ビリャロンガの遺作「Loli tormenta」*母へのオマージュ ― 2023年04月22日 18:45
アグスティ・ビリャロンガを偲ぶ会に集まった仲間たち
★3月30日、バルセロナのカタルーニャ・フィルモテカで、アグスティ・ビリャロンガを偲ぶ会がもたれました。遺作となった監督初のコメディ「Loli tormenta」の公開前日にチョモン・ホールで開催され、家族、友人、仲間が思い思いに故人の思い出を語りました。カタルーニャ自治州政府の文化大臣ナタリア・ガリガ、カタルーニャ映画アカデミー会長ジュディス・コレルも出席して開催された。コレル会長はフレンドリーでいつも周りを笑顔にしたアグスティについて「若いころはとてもハンサムだったのですよ」と、映画館に掲げられていた「Tras el cristal」の看板の写真に見とれて追突事故を起こした逸話を語った。

(アグスティ・ビリャロンガ)
★女優ロザ・ノベルが癌に倒れる直前を記録した中編ドキュメンタリー「El testament de la Rosa」(15、46分、仮題「ロザの遺言」)が上映されました。フィルモテカ館長エステベ・リアンバウが本作上映を選んだ理由について口火を切りました。本作は「病気との闘い」という側面と、長靴を履いたまま死ぬ、つまり「殉職する、または戦死する」という側面があり、「元気づけるものではありませんが、今宵にふさわしいと考えた。それは『El testament de la Rosa』がアグスティでもあるからです」と語った。デビュー作「Tras el cristal」(88)を選ぶこともできたが、目下デジタル化の過程にあり、新しいものは別の機会に上映されるようです。

(「El testament de la Rosa」のロザ・ノベル)
★ビリャロンガの妹パウラ・ビリャロンガは、大の映画ファンで息子を映画界に手引きした兄妹の父親、デビュー作公開を目前にして亡くなった父親からの手紙を披露した。『ブラック・ブレッド』やTV映画「Després de la pluja」出演の女優マリナ・ガテル、映画監督のロザ・ベルジェス、撮影監督ジョセップ・マリア・シビトやジャウメ・ペラカウラ、「El ventre del mar」や遺作の音楽を手がけた作曲家マルクスJGRは、監督が「まだ去っておらず、次の映画に私を呼ぶだろう」と語った。1978年にバルセロナの公立舞台芸術学校である演劇研究所でアグスティと一緒に学んだ2人のクラスメート、エウラリア・ゴマとセスク・ムレトは、ビリャロンガは「たちまち頭角をあらわした」とスピーチした。
ぶっつけ本番で撮影された、残された時間との闘い
★前置きが長くなりました。遺作「Loli tormenta」の作品紹介と主役ロリを演じたスシ・サンチェスのインタビュー記事を交えてアップします。既に癌に冒されていた監督に残された時間は僅かでしたが、皆にさよならを言う前にどうしても完成させたかった。監督は化学療法を一時中断して撮影に臨んでおり、健康状態は最悪だった。死後公開となった本作は、これまでの作品とは想像もできないほどの甘酸っぱい家族コメディで、去る3月31日封切られました。本作は娘が亡くなって、血縁関係のない2人の男の孫を育てることになったアルツハイマーの兆候が現れ始めたハッスルお祖母さんの物語です。

「Loli tormenta」(「3.000 obstáculos」)2023年
製作:3000 obstáculos A.I.E. / Crea SGR / Irusoin / Vilaüt Films / Film Factory Entertainment 協賛カタルーニャ自治州文化省 / ICAA / RTVE / TV3 / Movistar+、他
監督:アグスティ・ビリャロンガ
脚本:アグスティ・ビリャロンガ、マリオ・トレシーリャス
音楽:マルクスJGR
撮影:ジョセップ・マリア・シビト
編集:ベルナト・アラゴネス
キャスティング:イレネ・ロケ、(アシスタント)カルメン・ロペス・フランコ
プロダクション・デザイン:スザンナ・フェルナンデス、ジョルディ・ベラ
衣装デザイン:パウ・アウリ
メイクアップ&ヘアー:(ヘアー)クリスティナ・カパロス、(メイク)アルマ・カザル
製作者:フェルナンド・ラロンド、アリアドナ・ドット、ハビエル・ベルソサ、トノ・フォルゲラ、アンデル・サガルドイ、アンデル・バリナガ≂レメンテリア、(エグゼクティブ)マルタ・バルド
データ:製作国スペイン、スペイン語、2023年、コメディドラマ、94分、撮影地バルセロナの各地、2022年夏。配給キャラメル・フィルムズ、ユープラネット・ピクチャーズ、国際販売フィルム・ファクトリー、 公開スペイン2023年3月31日
キャスト:スシ・サンチェス(ロラ、ロリ)、ジョエル・ガルベス(孫ロベルト)、モル・ゴム(孫エドガー)、シャビ・サエス、ペパ・チャロ(ロッシおばさん)、セルソ・ブガーリョ(銀行家の父親トマス)、フェルナンド・エステソ(ラモンおじさん)、メテオラ・フォンタナ(ピラール)、カルメン・ロペス・フランコ(受付係)、ブランカ・スタル・オリベラ(トラム乗客)、マリア・アングラダ・セリャレス(リネト)、ほか
ストーリー:現代的で少し混沌が始まっているロラは、数年前に亡くなった娘の子供エドガーとロベルトを引き取ります。3人はバルセロナの郊外にある質素な家に住んでおり、彼らの静かな生活が劇的に変化すると疑うものは何もありません。ロラにアルツハイマー病の進行が顕著になってきますが、再び引き離されて里親に預けられることを望まない孫たちは、周りに病気の進行を隠すための素晴らしい創意工夫と溢れるファンタジーを凝らして世話をします。孫が祖母を世話するという逆転が起きてしまいます。元アスリートとして名声を博したロラは、陸上競技会出場のロベルトのように3000障害物レースに出場することになるでしょう。エキサイティングで謙虚な甘酸っぱい家族コメディ。

(左から、ロベルト、ロラ、エドガー)
★デビュー作「Tras el cristal」の公開直前に死去したという監督の父親は、15歳でスペイン内戦に引きずり込まれたという。その後血縁関係のないパルマでお針子をしていたロラ叔母さんに引き取られている。彼女がロリの人格造形に何か投影されているのだろうか。また監督より1年前に亡くなったという母親もアルツハイマー病だったことから、母親へのオマージュの側面もあるようです。老齢、死、アルツハイマー病、移民問題、エネルギー貧困、不動産投機、社会から孤立した人々など盛りだくさんな社会批判が盛り込まれている。しかし遊び心があり、あかるさに満ちた、いたずらっぽい作品に仕上がっているようです。その多くは主役ロラを演じたスシ・サンチェス(バレンシア1955)に負っている。彼女はラモン・サラサール『日曜日の憂鬱』でゴヤ賞2019主演女優賞、アラウダ・ルイス・デ・アスアの「Cinco lobitos」で助演女優賞を受賞したばかりです。現在スペイン映画アカデミー副会長です。

(ゴヤ賞助演女優賞のスシ・サンチェス、ゴヤ賞2023ガラ)
「ロリは考えない」従って「あなたも考えない」と監督
★以下の記事は、バルセロナに本部をおく「ラ・バングアルディア」紙との電話インタビューの抜粋です(4月3日)。サンチェスはクラウディア・レイニッケの「Reinas」の撮影でペルーからマドリードに戻ってきたばかりでした。
Q: 本作出演の経緯についての質問(女優はビリャロンガ作品は初出演)。
A: 以前から彼と一緒に仕事をしたいと夢見ていました。その贈り物が幸運にも届きましたが、彼の健康状態はひどいものでした。不平を言いませんでしたが、彼のような苦しみを見るのは辛かった。撮っている作品はコメディですから、監督の苦しみから切り離すのが困難でした。気温が40度、狭い部屋での撮影、リハーサルをする時間がなく、アグスティはそのことを私に詫びました。私たちに「ノー」はなく、常に「イエス」、その場でキャラクターを作りました。しかし、私はこの経験から多くを学んだのです。
Q: 監督とはどのように出会ったのですか。
A: 監督は次の映画(本作のこと)の主役が病気で出演できなくなり、代わりを緊急に見つける必要があった。共通の友人が私に会いに行くよう勧めたので、バルセロナのD'A映画祭上映の「Cinco lobitos」を見に来ました。少し話し合った後、私は彼に都合のつく時間があるから待ってほしいと言いました。脚本を読んで一緒に彼と旅をしたかったのです。今まで自分が演じてきた役柄とかけ離れていましたが、コミックのような役柄をした経験もあり、(ロリは)私を大いに魅了しました。二人の間に発見もあり、私は任せることにしたのです。
Q: 祖母役が多くなっていますが、主人公に最も惹かれたところは何でしょうか。
A: 幾つになったら、私の番になる(笑)。シェイクスピアからジュリエット役をもらえるとは思いません。もっともシニア版ならあり得ますが! ロリの魅力は、人生を前進させる能力です。ロリは「考えない女性」です。それは純粋な衝動であり、前進する生存本能です。スポーツと人生の挑戦を乗り切ることには似ているところがあり、人生への愛や物事の純粋さに対する大きな能力に惹かれました。彼女がいかに正直で、子供たちを心から世話していたか、実際ロリは闘士なのです。そして重要なのはアグスティが生きていた瞬間だったということです。

(撮影中の監督とサンチェス、2022年盛夏)
Q: あなたの人生でロリと同じくらい多くの困難に直面したでしょうか。
A: もちろん皆さんと同じです。人生は誰にとっても次々に問題が降りかかります。ロリは考えずに先に進みます。それはその瞬間を生きるよう私に教えてくれました。誰にとっても教訓だと思います。
監督が私たちに伝えたかったこと
Q: 本作はアルツハイマー病がテーマの一つになっています。
A: アルツハイマー病はすべてにおいて異なります。私はアルモドバルの『ジュリエッタ』でアルツハイマー病の女性をやりましたが、本作とは別のタイプでした。私の母親は人生の最後の3年間をホームにいましたので以前からこの病気の知識がありました。ホームで出会うアルツハイマー病の症例はそれぞれ違っておりました。監督の母親も患っていたので、彼の見解が大いに役立ちました。私たちの身近にある病気であり、これについて話したかった。一方には役に立たない要素としての老人ドラマや子供ドラマがあり、それは社会が私たちをそのように見ているからです。なぜなら高齢者はもはや成果を生み出せない、子供はまだ生み出していないからです。これについては否定したい、ここでは何が起こるかはユーモアで語られます。コメディの要素を加えたドラマです。まだ完成版を観ておりませんが、光の扱いは明るく、アグスティが指示したトーンも明るいものでした。彼は人生がもつ価値について希望に満ちたかたちで語りました。それが彼の伝えたかったことなのです。
Q: ベテランと新人をミックスしたキャスト陣についての質問。
A: アグスティは仲間のプロの俳優を呼びました。フェルナンド(・エステソ、ラモンおじさん)とは既に仕事をしていて、彼らは友達でした。一方子供たちはカメラの前に立つのは初体験で集中させるのが難しかった。しかし私とは最初から馬が合いました。私は二人に登場人物の名前で呼ぼうと提案しました。私のことをスシ以外のヤヤ(おばあちゃん)、ロリ、アブ(祖母abuela)など好きに呼んでいいと彼らに伝えました。まるでゲームのようでした。

