ベロニカ・フォルケ逝く*自ら幕引きをした66年の生涯 ― 2021年12月21日 15:17
安住を求めて自ら幕引きをした、長くもあり短くもあった66年の生涯

(中央に柩が安置されたお別れの会、マドリードのスペイン劇場、12月15日)
★12月13日、国家警察がマドリードの自宅で自死した女優ベロニカ・フォルケの遺体を発見したと報道した。12時49分救急センターに或る女性から電話があり、救急隊Summa112が駆けつけたが既に手遅れであったという。当日は自死だけが報道され、正確な死因は検死結果を待つことになった。翌日、錠剤などの痕跡がないこと、首に外傷性の傷がありタオルでの首吊りによる窒息死であったと発表された。最近鬱状態がひどく、3時間前に一人娘マリア・クララ・イボラ・フォルケがお手伝いさんと交替して帰宅したばかりだった。オレンジジュースを飲み、シャワーを浴びると言ってバスルームに入ったまま帰らぬ人となった。ホセ・マリア・フォルケ賞の顔の一人でもあったベロニカ、カルメン・マウラと80~90年代のスペイン映画を代表する女優の一人だったベロニカ、常に明るく機知にとんだ会話で周りを楽しませてくれたのは表の顔、2014年の離婚以来、鬱病に苦しむ闇を抱えた人生だったということです。

(ありし日のベロニカと娘マリア)
★訃報の記事はしんどい、特に書くことはないだろうと思っていた若い人の予期せぬ旅立ちはしんどい。しかしここ最近の映像を見るかぎり60代の女性とは思えない険しい顔に唖然とする。最後となったTVシリーズ「MasterChef Celebrity」(21)を「もうこれ以上続けられない」と自ら降板した彼女は、痛々しく全くの別人のようだった。今思うと管理人が魅了された1980年代後半から90年代にかけてが全盛期だったのかもしれない。

★キャリア&フィルモグラフィー:1955年12月生れ、映画、舞台、TV女優。監督、製作者のホセ・マリア・フォルケ(1995年没)を父親に、女優、作家、脚本家のカルメン・バスケス・ビゴ(2018年没)を母親にマドリードで生まれた。2歳年上のアルバロ・フォルケ(2014没)も監督、脚本家というシネアスト一家。1981年マヌエル・イボラ監督と結婚(~2014)、マリア・フォルケを授かる。出演映画、TVシリーズを含めると3桁に近い。1972年ハイメ・デ・アルミリャンの「Mi querida señorita」で映画デビュー、70年代は父親の監督作品、ホセ・ルイス・ガルシア・サンチェス、カルロス・サウラなどの映画に出演している。

(第9回ゴヤ栄誉賞受賞の父ホセ・マリア・フォルケと娘ベロニカ、1995年)
★突拍子もないオカマ監督と批評家から無視されていたペドロ・アルモドバルが、その存在感を内外に示した『グローリアの憂鬱』(84、¿Qué he hecho yo para merecer esto?)に出演したことが転機となる。その後、『マタドール』(86)、『キカ』でゴヤ賞1994の主演女優賞を受賞、4個目のゴヤ胸像を手にした。1987年から始まったゴヤ賞では、第1回目にフェルナンド・トゥルエバの『目覚めの年』で助演女優賞、第2回目となる1988年は、フェルナンド・コロモの「La vida alegre」で主演、ルイス・ガルシア・ベルランガの「Moros y cristianos」で助演のダブル受賞となった。ゴヤ胸像は4個獲得している。コロモには「Bajarse al moro」(89)でも起用されており、ゴヤ賞にノミネートされている。

(カルメン・マウラと、『グローリアの憂鬱』から)

(共演のロッシ・デ・パルマと、『キカ』のフレームから)
★90年代はマヌエル・ゴメス・ペレイラの「Salsa rosa」(91)で始まった。他にマリオ・カムスの「Amor propio」(93)、フェルナンド・フェルナン=ゴメス、ジョアキン・オリストレル(95、¿De qué se ríen las mujeres?)、ダビ・セラノ、クララ・マルティネス・ラサロ、フアン・ルイス・イボラの「Enloquecidas」(08)、1981年に結婚したマヌエル・イボラ作品には、「El tiempo de la felicidad」(97)、カルメン・マウラと性格の異なった姉妹を演じた「Clara y Elena」(01、クララ役)、「La dama boba」(06)などに多数出演している。最後の作品となったのが若手のマルク・クレウエトの「Espejo, espejo」(21)で、スペイン公開は2022年になる。多くの監督が鬼籍入りしているが、例えばフェルナン=ゴメス(2007年)、マリオ・カムスは今年9月に旅立ったばかりである。他にマラガ映画祭2005の最高賞マラガ賞、2014年バジャドリード映画祭エスピガ栄誉賞、2018年フェロス栄誉賞、1986年『グローリアの憂鬱』でニューヨークACE賞、他フォトグラマス・デ・プラタ賞、サンジョルディ賞、ペニスコラ・コメディ映画祭など受賞歴多数。

(2018年のフェロス栄誉賞のトロフィーを手にしたベロニカ)
★TVシリーズでは、1990年の「Eva y Adan, agencia matrimonial」(20話、エバ役)と1995年のマヌエル・イボラの「Pepa y Pepe」(34話、ペパ役)でテレビ部門のTP de Oro 女優賞を受賞している。後者は2シーズンに渡って人気を博したコメディでした。TVミニシリーズ「Días de Navidad」(19、3話)の1話に出演している。Netflixが『クリスマスのあの日私たちは』の邦題で配信しています。最後のTV出演となった「MasterChef Celebrity」は、「12歳の少女に戻れる」と語っていたが、自ら降板することになった。

(ペペ役のティト・バルベルデと、TV「Pepa y Pepe」から)

(共演者エドゥアルド・ナバレテと、TV「MasterChef Celebrity」から)
★舞台女優としては、1975年のバリェ=インクランの「Divinas palabras」(『聖なる言葉』)、1978年のテネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』、1985年には後に映画化もされた「Bajarse al moro」、ホセ・サンチス・シニステラが1986年発表した「¡ Ay, Carmela !」を1987年と2006年にカルメラ役で主演した。この戯曲はカルロス・サウラによって映画化され、日本では『歌姫カルメーラ』(90)の邦題で公開された。こちらはカルメン・マウラが演じている。2019年フリアン・フエンテス演出の「Las cosas que sé que son de verdad」で、演劇界の最高賞と言われるMax賞2020主演女優賞を受賞している。

(Max賞を受賞したベロニカ・フォルケ、プレゼンターは盟友マリア・バランコ、
マラガのセルバンテス劇場、2020年9月8日)
★ベロニカがファンや友人、そして同僚から如何に愛されていたかは、会葬者の顔ぶれを見れば分かります。ゴヤ賞のガラでもこんなに多くないでしょう。14日のサンイシドロ葬儀場でのお通夜には、「MasterChef Celebrity」の共演者エドゥアルド・ナバレテ、ミキ・ナダル、タマラ、アナ・ベレンとビクトル・マヌエル夫妻、アイタナ・サンチェス=ヒホン、シルビア・アバスカル、ベレン・クエスタ、ヨランダ・ラモス、ペポン・ニエト、カエタナ・ギジョン・クエルボ、アントニオ・レシネス、エンリケ・セレソ、バネッサ・ロレンソ・・・。
★15日のお別れの会(午前11時~午後4時)に馳せつけた友人や同僚たちは、泣き顔をサングラスとマスクで防御していた。コロナウイリスはセレブの匿名性に役立ちました。多くがマスコミのインタビューには言葉少なだったということです。11時に姿を見せたパコ・レオンは「ベロニカは陽気さと感性豊かな人でした。陽気さは皆がもつことのできる美しいものですが、彼女はそれをもっていました」と語り、午後3時に母親のカルミナ・バリオスを伴って再び姿を見せました。カルミナはテレビでの共演者、大きな赤い薔薇の花束を抱えていました。
★マリベル・ベルドゥとアイタナ・サンチェス=ヒホンが腕を組んで足早に立ち去った。先輩後輩の俳優たち、ベアトリス・リコ、スシ・サンチェス、マリア・バランコ、歌手マシエル、アントニオ・レシネス、フアン・ディエゴ、チャロ・ロペス、ホセ・ルイス・ゴメス、フアン・エチャノベ、ティト・バルベルデ、フェレ・マルティネス、フアン・リボ、カルロス・イポリト、ホルヘ・カルボ、ビッキー・ペーニャ、マルタ・ニエト、アントニア・サン・フアンなどの俳優たち、監督ではパウ・ドゥラ、マヌエル・ゴメス・ペレイラ、フアン・ルイス・イボラ、ハイメ・チャバリ、脚本家のヨランダ・ガルシア・セラノ、舞台演出家ダビ・セラノ、マリオ・ガスなど。通りには100人以上のジャーナリストやファンがつめかけ、彼女がスペイン魂に火をつけた80年代のコメディに感動を分かち合った。スペイン映画は80年代や90年代のコメディやドラマ抜きに理解することはできません。
★コメントを残した政治家たちには、文化スポーツ大臣ミケル・イセタ、マドリード市長マルティネス・アルメイダと副市長ベゴーニャ・ビジャシス、マドリード・コミュニティ会長ディアス・アヤソと文化大臣リベラ・デ・ラ・クルス、ICAA会長ベアトリス・ナバス・バルデス、他スペイン下院議員たち多数。

