンサレス・マチョ
14代 2015~16 アントニオ・レシネス
15代 2016~ ?
★13代のゴンサレス・マチョのように2期目途中での辞任は少数派、1年未満が3人もいて3年の任期を全うするのは難しいようです。
*グラシア・ケレヘタ副会長辞任の記事は、コチラ⇒2016年7月5日
ロルカの死をめぐる謎に新資料*マルタ・オソリオ ― 2015年09月11日 22:20
恐怖 miedo から謎 enigma へ―失われた鎖の輪を探す
★毎年命日の8月18日が近づくとフェデリコ・ガルシア・ロルカの周りが騒がしくなる。2012年にはロルカ最後のアマンテは、定説になっている「ラファエル・ロドリゲス・ラプンではない」というマヌエル・レイナの“Los amores oscuros”が出てサプライズがあった。今年は没後79周年、本当に「光陰矢の如し」です。スペインでもっとも有名な詩人の謎に満ちた死についての研究でタクトを振っているのが、ロルカと同郷のマルタ・オソリオです。最近新資料をもとに“El enigma de una muerte. Crónica
comentada de la correspondencia entre Agustín Penón y Emilia Llanos”という長いタイトルの研究書をコマレス社から刊行して話題になっています。直訳すると「ある死をめぐる謎:アグスティン・ペノンとエミリア・リャノスの往復書簡注釈記録」でしょうか(オソリオについては後述)。

★オソリオは15年前に同社から“Miedo, olvido y fantasía: Crónica
de la investigación de Agustín Penón sobre Federico García Lorca(1955~1956)”(2000、直訳「恐怖、忘却と空想:ロルカについてのアグスティン・ペノンの調査記録」)を上梓しています。これはペノンの資料をもとに、闇の中に埋もれていた独裁者の犯罪に光を当てたものでしたが、新作はこれを補う内容をもつようです。結論としては、往復書簡から見えてきたのは、「証言者たちが、ロルカが銃殺された場所として指し示した墓穴から、遺体は他に移されていた」ということです。オソリオは一応これでロルカの死をめぐるテーマにけりが付いたので、これからは短編や物語の執筆に戻りたい、つまり決定版ということです。
★アグスティン・ペノン(1920~1976)という人は、バルセロナ生れだが、内戦時に家族と一緒にアメリカに亡命してアメリカ国籍を取った熱烈なロルカ信奉者。アメリカのパスポートで1955年スペインに入国、バルセロナで知り合った舞台演出家ウィリアム・レイトンと一緒にグラナダに滞在して、18カ月ほどロルカの死をめぐる聞き書き調査をした。レイトンはテレノベラのラジオ版脚本で得た資金を蓄えていた。クエーカー教徒で、内戦後のスペイン旅行に費やしていた。タイトルに(1955~1956)とあるのはペノンが調査した期間を示しています。しかし、当時のフランコ体制側からの監視の目は厳しく、ゲイの<アカ>をしつこく嗅ぎまわっている男は「ロシアのスパイか、アメリカCIAのメンバーに違いない」と圧力を掛けてきた。当時のグラナダは<恐怖>が支配していて、身の危険を感じたペノンは調査を打ち切って帰国した。収集した全資料はスーツケースに収められ、当時ペノンが暮らしていたニューヨークに運ばれ保管されていた。

(左から、調査をするアグスティン・ペノンとウィリアム・レイトン)
★フランコ政権での出版は、取材相手に危険が及ぶことが考えられ時の来るのを待っていた。帰国後ペノンとレイトンは別の人生を歩いていたが、何か予感めいたものがあったのか、ペノンは「私にもしものことがあったらスーツケースを預かって欲しい」とレイトンに頼んでいた。1976年ペノンはコスタリカの首都サン・ホセに住んでいた両親に会いに行った先で突然の死に見舞われた。フランコ没後1年も経っていなかった。遺言通り資料はレイトンのもとに渡ったが出版されることもなく静かに眠っていた。レイトンは長生きして1995年に亡くなった。巡りめぐって資料は最終的にマルタ・オソリオの手に渡った。スーツケースの長い旅も詩人の死同様、数奇な運命を辿ったことになる。