(ラモンおじさん役のフェルナンド・エステソ、フレームから)
Q: あなたはロリと同じようにアスリートでしたか。
A: まさか! 若いころは陸上競技が好きでしたが、最近はスポーツをしておりません。最後にやったのが卓球です(笑)。

(ゴールのテープを切るロリ)
Q: 監督とお別れができたかどうかの質問。
A: 撮影終了後、中断していた化学療法を再開していたマドリードで会いました。フィルム編集はほぼ終わっていて、完成して直ぐ亡くなりました。それは信じられないほどの努力でした。私はマドリードで別れを告げました。彼に感謝し抱擁しました。私の演技がどうだったかより、彼の状態が心配でした。撮影中は楽しい時間を過ごせました。彼は生き生きとして、物事をじっくり説明し、模範を示し、皆を巻き込んでしまいました。
★ラ・バングアルディア紙以外のインタビュー記事も何紙か読みましたが、なかでこれが一番纏まっておりました。冒頭のシーンで祖母と孫が一緒に歌うバスクの子守歌「Cinco lobitos」が流れるようですが、上述したようにサンチェスは、同じ名前の映画「Cinco lobitos」に祖母役で出演していました。偶然の結果そうなったということです。脚本は映画より前に書かれたもので、サンチェスは「脚本を読んだとき偶然以上の前兆のようなものを感じた」と語っています。
★共同執筆者のマリオ・トレシーリャス(バルセロナ1971)が、本作をベースにしたコミック版 “Loli tormanta” を上梓、3月30日に書店の棚に並びました。彼は作家兼脚本家、またテコンドーのフライ級元チャンピオン、バルセロナ県サン・クガのスペインチームのメンバーでした。その後、広告ディレクター、映画とコミックの脚本家など幾つもの職業を経て、4年間「エル・ペリオディコ」のコラムニストでした。2008年、世界中の子供たちと一緒にアニメーションを制作するプロジェクト「PDA-films」を設立、国際コンペティションでも受賞しています。2009年、グラフィックノベル “Santo Cristo”、2010年 “El hijo”、2015年 ”DreamTeam” は現在フランスで映画化が検討されているということです。2019年には ”El original” が出版された。

(“Loli tormanta”の表紙)
★キャスト紹介:フェルナンド・エステソは、ビリャロンガの「Incerta glòria」に出演、どちらかというと映画より脇役としてTV出演が多い。2017年アルフレッド・コントレラスの「Luces」で刑事役を演じ、ラティノ賞2018男優賞を受賞した。盟友ビリャロンガとカルロス・サウラを立て続けに失い、ゴヤ賞短編ドキュメンタリー賞のプレゼンターを務めた折には、あちらの二人に向けて「もう直ぐそちらに行くから、映画撮るなら私の役も忘れないでくれよ」と語りかけた。
★もう一人のベテランセルソ・ブガーリョ(ガリシアのポンテベドラ1947)の一番知名度のある映画はアメナバルの『海を飛ぶ夢』でしょうか。彼は主人公の父親役でゴヤ賞2005助演男優賞を受賞した。他にフェルナンド・レオン・デ・アラノアの『月曜日にひなたぼっこ』や「El buen patrón」、ホセ・ルイス・クエルダの『蝶の舌』、マヌエル・ウエルガの『サルバドールの朝』など、字幕入りで見られる映画に出演している。

(父親トマス役のセルソ・ブガーリョとスシ・サンチェス)
★女優陣では、ロッシおばさん役のぺパ・チャロ(マドリード1977)は、ビリャロンガの『アロ・トルブキン』、TVムービー「Carta a Eva」に出演している。ピラール役のメテオラ・フォンタナ(ベローナ1958)は、『ハウス・オブ・フラワーズ:ザ・ムービー』(Netflix)、『バルド』など。今回女優とキャスティングを掛け持ちしているカルメン・ロペス・フランコはキャスティングに軸足をおいているようです。

(スシ・サンチェス、ペパ・チャロ、後方フェルナンド・エステソ)
★カタルーニャとバスクの仲間が参加した本作が、いずれ本邦でも鑑賞できることを願っています。アグスティ、あなたがいなくなっても、他の人があなたの映画を守ります。じゃ、またね。
アグスティ・ビリャロンガ逝く*闇と光の世界を生きる ― 2023年04月14日 18:39
映画への情熱を手引きした郵便配達人の父親

★去る1月22日の明け方、アグスティ・ビリャロンガが突然別れを告げました。カタルーニャ映画アカデミーは「今朝、映画監督のアグスティ・ビリャロンガは、私たちをバルセロナに残して、愛する家族や友人に見守られて旅立ちました。彼の才能、感性、豊かな愛に満ちた包容力、そして数々の映画は永遠に残るでしょう」と報じた。彼が人生の最後の2年間闘ってきた癌は、スペインの支配的な傾向に逆らって、ユニークな作品を作り続けた、この並外れた映画人を連れ去りました。1週間の緩和ケアの後、バルセロナで69歳の生涯を閉じたということですから、突然ではなかったわけです。当ブログで紹介した「El ventre del mar」がマラガ映画祭2021で作品賞以下6冠を制したときには、既に闘病中だったことになります。
★訃報のアップは本当に気が重い。特に彼のように早すぎる死は猶更です。ガウディ賞の受賞者としてバルセロナ派を牽引してきただけにその死は惜しまれてなりません。ガウディ賞は毎年アップしていたわけではありませんが、今年は気が滅入ってアップする気になれませんでした。なにしろ旅立ちは、第15回ガウディ賞授賞式の当日でした。ガラはビリャロンガ逝くの追悼式のようだったということでした。因みに受賞結果は、発表を待つまでもなく作品賞はカタルーニャ語部門がカルラ・シモンの「Alcarràs」、カタルーニャ語以外の部門はゴヤ賞ではノミネートさえされなかったアルベルト・セラの『パシフィクション』と、下馬評通りの結果でした。

(在りし日のビリャロンガ、サンセバスチャン映画祭2010)
★ビリャロンガと言えば、カタルーニャ語映画が初めてゴヤ賞を受賞した「Pa negre」(2010「Pan negro」)でしょうか。本作はラテンビート映画祭2011で上映され、翌年『ブラック・ブレッド』の邦題で公開されました。ゴヤ賞では作品賞を含めて9部門を制覇、彼自身も監督賞と脚本賞の2冠、ガウディ賞は13冠とほぼ総なめ状態でした。その他サンジョルディ賞、トゥリア賞、フォトグラマス・デ・プラタ賞、アリエル賞(イベロアメリカ部門)作品賞などを受賞しています。
*まだ当ブログは存在しておらず、目下休眠中のCabinaさんブログに、テーマ、監督キャリア&キャスト紹介などをコメントとして投稿しています。(コチラ⇒2011年03月03日)

(受賞スピーチをするビリャロンガ、監督・脚本賞を受賞したゴヤ賞2011から)
★1953年3月4日、パルマ・デ・マジョルカ生れ、監督、脚本家、俳優。スペイン内戦時に15歳で戦線に引きずり込まれた父親から映画への情熱を植え付けられた。カタルーニャの操り人形師の家系に生まれた父親は、後にパルマに定住して郵便配達員として働いていた。彼は映画に情熱を注ぎ息子アグスティを映画の世界に導きました。父親の影響を受けた息子はデッサン、マッチ箱、懐中電灯を使って手作りの映写機を作ったほど映画に熱中した。
★監督が「El ventre del mar」のプロモーションの過程で語ったところによると、「14歳で映画監督になる決心をして、ローマの映画学校のロベルト・ロッセリーニに手紙を書いた。彼の学校に本当に入りたかったのです。しかし若すぎるという理由で拒否されました」。彼らはまず大学を卒業すべきだと返事してきた。イエズス会の中学校を終了していた十代のアグスティはやや失望しパルマを出ることにした。バルセロナ自治大学で美術史を専攻して学位を取り、その後バルセロナの公立舞台芸術学校である演劇研究所 Institut del Teatre に入学、舞台美術を学んだ。当時を振り返って「今は彼(ロッセリーニ)の映画はあまり好きではありません。若いころには理解できなかったパゾリーニに情熱を注いでいます」と、またイングマール・ベルイマン映画にも言及し、彼は「私に多くの足跡を残した」と同じインタビューに答えている。

(「El ventre del mar」のカタルーニャ語版ポスター)
俳優としてキャリアをスタートさせた―ヌリア・エスペルトとの出会い
★キャリアをスタートさせて間もなく、ビクトル・ガルシアと出会い、女優で演出家のヌリア・エスペルトが設立した劇団に俳優として入る。ガルシア・ロルカの『イェルマ』ツアーに参加、ヨーロッパ、アメリカを巡業する。帰国後映画俳優としてホセ・ラモン・ララスの「El fin de la inocencia」(77)、フアン・ホセ・ポルトの「El último guateque」(78)、ホセ・アントニオ・デ・ラ・ロマの「Perros callejeros II」(79)などに出演する。しかし1982年、製作者のぺポン・コロミナスが彼を監督業に引き戻した。というのも彼は既に短編3作を撮っていたのである。
★そして誕生したのが、長編デビュー作「Tras el cristal」(86、110分)である。ギュンター・マイスナー、マリサ・パレデス、ダビ・スストを起用したホラー・サスペンス。ベルリン映画祭で上映され、ムルシア・スペイン映画週間で初監督に与えられるオペラ・プリマ賞を受賞、ほかサンジョルディ賞1988のオペラ・プリマ賞も受賞した。第2作となるSFファンタジー「El niño de la runa」はカンヌ映画祭1989コンペティション部門にノミネートされ、翌年のゴヤ賞オリジナル脚本賞を受賞、監督賞にノミネートされた。キャストはマリベル・マルティンやルチア・ボゼーのようなベテラン女優を軸に、前作出演のギュンター・マイスナーやダビ・スストを起用している。本邦では1992年『月の子ども』の邦題で公開された。