(文化教育スポーツ大臣ミケル・イセタ氏)
★印象的なキャリアをもつアーティストのマリア・フォルケを通じてファンになった別の世代、マリアの冒険仲間のグループも駆けつけました。ベロニカに別れの手紙を捧げました。ガルシア・ロルカの最後の詩 ”Doña Rosita la soltera” の断片が書かれたポスターが掲げられ、それは「夜の帳が降りるとき、しなやかな金属の角、そして星が流れる、風が消えるあいだに、暗闇の境めで、落葉しはじめる」(拙訳)で閉じられていた。
★スペイン映画アカデミー会長マリアノ・バロッソは「彼女は悲しい泣きピエロのように、自分が抱えていた痛みを隠し続けました。今私は映画界の愛と尊敬を伝えることしかできません」と。弟アグスティンと一緒に参列したペドロ・アルモドバルは「ベロニカはコメディに特別な才能を発揮しました。人々を笑わせる能力に秀でていて、幼い頃の無邪気さを失っていなかった。天使と一緒に、私は私の人生でもっとも面白い映画をつくることができました」。また最近のベロニカについては「彼女は私が知っているベロニカではありませんでした。私が覚えているのは、とても幸せで、信じられないほどコミカルな女優でした。とても世話好きで皆の力になりました。彼女は夫とうまくいかず、数年前にお兄さんを失くしました。時間は彼女の感情をうまく扱いませんでした。これらの問題と闘う武器を持っていると思っていましたが、現実は私たちにノーと言ったのです」と付け加えました。

(インタビューに応じるペドロ・アルモドバル監督)
★マヌエル・イボラと離婚した同じ2014年の大晦日に、尊敬もし頼りにもしていた兄アルバロが鬼籍入りした。このことが彼女に精神的なダメージを与え、深刻な鬱状態になったことは周知の通りです。2018年3月の母親の旅立ちも痛手だったのではないでしょうか。午後4時からの出棺まで待っていた200人ほどの人々が数分間拍手喝采して柩を見送りしました。内輪だけで荼毘に付すため、エル・エスコリアルの遺体安置所に運ばれて行きました。嘆いてもきりがありません、「どうかよい旅でありますように、ベロニカ」
*以下の写真は代表作としてメディアが作成したものです。上段左から、TVシリーズ「Eva y Adan, agencia matrimonial」、『キカ』、TVシリーズ「Pepa y Pepe」、舞台『歌姫カルメーラ』、下段左から、「Amor propio」、「Bajarse al moro」、「Enloquecidas」、「Las cosas que sé que son de verdad」の順です。

ロサ・マリア・サルダ逝く*リンパ腫癌に倒れる ― 2020年06月18日 11:01
ハリケーンのように半世紀を駆け抜けた女優ロサ・マリア・サルダ逝く

★6月11日、ロサ・マリア・サルダがリンパ腫癌で旅立ちました。親しい友人たちも彼女が病魔と闘っていることを直前まで知らなかったということです。死去する数週間前に、正確には40日前にジョルディ・エボレのテレビ番組に出演し、「もう私の人生に良い時は訪れないでしょう。78歳という年齢はだいたいそんなものです。私はどちらかというと病人、ええ、癌なんです。しかし皆さんはそのことを知らないはずです」と語ったことで、彼女が2014年から闘病しながら映画に出演していたことが分かったのでした。Netflixで日本でもストリーミング配信されたエミリオ・マルティネス=ラサロの『オチョ・アペリードス・カタラネス』(15)も、結局最後の映画出演となったフェルナンド・トゥルエバの「La reina de España」(16)も闘病しながらの出演だったということになります。


(ありし日のロサ・マリア・サルダ)
★ロサ・マリア・サルダは、1941年7月30日バルセロナ生れ、女優、コメディアン、舞台演出家、舞台女優、テレビ司会者、2020年6月11日バルセロナで死去、享年78歳でした。スペイン語とカタルーニャ語を駆使して約半世紀に渡って笑いを振りまきましたが、「自分を喜劇役者とは思っていません」と。ウィットに富んだ語り口、時にはシニカルだがパンチの利いた社会的発言、頭の回転の速さ、よく動く目と口で私たちを魅了しました。年の離れた弟ジャーナリストのハビエル・サルダ(1958)、1980年若くしてエイズに倒れた末弟フアンの3人姉弟。コミック・トリオLa Trincaラ・トリンカメンバーの一人、後に息子の父親となるジョセップ・マリア・マイナトと結婚した。1962年プロの舞台女優としてスタート、1969年からTVシリーズ、一人息子のポル・マイナト(1975)は、俳優、監督、撮影監督、TVシリーズ「Abuela de verano」(05)で共演している。

(一人息子ポル・マイナト・サルダとのツーショット、2004年)
★映画界入りは80年代と遅く、ベントゥラ・ポンスの「El vicario de Olot」(81)、ルイス・ガルシア・ベルランガの「Moros y cristianos」(87「イスラム教徒とキリスト教徒」)に出演している。1993年、マヌエル・ゴメス・ペレイラのコメディ「 ¿Por qué lo llaman amor cuando quieren decir sexo? 」 にベロニカ・フォルケやホルヘ・サンスと共演、翌年の第8回ゴヤ賞助演女優賞を受賞した。ゴヤ賞ガラの総合司会者にも抜擢され、コメディアンとしての実力を遺憾なく発揮した記念すべき授賞式だった。ゴヤ賞関連では、第13回ゴヤ賞1999の2回目となる総合司会者となり、つづいて第16回ゴヤ賞2002の3回目のホストを務め、ジョアキン・オリストレルの「Sin vergüenza」(01)で2個目となる助演女優賞も受賞している。

(ゴヤ賞ガラの総合司会をする)

(2個目となる助演女優賞のトロフィを手にしたロサ・マリア・サルダ、ゴヤ賞2002ガラ)
★舞台女優としては、1986年にブレヒトの戯曲『肝っ玉おっ母と子どもたち』に出演、1989年にはジョセップ・マリア・ベネトのコメディ戯曲「Ai carai!」を演出、舞台監督デビューをした。他に映画化もされているガルシア・ロルカの『ベルナルド・アルバの家』では、女家長の世話を長年務めた家政婦ポンシア役で演劇界の大女優ヌリア・エスペルトと共演した。エスペルトとはベントゥラ・ポンスの「Actrius」(96、カタルーニャ語「女優たち」)でも共演、翌1997年ブタカ賞を揃って受賞している。ポンス監督とはマイアミ映画祭2001女優賞受賞作「Anita no pierde el tren」(00、カタルーニャ語)他でもタッグを組んでいる。2015年には演劇界の最高賞と言われるマックス栄誉賞を受賞している。映画化もされたマーガレット・エドソンの戯曲『ウィット』をリュイス・パスクアルが演出した舞台にも立っている。

(マックス栄誉賞のトロフィを手にスピーチするサルダ、2015年)

(ヌリア・エスペルトとサルダ『ベルナルド・アルバの家』から)

(エドソンの戯曲『ウィット』に出演したサルダ)
★90年代以降は映画にシフトし、公開や映画祭上映作品として字幕入りで観られる作品が増えた。フェルナンド・トゥルエバの『美しき虜』(98、ゴヤ賞1999助演女優賞ノミネート)、ペドロ・アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』(99)、イマノル・ウリベの『キャロルの初恋』(02)、ダニエラ・フェヘルマン&イネス・パリスの『マイ・マザー・ライクス・ウーマン』(02)、イシアル・ボリャインの『テイク・マイ・アイズ』(03)、上記の『オチョ・アペリードス・カタラネス』と結構あります。

(セシリア・ロス、サルダ、ペネロペ・クルス、『オール・アバウト・マイ・マザー』から)
★ゴヤ賞以外にも、2010年スペイン映画アカデミーから「金のメダル」、同年マラガ映画祭マラガ賞、第3回フェロス賞2016 栄誉賞受賞、実弟のハビエル・サルダの手からトロフィを受け取った。同年ガウディ賞栄誉賞も受賞した。映画界入りが遅かったこともあり、晩年の活躍が目立った。
*第3回フェロス賞2016栄誉賞の記事は、コチラ⇒2016年01月21日


(フェロス栄誉賞に出席したサルダ姉弟、2016年)

(ガウディ栄誉賞のトロフィを代理で受け取った息子ポル・マイナト、2016年)
★昨年の11月にプラネタ社から ”Un incidente sin importancia”(仮訳「あまり重要でない事ども」)というタイトルの自伝を出版した。コメディアンの草分け的存在だった祖父母のこと、若くして亡くなった看護師の母親のこと、そして黒い縮れた髪、地中海の青い海とも薄暗い湖のようにも見える目をした、一番ハンサムだった末弟フアンのことなど、亡き人々へ送る手紙として後半生の30年間を綴っているようです。母親が亡くなったとき25歳だったロサ・マリアには、まだ8歳だったハビエルと、もっと小さいフアンが残された。二人の弟の母親でもあったようです。フアンは1980年、まだスペインでは謎の病気だったエイズの犠牲者の一人になった。地獄のような2年間の闘病生活を共にしたということです。あのサルダの明るさと強靭な精神は何処から来たのでしょうか。本書を「初めての世界へ旅立つのはなんて複雑なんでしょう!」と締めくくったサルダ、生涯にわたり自由人であり続けたサルダも病魔の痛みから解放された。