(アグスティン・ペノン)
★エミリア・リャノスは、ロルカの10歳年上の親しい友人でグラナダに住んでいた。家族同士の付き合いだった。1936年7月14日、ロルカは故郷への最後の旅をした。7月20日グラナダ守備隊が蜂起、急激に事態が悪化して共和派関係者は一挙に検挙投獄された。ロルカにも危険が迫り避難先の候補の一つとして選ばれたのがリャノス家だった。結果的にはファランヘ党のリーダーだったロサレス兄弟の家に落着くのだが、兄弟の留守中に逮捕されてしまう。ペノンはこのルイス・ロサレス、ホセ・ロサレスのインタビューも行っている。
★ペノンが聞き書きをした中で特に親交を重ねた証言者がエミリア・リャノスで、彼が帰国した後も手紙のやり取りをしており、これが新作の資料になっている。リャノスは書簡で、最初は「オリーブの木の下に埋められ、その後そこから移されたのです」と書いている。秘密にしているのは「或る有力者」から口止めされているからだと。今ではその「或る有力者」が当時の極め付きのフランコ主義者、グラナダ市長ガジェゴ・ブリンだったことが分かっている(ペノンは息子アントニオ・ガジェゴにも取材している)。内戦後のグラナダは恐怖の坩堝で、<フェデリコ>は禁句だった。移された場所はどこか分からないが、ビスナルからアルファカルに行く道路沿いの何処かしか分かっていない。ビスナルというのはナショナリストたちが<好ましからざる>人物たちを処刑した場所です。「誰も何も知らないのです」とオソリオ、死後80年も経てば、生存者は殆どいない、何か新資料が出ない限り闇の中ということか。

(ロルカが唯一愛した女性といわれるエミリア・リャノス)
★マルタ・オソリオはグラナダ生れの作家、かつては舞台女優(1961~65)であった。1966年、児童図書“El caballito que queria volar”で「ラサリーリョ賞」を受賞。日本では“Jinetes en caballos de palo”(1982)が『棒きれ木馬の騎手たち』(行路社)の邦題で翻訳されている。ロルカ研究者というより児童文学者として知られていると思います。生年が確認できてないのですが(調べ方が悪い)、「レアレホにある私の家から、フランコ主義者が思想家、文学者、自由主義者、先生たちを銃殺するのを見ないで過ごすことは難しかった」と語っているところから、人生の初めに内戦を体験した世代だと思います(レアレホはグラナダ市郊外、アルハンブラの近くの地区)。
★「ペノンが残した資料に導かれて、資料に敬意を払って」編纂した。「自分を黒子にして、自分の意見を加えることをしたくなかった」とも語っている。なかなか真似できない研究態度です。志を遂げることなく旅立ってしまったペノンへの哀悼の意が感じられる。オソリオは「家族が遺体を移した可能性もあるが」、「ロルカの墓穴が共和派の聖地になるのを恐れたフランコ主義者の命令で移された」と考えているようです。ペノンが公刊しなかった理由は一つでなく、いくつか考えられると話す。「彼は感受性豊かな人で、ロルカに関して生み出された沈黙と挫折の世界を暴くのを躊躇した」とオソリオ。ロルカの死に拘りつづけたペノンとリャノスは、真相を突き止めるのを諦めなかったようです。