(公開された『月の子ども』のポスター)
★メルセ・ロドレダの小説 “La mort de primavera” の映画化を模索したが、製作者を見つけることができなかった。1997年、マリア・バランコを主役に据え、テレレ・パベスやルス・ガブリエルで脇を固めたホラー「99.9」は、モントリオール、トロント、ローマ、各映画祭で上映されシッチェス映画祭に正式出品された。撮影を手がけたハビエル・アギレサロベが撮影賞、彼はヨーロッパ・ファンタジー映画に贈られる銀のメリエス賞を受賞した。続いて現れたのが同性愛をテーマにした「El mar」(邦題『海へ還る日』)である。カタルーニャ語を採用、生れ故郷マジョルカで撮られた本作はベルリン映画祭2000に出品され、新しく設けられた独立系映画に与えられるマンフレッド・ザルツベルガー賞を受賞して、認知度は国際的になった。ザルツベルガーはテディ賞生みの親の一人、20世紀ドイツのLGBT運動の推進者である。本作で映画デビューした、後の『ブラック・ブレッド』や「El ventre del mar」に出演したロジェール・カザマジョールとの出会いがあった。
*「El mar」の作品紹介、ロジェール・カザマジョールのフィルモグラフィー&キャリア紹介は、コチラ⇒2021年06月24日

(カザマジョールを配した『海へ還る日』のポスター)
★2002年、サンセバスチャン映画祭を驚かせた「Aro Tolbukhin (en la mente del asesino)」(メキシコとの合作)は、メキシカン・ヌーベルバーグと称された偽造ドキュメンタリーである。アイザック=ピエール・ラシネ、リディア・ジマーマンとの共同監督、翌年のアリエル賞を作品賞以下全カテゴリーにノミネートされるも作品賞には及ばなかった。しかし脚本賞を含む7冠を制し、時間の経過とともにファンを増やしていった。ハンガリーの船乗りで連続殺人犯アロ・トロブキンがグアテマラに逃亡し捕らえられ銃殺刑になるまでを描き、彼の犯罪の背後にある「殺人者の心のなか」の闇に迫った。実際のドキュメンタリー映像を広範囲に使用しているが、これはドラマであってドキュメンタリーではない。本作は後にラテンビート映画祭に統一された第1回「ヒスパニックビート2004」に、『アロ・トルブキン―殺人の記憶』として上映されている。
『ブラック・ブレッド』がルールを変えた
★海外での評価と人気はあってもスペイン全体に届いたとは言えなかった。彼はしばらく映画を離れカタルーニャTV映画「Després de la pluja」(07「After the Rain」)やTVシリーズのドキュメンタリーを手がけている。何作か映画製作を模索していたが、いずれも財政的な支援が得られなかったようだ。2010年、一部の批判的な評価を覆した『ブラック・ブレッド』(フランスとの合作)が到着した。
★本作はエミリ・テシドール(1932~2012)の同名小説 “Pa negre” を軸に、彼の2冊の小説をベースにして映画化されたダークミステリーである。内戦後のカタルーニャの小さな町に起きた不可解な事件を軸に、1940年代を生きた少年アンドレウに焦点を当て、真実を求める過程で過去の亡霊に出会うなかで自分のセクシュアリティに目覚める。少年は嘘と欺瞞に満ちた大人たちを許すことなくモンスターに変貌していく。マドリード派が優勢なゴヤ賞も14部門ノミネート、作品賞を含む9冠に輝いた。ゴヤ賞2011年のライバル作品は、ロドリゴ・コルテスの『リミット』、イシアル・ボリャインの『ザ・ウォーター・ウォー』、アレックス・デ・ラ・イグレシアの『気狂いピエロの決闘』と誰が受賞してもおかしくない豊作の年、いずれも公開されている。ガウディ賞は13冠、プレミアされたサンセバスチャン映画祭では、少年の母親に扮したノラ・ナバスが女優賞を受賞した。

(少年アンドレウを配したオリジナル・ポスター)

(左から、アグスティ・ビリャロンガ、ロドリゴ・コルテス、イシアル・ボリャイン、
アレックス・デ・ラ・イグレシア、ゴヤ賞2011ノミネートの4監督)
★サンセバスチャン映画祭2012でプレミアされたTVミニシリーズ「Carta a Eva」(2話)を製作、翌年放映された。アルゼンチンのエバ・ペロンのヨーロッパ・ツアーをめぐるドラマである。エバにはアルゼンチンのフリエタ・カルディナルが主演、フランコ総統にヘスス・カステジョン、ほかアナ・トレント、カルメン・マウラ、ノラ・ナバスなどスペインサイドが出演している。2015年の「El rey de La Habana」は、ラテンビート2015で『ザ・キング・オブ・ハバナ』の邦題で上映された折、当ブログで作品紹介をしています。ペドロ・フアン・グティエレスの不穏な同名小説の映画化。亡命することなくキューバに止まり、故国の悲惨を弾劾しつづけている作家、詩人、ジャーナリスト、。
*『ザ・キング・オブ・ハバナ』の原作者&作品紹介は、

★中編ドキュメンタリー「El testament de la Rosa」(16、仮題「ロザの遺言」45分)は、女優ロザ・ノベル(バルセロナ1953-2015)が癌で亡くなる直前をカメラに収めたドキュメンタリー。既に視力を失っていた女優の最後の作品(コルム・トビンの「El testament de la Maria」)になるであろう舞台リハーサルをモノクロで追っている。結果的には亡くなってしまったのでブランカ・ポルテーリョが演じた。本作には監督自身と『海へ還る日』や『ブラック・ブレッド』の製作者イソナ・パッソラ、脚本家エドゥアルド・メンドサ、テレビでの活躍が多い女優フランセスカ・ピニョンが出演している。バジャドリード映画祭2016でプレミアされた。

(ブランカ・ポルテーリョと監督)
★2017年、時代背景を1937年のスペイン内戦中のアラゴン戦線にした「Incerta glòria」は、ジョアン・サレスの同名小説の映画化、ゴヤ賞では脚色賞に共同執筆のコラル・クルスとノミネート、ガウディ賞はキャスト陣、技術部門のスタッフにトロフィーを多数もたらしたが、監督自身は無冠に終わった。2019年にはアンドレス・ビセンテ・ゴメスがプロデュースした「Nacido rey」(言語は英語「Born a King」)が公開された。サウジアラビアの偉大な君主として知られるファイサル国王(1906~75)のビオピックである。監督は「私は映画が大好きで、お金目当てではありません。本作はアラブ諸国で撮影されましたが、経済的なもの以外の魅力も加えました。本題に無関係な話を差し挟むような依頼は受けておりません」と語っている。

★2021年の「El ventre del mar」がマラガ映画祭2021に正式出品され、上述したように金のビスナガ作品賞を含む6冠を制した(金のビスナガ作品賞・監督・脚本・撮影・音楽・男優賞)。作品紹介は簡単ですがアップ済みです。イタリアの作家アレッサンドロ・バリッコが実話に基づいて書いた小説 ”Océano mar” にインスパイアーされて製作されている。本作に「20年間取りくんできた」ということです。遺作となったスシ・サンチェスを主役に起用したコメディ「Loli Tormenta」(23)は、先月末に公開された。本作については別個に紹介したい。
*「El ventre del mar」の作品紹介、マラガFFガ授賞式の様子は、

(銀のビスナガ監督賞を受賞、マラガFF2021 授賞式)
★生涯を通じて演技者としても活躍していたが、最後の作品はルーマニアのコルネリュ・ポルンボイュの「La gomera」出演で、冷徹なマフィアに扮した。ルーマニア、フランス、ドイツなどの合作映画だが、原題の「ラ・ゴメラ」はカナリア諸島の島名から採られている。カンヌ映画祭2019に出品され、今回は演技者としてカンヌを訪れた。2021年に『ホイッスラーズ 誓いの口笛』の邦題でWOWOWで放映され、プライムビデオでも配信されている。
★変わり者が多いスペインでも独特の作風をもつ監督として駆け抜けたビリャロンガですが、晩年「私のスタイルにとても近い人を見つけることはできませんが、今日では私は変わり者 bicho raro ではないと思います。ただ自分にできることをするだけです」と、フィルモグラフィーを振り返って語っている。彼は比較的早い段階で性的マイノリティを公表していたが、こどものときから「人と違うこと」に敏感だった。その内なる世界は『ブラック・ブレッド』の少年アンドレウや『海へ還る日』の青年に投影されている。
◎上記以外の受賞歴
2001年、カタルーニャ自治州の文化省が選考母体のカタルーニャ映画国民賞を受賞した。前年に国際的な活躍をした人に贈られる賞、映画のほか文学・音楽など各分野から原則1年に1人選ばれる。彼の場合は2000年の『海へ還る日』の成功によるものと思われる。
2011年、スペイン文化省が選考母体の映画国民賞を受賞、2010年の『ブラック・ブレッド』が評価されたことによる。
2012年、ゲイ-レスボ映画と舞台芸術国際フェスティバル栄誉賞、カタルーニャ・ラテンアメリカ映画祭ジョルディ・ダウダ賞などを受賞した。
2021年12月1日、芸術功労金のメダルを受賞、国王フェリペ6世、レティシア王妃列席のもと授与された。

(左から一人おいて、国王フェリペ6世、王妃レティシア、ビリャロンガ、
背後に控えているのがミケル・イセタ教育・文化・スポーツ大臣)
ベロニカ・フォルケ逝く*自ら幕引きをした66年の生涯 ― 2021年12月21日 15:17
安住を求めて自ら幕引きをした、長くもあり短くもあった66年の生涯

(中央に柩が安置されたお別れの会、マドリードのスペイン劇場、12月15日)
★12月13日、国家警察がマドリードの自宅で自死した女優ベロニカ・フォルケの遺体を発見したと報道した。12時49分救急センターに或る女性から電話があり、救急隊Summa112が駆けつけたが既に手遅れであったという。当日は自死だけが報道され、正確な死因は検死結果を待つことになった。翌日、錠剤などの痕跡がないこと、首に外傷性の傷がありタオルでの首吊りによる窒息死であったと発表された。最近鬱状態がひどく、3時間前に一人娘マリア・クララ・イボラ・フォルケがお手伝いさんと交替して帰宅したばかりだった。オレンジジュースを飲み、シャワーを浴びると言ってバスルームに入ったまま帰らぬ人となった。ホセ・マリア・フォルケ賞の顔の一人でもあったベロニカ、カルメン・マウラと80~90年代のスペイン映画を代表する女優の一人だったベロニカ、常に明るく機知にとんだ会話で周りを楽しませてくれたのは表の顔、2014年の離婚以来、鬱病に苦しむ闇を抱えた人生だったということです。

(ありし日のベロニカと娘マリア)
★訃報の記事はしんどい、特に書くことはないだろうと思っていた若い人の予期せぬ旅立ちはしんどい。しかしここ最近の映像を見るかぎり60代の女性とは思えない険しい顔に唖然とする。最後となったTVシリーズ「MasterChef Celebrity」(21)を「もうこれ以上続けられない」と自ら降板した彼女は、痛々しく全くの別人のようだった。今思うと管理人が魅了された1980年代後半から90年代にかけてが全盛期だったのかもしれない。