(”Un incidente sin importannte”の表紙)
★コロナの時代に訃報を綴るのは気の重いことですが、サルダの光と影、特に今まで語られなかった影の部分に心打たれアップすることにしました。ツイッターでは、俳優のアントニオ・バンデラス、ハビエル・カマラ、「トレンテ 2」で共演したサンティアゴ・セグラ、政界からはペドロ・サンチェス首相がサルダの偉大さについて自身のSNSで哀悼の意を捧げている。ほか多くのファンからは涙のつぶやきが溢れている。8月開催がアナウンスされたマラガ映画祭で急遽特集が組まれかもしれません。

(地中海に面したマラガの遊歩道に建立された自身の記念碑の前で、2010マラガ賞受賞)
ホセ・ルイス・クエルダ監督逝く*『にぎやかな森』&『蝶の舌』 ― 2020年02月11日 15:11
シュールなコメディの旗手、ホセ・ルイス・クエルダ

★シュールレアリスムを突き抜けたシュールレアリスムの映画の旗手、不条理コメディのプロモーター、ホセ・ルイス・クエルダが旅立ちました。寡作な映画作家でしたが、ファンを大いに楽しませてくれた監督でした。シネアストは塞栓症治療のため入院していたマドリードのプリンセサ病院で2月4日に亡くなったことが、二人の娘イレネとエレナによって公にされました、享年72歳、こんなに急いでいくことはなかったにと残念でたまりません。
★1947年2月18日アルバセテ生れ、監督、脚本家、製作者。本邦では『にぎやかな森』(第2回ゴヤ賞1988作品・脚本賞、ただし彼は監督のみ)と『蝶の舌』(同2000脚色賞)が公開されています。フェロス賞2019栄誉賞、マラガ映画祭2019「金の映画賞」(1989「Amanece, que no es poco」)を受賞した折りに、キャリア&フィルモグラフィー紹介をしたばかりですが、ゴヤではとうとう監督賞はノミネーションだけで受賞しないまま逝ってしまいました。
*フェロス賞2019栄誉賞の記事は、コチラ⇒6019年01月23日

★「Amanece, que no es poco」は、彼の不条理コメディの代表作、公開当時はパッとしなかった。何しろ出演者が自分のセリフの意味が何だか分からず戸惑っていたから、ましてや観客が簡単に理解できるはずなどなかったわけです。しかし後にビデオ、DVDを繰り返し見た若者が気に入り、フェイスブックを通じて拡散、ファンクラブができるほどでした。まあ、スペイン人の一押しは内戦物の『蝶の舌』ではなく本作、意味など分からなくても可笑しければ笑えばいいのだ、というわけです。本作については「金の映画賞」でご紹介しています。主人公はいると言えばいるが、いないと言えばいないアンサンブル劇ですが、その一人、アントニオ・レシネスは訃報に接して「当時本作を批判した者がいたとしても、今日では悪口言う人は誰もおりません。クエルダはチャンピオンリーグの映画人、脚本家としての巨人、どうか忘れないで」と語りました。
*マラガ映画祭2019「金の映画賞」の記事は、コチラ⇒2019年04月03日

(親子を演じたアントニオ・レシネスとルイス・シヘス、「Amanece, que no es poco」から)

(金の映画賞のトロフィーを手にした、今は亡きホセ・ルイス・クエルダ)
★『にぎやかな森』は、ウェンセスラオ・フェルナンデス・フロレスの小説の映画化なので、現在なら脚色賞に当たるのですが、当時はまだ始まったばかりで区別されておりませんでした。カテゴリーも15部門、現在の28部門になったのは2003年からでした。『蝶の舌』の原作はマヌエル・リバスの小説、このときは既にオリジナル脚本と脚色に分かれており、共同執筆者のラファエル・アスコナと原作者と3人で脚色賞を受賞しました。このゴヤ賞2000は粒ぞろい、アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』(作品・監督賞)やベニト・サンブラノの『ローサのぬくもり』(脚本賞)など、マイナーだったスペイン映画が公開されるようになった年でもありました。
★クエルダはほとんど無名だったアメナバルの才能に着目したプロデューサーとしても知られています。『テシス 次に私が殺される』(96)と『アザーズ』(01)で作品賞を受賞している。自作を自ら設立した制作会社で撮る監督は昨今では珍しくありませんが、クエルダはそういうタイプではなかったようです。
★クエルダの作品はざっくり分けると、不条理コメディと内戦物になります。後者の一つ、2008年の「Los girasoles ciegos」では、共同執筆者ラファエル・アスコナとゴヤ賞2009脚色賞を受賞しました。トポという内戦の敗者がフランコ軍の追跡を逃れて自宅に隠れる話、トポ役にハビエル・カマラ、その妻にマリベル・ベルドゥ、妻を秘かに愛する青年司祭にラウル・アレバロなどを配している。作品・監督賞はノミネートに終わったが、米アカデミー賞外国語映画賞のスペイン代表作品に選ばれている。

★不条理コメディの一つ、1983年のTVムービー「Total」、スペイン人の少し好ましくない特徴に根差した作品、2598年という26世紀末の小さな村ロンドンが舞台だが、どう見てもロンドンには見えない。ガリシア風なのですが、クエルダは上記したようにアルバセテ生れですが、ガリシアに手ごろな家を見つけて、そこにブドウ園をもっている。語り部は羊飼いで、世界の終末が語られる。後の「Amanece, que no es poco」の源流なのかもしれません。1982年、フェリックス・トゥセル・ゴメスがプロデュースしたデビュー作「Pares y nones」に始り、その息子フェリックス・トゥセル・サンチェスが35年後に手掛けた、9177年のスペインを描いたSFコメディ「Tiempo después」(18)を完成させて逝ってしまいました。盟友アスコナと「最近のスペインは悪くなるばかりだな、心配だよ」と雑談してることでしょう。観る人によってベストだったりワーストだったり、映画の評価も十人十色です。

(アントニオ・レシネスとシルビア・ムント)

(中央がクエルダ監督、「Tiempo después」撮影中のクルー)
スペイン映画アカデミー名誉会長イボンヌ・ブレイク逝く ― 2018年07月20日 14:44
「Our duty」の言葉を残して、第15代映画アカデミー名誉会長ブレイク逝く

(常に笑みを絶やさなかったイボンヌ・ブレイク)
★残念なニュースですが、第15代スペイン映画アカデミー会長イボンヌ・ブレイク氏が、7月17日旅立ちました(享年78歳)。新年早々の1月3日、脳卒中でマドリードのラモン・カハル大学病院に緊急入院、以来ICUでの闘病生活を送っておりました。マンチェスター生れ(1940)ながらスペイン映画との関りは長く、4個もゴヤ賞を受賞している。国際的な服飾デザイナーとして『ニコライとアレクサンドラ』(71)でオスカー賞、『ロビンとマリリン』(76)、今は懐かしい『スーパーマン』(78)衣装の生みの親、国民映画賞受賞者、女性シネアストの地位向上など、その功績は数えきれません。生涯現役をモットーに、なり手のなかったスペイン映画アカデミー会長を引き受け、自己主張ばかり強いスペイン映画界を忍耐強く統率してきた女性だった。

(スーパーマンの衣装を着た今は亡きクリストファー・リーヴ)
★ブレイク会長を支えてきた現会長マリアノ・バロッソの回想によれば、ブレイク氏から事務所に呼ばれ「副会長就任の打診を受けたときは引き受ける気などさらさらなかった。何しろ断る理由は山ほどあったからね。ところが帰るときには何故か引き受けていたんだ。彼女は『私たちで引き受けましょう、マリアノ、そして英語でIt’s our duty』と言ったんだ」。「イボンヌは、ひたすら情熱的に良心、献身、寛容を実行した人だった。その素晴らしい才能、その視点の確実さ、微笑、ほろ苦いユーモア、常識的な考えについての機知にとんだ言葉は皆を和ませた」とバロッソ。アントニオ・レシノスとグラシア・ケレヘタが任期途中で投げ出した「スペイン映画アカデミー」という泥舟に乗らざるを得なかった経緯だった。スペイン語と込み入った話は英語で周りを説得して回った、この逞しさと優しさを兼ね備えたイギリス女性のお蔭で、シネアストのそれぞれが将来の映画について、「Our duty」とは何かについて、改めて考えることになったようだ。

(ゴヤ賞2017授賞式で挨拶するブレイク会長とバロッソ副会長)

(女性シネアストの機会均等に尽くしたブレイクと盟友アナ・ベレン)

(共にオスカー受賞者のブレイクとフェイ・ダナウェイ)

(『ロビンとマリリン』のヒロイン、オードリー・ヘプバーンの衣装を整えるブレイク)
*ブレイク名誉会長の関連記事*
*第15代映画アカデミー会長就任の記事は、コチラ⇒2016年10月29日/12月20日
*ブレイク会長緊急入院、キャリア紹介の記事は、コチラ⇒2018年01月09日
*第16代スペイン映画アカデミー執行部については、コチラ⇒2018年06月23日
脇役に徹した個性派女優テレレ・パベス逝く ― 2017年08月29日 10:46
去る8月11日、脳溢血のためマドリードのラ・パス病院で死去
★訃報記事は気が重い。特に大好きだったテレレ・パベスとなると尚更です。TVを含めると100本近くの映画に出演しておきながら、ゴヤ賞助演女優賞を受賞したのが2014年、アレックス・デ・ラ・イグレシアの『スガラムルディの魔女』(13)だった。テレレ・パベスTerele Pávez(本名Teresa Marta Ruiz Penella)は、政治家ラモン・ルイス・アロンソを父に、芸術一家だったマグダレナ・ペネリャ・シルバを母として、1939年7月29日ビルバオで生れたが、育ったのはマドリードでした。四人姉妹の末っ子、うち二人の姉エンマ・パネリャ(1931~2007)とエリサ・モンテス(1934)も女優。姉たちの影響で女優の道に進み、3人揃って出演した映画が1作だけあるようだ。女優エンマ・オソレス(エリサの娘)の叔母にあたる。