(マルタ・オソリオ、グラナダの自宅の庭で、2012年撮影)
★日本では翻訳書も出ているギブソンの『ロルカ』*が、日本語で読めるロルカの伝記として決定版だと思う。本書は評価も高くベストセラーにもなった。本書にもエミリア・リャノスは登場している。夥しい参考資料から分かるように力作には違いないが、今では間違いも指摘されている。特にロルカの晩年、死をめぐる記述には問題があるという。オソリオが第1作を上梓した理由もギブソンの「不完全」版を変えたかったからだと語っている。特にペノンの資料があることを知っていたのに無視したことを非難している。
★イアン・ギブソンは1939年ダブリン生まれ、フランコ時代の1965年に来西してグラナダに1年ほど取材して、『ロルカ・スペインの死』**を出版した。フランコ没後、より正確な伝記執筆を考え、1978年来西、グラナダにどっしり腰を下ろして、1984年にはスペイン国籍まで取得して完成させたのが『ロルカ』です。これにロルカ最後のアマンテとして度々登場するのがラファエル・ロドリゲス・ラプンです。

(ロルカとラファエル・ロドリゲス・ラプン)
★しかしラプンではなく、実は「最後のアマンテは私です」というフアン・ラミレス・デ・ルカスの告白を載せた本が出版された。それが冒頭に書いたマヌエル・レイナの“Los amores oscuros”(2012)です。1917年アルバセテ生れ、1934年にマドリードでロルカと出会ったとき未だ17歳だった。愛は詩人の死で終止符がうたれたが、彼は長生きして2010年に93歳で没した。無名の人ではなく、日刊紙「ABC」などに芸術コラムを執筆していた有名なジャーナリストだった。レイナは1974年カディス生れ、小説家、詩人、脚本家、戯曲家、一時期「ABC」紙のコラムニストだった。ギブソンを責められないが聞き書きという作業の落とし穴をみる思いです。

(美青年だったというフアン・ラミレス・デ・ルカス)
★ロルカの親しい友人たちは皆知っていたが、内戦が激しくなったうえ、ロルカが殺害されたことを考えると沈黙を守らざるを得なかった。ロルカからの「メキシコに一緒に亡命しよう」という内容の手紙があるようです。ロルカにはコロンビアとメキシコの両国から亡命の許可が下りていたから、亡命しようと思えばできたというのは最初から言われていたこと。何故メキシコ亡命を選ばず危険なグラナダに帰郷したかが謎だったはずです。デ・ルカスは亡命には親の承諾が必要な年齢だったので同行できない、ロルカは彼が一緒でなければ亡命したくない、ということなのでしょうか。ロルカは彼のために秘密を墓場まで持っていった。これは別テーマなので深入りしませんが、アグスティン・ペノンが後にフアン・ラミレス・デ・ルカスと会っているという事実です。ペノンが公刊しなかった理由の一つかもしれません。

(“Los
amores oscuros” のポスターを背にしたマヌエル・レイナ)
*イアン・ギブソン『ロルカ』(中央公論社1997刊)
“Federico García Lorca: A Life”(英語版、ロンドン1989)、2部立てのスペイン語版を1冊にまとめたもの(1部1985年、2部1987年、バルセロナ)
**イアン・ギブソン『ロルカ・スペインの死』(晶文社1973年刊)、“La represión nacionalista de Granada en 1936
y la muerte de Federico García Lorca”(パリ、1971)
「監督週間」”A Perfect Day”*カンヌ映画祭2015 ② ― 2015年05月17日 16:15
「監督週間」も「批評家週間」もまとめてカンヌ映画祭
★「監督週間」、新人監督に特化している「批評家週間」は、カンヌ映画祭とは別の組織が運営していることを知ってる人は知ってるが、普通の映画ファンには重要じゃない。同じ時期に同じ場所で開催されるから、正確には別ですけど、同じと思っている(笑)。ノミネーションを受けた各国のメディアも≪カンヌ映画祭≫とひと括りです。区別したい人は「カンヌ映画祭2014」をアップしたとき違いを書いていますのでそちらにワープして下さい。昨年「批評家週間」に選ばれたコロンビアのフランコ・ロジィの“Gente de bien”や最近躍進の目立つコロンビア映画についても紹介しています。 コチラ⇒2014年05月08日
誰も彼もみーんな英語をしゃべってる
★「監督週間」には、フェルナンド・レオン・デ・アラノアの“A Perfect Day”(スペイン題“Un día perfecto”に決定)が選ばれています。製作国はスペインですがオリジナル言語は英語です(スペイン公開8月15日が決定)。ティム・ロビンス、ベニチオ・デル・トロ、オルガ・キュリレンコ、メラニー・ティエリーなどが出演。パウラ・ファリアスの小説“Dejarse llover”に題材を取っている。1995年のバルカン半島の紛争地が舞台ですから重たいかと思うのですが、予告編を見るとちょっと可笑しいシーンも。『月曜日にひなたぼっこ』も深刻なテーマのわりに解毒剤のようなユーモアに富んでいたのを思い出した。コンペティション出品のマイケル・フランコの“Chronic”も英語だったが、こちらはスペイン語タイトルも決まっていない。言語のグローバル化もここまで来るとお手上げだね。二つとも賞に絡んだらアップします。
(写真下は“A Perfect Day”の主要な出演者一同)