★キャリア&フィルモグラフィー:1955年12月生れ、映画、舞台、TV女優。監督、製作者のホセ・マリア・フォルケ(1995年没)を父親に、女優、作家、脚本家のカルメン・バスケス・ビゴ(2018年没)を母親にマドリードで生まれた。2歳年上のアルバロ・フォルケ(2014没)も監督、脚本家というシネアスト一家。1981年マヌエル・イボラ監督と結婚(~2014)、マリア・フォルケを授かる。出演映画、TVシリーズを含めると3桁に近い。1972年ハイメ・デ・アルミリャンの「Mi querida señorita」で映画デビュー、70年代は父親の監督作品、ホセ・ルイス・ガルシア・サンチェス、カルロス・サウラなどの映画に出演している。

(第9回ゴヤ栄誉賞受賞の父ホセ・マリア・フォルケと娘ベロニカ、1995年)
★突拍子もないオカマ監督と批評家から無視されていたペドロ・アルモドバルが、その存在感を内外に示した『グローリアの憂鬱』(84、¿Qué he hecho yo para merecer esto?)に出演したことが転機となる。その後、『マタドール』(86)、『キカ』でゴヤ賞1994の主演女優賞を受賞、4個目のゴヤ胸像を手にした。1987年から始まったゴヤ賞では、第1回目にフェルナンド・トゥルエバの『目覚めの年』で助演女優賞、第2回目となる1988年は、フェルナンド・コロモの「La vida alegre」で主演、ルイス・ガルシア・ベルランガの「Moros y cristianos」で助演のダブル受賞となった。ゴヤ胸像は4個獲得している。コロモには「Bajarse al moro」(89)でも起用されており、ゴヤ賞にノミネートされている。

(カルメン・マウラと、『グローリアの憂鬱』から)

(共演のロッシ・デ・パルマと、『キカ』のフレームから)
★90年代はマヌエル・ゴメス・ペレイラの「Salsa rosa」(91)で始まった。他にマリオ・カムスの「Amor propio」(93)、フェルナンド・フェルナン=ゴメス、ジョアキン・オリストレル(95、¿De qué se ríen las mujeres?)、ダビ・セラノ、クララ・マルティネス・ラサロ、フアン・ルイス・イボラの「Enloquecidas」(08)、1981年に結婚したマヌエル・イボラ作品には、「El tiempo de la felicidad」(97)、カルメン・マウラと性格の異なった姉妹を演じた「Clara y Elena」(01、クララ役)、「La dama boba」(06)などに多数出演している。最後の作品となったのが若手のマルク・クレウエトの「Espejo, espejo」(21)で、スペイン公開は2022年になる。多くの監督が鬼籍入りしているが、例えばフェルナン=ゴメス(2007年)、マリオ・カムスは今年9月に旅立ったばかりである。他にマラガ映画祭2005の最高賞マラガ賞、2014年バジャドリード映画祭エスピガ栄誉賞、2018年フェロス栄誉賞、1986年『グローリアの憂鬱』でニューヨークACE賞、他フォトグラマス・デ・プラタ賞、サンジョルディ賞、ペニスコラ・コメディ映画祭など受賞歴多数。

(2018年のフェロス栄誉賞のトロフィーを手にしたベロニカ)
★TVシリーズでは、1990年の「Eva y Adan, agencia matrimonial」(20話、エバ役)と1995年のマヌエル・イボラの「Pepa y Pepe」(34話、ペパ役)でテレビ部門のTP de Oro 女優賞を受賞している。後者は2シーズンに渡って人気を博したコメディでした。TVミニシリーズ「Días de Navidad」(19、3話)の1話に出演している。Netflixが『クリスマスのあの日私たちは』の邦題で配信しています。最後のTV出演となった「MasterChef Celebrity」は、「12歳の少女に戻れる」と語っていたが、自ら降板することになった。

(ペペ役のティト・バルベルデと、TV「Pepa y Pepe」から)

(共演者エドゥアルド・ナバレテと、TV「MasterChef Celebrity」から)
★舞台女優としては、1975年のバリェ=インクランの「Divinas palabras」(『聖なる言葉』)、1978年のテネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』、1985年には後に映画化もされた「Bajarse al moro」、ホセ・サンチス・シニステラが1986年発表した「¡ Ay, Carmela !」を1987年と2006年にカルメラ役で主演した。この戯曲はカルロス・サウラによって映画化され、日本では『歌姫カルメーラ』(90)の邦題で公開された。こちらはカルメン・マウラが演じている。2019年フリアン・フエンテス演出の「Las cosas que sé que son de verdad」で、演劇界の最高賞と言われるMax賞2020主演女優賞を受賞している。

(Max賞を受賞したベロニカ・フォルケ、プレゼンターは盟友マリア・バランコ、
マラガのセルバンテス劇場、2020年9月8日)
★ベロニカがファンや友人、そして同僚から如何に愛されていたかは、会葬者の顔ぶれを見れば分かります。ゴヤ賞のガラでもこんなに多くないでしょう。14日のサンイシドロ葬儀場でのお通夜には、「MasterChef Celebrity」の共演者エドゥアルド・ナバレテ、ミキ・ナダル、タマラ、アナ・ベレンとビクトル・マヌエル夫妻、アイタナ・サンチェス=ヒホン、シルビア・アバスカル、ベレン・クエスタ、ヨランダ・ラモス、ペポン・ニエト、カエタナ・ギジョン・クエルボ、アントニオ・レシネス、エンリケ・セレソ、バネッサ・ロレンソ・・・。
★15日のお別れの会(午前11時~午後4時)に馳せつけた友人や同僚たちは、泣き顔をサングラスとマスクで防御していた。コロナウイリスはセレブの匿名性に役立ちました。多くがマスコミのインタビューには言葉少なだったということです。11時に姿を見せたパコ・レオンは「ベロニカは陽気さと感性豊かな人でした。陽気さは皆がもつことのできる美しいものですが、彼女はそれをもっていました」と語り、午後3時に母親のカルミナ・バリオスを伴って再び姿を見せました。カルミナはテレビでの共演者、大きな赤い薔薇の花束を抱えていました。
★マリベル・ベルドゥとアイタナ・サンチェス=ヒホンが腕を組んで足早に立ち去った。先輩後輩の俳優たち、ベアトリス・リコ、スシ・サンチェス、マリア・バランコ、歌手マシエル、アントニオ・レシネス、フアン・ディエゴ、チャロ・ロペス、ホセ・ルイス・ゴメス、フアン・エチャノベ、ティト・バルベルデ、フェレ・マルティネス、フアン・リボ、カルロス・イポリト、ホルヘ・カルボ、ビッキー・ペーニャ、マルタ・ニエト、アントニア・サン・フアンなどの俳優たち、監督ではパウ・ドゥラ、マヌエル・ゴメス・ペレイラ、フアン・ルイス・イボラ、ハイメ・チャバリ、脚本家のヨランダ・ガルシア・セラノ、舞台演出家ダビ・セラノ、マリオ・ガスなど。通りには100人以上のジャーナリストやファンがつめかけ、彼女がスペイン魂に火をつけた80年代のコメディに感動を分かち合った。スペイン映画は80年代や90年代のコメディやドラマ抜きに理解することはできません。
★コメントを残した政治家たちには、文化スポーツ大臣ミケル・イセタ、マドリード市長マルティネス・アルメイダと副市長ベゴーニャ・ビジャシス、マドリード・コミュニティ会長ディアス・アヤソと文化大臣リベラ・デ・ラ・クルス、ICAA会長ベアトリス・ナバス・バルデス、他スペイン下院議員たち多数。

(文化教育スポーツ大臣ミケル・イセタ氏)
★印象的なキャリアをもつアーティストのマリア・フォルケを通じてファンになった別の世代、マリアの冒険仲間のグループも駆けつけました。ベロニカに別れの手紙を捧げました。ガルシア・ロルカの最後の詩 ”Doña Rosita la soltera” の断片が書かれたポスターが掲げられ、それは「夜の帳が降りるとき、しなやかな金属の角、そして星が流れる、風が消えるあいだに、暗闇の境めで、落葉しはじめる」(拙訳)で閉じられていた。
★スペイン映画アカデミー会長マリアノ・バロッソは「彼女は悲しい泣きピエロのように、自分が抱えていた痛みを隠し続けました。今私は映画界の愛と尊敬を伝えることしかできません」と。弟アグスティンと一緒に参列したペドロ・アルモドバルは「ベロニカはコメディに特別な才能を発揮しました。人々を笑わせる能力に秀でていて、幼い頃の無邪気さを失っていなかった。天使と一緒に、私は私の人生でもっとも面白い映画をつくることができました」。また最近のベロニカについては「彼女は私が知っているベロニカではありませんでした。私が覚えているのは、とても幸せで、信じられないほどコミカルな女優でした。とても世話好きで皆の力になりました。彼女は夫とうまくいかず、数年前にお兄さんを失くしました。時間は彼女の感情をうまく扱いませんでした。これらの問題と闘う武器を持っていると思っていましたが、現実は私たちにノーと言ったのです」と付け加えました。

(インタビューに応じるペドロ・アルモドバル監督)
★マヌエル・イボラと離婚した同じ2014年の大晦日に、尊敬もし頼りにもしていた兄アルバロが鬼籍入りした。このことが彼女に精神的なダメージを与え、深刻な鬱状態になったことは周知の通りです。2018年3月の母親の旅立ちも痛手だったのではないでしょうか。午後4時からの出棺まで待っていた200人ほどの人々が数分間拍手喝采して柩を見送りしました。内輪だけで荼毘に付すため、エル・エスコリアルの遺体安置所に運ばれて行きました。嘆いてもきりがありません、「どうかよい旅でありますように、ベロニカ」
*以下の写真は代表作としてメディアが作成したものです。上段左から、TVシリーズ「Eva y Adan, agencia matrimonial」、『キカ』、TVシリーズ「Pepa y Pepe」、舞台『歌姫カルメーラ』、下段左から、「Amor propio」、「Bajarse al moro」、「Enloquecidas」、「Las cosas que sé que son de verdad」の順です。

ロサ・マリア・サルダ逝く*リンパ腫癌に倒れる ― 2020年06月18日 11:01
ハリケーンのように半世紀を駆け抜けた女優ロサ・マリア・サルダ逝く

★6月11日、ロサ・マリア・サルダがリンパ腫癌で旅立ちました。親しい友人たちも彼女が病魔と闘っていることを直前まで知らなかったということです。死去する数週間前に、正確には40日前にジョルディ・エボレのテレビ番組に出演し、「もう私の人生に良い時は訪れないでしょう。78歳という年齢はだいたいそんなものです。私はどちらかというと病人、ええ、癌なんです。しかし皆さんはそのことを知らないはずです」と語ったことで、彼女が2014年から闘病しながら映画に出演していたことが分かったのでした。Netflixで日本でもストリーミング配信されたエミリオ・マルティネス=ラサロの『オチョ・アペリードス・カタラネス』(15)も、結局最後の映画出演となったフェルナンド・トゥルエバの「La reina de España」(16)も闘病しながらの出演だったということになります。