★1973年、編集者ホセ・ベニト・アリケ(2008年没)との間に息子が誕生したが、テレレは父子の認知を望まず、シングル・マザーの道を選んで、自分の父姓ルイスを取ってカロロ・ルイスCarolo Ruiz とした。母子関係はいつも良好とは言えなかったそうだが、没後カロロは涙の会見をした。同年生れのピラール・バルデムと共に、女性シネアストの地位向上にも尽力したテレレ・パベスだったが、去る8月11日、脳溢血のためマドリードのラ・パス病院で死去、8月13日、遺体はエル・エスコリアルの火葬場で荼毘に付された。写真下はマドリードのホテル・リッツで行われたゴヤ賞2017の前夜祭のような会合に出席した母子、彼女はマリナ・セレセスキーの “La puerta abierta” で6度目の助演女優賞にノミネートされていた。

(息子カロロ・ルイスに寄り添うテレレ・パベス、2017年1月)
★60年に及ぶ長い女優人生だったが、一度も主役を演じたことがなかった。しかし20世紀スペインでもっとも愛され尊敬された監督と称されたガルシア・ベルランガ、『無垢なる聖者』のマリオ・カムス、『セレスティーナ』のヘラルド・ベラ、ビセンテ・アランダ、ビガス・ルナ、そして1995年のホラー・コメディ『ビースト 獣の日』出演以来、アレックス・デ・ラ・イグレシアのお気に入りとなった。映画デビューはガルシア・ベルランガ(1921~2010)の辛口コメディ“Novio a la vista”(1954「一見、恋人」仮題)、1959年、ベルランガがプロデュースして、ヘスス・フランコが監督したコメディ “Tenemos 18 años” に姉エリサの夫になるアントニオ・アロンソなどと共演した。その他マヌエル・バスケス・モンタルバンの陰謀小説を映画化したビガス・ルナの “Tatuaje”(1979「刺青」仮題)などがある。

(左から、パコ・ラバル、テレレ・パベス、アルフレッド・ランダ、『無垢なる聖者』から)
★出演作で一番評価が高いのが、マリオ・カムスの『無垢なる聖者』(“Los santos inocentes”1984)、アルフレッド・ランダが演じた主人公の妻レグラに扮した。ミゲル・デリーベスの同名小説の映画化、1960年代のスペイン農民のレクイエムです。これは20世紀スペイン映画史に残る名画、パベスの最高傑作と言ってもいいでしょう。残念ながらまだゴヤ賞は始まっていませんでした。アンヘラ・モリーナやフアン・ディエゴと共演したゴンサロ・エラルデの “Laura, del cielo llega la noche”(1987)で第2回目のゴヤ賞に初ノミネート、翌年も続いてノミネートされたが受賞できなかった。ビセンテ・アランダの「エル・ルーテ」の続編、”El Lute II: mañana seré libre”(1988)に起用された。

(演技が絶賛された『セレスティーナ』から)
★そのほかゴヤ賞関連では、ヘラルド・ベラの『セレスティーナ』(96)の演技が認められてゴヤ賞確実と言われながらノミネーションさえされなかった。しかし1997年サン・ジョルディ賞を受賞した。3回目のノミネーションがアレックス・デ・ラ・イグレシアの『13みんなのしあわせ』(00)だが、カルメン・マウラが主演、エミリオ・グティエレス・カバが助演を受賞したものの、テレレは受賞できなかった。4回目の『気狂いピエロの決闘』も空振り、アレックス映画のマスコット的女優となった『スガラムルディの魔女』(13)で宿願を果たした。カルメン・マウラ扮する人食い魔女のリーダーの母親マリチェを怪演した。これは「三度目の正直」ではなく「五度目」でした。今年2017もマリナ・セレセスキーの “La puerta abierta”(16)で認知症の母親役を演じて6度目のノミネーションを受けた。ゴヤ賞ノミネーションはすべて助演女優賞です。

(魔女マリチェに扮した『スガラムルディの魔女』から)

(涙、涙のゴヤ賞2014助演女優賞の授賞式にて)
★アッレクス・デ・ラ・イグレシアがゴヤ賞1996監督賞を受賞した『ビースト、獣の日』に初出演したあとも、上記以外に『マカロニ・ウエスタン800発の銃弾』(02)『グラン・ノーチェ!最高の大晦日』(15)『クローズド・バル』(17)などに起用されている。

(左から、カロリナ・バング、カルメン・マウラ、デ・ラ・イグレシア、テレレ・パベス)
★テレレ・パベスを理解するのに避けて通れないのが父ラモン・ルイス・アロンソとの関係である。父はガルシア・ロルカ殺害に深く関与したことで告発され、テレレや姉二人ともにその重荷を背負って生きてきた。父親は内戦勃発の1936年、ヒル・ロブレス率いるスペイン独立右翼連合CEDA所属の元国会議員としてグラナダでは有名だった。アカ嫌いのルイス・アロンソは、グラナダのファランヘ党のリーダーとして幅を利かせていたという。ロルカ逮捕には関与したが、8月18日のロルカ銃殺には立ちあっていなかった。ダブリン出身だが1978年からスペインに移り住み国籍まで取った、ロルカ研究の第一人者イアン・ギブソンの著書に、逮捕の経過が詳細に書かれている*。こういう事情を知らなかった若い舞台演出家が「ベルナルダ・アルバの家」のオファーをしたことがあったようです。時とともに内戦の悲劇も風化していくということでしょうか。
*Federico García Lorca: A Life, ロンドン、Faber and Faber, 1989(1997年に翻訳書が出版)
★三人姉妹は集団的敵意の重圧に苦しみ、一時期父姓のルイスを省いていた。親の負債を子供がどれだけ負うべきかという是非はともかく、充分苦しんだという。私たち三人姉妹は「父親を恥じてRuizを省いていたが、もうすんだこと、父親としてはいい人だったのよ」とテレレは語っていたそうです。父親はフランコ総統が1975年12月に亡くなり後ろ盾を失ったことで不安を感じ、ラスベガスに移住していた三女マリア・フリア(1937~2017)を頼って数週間後にはアメリカに渡り、3年後の1978年に死去した。
★テレレを陶片追放から救い出してくれたのがデ・ラ・イグレシアだった。周囲の重圧をはねのける真摯な態度、傷つきやすさ、誠実さ、誰にも真似できない強烈な個性、それは彼女自身が編み出した演技だった。割り当てられた人物になりきる能力がずば抜けていた。「泣くべき時に泣き、どんな状況にも対応できた。モンスターだったよ」と『セレスティーナ』のベラ監督。トレードマークのような大胆なマスカラをつけ、しわがれ声をあちらで響かせていることだろう。
*“Novio a la vista”の記事は、コチラ⇒2015年6月21日
*『無垢なる聖者』の記事は、コチラ⇒2014年3月10日・11日
*『スガラムルディの魔女』の記事は、コチラ⇒2014年10月18日
* “La puerta abierta” の記事は、コチラ⇒2017年1月12日
*ガルシア・ロルカの死についての記事は、コチラ⇒2015年9月11日
「アディオス」、チュス・ランプレアベ、そして「グラシアス」 ― 2016年04月08日 13:57
スペイン映画の象徴的な顔、チュス・ランプレアベ逝く
★だいぶ前から生れ故郷アルメリアの自宅に閉じこもっていたというチュス・ランプレアベの訃報が、4月4日に知らされました。85歳の旅立ちでした。目が悪く日常は牛乳びんの底のような強度の眼鏡をかけていた。マルコ・フェレーリの“El pisito”(1958、「小さなアパート」)で映画デビュー、続いて“El cochecito”(60、「電動車椅子」)、そしてルイス・ガルシア・ベルランガとの出会い、彼の社会批判をブラックユーモアで包んだ象徴的なコメディ“El verdugo”(63.「死刑執行人」)に出演、「ナショナル三部作」といわれる全3作に起用された。スペインでもっとも愛された監督と言われながらも映画祭上映だけに終わったベルランガに、その類まれな知的ユーモアのセンス、独特な甲高い声、誰かと混同することのない強烈な個性、少しずれたおかしみによって気に入られた。フェレーリ、ベルランガ、トゥルエバと脚本でタッグを組んだ、女嫌いと言われたラファエル・アスコナのお気に入りでもあった。あちらで旧交を温めていることだろう。