(左から、Fedja Stukan、オルガ・キュリレンコ、ティム・ロビンス、
メラニー・ティエリー、ベニチオ・デル・トロ)

(さえないおじさん二人、ティム・ロビンスとベニチオ・デル・トロ)
★監督の次回作は、メデジン・カルテルのドンパブロ・エスコバルの伝記映画を撮る予定とのこと。なんとハビエル・バルデムとペネロペ・クルス夫婦が出演だそうで、2015年末にクランクイン。オーストラリア最東端の町バイロンベイにある美しいビーチで一家揃って2週間の休暇をとっていた。共演はビガス・ルナの『ハモンハモン』以来、ウディ・アレンの『それでも恋するバルセロナ』(08)、結婚後もリドリー・スコットのスリラー『悪の法則』に出演している。言語は英語でしたが、新作はスペイン語と思いたい。スペインから唯一人ノミネーションされたレオン・デ・アラノアは、本作上映と新作プロモーションも兼ねてカンヌ入りしている。

(本作撮影中のレオン・デ・アラノア)

(観客の反応がよくご機嫌な監督とデル・トロ、5月15日カンヌにて)
アントニオ・レシネス*映画アカデミー新会長 ― 2015年05月11日 16:27
厄介ごと“marrón”を引き受けたアントニオ・レシネス
★5月9日、正式に新会長に承認されました。本当は引き受けたくなかったようですが、真面目で誠実、ユーモアのセンスで困難を乗りきるだろう、というのが巷の大方の意見です。第一副会長のグラシア・ケレヘタ監督並びに第二副会長の製作者エドモン・ロチの3人の顔ぶれについては既に紹介しております(コチラ⇒4月3日)。