(ありし日のロサ・マリア・サルダ)
★ロサ・マリア・サルダは、1941年7月30日バルセロナ生れ、女優、コメディアン、舞台演出家、舞台女優、テレビ司会者、2020年6月11日バルセロナで死去、享年78歳でした。スペイン語とカタルーニャ語を駆使して約半世紀に渡って笑いを振りまきましたが、「自分を喜劇役者とは思っていません」と。ウィットに富んだ語り口、時にはシニカルだがパンチの利いた社会的発言、頭の回転の速さ、よく動く目と口で私たちを魅了しました。年の離れた弟ジャーナリストのハビエル・サルダ(1958)、1980年若くしてエイズに倒れた末弟フアンの3人姉弟。コミック・トリオLa Trincaラ・トリンカメンバーの一人、後に息子の父親となるジョセップ・マリア・マイナトと結婚した。1962年プロの舞台女優としてスタート、1969年からTVシリーズ、一人息子のポル・マイナト(1975)は、俳優、監督、撮影監督、TVシリーズ「Abuela de verano」(05)で共演している。

(一人息子ポル・マイナト・サルダとのツーショット、2004年)
★映画界入りは80年代と遅く、ベントゥラ・ポンスの「El vicario de Olot」(81)、ルイス・ガルシア・ベルランガの「Moros y cristianos」(87「イスラム教徒とキリスト教徒」)に出演している。1993年、マヌエル・ゴメス・ペレイラのコメディ「 ¿Por qué lo llaman amor cuando quieren decir sexo? 」 にベロニカ・フォルケやホルヘ・サンスと共演、翌年の第8回ゴヤ賞助演女優賞を受賞した。ゴヤ賞ガラの総合司会者にも抜擢され、コメディアンとしての実力を遺憾なく発揮した記念すべき授賞式だった。ゴヤ賞関連では、第13回ゴヤ賞1999の2回目となる総合司会者となり、つづいて第16回ゴヤ賞2002の3回目のホストを務め、ジョアキン・オリストレルの「Sin vergüenza」(01)で2個目となる助演女優賞も受賞している。

(ゴヤ賞ガラの総合司会をする)

(2個目となる助演女優賞のトロフィを手にしたロサ・マリア・サルダ、ゴヤ賞2002ガラ)
★舞台女優としては、1986年にブレヒトの戯曲『肝っ玉おっ母と子どもたち』に出演、1989年にはジョセップ・マリア・ベネトのコメディ戯曲「Ai carai!」を演出、舞台監督デビューをした。他に映画化もされているガルシア・ロルカの『ベルナルド・アルバの家』では、女家長の世話を長年務めた家政婦ポンシア役で演劇界の大女優ヌリア・エスペルトと共演した。エスペルトとはベントゥラ・ポンスの「Actrius」(96、カタルーニャ語「女優たち」)でも共演、翌1997年ブタカ賞を揃って受賞している。ポンス監督とはマイアミ映画祭2001女優賞受賞作「Anita no pierde el tren」(00、カタルーニャ語)他でもタッグを組んでいる。2015年には演劇界の最高賞と言われるマックス栄誉賞を受賞している。映画化もされたマーガレット・エドソンの戯曲『ウィット』をリュイス・パスクアルが演出した舞台にも立っている。

(マックス栄誉賞のトロフィを手にスピーチするサルダ、2015年)

(ヌリア・エスペルトとサルダ『ベルナルド・アルバの家』から)

(エドソンの戯曲『ウィット』に出演したサルダ)
★90年代以降は映画にシフトし、公開や映画祭上映作品として字幕入りで観られる作品が増えた。フェルナンド・トゥルエバの『美しき虜』(98、ゴヤ賞1999助演女優賞ノミネート)、ペドロ・アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』(99)、イマノル・ウリベの『キャロルの初恋』(02)、ダニエラ・フェヘルマン&イネス・パリスの『マイ・マザー・ライクス・ウーマン』(02)、イシアル・ボリャインの『テイク・マイ・アイズ』(03)、上記の『オチョ・アペリードス・カタラネス』と結構あります。

(セシリア・ロス、サルダ、ペネロペ・クルス、『オール・アバウト・マイ・マザー』から)
★ゴヤ賞以外にも、2010年スペイン映画アカデミーから「金のメダル」、同年マラガ映画祭マラガ賞、第3回フェロス賞2016 栄誉賞受賞、実弟のハビエル・サルダの手からトロフィを受け取った。同年ガウディ賞栄誉賞も受賞した。映画界入りが遅かったこともあり、晩年の活躍が目立った。
*第3回フェロス賞2016栄誉賞の記事は、コチラ⇒2016年01月21日


(フェロス栄誉賞に出席したサルダ姉弟、2016年)

(ガウディ栄誉賞のトロフィを代理で受け取った息子ポル・マイナト、2016年)
★昨年の11月にプラネタ社から ”Un incidente sin importancia”(仮訳「あまり重要でない事ども」)というタイトルの自伝を出版した。コメディアンの草分け的存在だった祖父母のこと、若くして亡くなった看護師の母親のこと、そして黒い縮れた髪、地中海の青い海とも薄暗い湖のようにも見える目をした、一番ハンサムだった末弟フアンのことなど、亡き人々へ送る手紙として後半生の30年間を綴っているようです。母親が亡くなったとき25歳だったロサ・マリアには、まだ8歳だったハビエルと、もっと小さいフアンが残された。二人の弟の母親でもあったようです。フアンは1980年、まだスペインでは謎の病気だったエイズの犠牲者の一人になった。地獄のような2年間の闘病生活を共にしたということです。あのサルダの明るさと強靭な精神は何処から来たのでしょうか。本書を「初めての世界へ旅立つのはなんて複雑なんでしょう!」と締めくくったサルダ、生涯にわたり自由人であり続けたサルダも病魔の痛みから解放された。

(”Un incidente sin importannte”の表紙)
★コロナの時代に訃報を綴るのは気の重いことですが、サルダの光と影、特に今まで語られなかった影の部分に心打たれアップすることにしました。ツイッターでは、俳優のアントニオ・バンデラス、ハビエル・カマラ、「トレンテ 2」で共演したサンティアゴ・セグラ、政界からはペドロ・サンチェス首相がサルダの偉大さについて自身のSNSで哀悼の意を捧げている。ほか多くのファンからは涙のつぶやきが溢れている。8月開催がアナウンスされたマラガ映画祭で急遽特集が組まれかもしれません。

(地中海に面したマラガの遊歩道に建立された自身の記念碑の前で、2010マラガ賞受賞)
ホセ・ルイス・クエルダ監督逝く*『にぎやかな森』&『蝶の舌』 ― 2020年02月11日 15:11
シュールなコメディの旗手、ホセ・ルイス・クエルダ

★シュールレアリスムを突き抜けたシュールレアリスムの映画の旗手、不条理コメディのプロモーター、ホセ・ルイス・クエルダが旅立ちました。寡作な映画作家でしたが、ファンを大いに楽しませてくれた監督でした。シネアストは塞栓症治療のため入院していたマドリードのプリンセサ病院で2月4日に亡くなったことが、二人の娘イレネとエレナによって公にされました、享年72歳、こんなに急いでいくことはなかったにと残念でたまりません。
★1947年2月18日アルバセテ生れ、監督、脚本家、製作者。本邦では『にぎやかな森』(第2回ゴヤ賞1988作品・脚本賞、ただし彼は監督のみ)と『蝶の舌』(同2000脚色賞)が公開されています。フェロス賞2019栄誉賞、マラガ映画祭2019「金の映画賞」(1989「Amanece, que no es poco」)を受賞した折りに、キャリア&フィルモグラフィー紹介をしたばかりですが、ゴヤではとうとう監督賞はノミネーションだけで受賞しないまま逝ってしまいました。
*フェロス賞2019栄誉賞の記事は、コチラ⇒6019年01月23日

★「Amanece, que no es poco」は、彼の不条理コメディの代表作、公開当時はパッとしなかった。何しろ出演者が自分のセリフの意味が何だか分からず戸惑っていたから、ましてや観客が簡単に理解できるはずなどなかったわけです。しかし後にビデオ、DVDを繰り返し見た若者が気に入り、フェイスブックを通じて拡散、ファンクラブができるほどでした。まあ、スペイン人の一押しは内戦物の『蝶の舌』ではなく本作、意味など分からなくても可笑しければ笑えばいいのだ、というわけです。本作については「金の映画賞」でご紹介しています。主人公はいると言えばいるが、いないと言えばいないアンサンブル劇ですが、その一人、アントニオ・レシネスは訃報に接して「当時本作を批判した者がいたとしても、今日では悪口言う人は誰もおりません。クエルダはチャンピオンリーグの映画人、脚本家としての巨人、どうか忘れないで」と語りました。
*マラガ映画祭2019「金の映画賞」の記事は、コチラ⇒2019年04月03日

(親子を演じたアントニオ・レシネスとルイス・シヘス、「Amanece, que no es poco」から)

(金の映画賞のトロフィーを手にした、今は亡きホセ・ルイス・クエルダ)
★『にぎやかな森』は、ウェンセスラオ・フェルナンデス・フロレスの小説の映画化なので、現在なら脚色賞に当たるのですが、当時はまだ始まったばかりで区別されておりませんでした。カテゴリーも15部門、現在の28部門になったのは2003年からでした。『蝶の舌』の原作はマヌエル・リバスの小説、このときは既にオリジナル脚本と脚色に分かれており、共同執筆者のラファエル・アスコナと原作者と3人で脚色賞を受賞しました。このゴヤ賞2000は粒ぞろい、アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』(作品・監督賞)やベニト・サンブラノの『ローサのぬくもり』(脚本賞)など、マイナーだったスペイン映画が公開されるようになった年でもありました。
★クエルダはほとんど無名だったアメナバルの才能に着目したプロデューサーとしても知られています。『テシス 次に私が殺される』(96)と『アザーズ』(01)で作品賞を受賞している。自作を自ら設立した制作会社で撮る監督は昨今では珍しくありませんが、クエルダはそういうタイプではなかったようです。
★クエルダの作品はざっくり分けると、不条理コメディと内戦物になります。後者の一つ、2008年の「Los girasoles ciegos」では、共同執筆者ラファエル・アスコナとゴヤ賞2009脚色賞を受賞しました。トポという内戦の敗者がフランコ軍の追跡を逃れて自宅に隠れる話、トポ役にハビエル・カマラ、その妻にマリベル・ベルドゥ、妻を秘かに愛する青年司祭にラウル・アレバロなどを配している。作品・監督賞はノミネートに終わったが、米アカデミー賞外国語映画賞のスペイン代表作品に選ばれている。