(眼鏡をかけていないチュス・ランプレアベ、1989年)
★女優になりたかったわけではないのに女優になってしまった。マリア・ヘスス・ランプレアベ・ペレス、Chusチュスは愛称、1930年12月11日アルメリア生れ、女優。脇役に徹し、出演本数70本は60年の映画人生で多いのか少ないのか、どっちだろうか。ガルシア・ベルランガ、ハイメ・デ・アルミニャン、アルモドバル、フェルナンド・トゥルエバ、フェルナンド・コロモ、サンティアゴ・セグラなどなど、実力派の監督たちに愛された。画家を目指してマドリードの「サン・フェルナンド美術アカデミー」に20歳のとき入学した。ビクトル・エリセのドキュメンタリー『マルメロの陽光』の画家アントニオ・ロペスとも或る期間同じ空気を吸っていた名門美術学校です。卒後出版社アギラルでイラストレーターとして働いていた。その後、映画学校の監督特別コースに入学、そこで多くのシネアストの友人たちができ、なかにハイメ・デ・アルミニャンがいた。彼を介して1958年テレビ出演、同年マルコ・フェレーリの“El pisito”でデビューした。後にデ・アルミニャンの“Mi querida señorita”(1971「我が愛しのセニョリータ」)に出演している。
★「アルモドバルの娘たち」の一人、しかし彼のデビュー作『ペピ、ルシ、ボンとその他大勢の女の子たち』、第2作『情熱の迷宮』はオファーを断っている。初参加は1983年の『バチ当たり修道院の最期』から、『グロリアの憂鬱』、『マタドール』、1988年の『神経衰弱ぎりぎりの女たち』で一区切りする。フェルナンド・コロモ、ホセ・ルイス・クエルダ、F・トゥルエバなどを挟んで、1995年の『私の秘密の花』、『トーク・トゥ・ハー』、『ボルベール〈帰郷〉』、最後が『抱擁のかけら』(2009)合計8作でした。『ボルベール』でカンヌ映画祭2006の最優秀女優賞にカルメン・マウラやペネロペ・クルスなど6人で受賞した。その他、俳優組合賞助演女優賞を受賞、ゴヤ賞は『私の秘密の花』でノミネーションを受けている。

(ロッシ・デ・パルマとチュス、電話の相手は娘役のマリサ・パレデス、『私の秘密の花』)
★アルモドバルによると、「しばしば起こったことなのだが、自分にふさわしい役柄に出会えないときには悔しがった」、そういう意味では「アルモドバルの正真正銘の娘」として評価できるというわけです。「アルモドバルの娘たち」のなかでも、ロッシ・デ・パルマとチュスは、その異色さにおいて双璧をなす。前者は本日封切られる“Julieta”に出演している。

(女優6人がカンヌ映画祭女優賞を受賞した『ボルベール』から)
★フェルナンド・トゥルエバとの出会いは、彼のヒット作となった4作目“Sé infiel y no mires con quién”(1985「他人を気にせず浮気なさい」)、翌年の『目覚めの年』、そしてオスカー賞を受賞した『ベルエポック』に、マリベル・ベルドゥの婚約者ガビーノ・ディエゴの母親役で出演、ゴヤ賞1993助演女優賞を受賞した。ノミネーション4度目の実に60歳を超えての初受賞だった。結局これ1個にとどまった。そしてトゥルエバが初来日したことでも話題になった『ふたりのアトリエ~ある彫刻家とモデル』(2012)の家政婦役、これがトゥルエバ作品の最後となってしまった。「人格者というのでも、女優というのでもなかったが、ただそこにいるだけでよかった。彼女の中にはなにか小天使のような雰囲気があった」「他の誰とも似ていない女優だった」とトゥルエバ監督。

(首吊り自殺をする神父役アグスティン・ゴンサレスとチュス、『ベルエポック』から)
★テレビドラマには出演しておりましたが、長編映画としてはサンティアゴ・セグラのトレンテ・シリーズ第5弾『Torrente 5: Operación Eurovegas』(2014)が最後の出演となりました。だいぶ痩せた印象を受けますね。第1作“Torrente, el brazo tonto de la ley”(1998)にも出演した。いささか下品だとゲイジュツ映画ファンには不人気だったが、戯画化された人格造形の上手さにセグラの才能を感じさせるブラックコメディでした。結局シリーズ化され、毎回トレンテ・ファンを喜ばせている。

(最後の出演となったサンティアゴ・セグラの「トレンテ 5」から)
★こうして振り返ってみるとノミネーションはかなりあるが受賞歴は少ない印象を受けます。2005年、フォトグラマス・デ・プラタを受賞している。アルモドバルの『グロリアの憂鬱』、『マタドール』、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』、トゥルエバの『目覚めの年』などでノミネートされたが受賞にはならなかった。だから2005年の受賞はいわば栄誉賞のようなもので全作品に対して贈られた。トロフィーは長年の盟友カルメン・マウラから手渡された。

(プレゼンターのカルメン・マウラとチュス、フォトグラマス・デ・プラタを受賞、2005年)
★『ベルエポック』で共演したフェルナンド・フェルナン=ゴメスも逝き、同い年のアグスティン・ゴンサレスも既に10年ほど前に旅立ってしまった。チュス・ランプレアベ、画家にならなくて本当によかった。楽しい映画をたくさんありがとう。
『アマンテス/ 愛人』 のビセンテ・アランダ逝く ― 2015年06月06日 23:01
パションを介して愛と性と死を描いて社会のタブーに挑んだ
★アランダが死んでしまった。訃報は気が重くて書きたくないが、ガルシア・ベルランガの次くらいに好きな監督だった。二人の共通点は、フランコ時代に思いっきり検閲を受けたことぐらいか。もう1週間以上も経つのに「もう新作は見られない」と拘っている。大分前から映画は撮っていなかったのに不思議な気がする(2009年の“Luna caliente”が遺作)。デビュー作“Brillante porvenir”(1964)が38歳と同世代の監督に比して遅かったので、88歳になっていたなんて驚いてしまった。改めてフィルモグラフィーを調べたら27作もあり、フィルムで撮っていたことを考慮すると寡作というほどではないかもしれない。日本で公開された映画は4作だけだが、映画祭上映やビデオ発売はセックスがらみで結構多いほうかもしれない*。

*公開作品リスト、ほか
1988年11月公開『ファニー 紫の血の女』1984“Fanny Pelopaja” フィルム・ノアール
1994年2月公開『アマンテス / 愛人』1991“Amantes”ビデオ
2004年3月公開『女王フアナ』2001“Juana la Loca”DVD
2004年3月公開『カルメン』2003“Carmen”DVD
◎映画祭上映及びビデオ発売(未公開)作品製作順
1972『鮮血の花嫁』“La novia ensangrentada”ゴシック・ホラー 原作『カーミラ』ビデオ
アイルランドのシェリダン・レ・ファニュ(1814~73)の怪奇小説の映画化
1977『セックス・チェンジ』“Cambio de sexo” 東京国際レズ&ゲイ映画祭1999上映、ビデオ
1989『ボルテージ』“Si te dicen que caí”原作フアン・マルセ、ビデオ発売1998年
1993『危険な欲望』“Intruso”ビデオ発売2001年
1994『悦楽の果て』“La pasión turca” 原作アントニオ・ガラ、 ビデオ発売1998年
1996『リベルタリアス―自由への道』“Libertarias”東京国際映画祭1996上映、審査員特別賞
1998『セクシャリティーズ』“La mirada del otro”原作フェルナンデス・G・デルガド、ビデオ
★ビセンテ・アランダVicente Aranda Ezquerra 1926年11月9日、バルセロナ生れの監督、脚本家(5月26日マドリードの自宅で死去)。7歳のときカメラマンだった父親が死去、家計を助けるため中学生の頃から働きはじめ、学校は義務教育止まりだった。一家がスペイン内戦で負け組共和派に与していたことも人生の出発には不利だった。経済的政治的な理由から、1949年ベネズエラで情報処理の分野で働くため生れ故郷を後にした。アメリカの総合情報システム会社、後には現在のNCRコーポレーションで中心的な役職についたが、1956年、映画の仕事への執着やみがたく帰国する。しかし学歴不足で希望していたマドリードの国立映画研究所入学を拒絶され、バルセロナに戻って独学で映画を学んだ(ベネズエラ移住期間1952~59年など若干の異同はありますが、英語版ウィキペディアを翻訳したと思われる日本語版があります。スペイン語版はごく簡単な作品紹介にとどめ、デビュー前の記載はありません)。
「アランダはヒッチコックの足元にも及ばなかった」とフアン・マルセ
★デビュー作“Brillante
porvenir”から遺作の“Luna caliente”にいたるまで執拗と言えるほど同じテーマ、つまりパションを介して≪España negra≫の性愛と死の現実を風刺的でビターな語り口で明快に描き続けた。多くの作品が小説を題材に、または実際に起きた犯罪事件に着想を得て映画化されたが、そのことが物議をかもすことにもなった。フアン・マルセの小説を上記の『ボルテージ』を含めると4作撮っている。作家はどれも気に入らず、「アランダはヒッチコックじゃなかった、彼の足元にも及ばなかった」と不満をぶちまけた。監督も負けてはおらず、「マルセも所詮、ギュスターヴ・フローベールじゃなかった」と応酬した。後で仲直りしたから(笑)、ちょっとした子供の口ゲンカなんでしょうね。
★しかし本気で怒った作家もいた。『悦楽の果て』の邦題でビデオが発売された“La pasión turca”のアントニオ・ガラ、処女小説“El manuscrito carmesí”が『さらば、アルハンブラ、深紅の手稿』として翻訳書が出ている。原作を読んでいないから分からないが、原作とは凡そかけ離れているんだと思う。映画の結末には2通りあって、なんとなく作家の怒る理由が想像できる。個人的には小説と映画はそれぞれ独立した別の作品だから、映画化を許可した時点で我が子とはサヨナラするべき、だって小説の筋をなぞる映画など見たくもないからね。主演のアナ・ベレンの妖しい美しさを引き出しており、女優を輝かせるベテランであった。ビクトリア・アブリルは言うに及ばず、『セクシャリティーズ』のラウラ・モランテ、『ファニー 紫の血の女』のファニー・コタンソンなどにも同じことが言える。