(スペイン映画アカデミーの新旧二人の会長)
★基本路線は前会長エンリケ・ゴンサレス・マチョを踏襲すると明言して承認されたわけですが「行政機関との関係には流動性をもたせたい」と新会長は語っている。これから理事会というか執行部のメンバー14名の選出が始まりますが、各々専門分野から満遍なく選ばれるようです。監督、脚本、撮影、音楽、美術、特殊効果、衣装デザイン、編集、アニメ、等などです。理事会の任期は6年、選挙は本部での投票、郵便、オンラインから選ぶことができる。
★ラホイ国民党政権というか文化省との不協和音はずっと鳴りっぱなしですが、去る4月半ば、関係修復改善の昼食会が、モンクロアの首相官邸で行われました。モンクロアは17世紀に建造された宮殿ですが、1977年よりスペイン首相官邸となっています。政府側からはラホイ首相、マリア・ドロレス・コスペダル幹事長、アカデミー側からはレシネス新会長、製作会社モレナ・フィルム*のフアン・ゴルドン、ダニエル・カルパルソロ監督などが出席した。どうして肝心の文化相以下、お役人たちが出席していないかというと、コスペダル幹事長の肝いりで開催されたから。文化省内には自分たちの頭越しに企画された会合が気に入らずカンカンに怒っている人もいるとか。いやはや、こんなことで修復改善はできるのでしょうか。
*Morena Films :1999年設立の映画製作会社、フアン・ゴルドンは設立者の一人。ダニエル・モンソンの『プリズン211』(09)、イシアル・ボジャインの『雨さえも~ボリビアの熱い一日~』(10)、パブロ・トラペロの『ホワイト・エレファント』(12)、ダニエル・カルパルソロの『インベーダー』(12)など話題作を送り出している。
★アメリカとキューバも仲直りしたいと握手しましたが(脚は蹴飛ばしあっている?)、こちらの対立はなかなか根深い。2時間半の昼食会で、何が話題になったかというと、勿論映画は当然ですが、映画新法、負債の割り当て、消費税21%の削減、ラホイとレシネス両人が最近読んだという推理作家フィリップ・カー(1956年エディンバラ)にまで及んだとか。推理小説「ベルリン三部作」、ファンタジー・シリーズ「ランプの精」など邦訳も多い英国スコットランドの作家。日本ではちょっと考えられない話題だよ(笑)。
★消費税21%は如何にも高い、EU内でも最高らしく、これは交渉の余地があるようだ。しかし経済・大蔵省の管轄で文化省がどうこうできる問題ではない。政府が約束した助成金の支払いも遅れているようで、プロデューサーたちからは多くの不満が噴出している。総額1400万ユーロに達する支払いを分割して支払うことが決まっているが実行されていないようです。銀行側が製作側を信用してくれることが必至だが、政府が資金を渡してくれないので信用して貰えない。どうも上手く機能してないようです。
アカデミーはどんな仕事をするの?
★大きい仕事はゴヤ賞の選定、授賞式の開催ですが、その他にも上記のような交渉をやらねばならない。今年、第8回を数える「映画フェスティバル」の企画もその一つ。間もなく始まります(5月11~13日)が、各セッション総入れ替えでチケット代3分の1の2.90ユーロで見ることができる。昨年は延べ8700万人の観客が押し寄せた。ハリウッドに代表される外国映画がお目当てですが、スペイン映画も見てもらえる。今年はまだ大ヒット作はないようですが、「マラガ映画祭」でご紹介した作品賞受賞のダニエル・グスマンのデビュー作“Cambio de nada”、ルケ・アンドレス&サムエル・マルティン・マテオスの“Tiempo sin aire”、時間切れでご紹介できなかったマヌエラ・モレノの“Cómo sobrevivir a una
despedida”、アレホ・フラの“Sexo fácil, pelicula tristes”、他にガルシア・ケレヘタの悲喜劇、マリベル・ベルドゥ主演“Felices 140”などが人気を呼んでいる。
★スペイン国営テレビの「La 2 de TVE」を通して、“Historia de nuestro cine”というプログラムが始まる。1930年代から2000年まで言わば「スペイン映画史」みたいな番組、厳選した690本を3年がかりでゴールデン・タイムに放映する。こんな企画もアカデミーの仕事です。お茶の間が名画劇場に早変わりする。古くはエドガル・ネビーリェ、ブニュエル、ガルシア・ベルランガ、まだフラメンコ映画など撮っていなかった頃のサウラ、初期のアルモドバル作品、などが続々登場します。これについては次回にUPします。

(ガルシア・ベルランガの『ようこそマーシャルさん』1952)
◎ダニエル・グスマンの記事は、コチラ⇒2015年4月12日
◎ルケ・アンドレス&サムエル・マルティン・マテオスの記事は、コチラ⇒2015年4月26日
◎グラシア・ケレヘタの記事は、コチラ⇒2015年1月7日
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