★不条理コメディの一つ、1983年のTVムービー「Total」、スペイン人の少し好ましくない特徴に根差した作品、2598年という26世紀末の小さな村ロンドンが舞台だが、どう見てもロンドンには見えない。ガリシア風なのですが、クエルダは上記したようにアルバセテ生れですが、ガリシアに手ごろな家を見つけて、そこにブドウ園をもっている。語り部は羊飼いで、世界の終末が語られる。後の「Amanece, que no es poco」の源流なのかもしれません。1982年、フェリックス・トゥセル・ゴメスがプロデュースしたデビュー作「Pares y nones」に始り、その息子フェリックス・トゥセル・サンチェスが35年後に手掛けた、9177年のスペインを描いたSFコメディ「Tiempo después」(18)を完成させて逝ってしまいました。盟友アスコナと「最近のスペインは悪くなるばかりだな、心配だよ」と雑談してることでしょう。観る人によってベストだったりワーストだったり、映画の評価も十人十色です。

(アントニオ・レシネスとシルビア・ムント)

(中央がクエルダ監督、「Tiempo después」撮影中のクルー)
スペイン映画アカデミー名誉会長イボンヌ・ブレイク逝く ― 2018年07月20日 14:44
「Our duty」の言葉を残して、第15代映画アカデミー名誉会長ブレイク逝く

(常に笑みを絶やさなかったイボンヌ・ブレイク)
★残念なニュースですが、第15代スペイン映画アカデミー会長イボンヌ・ブレイク氏が、7月17日旅立ちました(享年78歳)。新年早々の1月3日、脳卒中でマドリードのラモン・カハル大学病院に緊急入院、以来ICUでの闘病生活を送っておりました。マンチェスター生れ(1940)ながらスペイン映画との関りは長く、4個もゴヤ賞を受賞している。国際的な服飾デザイナーとして『ニコライとアレクサンドラ』(71)でオスカー賞、『ロビンとマリリン』(76)、今は懐かしい『スーパーマン』(78)衣装の生みの親、国民映画賞受賞者、女性シネアストの地位向上など、その功績は数えきれません。生涯現役をモットーに、なり手のなかったスペイン映画アカデミー会長を引き受け、自己主張ばかり強いスペイン映画界を忍耐強く統率してきた女性だった。

(スーパーマンの衣装を着た今は亡きクリストファー・リーヴ)
★ブレイク会長を支えてきた現会長マリアノ・バロッソの回想によれば、ブレイク氏から事務所に呼ばれ「副会長就任の打診を受けたときは引き受ける気などさらさらなかった。何しろ断る理由は山ほどあったからね。ところが帰るときには何故か引き受けていたんだ。彼女は『私たちで引き受けましょう、マリアノ、そして英語でIt’s our duty』と言ったんだ」。「イボンヌは、ひたすら情熱的に良心、献身、寛容を実行した人だった。その素晴らしい才能、その視点の確実さ、微笑、ほろ苦いユーモア、常識的な考えについての機知にとんだ言葉は皆を和ませた」とバロッソ。アントニオ・レシノスとグラシア・ケレヘタが任期途中で投げ出した「スペイン映画アカデミー」という泥舟に乗らざるを得なかった経緯だった。スペイン語と込み入った話は英語で周りを説得して回った、この逞しさと優しさを兼ね備えたイギリス女性のお蔭で、シネアストのそれぞれが将来の映画について、「Our duty」とは何かについて、改めて考えることになったようだ。

(ゴヤ賞2017授賞式で挨拶するブレイク会長とバロッソ副会長)

(女性シネアストの機会均等に尽くしたブレイクと盟友アナ・ベレン)

(共にオスカー受賞者のブレイクとフェイ・ダナウェイ)

(『ロビンとマリリン』のヒロイン、オードリー・ヘプバーンの衣装を整えるブレイク)
*ブレイク名誉会長の関連記事*
*第15代映画アカデミー会長就任の記事は、コチラ⇒2016年10月29日/12月20日
*ブレイク会長緊急入院、キャリア紹介の記事は、コチラ⇒2018年01月09日
*第16代スペイン映画アカデミー執行部については、コチラ⇒2018年06月23日
脇役に徹した個性派女優テレレ・パベス逝く ― 2017年08月29日 10:46
去る8月11日、脳溢血のためマドリードのラ・パス病院で死去
★訃報記事は気が重い。特に大好きだったテレレ・パベスとなると尚更です。TVを含めると100本近くの映画に出演しておきながら、ゴヤ賞助演女優賞を受賞したのが2014年、アレックス・デ・ラ・イグレシアの『スガラムルディの魔女』(13)だった。テレレ・パベスTerele Pávez(本名Teresa Marta Ruiz Penella)は、政治家ラモン・ルイス・アロンソを父に、芸術一家だったマグダレナ・ペネリャ・シルバを母として、1939年7月29日ビルバオで生れたが、育ったのはマドリードでした。四人姉妹の末っ子、うち二人の姉エンマ・パネリャ(1931~2007)とエリサ・モンテス(1934)も女優。姉たちの影響で女優の道に進み、3人揃って出演した映画が1作だけあるようだ。女優エンマ・オソレス(エリサの娘)の叔母にあたる。


★1973年、編集者ホセ・ベニト・アリケ(2008年没)との間に息子が誕生したが、テレレは父子の認知を望まず、シングル・マザーの道を選んで、自分の父姓ルイスを取ってカロロ・ルイスCarolo Ruiz とした。母子関係はいつも良好とは言えなかったそうだが、没後カロロは涙の会見をした。同年生れのピラール・バルデムと共に、女性シネアストの地位向上にも尽力したテレレ・パベスだったが、去る8月11日、脳溢血のためマドリードのラ・パス病院で死去、8月13日、遺体はエル・エスコリアルの火葬場で荼毘に付された。写真下はマドリードのホテル・リッツで行われたゴヤ賞2017の前夜祭のような会合に出席した母子、彼女はマリナ・セレセスキーの “La puerta abierta” で6度目の助演女優賞にノミネートされていた。

(息子カロロ・ルイスに寄り添うテレレ・パベス、2017年1月)
★60年に及ぶ長い女優人生だったが、一度も主役を演じたことがなかった。しかし20世紀スペインでもっとも愛され尊敬された監督と称されたガルシア・ベルランガ、『無垢なる聖者』のマリオ・カムス、『セレスティーナ』のヘラルド・ベラ、ビセンテ・アランダ、ビガス・ルナ、そして1995年のホラー・コメディ『ビースト 獣の日』出演以来、アレックス・デ・ラ・イグレシアのお気に入りとなった。映画デビューはガルシア・ベルランガ(1921~2010)の辛口コメディ“Novio a la vista”(1954「一見、恋人」仮題)、1959年、ベルランガがプロデュースして、ヘスス・フランコが監督したコメディ “Tenemos 18 años” に姉エリサの夫になるアントニオ・アロンソなどと共演した。その他マヌエル・バスケス・モンタルバンの陰謀小説を映画化したビガス・ルナの “Tatuaje”(1979「刺青」仮題)などがある。

(左から、パコ・ラバル、テレレ・パベス、アルフレッド・ランダ、『無垢なる聖者』から)
★出演作で一番評価が高いのが、マリオ・カムスの『無垢なる聖者』(“Los santos inocentes”1984)、アルフレッド・ランダが演じた主人公の妻レグラに扮した。ミゲル・デリーベスの同名小説の映画化、1960年代のスペイン農民のレクイエムです。これは20世紀スペイン映画史に残る名画、パベスの最高傑作と言ってもいいでしょう。残念ながらまだゴヤ賞は始まっていませんでした。アンヘラ・モリーナやフアン・ディエゴと共演したゴンサロ・エラルデの “Laura, del cielo llega la noche”(1987)で第2回目のゴヤ賞に初ノミネート、翌年も続いてノミネートされたが受賞できなかった。ビセンテ・アランダの「エル・ルーテ」の続編、”El Lute II: mañana seré libre”(1988)に起用された。

(演技が絶賛された『セレスティーナ』から)
★そのほかゴヤ賞関連では、ヘラルド・ベラの『セレスティーナ』(96)の演技が認められてゴヤ賞確実と言われながらノミネーションさえされなかった。しかし1997年サン・ジョルディ賞を受賞した。3回目のノミネーションがアレックス・デ・ラ・イグレシアの『13みんなのしあわせ』(00)だが、カルメン・マウラが主演、エミリオ・グティエレス・カバが助演を受賞したものの、テレレは受賞できなかった。4回目の『気狂いピエロの決闘』も空振り、アレックス映画のマスコット的女優となった『スガラムルディの魔女』(13)で宿願を果たした。カルメン・マウラ扮する人食い魔女のリーダーの母親マリチェを怪演した。これは「三度目の正直」ではなく「五度目」でした。今年2017もマリナ・セレセスキーの “La puerta abierta”(16)で認知症の母親役を演じて6度目のノミネーションを受けた。ゴヤ賞ノミネーションはすべて助演女優賞です。

(魔女マリチェに扮した『スガラムルディの魔女』から)

(涙、涙のゴヤ賞2014助演女優賞の授賞式にて)
★アッレクス・デ・ラ・イグレシアがゴヤ賞1996監督賞を受賞した『ビースト、獣の日』に初出演したあとも、上記以外に『マカロニ・ウエスタン800発の銃弾』(02)『グラン・ノーチェ!最高の大晦日』(15)『クローズド・バル』(17)などに起用されている。