(“La pasión turca”のアナ・ベレン)
★第1作“Brillante
porvenir”はF・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、第2作“Fata Morgana”(65)はゴンサロ・スアレス、“La muchacha de las bragas de
oro”(80)はフアン・マルセ、“Asesinato en el Comité Central”(82)はマヌエル・バスケス・モンタルバン、『ファニー 紫の血の女』(84)はアンドルー・マルタン、“Tiempo de silencio”(86)はヘスス・フェルナンデス・サントスなどなど。
★晩年の“Tirante
el Blanco”(06)はジョアノ・マルトレルの “Tirant lo Blanc”、『ドン・キホーテ』より先にカタルーニャ語で書かれたスペイン古典中の古典、セルバンテスが大笑いしたという騎士道物語の映画化だった。これは製作費約1400万ユーロをつぎ込んだわりに評判が悪く、しかしアランダが“Tirant lo Blanc”を撮るとこうなるんだ、という映画だった。『カタルーニャ語辞典』の著者、田沢耕氏が講演会で「この監督は何という人ですか、ひどすぎます!」とマルトレルにかわって憤慨しておられたが、小説と映画は別物なんです(笑)。撮影にホセ・ルイス・アルカイネ、音楽にホセ・ニエト、キャストにエスター・ヌビオラ、ビクトリア・アブリル、レオノル・ワトリング、イングリッド・ルビオ、などを揃えた豪華版だった。

(左から、ワトリング、ヌビオラ、ルビオ “Tirante el Blanco”)
『アマンテス /
愛人』のテーマは内戦後と愛の物語
★実際に起きた事件に着想を得て映画化された代表作が『アマンテス / 愛人』、『セックス・チェンジ』以来、アランダのミューズとなったビクトリア・アブリル、まだ初々しかったホルヘ・サンスとマリベル・ベルドゥの3人が繰りひろげる愛憎劇。アランダはエロティシズムとやり切れない内戦後に拘った。その二つをテーマに選んだのが本作。舞台背景は内戦後の1955年、しかし主要テーマは性と愛と死、だから今日でも起こりうる物語といえる。

(アランダとアブリル、『アマンテス / 愛人』撮影のころ)
★この作品はゴヤ賞1992の作品賞と監督賞を受賞している。他にノミネートこそあれ受賞はこれだけ。アカデミー会員はマドリードに多いから、どうしてもバルセロナ派は不利になる。またベルリン映画祭1991でアブリルが主演女優賞を受賞、アランダの名前を国際的にも高めた作品といえる。最後の雪が舞うブルゴスのカテドラルを前にしたサンスとベルドゥのシーンは忘れ難い。ろくでもない不実な男に一途な愛を捧げる娘のひたむきさ、二人のクローズアップからロングショットへの切り替えの巧みさなど名場面の連続だった。

★<エル・ルーテ>と呼ばれた実在の犯罪者エレウテリオ・サンチェスの自伝にインスパイアーされて撮ったのが“El Lute”(87)と“El Lute Ⅱ,mañana
seré libre”(88)。収監中に勉強して弁護士になったエル・ルーテにイマノル・アリアス、その妻にビクトリア・アブリルが扮した。

(アリアスとアブリル、“El Lute”)
なりたかったのは作家、小説の映画化に拘った
★デビュー作“Brillante porvenir”を共同監督した友人で作家のロマン・グベルンが「エル・パイス」紙に寄せた追悼文によると、アランダは「本当は監督じゃなく作家になりたかった」が物書きとしては芽が出ず映画監督に方針を変えた。グベルンは「本当は監督になりたかったが監督になれず作家になった」。「これは何というパラドックスだ」とアランダが叫んだそうです。
★プレス会見でもあまり胸襟を開かないと言われた監督だが、それは映画が語っているから充分と考えていたのではないか。愛の混乱と曖昧さ、愛と性は爆弾のようなもの、幸せになれない登場人物たち、性愛の解放を描いて社会のタブーに挑んだ監督だったと思う。グベルンによると、バルセロナ派の監督なのにマドリードに住んでいたのは、バルセロナ派との関係が必ずしも良好ではなかったからで、それは彼がカタルーニャ語で撮らないことも一因だったという。アランダはそういう狭量な仲間意識を嫌っていたのではないか。「高校に行くことができなかった青年は優れた観察力をもっていた。神々は運命が計り知れないことを御存じだったのだ」と温かい言葉で追悼文を締め括っている。
マノエル・ド(デ)・オリヴェイラ逝去*現役監督106歳 ― 2015年04月07日 16:15
「引退と死は同時だよ・・・」
★「・・撮りたい映画が頭の中に山ほどあるから」と生前語っていたように、望み通り「引退と死」は同時でしたでしょうか。去る4月2日の朝、ポルトの自宅で死去したことが親族からメディアに知らされました。1908年12月11日ポルトガルの第二の港町ポルト生れだから、1世紀を優に超える実に長い人生でした。同じ年代生れの監督としては、ジャック・タチ、ロッセリーニ、オットー・プレミンジャー、ロベール・ブレッソン・・・勿論全員アチラに集合しておりますね。10歳年下の夫人マリア・イザベルさんはご健在です。杖をついた写真が多いが、実際に使用したのは最後の数ヵ月だったらしく<伊達ステッキ>でした。授賞式でもトントンと壇上に駆けあがっていました。

(<伊達ステッキ>だった頃のオリヴェイラ、ポルトの自宅にて、2009年12月)
★一族は裕福なブルジョア階級で、父親は電球製造工場などを経営する実業家だった。1919年から兄と一緒に北スペインのガリシア(ポンテベドラ)にあるイエズス会の学校で4年ほど学んでいる(マノエルは三男)。読書や幾何学が好きだったが、映画に夢中になるのに時間は掛からなかったという。最初の長編となる『アニキ≂ボボ』(1942、モノクロ)は戦中のこともあり興行成績は惨敗、一部の批評家にしか受け入れられなかった。こんな映画を作れる監督は、ポルトガルでは前にも後にも現れませんでした。再評価までには10年以上待たねばならなかった。以後14年間映画界を離れて家業に就いていた。長い人生といっても本格的に長編を撮り始めたのは60歳を過ぎた1970年代から、特に『過去と現在―昔の恋、今の恋』(1972)が注目を集めてからでした。

(スポーツマンだった頃の監督、オート・レースに出場、28歳)
★国際スターを起用した最初の映画『メフィストの誘い』(1995)は劇場公開されましたが、彼の代表作というわけではない。しかしポルトガルの俳優にとって、特に若いレオノール・シルヴェイラ(ピエダード)にとって、カトリーヌ・ドヌーヴ(エレーヌ)やジョン・マルコヴィッチのような大スターとの共演は大きなチャンスであったろう。エレーヌとピエダードは結局同一人物なのであるが、二人の女優が同一人物を演じるわけではない。ブニュエル的ではあるが二人の女優が一人の女性を演じた『欲望のあいまいな対象』(1977)とは異なる。オリヴェイラはかつて「私はブニュエルのようなものです。・・・カトリシズム抜きではブニュエル映画は存在しないだろう」と語っていますが、怖れ、罪、性は共通のテーマでしょうか。ルイス・ブニュエルの『昼顔』(1966)の後日談として撮ったゴージャスな『夜顔』(2006)を捧げている。

(カトリーヌ・ドヌーヴとルイス・ミゲル・シントラ、『メフィストの誘い』から)
★最後となった短編“O Velho do Restelo”(2014、仮題「レステロの老人」)は、ヴェネチア映画祭で上映されました。オリヴェイラ映画には欠かせないルイス・ミゲル・シントラや孫のリカルド・トレパ(『家宝』『夜顔』など)が出演しています。ヴェネチアやカンヌなど国際映画祭で高く評価されようが、「カイエ・デュ・シネマ」のアンドレ・バザンがいくら褒めようが、ポルトガル人は彼の作品を観に映画館まで足を運ばない。謎を含んだまま不可解な結末を迎える映画は単純に楽しめないからです。1974年の「カーネーション革命」を感動的に描いたマリア・デ・メデイロスの『四月の大尉たち』(“Capitaes de abril”の直訳)は国民の8割が見たという(!?)。まあ、オリヴェイラも国民のために映画を撮っていたわけではないからおあいこですが。海の向こうの遠い日本でDVD-BOX(23枚組)が発売されていると知ったら、16世紀半ばに「日本発見」(種子島への鉄砲伝来のこと)をした国民はさぞかし驚くことでしょう(笑)。