(左から、カロリナ・バング、カルメン・マウラ、デ・ラ・イグレシア、テレレ・パベス)
★テレレ・パベスを理解するのに避けて通れないのが父ラモン・ルイス・アロンソとの関係である。父はガルシア・ロルカ殺害に深く関与したことで告発され、テレレや姉二人ともにその重荷を背負って生きてきた。父親は内戦勃発の1936年、ヒル・ロブレス率いるスペイン独立右翼連合CEDA所属の元国会議員としてグラナダでは有名だった。アカ嫌いのルイス・アロンソは、グラナダのファランヘ党のリーダーとして幅を利かせていたという。ロルカ逮捕には関与したが、8月18日のロルカ銃殺には立ちあっていなかった。ダブリン出身だが1978年からスペインに移り住み国籍まで取った、ロルカ研究の第一人者イアン・ギブソンの著書に、逮捕の経過が詳細に書かれている*。こういう事情を知らなかった若い舞台演出家が「ベルナルダ・アルバの家」のオファーをしたことがあったようです。時とともに内戦の悲劇も風化していくということでしょうか。
*Federico García Lorca: A Life, ロンドン、Faber and Faber, 1989(1997年に翻訳書が出版)
★三人姉妹は集団的敵意の重圧に苦しみ、一時期父姓のルイスを省いていた。親の負債を子供がどれだけ負うべきかという是非はともかく、充分苦しんだという。私たち三人姉妹は「父親を恥じてRuizを省いていたが、もうすんだこと、父親としてはいい人だったのよ」とテレレは語っていたそうです。父親はフランコ総統が1975年12月に亡くなり後ろ盾を失ったことで不安を感じ、ラスベガスに移住していた三女マリア・フリア(1937~2017)を頼って数週間後にはアメリカに渡り、3年後の1978年に死去した。
★テレレを陶片追放から救い出してくれたのがデ・ラ・イグレシアだった。周囲の重圧をはねのける真摯な態度、傷つきやすさ、誠実さ、誰にも真似できない強烈な個性、それは彼女自身が編み出した演技だった。割り当てられた人物になりきる能力がずば抜けていた。「泣くべき時に泣き、どんな状況にも対応できた。モンスターだったよ」と『セレスティーナ』のベラ監督。トレードマークのような大胆なマスカラをつけ、しわがれ声をあちらで響かせていることだろう。
*“Novio a la vista”の記事は、コチラ⇒2015年6月21日
*『無垢なる聖者』の記事は、コチラ⇒2014年3月10日・11日
*『スガラムルディの魔女』の記事は、コチラ⇒2014年10月18日
* “La puerta abierta” の記事は、コチラ⇒2017年1月12日
*ガルシア・ロルカの死についての記事は、コチラ⇒2015年9月11日
「アディオス」、チュス・ランプレアベ、そして「グラシアス」 ― 2016年04月08日 13:57
スペイン映画の象徴的な顔、チュス・ランプレアベ逝く
★だいぶ前から生れ故郷アルメリアの自宅に閉じこもっていたというチュス・ランプレアベの訃報が、4月4日に知らされました。85歳の旅立ちでした。目が悪く日常は牛乳びんの底のような強度の眼鏡をかけていた。マルコ・フェレーリの“El pisito”(1958、「小さなアパート」)で映画デビュー、続いて“El cochecito”(60、「電動車椅子」)、そしてルイス・ガルシア・ベルランガとの出会い、彼の社会批判をブラックユーモアで包んだ象徴的なコメディ“El verdugo”(63.「死刑執行人」)に出演、「ナショナル三部作」といわれる全3作に起用された。スペインでもっとも愛された監督と言われながらも映画祭上映だけに終わったベルランガに、その類まれな知的ユーモアのセンス、独特な甲高い声、誰かと混同することのない強烈な個性、少しずれたおかしみによって気に入られた。フェレーリ、ベルランガ、トゥルエバと脚本でタッグを組んだ、女嫌いと言われたラファエル・アスコナのお気に入りでもあった。あちらで旧交を温めていることだろう。

(眼鏡をかけていないチュス・ランプレアベ、1989年)
★女優になりたかったわけではないのに女優になってしまった。マリア・ヘスス・ランプレアベ・ペレス、Chusチュスは愛称、1930年12月11日アルメリア生れ、女優。脇役に徹し、出演本数70本は60年の映画人生で多いのか少ないのか、どっちだろうか。ガルシア・ベルランガ、ハイメ・デ・アルミニャン、アルモドバル、フェルナンド・トゥルエバ、フェルナンド・コロモ、サンティアゴ・セグラなどなど、実力派の監督たちに愛された。画家を目指してマドリードの「サン・フェルナンド美術アカデミー」に20歳のとき入学した。ビクトル・エリセのドキュメンタリー『マルメロの陽光』の画家アントニオ・ロペスとも或る期間同じ空気を吸っていた名門美術学校です。卒後出版社アギラルでイラストレーターとして働いていた。その後、映画学校の監督特別コースに入学、そこで多くのシネアストの友人たちができ、なかにハイメ・デ・アルミニャンがいた。彼を介して1958年テレビ出演、同年マルコ・フェレーリの“El pisito”でデビューした。後にデ・アルミニャンの“Mi querida señorita”(1971「我が愛しのセニョリータ」)に出演している。
★「アルモドバルの娘たち」の一人、しかし彼のデビュー作『ペピ、ルシ、ボンとその他大勢の女の子たち』、第2作『情熱の迷宮』はオファーを断っている。初参加は1983年の『バチ当たり修道院の最期』から、『グロリアの憂鬱』、『マタドール』、1988年の『神経衰弱ぎりぎりの女たち』で一区切りする。フェルナンド・コロモ、ホセ・ルイス・クエルダ、F・トゥルエバなどを挟んで、1995年の『私の秘密の花』、『トーク・トゥ・ハー』、『ボルベール〈帰郷〉』、最後が『抱擁のかけら』(2009)合計8作でした。『ボルベール』でカンヌ映画祭2006の最優秀女優賞にカルメン・マウラやペネロペ・クルスなど6人で受賞した。その他、俳優組合賞助演女優賞を受賞、ゴヤ賞は『私の秘密の花』でノミネーションを受けている。

(ロッシ・デ・パルマとチュス、電話の相手は娘役のマリサ・パレデス、『私の秘密の花』)
★アルモドバルによると、「しばしば起こったことなのだが、自分にふさわしい役柄に出会えないときには悔しがった」、そういう意味では「アルモドバルの正真正銘の娘」として評価できるというわけです。「アルモドバルの娘たち」のなかでも、ロッシ・デ・パルマとチュスは、その異色さにおいて双璧をなす。前者は本日封切られる“Julieta”に出演している。

(女優6人がカンヌ映画祭女優賞を受賞した『ボルベール』から)
★フェルナンド・トゥルエバとの出会いは、彼のヒット作となった4作目“Sé infiel y no mires con quién”(1985「他人を気にせず浮気なさい」)、翌年の『目覚めの年』、そしてオスカー賞を受賞した『ベルエポック』に、マリベル・ベルドゥの婚約者ガビーノ・ディエゴの母親役で出演、ゴヤ賞1993助演女優賞を受賞した。ノミネーション4度目の実に60歳を超えての初受賞だった。結局これ1個にとどまった。そしてトゥルエバが初来日したことでも話題になった『ふたりのアトリエ~ある彫刻家とモデル』(2012)の家政婦役、これがトゥルエバ作品の最後となってしまった。「人格者というのでも、女優というのでもなかったが、ただそこにいるだけでよかった。彼女の中にはなにか小天使のような雰囲気があった」「他の誰とも似ていない女優だった」とトゥルエバ監督。

(首吊り自殺をする神父役アグスティン・ゴンサレスとチュス、『ベルエポック』から)
★テレビドラマには出演しておりましたが、長編映画としてはサンティアゴ・セグラのトレンテ・シリーズ第5弾『Torrente 5: Operación Eurovegas』(2014)が最後の出演となりました。だいぶ痩せた印象を受けますね。第1作“Torrente, el brazo tonto de la ley”(1998)にも出演した。いささか下品だとゲイジュツ映画ファンには不人気だったが、戯画化された人格造形の上手さにセグラの才能を感じさせるブラックコメディでした。結局シリーズ化され、毎回トレンテ・ファンを喜ばせている。

(最後の出演となったサンティアゴ・セグラの「トレンテ 5」から)
★こうして振り返ってみるとノミネーションはかなりあるが受賞歴は少ない印象を受けます。2005年、フォトグラマス・デ・プラタを受賞している。アルモドバルの『グロリアの憂鬱』、『マタドール』、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』、トゥルエバの『目覚めの年』などでノミネートされたが受賞にはならなかった。だから2005年の受賞はいわば栄誉賞のようなもので全作品に対して贈られた。トロフィーは長年の盟友カルメン・マウラから手渡された。

(プレゼンターのカルメン・マウラとチュス、フォトグラマス・デ・プラタを受賞、2005年)
★『ベルエポック』で共演したフェルナンド・フェルナン=ゴメスも逝き、同い年のアグスティン・ゴンサレスも既に10年ほど前に旅立ってしまった。チュス・ランプレアベ、画家にならなくて本当によかった。楽しい映画をたくさんありがとう。
『アマンテス/ 愛人』 のビセンテ・アランダ逝く ― 2015年06月06日 23:01
★アランダが死んでしまった。訃報は気が重くて書きたくないが、ガルシア・ベルランガの次くらいに好きな監督だった。二人の共通点は、フランコ時代に思いっきり検閲を受けたことぐらいか。もう1週間以上も経つのに「もう新作は見られない」と拘っている。大分前から映画は撮っていなかったのに不思議な気がする(2009年の“Luna caliente”が遺作)。デビュー作“Brillante porvenir”(1964)が38歳と同世代の監督に比して遅かったので、88歳になっていたなんて驚いてしまった。改めてフィルモグラフィーを調べたら27作もあり、フィルムで撮っていたことを考慮すると寡作というほどではないかもしれない。日本で公開された映画は4作だけだが、映画祭上映やビデオ発売はセックスがらみで結構多いほうかもしれない*。

*公開作品リスト、ほか
1988年11月公開『ファニー 紫の血の女』1984“Fanny Pelopaja” フィルム・ノアール
1994年2月公開『アマンテス / 愛人』1991“Amantes”ビデオ
2004年3月公開『女王フアナ』2001“Juana la Loca”DVD
2004年3月公開『カルメン』2003“Carmen”DVD
◎映画祭上映及びビデオ発売(未公開)作品製作順
1972『鮮血の花嫁』“La novia ensangrentada”ゴシック・ホラー 原作『カーミラ』ビデオ
アイルランドのシェリダン・レ・ファニュ(1814~73)の怪奇小説の映画化
1977『セックス・チェンジ』“Cambio de sexo” 東京国際レズ&ゲイ映画祭1999上映、ビデオ
1989『ボルテージ』“Si te dicen que caí”原作フアン・マルセ、ビデオ発売1998年
1993『危険な欲望』“Intruso”ビデオ発売2001年
1994『悦楽の果て』“La pasión turca” 原作アントニオ・ガラ、 ビデオ発売1998年
1996『リベルタリアス―自由への道』“Libertarias”東京国際映画祭1996上映、審査員特別賞
1998『セクシャリティーズ』“La mirada del otro”原作フェルナンデス・G・デルガド、ビデオ
★ビセンテ・アランダVicente Aranda Ezquerra 1926年11月9日、バルセロナ生れの監督、脚本家(5月26日マドリードの自宅で死去)。7歳のときカメラマンだった父親が死去、家計を助けるため中学生の頃から働きはじめ、学校は義務教育止まりだった。一家がスペイン内戦で負け組共和派に与していたことも人生の出発には不利だった。経済的政治的な理由から、1949年ベネズエラで情報処理の分野で働くため生れ故郷を後にした。アメリカの総合情報システム会社、後には現在のNCRコーポレーションで中心的な役職についたが、1956年、映画の仕事への執着やみがたく帰国する。しかし学歴不足で希望していたマドリードの国立映画研究所入学を拒絶され、バルセロナに戻って独学で映画を学んだ(ベネズエラ移住期間1952~59年など若干の異同はありますが、英語版ウィキペディアを翻訳したと思われる日本語版があります。スペイン語版はごく簡単な作品紹介にとどめ、デビュー前の記載はありません)。
「アランダはヒッチコックの足元にも及ばなかった」とフアン・マルセ
★デビュー作“Brillante
porvenir”から遺作の“Luna caliente”にいたるまで執拗と言えるほど同じテーマ、つまりパションを介して≪España negra≫の性愛と死の現実を風刺的でビターな語り口で明快に描き続けた。多くの作品が小説を題材に、または実際に起きた犯罪事件に着想を得て映画化されたが、そのことが物議をかもすことにもなった。フアン・マルセの小説を上記の『ボルテージ』を含めると4作撮っている。作家はどれも気に入らず、「アランダはヒッチコックじゃなかった、彼の足元にも及ばなかった」と不満をぶちまけた。監督も負けてはおらず、「マルセも所詮、ギュスターヴ・フローベールじゃなかった」と応酬した。後で仲直りしたから(笑)、ちょっとした子供の口ゲンカなんでしょうね。
★しかし本気で怒った作家もいた。『悦楽の果て』の邦題でビデオが発売された“La pasión turca”のアントニオ・ガラ、処女小説“El manuscrito carmesí”が『さらば、アルハンブラ、深紅の手稿』として翻訳書が出ている。原作を読んでいないから分からないが、原作とは凡そかけ離れているんだと思う。映画の結末には2通りあって、なんとなく作家の怒る理由が想像できる。個人的には小説と映画はそれぞれ独立した別の作品だから、映画化を許可した時点で我が子とはサヨナラするべき、だって小説の筋をなぞる映画など見たくもないからね。主演のアナ・ベレンの妖しい美しさを引き出しており、女優を輝かせるベテランであった。ビクトリア・アブリルは言うに及ばず、『セクシャリティーズ』のラウラ・モランテ、『ファニー 紫の血の女』のファニー・コタンソンなどにも同じことが言える。

(“La pasión turca”のアナ・ベレン)
★第1作“Brillante
porvenir”はF・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、第2作“Fata Morgana”(65)はゴンサロ・スアレス、“La muchacha de las bragas de
oro”(80)はフアン・マルセ、“Asesinato en el Comité Central”(82)はマヌエル・バスケス・モンタルバン、『ファニー 紫の血の女』(84)はアンドルー・マルタン、“Tiempo de silencio”(86)はヘスス・フェルナンデス・サントスなどなど。
★晩年の“Tirante
el Blanco”(06)はジョアノ・マルトレルの “Tirant lo Blanc”、『ドン・キホーテ』より先にカタルーニャ語で書かれたスペイン古典中の古典、セルバンテスが大笑いしたという騎士道物語の映画化だった。これは製作費約1400万ユーロをつぎ込んだわりに評判が悪く、しかしアランダが“Tirant lo Blanc”を撮るとこうなるんだ、という映画だった。『カタルーニャ語辞典』の著者、田沢耕氏が講演会で「この監督は何という人ですか、ひどすぎます!」とマルトレルにかわって憤慨しておられたが、小説と映画は別物なんです(笑)。撮影にホセ・ルイス・アルカイネ、音楽にホセ・ニエト、キャストにエスター・ヌビオラ、ビクトリア・アブリル、レオノル・ワトリング、イングリッド・ルビオ、などを揃えた豪華版だった。

(左から、ワトリング、ヌビオラ、ルビオ “Tirante el Blanco”)
『アマンテス /
愛人』のテーマは内戦後と愛の物語
★実際に起きた事件に着想を得て映画化された代表作が『アマンテス / 愛人』、『セックス・チェンジ』以来、アランダのミューズとなったビクトリア・アブリル、まだ初々しかったホルヘ・サンスとマリベル・ベルドゥの3人が繰りひろげる愛憎劇。アランダはエロティシズムとやり切れない内戦後に拘った。その二つをテーマに選んだのが本作。舞台背景は内戦後の1955年、しかし主要テーマは性と愛と死、だから今日でも起こりうる物語といえる。

(アランダとアブリル、『アマンテス / 愛人』撮影のころ)
★この作品はゴヤ賞1992の作品賞と監督賞を受賞している。他にノミネートこそあれ受賞はこれだけ。アカデミー会員はマドリードに多いから、どうしてもバルセロナ派は不利になる。またベルリン映画祭1991でアブリルが主演女優賞を受賞、アランダの名前を国際的にも高めた作品といえる。最後の雪が舞うブルゴスのカテドラルを前にしたサンスとベルドゥのシーンは忘れ難い。ろくでもない不実な男に一途な愛を捧げる娘のひたむきさ、二人のクローズアップからロングショットへの切り替えの巧みさなど名場面の連続だった。

(ベルドゥとサンス、『アマンテス / 愛人』最後のシーン)
★<エル・ルーテ>と呼ばれた実在の犯罪者エレウテリオ・サンチェスの自伝にインスパイアーされて撮ったのが“El Lute”(87)と“El Lute Ⅱ,mañana
seré libre”(88)。収監中に勉強して弁護士になったエル・ルーテにイマノル・アリアス、その妻にビクトリア・アブリルが扮した。

(アリアスとアブリル、“El Lute”)
なりたかったのは作家、小説の映画化に拘った
★デビュー作“Brillante porvenir”を共同監督した友人で作家のロマン・グベルンが「エル・パイス」紙に寄せた追悼文によると、アランダは「本当は監督じゃなく作家になりたかった」が物書きとしては芽が出ず映画監督に方針を変えた。グベルンは「本当は監督になりたかったが監督になれず作家になった」。「これは何というパラドックスだ」とアランダが叫んだそうです。
★プレス会見でもあまり胸襟を開かないと言われた監督だが、それは映画が語っているから充分と考えていたのではないか。愛の混乱と曖昧さ、愛と性は爆弾のようなもの、幸せになれない登場人物たち、性愛の解放を描いて社会のタブーに挑んだ監督だったと思う。グベルンによると、バルセロナ派の監督なのにマドリードに住んでいたのは、バルセロナ派との関係が必ずしも良好ではなかったからで、それは彼がカタルーニャ語で撮らないことも一因だったという。アランダはそういう狭量な仲間意識を嫌っていたのではないか。「高校に行くことができなかった青年は優れた観察力をもっていた。神々は運命が計り知れないことを御存じだったのだ」と温かい言葉で追悼文を締め括っている。
マノエル・ド(デ)・オリヴェイラ逝去*現役監督106歳 ― 2015年04月07日 16:15
「引退と死は同時だよ・・・」
★「・・撮りたい映画が頭の中に山ほどあるから」と生前語っていたように、望み通り「引退と死」は同時でしたでしょうか。去る4月2日の朝、ポルトの自宅で死去したことが親族からメディアに知らされました。1908年12月11日ポルトガルの第二の港町ポルト生れだから、1世紀を優に超える実に長い人生でした。同じ年代生れの監督としては、ジャック・タチ、ロッセリーニ、オットー・プレミンジャー、ロベール・ブレッソン・・・勿論全員アチラに集合しておりますね。10歳年下の夫人マリア・イザベルさんはご健在です。杖をついた写真が多いが、実際に使用したのは最後の数ヵ月だったらしく<伊達ステッキ>でした。授賞式でもトントンと壇上に駆けあがっていました。

(<伊達ステッキ>だった頃のオリヴェイラ、ポルトの自宅にて、2009年12月)
★一族は裕福なブルジョア階級で、父親は電球製造工場などを経営する実業家だった。1919年から兄と一緒に北スペインのガリシア(ポンテベドラ)にあるイエズス会の学校で4年ほど学んでいる(マノエルは三男)。読書や幾何学が好きだったが、映画に夢中になるのに時間は掛からなかったという。最初の長編となる『アニキ≂ボボ』(1942、モノクロ)は戦中のこともあり興行成績は惨敗、一部の批評家にしか受け入れられなかった。こんな映画を作れる監督は、ポルトガルでは前にも後にも現れませんでした。再評価までには10年以上待たねばならなかった。以後14年間映画界を離れて家業に就いていた。長い人生といっても本格的に長編を撮り始めたのは60歳を過ぎた1970年代から、特に『過去と現在―昔の恋、今の恋』(1972)が注目を集めてからでした。

(スポーツマンだった頃の監督、オート・レースに出場、28歳)
★国際スターを起用した最初の映画『メフィストの誘い』(1995)は劇場公開されましたが、彼の代表作というわけではない。しかしポルトガルの俳優にとって、特に若いレオノール・シルヴェイラ(ピエダード)にとって、カトリーヌ・ドヌーヴ(エレーヌ)やジョン・マルコヴィッチのような大スターとの共演は大きなチャンスであったろう。エレーヌとピエダードは結局同一人物なのであるが、二人の女優が同一人物を演じるわけではない。ブニュエル的ではあるが二人の女優が一人の女性を演じた『欲望のあいまいな対象』(1977)とは異なる。オリヴェイラはかつて「私はブニュエルのようなものです。・・・カトリシズム抜きではブニュエル映画は存在しないだろう」と語っていますが、怖れ、罪、性は共通のテーマでしょうか。ルイス・ブニュエルの『昼顔』(1966)の後日談として撮ったゴージャスな『夜顔』(2006)を捧げている。

(カトリーヌ・ドヌーヴとルイス・ミゲル・シントラ、『メフィストの誘い』から)
★最後となった短編“O Velho do Restelo”(2014、仮題「レステロの老人」)は、ヴェネチア映画祭で上映されました。オリヴェイラ映画には欠かせないルイス・ミゲル・シントラや孫のリカルド・トレパ(『家宝』『夜顔』など)が出演しています。ヴェネチアやカンヌなど国際映画祭で高く評価されようが、「カイエ・デュ・シネマ」のアンドレ・バザンがいくら褒めようが、ポルトガル人は彼の作品を観に映画館まで足を運ばない。謎を含んだまま不可解な結末を迎える映画は単純に楽しめないからです。1974年の「カーネーション革命」を感動的に描いたマリア・デ・メデイロスの『四月の大尉たち』(“Capitaes de abril”の直訳)は国民の8割が見たという(!?)。まあ、オリヴェイラも国民のために映画を撮っていたわけではないからおあいこですが。海の向こうの遠い日本でDVD-BOX(23枚組)が発売されていると知ったら、16世紀半ばに「日本発見」(種子島への鉄砲伝来のこと)をした国民はさぞかし驚くことでしょう(笑)。

(ビュル・オジエ、監督、ミシェル・ピコリの三老人、『夜顔』の撮影)
★「・・・撮りたい映画が頭の中に山ほどあるが、さて、すべてを完成させるまで寿命が持つかどうかは分からない」、最期の時になれば(expiración) 悪事は消え去り、贖罪(expiación) が存在するだけだから、「息を引き取るとき結局、私のすべての悪事も終るでしょう」。
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