(ビュル・オジエ、監督、ミシェル・ピコリの三老人、『夜顔』の撮影)
★「・・・撮りたい映画が頭の中に山ほどあるが、さて、すべてを完成させるまで寿命が持つかどうかは分からない」、最期の時になれば(expiración) 悪事は消え去り、贖罪(expiación) が存在するだけだから、「息を引き取るとき結局、私のすべての悪事も終るでしょう」。
『ビースト 獣の日』アンヘル神父アレックス・アングロ逝く ― 2014年07月21日 22:34
アレックス・アングロ逝く
★以前、管理人がよくお邪魔していたブログCabinaさんから「アレックス・アングロ急死」の訃報が届きました。 7月20日午後15:30(現地時間)、リオハの国道で交通事故に遭遇して亡くなった。ハンドルを握っていたのはご自身らしい。アレックス・デ・ラ・イグレシアの作品で日本のファンにもお馴染みでした。名脇役者として新旧の監督に起用されたことは、公開未公開も含めて指折り数えたら結構な数になったことでも分かります。ここに哀悼の意をこめて急遽UPすることに致します。訃報を聞いた「ビースト 獣の日」の監督アレックス・デ・ラ・イグレシアは、一言「神さま・・」と絶句したと。本当に人生は儚いものです。

(彼の誠実な人柄が知れるいい写真です)
★以下は劇場公開・映画祭上映・DVDなど(製作順):
①1992 「ハイルミュタンテ!電撃XX作戦」 アレックス・デ・ラ・イグレシア 公開1994
②1994 「わが生涯最悪の年」 エミリオ・マルティネス・ラサロ スペイン映画祭1997
③1995 「ビースト 獣の日」 アレックス・デ・ラ・イグレシア 公開1995
④1996 「17歳」 アルバロ・フェルナンデス・アルメロ 未公開・ビデオ・テレビ放映
⑤1997 「ライブ・フレッシュ」 ペドロ・アルモドバル スペイン映画祭1998上映 公開1998
⑥1999 「どつかれてアンダルシア」 アレックス・デ・ラ・イグレシア 公開2001
⑦2001 「マイ・マザー・ライクス・ウーマン」 ダニエラ・フェヘルマン&イネス・パリス
東京国際レズ&ゲイ映画祭2003/第1回ラテンビート2004上映
⑧2006 「パンズ・ラビリンス」 ギジェルモ・デル・トロ 公開2007
★漏れがあるかもしれませんが、チョイ役も含めて結構あります。なかでも多くのファンの記憶に残るのは「ビースト 獣の日」のアンヘル神父ですね。珍しく主役でゴヤ賞1996ベスト男優主演賞ノミネート、オンダス賞とスペイン俳優組合賞の二つで受賞しました。ゴヤ賞がらみでいうと、「どつかれてアンダルシア」、未公開作品オスカル・アルバルの“El Gran Vázquez”(2010)で助演男優賞にノミネートされました。残念ながらゴヤ賞は受賞歴なしです。

(「ビースト 獣の日」共演のアルマンド・デ・ラッツァとサンティアゴ・セグラに挟まれて)
★日本でもロングランになった「パンズ・ラビリンス」では、ゲリラ側にたつ医師に扮し、それが発覚して卑怯にも背後から撃たれて死ぬ役でした。本作についてはカビナさんが詳しい紹介をしております。他にも「マイ・マザー・ライクス・ウーマン」、“El Gran Vázquez”なども。前2作については、管理人も本ブログと同じハンドルネームでコメントしています。
*キャリア紹介*
★アレックス・アングロ Alejandro ≪Alex≫ Angulo Leon :1953年4月12日、ビスカヤ県のエランディオErandio 生れ、俳優、2014年7月20日死去、享年61歳。最初は教職を目指していたが、23歳のとき自分のやりたいことは演技者と気づき進路変更を決意した。舞台俳優から映画、テレビと活躍の場を広げ、トータルで短編、テレビを含めると90作以上になる。映画はバスク映画界を牽引してきたイマノル・ウリベのETA三部作“La fuga de Segovia”(1981未公開)でデビュー、実話に基づくドキュメンタリー手法で撮られた力作です。
★アングロの人柄は、不屈、誠実、礼儀正しい教養人と、映画の登場人物に似ていて、悪口は聞こえてきませんでした。映画をご覧になった方は異を唱えないと思います。長寿テレドラ・シリーズ“Periodistas”の共演者ホセ・コロナドも「彼ほど大きな心をもった人を知らない・・・友よ、安らかに」とコメントを寄せています。コロナドはエンリケ・ウルビスの『悪人に平穏なし』(2011)の主役になった俳優、アングロは出演しませんでしたが、ウルビスの初期のコメディ“Tu novia está loca”(1988)、“Todo por la pasta”(1990)に出演していました。本ブログでご紹介したことがあります⇒コチラ。
★纏まらない記事ですが、取りあえずUPしておきます。これからなのに、本当に残念です。
ガボと映画、さよなら、ガルシア・マルケス ― 2014年04月27日 08:25
★ガボはガブリエルの愛称だから世界にはごまんといるはずだが、ラテンアメリカでガボと言えばガルシア・マルケスとイコールです。三度の飯より権力が好きだったノーベル賞作家が旅立ちました。今年はオクタビオ・パスとフリオ・コルタサルの生誕100年の年、沢山の催し物を期待しておりますが、それにガボも加わることでしょう。

★未刊の中編小説“En agosto
nos vemos”刊行の噂もあり(遺族の意向次第、未完なのかもしれない)、しばらく話題提供が続きますね。28年間欠かさず8月16日に母親の墓参をしている女性の話、そこからタイトルがとられた。「また八月にお会いしましょう」という意味。今年のハバナ映画祭(12月)ではガルシア・マルケス特集が組まれるらしく、どんな作品が上映されるのか、アルフレッド・ゲバラも既に鬼籍入り、今度は盟友も後を追ってしまい、今後ハバナ映画祭は何処へ向かうのでしょうか。
★作家の映画脚本家としてのキャリアは長い。IMDbによれば51作品ありますが、短編、テレビやドキュメンタリーも含めており、それらを除いても30作を超えます。さらに原作、原案、セグメントだけだったりするから作家が全てにコミットしているわけではないようです。日本のデータでは発売中のDVDのリストはあっても全体を見渡せるものは(あるのかもしれないが)検索できなかった。以下はIMDbをたたき台にして管理人が作成したものです。劇場未公開ながら邦題を入れたのは原作のタイトルを借用しています(例:『わが悲しき娼婦たちの思い出』など)。また公開された映画については簡単に引き出せますからデータのみに致します。
*主なフィルモグラフィー*
2011 Memoria de mis putas tristes(原作『わが悲しき娼婦たちの思い出』)
これについては既にアップ済み。コチラ⇒2014年01月23日
2011 Lecciones para un beso (共同脚本「キスのレッスン」)
監督:フアン・パブロ・ブスタマンテ/コロンビア/撮影:カルタヘナ
2009 Del amor y otros demonios (原作『愛その他の悪霊について』)
監督:イルダ・イダルゴ/コスタリカ・コロンビア
2007 Love in the Time of Cholera (原作『コレラの時代の愛』) 公開2008年
監督:マイク・ニューウェル/米国/言語:英語
2006 O Veneno da Madrugada (原作La mala hora『悪い時』)
監督:ルイ・ゲーラ/ブラジル・アルゼンチン・ポルトガル/言語:ポルトガル語・西
撮影:ブエノスアイレス
2001 Los niños invisibles(共同脚本『透明になった子供たち』)
セルバンテス文化センター上映
監督・脚本:リサンドロ・ドゥケ・ナランホ/ベネズエラ・コロンビア/撮影:コロンビア
1999 El coronel no tiene quien le escriba (原作『大佐に手紙は来ない』)公開
監督:アルトゥーロ・リプスタイン/ 製作:ホルヘ・サンチェス他 /メキシコ・仏・西
1996 Oedipo alcalde (共同脚本『コロンビアのオイディプス』)
「キューバ映画祭2009」上映
監督:ホルヘ・アリ・トリアナ/コロンビア・西・メキシコ・キューバ
1994 Eyes of a Blue Dog (原案『青い犬の目』)
監督:表記なし/米国/言語:英語
1992 Mkholod sikvdili
modis autsileblad (原作 英題“Only
Death Is Bound to come”)
監督:Marina Tsurtsumia /グルジア・ロシア 言語:グルジア語・ロシア語
1989 Milagro en Roma (脚本『ローマの奇跡』) 公開1991年
「愛の不条理シリーズ」より 監督:リサンドロ・ドゥケ・ナランホ/コロンビア・西
1989 Cartas del parque (脚本 / 原案『公園からの手紙』) 公開1991年
「愛の不条理シリーズ」より 監督:トマス・グティエレス・アレア/キューバ・西
1988 Un señor muy viejo con unas alas enormes
(共同脚本『大きな翼を持った老人』)
「愛の不条理シリーズ」より 監督:フェルナンド・ビリ/キューバ・伊・西、公開1990年
1988 Fábula de la Bella Palomera (脚本『美女と鶏の寓話』)
「愛の不条理シリーズ」より 監督:ルイ・ゲーラ/ブラジル・西
1987 Cronaca di una morte annunciata (原作『予告された殺人の記録』)公開1988年
監督:フランチェスコ・ロージ/伊・仏、言語:イタリア語
1986 Tiempo de morir (脚本『死の時』/ダイアローグ:カルロス・フエンテス)
監督:ホルヘ・アリ・トリアナ/コロンビア・キューバ
1984 『さらば箱舟』(原作『百年の孤独』/ 脚本:監督・岸田理生) 公開1984年
監督:寺山修司 /日本/言語:日本語
1983 Eréndira (原作/ 脚本 『エレンディラ』) 公開1984年
監督:ルイ・ゲーラ/仏・メキシコ・西独 モノクロ
1979 El año de la peste (共同脚本:フアン・アルトゥーロ・ブレナン「ペストの年」)
監督:フェリペ・カサルス /メキシコ /ダイアローグ:ホセ・アグスティン
1980年アリエル賞(監督賞)・脚本賞受賞、同年メキシコ・ジャーナリスト・シネマ賞
(銀賞)を受賞。ガルシア・マルケスが関わった映画では唯一の受賞作。
1979 María de mi corazón (脚本/原案「わが心のマリア」)
監督・脚本:ハイメ・ウンベルト・エルモシーリョ /メキシコ
1979 La viuda de Montiel (原作『モンティエルの未亡人』)
監督・脚本:ミゲル・リッテン/共同脚本:ホセ・アグスティン/メキシコ・コロンビア・ベネズエラ・キューバ / ジュラルディン・チャップリン主演
1975 Presagio (共同脚本「前兆」)
監督・脚本:ルイス・アルコリサ /メキシコ
1969 Patsy, mi amor (原案「愛しのパッツィー」)
監督・脚本・ダイアローグ:マヌエル・ミチェレ/メキシコ/オフェリア・メディーナ主演
1968 4 contra el crimen (共同脚本:アルフレド・ルアノバ「犯罪に立ち向かう四人)
監督:セルヒオ・ベハル /原案:フェルナンド・ガリアナ /メキシコ
1967 Juego peligroso (セグメント "HO"、他ルイス・アルコリサ、
フェルナンド・ガリアナ)
監督:ルイス・アルコリサ、アルトゥーロ・リプスティン /メキシコ/
シルビア・ピナル主演
1966 Tiempo de morir (脚本『死の時』/ダイアローグ:カルロス・フエンテス)
監督:アルトゥーロ・リプスティン/メキシコ/モノクロ
1965 Amor amor amor (脚色/ セグメント "Lola de mi vida")
監督:ベニト・アラスラキ、ミゲル・バルバチャノ=ポンセ他 /メキシコ
1965 En este pueblo no hay ladrones (原案『この村に泥棒はいない』)
監督・脚本:アルベルト・イサーク/脚本:エミリオ・ガルシア・リエラ他 /メキシコ
/モノクロ
1965 Lola de mi vida (脚色 / 脚本『愛しのローラ』)
監督:ミゲル・バルバチャノ=ポンセ /メキシコ
1964 El gallo de oro (共同脚本『黄金の雄鶏』 原案:フアン・ルルフォ)
監督・脚本:ロベルト・ガバルドン / 共同脚本:カルロス・フエンテス
1954 La langosta azul (共同監督、脚本、短編)
短編は除外しましたが、本作は唯一の監督作品ということでリストに入れました。
★ El gallo de
oro(1964)は、後にアルトゥーロ・リプスタインが“El imperio de la fortuna”のタイトルで同じフアン・ルルフォの短編を原案にして撮っています。スタッフ、キャスト陣も別で、「メキシコ映画祭1997」上映の邦題は『黄金の鶏』、未公開です。

★ 1965年の『この村に泥棒はいない』では、作家はリストで分かるように原案だけで脚色にはタッチしていません。1965年の第1回長編実験映画コンクール(メキシコ)で2等に選ばれた。本作には監督以下、ルイス・ブニュエルが司祭役、フアン・ルルフォとアベル・ケサダがドミノ遊びに興じていたり、画家のホセ・ルイス・クエバスがビリヤードをやっていたり、作家本人も映画館のモギリ役で出演しています。友情出演というか映画作りに参加することが魅力的な時代でした。
★ 1966年と1986年の “Tiempo de morir” は、監督やキャストは異なりますが、脚本・ダイアローグは同じです。前者はリプスティンのデビュー作で、まだ20代の駆け出し監督でした(1943生れ)。メキシコ・シネマ・ジャーナリスト賞を受賞した。後者はホルヘ・アリ・トリアナがリメイクした。写真はダイアローグを担当したカルロス・フエンテスとガボ。

★ 寺山修司の最後の長編映画『さらば箱舟』は、2年前の1982年に完成していたが、ガルシア・マルケス側からのクレームで延期されていた。山崎勉、原田芳雄、小川真由美他。

★
『予告された殺人の記録』の原作は、マルケスの中編では最高傑作でしょうね。しかし映画のほうはコロンビアの地元では頗る評判が悪い。それには一理あって、映画では大胆に語り手を変えている。語り手と母親の関係がなくなり30年間の空白ができているのが問題です。従って内の視点がなし崩しになり、原作とはイメージが異なってしまった。これはあくまでヴィスコンティのもとで長らく助監督をしていたイタリア人監督のイタリア映画と考えることです。1972年のカンヌ国際映画祭でグランプリに輝いた『黒い砂漠』の脚本を共同執筆したのが、本作と同じトニーノ・グエッラでした。グエッラと言えばシネフィルには神様みたいな脚本家、デ・シーカ、アントニオーニ、タルコフスキー、テオ・アンゲロプロスなど世界の名だたる巨匠とタッグを組んで名作を送り出した巨人である。撮影監督もパスカリーノ・デ・サンティス(ロベール・ブレッソンの遺作『ラルジャン』1983)と申し分なし。うがった見方をするならば、語り手を変えることで原作者との接触を避けたかったのではないか。実際、原作者のロケ地訪問(モンポス、カルタヘナ)を断っている。ロージの専属俳優ともいえる名優ジャン・マリア・ボロンテ、ルパート・エヴェレット、オルネラ・ムーティ、イレーネ・パパスとキャスト陣も豪華です。

★ 1996年の『コロンビアのオイディプス』は、「キューバ映画祭2009」で上映された作品(キ ューバ映画と言えるかどうか)。ホルヘ・アリ・トリアナは、前述したリメイク版『死の時』も監督している。プロデューサーはホルヘ・サンチェス(『愛しのトム・ミックス』、『大佐に手紙は来ない』、『バスを待ちながら』)、撮影監督はロドリーゴ・プリエト、当時は新人でしたが、以後『アモーレス・ぺロス』、『フリーダ』、『バベル』、『抱擁のかけら』、『ラスト、コーション』では第64回ベネチア映画祭で撮影監督に与えられる金のオゼッラ賞を受賞している。本作でもその後の活躍を予感させるスマートでドラマティックなプラグマティズムなカメラ・ワークが話題になりました。ロケ地はコロンビア。
キャスト:ホルヘ・ペルゴリア(オイディプス)、アンヘラ・モリーナ(イオカステ)、パコ・ラバル(テイレシアース)、ハイロ・カマルゴ(クレオーン)、ホルヘ・マルティネス・デ・オジョス(司祭)
*マルケスは、ソポクレスの悲劇『オイディプス・ティラーノス(王)』(BC 5世紀)をベーシックにして、そこから横道にさまよい出ていきます。知らずに犯してしまう禁忌タブーの近親相姦があること、神託で決められた運命は変えられないがテーマ。
*オイディプスの名前は、「腫れた足」から来ている。籐の杖をついて歩く、それは神託によって捨てられ山中に鎖で繋がれていたからである。最後のシーンに繋がっていく。
(写真下はホルヘ・ペルゴリアとアンヘラ・モリーナ)

*ホルヘ・アリ・トリアナ監督、1942年4月4日、コロンビアのトリマ生れ。監督・製作・俳優・脚本家。代表作:リメイク版Tiempo
de morir 「死の時」(1986)。Bolivar
soy yo! 「ボリバルは私だ」(2002、脚本・製作)、Esto
huele mal 「変な臭いがする」(2007、製作)、舞台監督:「純真なエレンディラ」、「予告された殺人の記録」、「山羊の祝宴」など。
★ 『大佐に手紙は来ない』は、サンダンス映画祭2000ラテンアメリカ・シネマ賞受賞、カンヌ映画祭1999正式出品、ゴヤ賞2000 脚色賞ノミネート(パス・アリシア・ガルシアディエゴ、リプスタインの妻)。製作費約300万ドル。東京国際映画祭1999で上映(2004年公開は未確認)。大佐にメキシコの大物俳優フェルナンド・ルハン、その妻役ローラにスペインの大女優マリサ・パレデス、喧嘩で殺された一人息子の恋人フリアに人気急上昇中のサルマ・ハエック、ダニエル・ヒメネス=カチョなどが出演して話題になった。
(写真下は、靴下の穴かがりをするロラと大佐)

★
『透明になった子供たち』は、セルバンテス文化センター「土曜映画上映会」(2009年9月)で上映された。ボゴタ映画祭2001ベスト・コロンビア・フィルム賞、カルタヘナ映画祭2002作品賞他を受賞している。ジャンルはコメディ、多分未公開。

*ストーリーは、大好きなマルタ・セシリアに透明になって近づきたいラファエル少年と仲間の友人2人のちょっとこわい冒険談。黒魔術を使って透明になろうと奔走する3人は、恐怖を乗りこえ、道徳にも反して、ニワトリの臓物、ネコの心臓を手に入れようとする。本当に透明になれるのでしょうか。活気にあふれた1950年代のコロンビアの小村の風物(ドミノに興じる男たち、マルケスの小説によく登場する理髪店)、世界ミス・コンテストを導入されたばかりのテレビで見る庶民など、半世紀ほどタイムスリップして楽しむことができる。透明になってしまう語り手のラストシーンがお茶目です。(写真:左がラファエル)
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