サルバドール・アジェンデ*孫娘が撮ったドキュメンタリー ― 2015年03月09日 12:12
孫娘が撮った「我が祖父アジェンデ」
★サルバドール・アジェンデ→チリの元大統領→ピノチェト軍事クーデタ→1973年9月11日→映画『NO』・・・と連想ゲーム風にイメージできる人が現在どのくらいいるのでしょうか。このドキュメンタリーは、孫娘の一人マルシア・タンブッティ・アジェンデが近親者にインタビューして纏めた32人の証言で構成されております。謂わば悲劇のアジェンデ一族の<家族写真帳>という顔を持っております。その証言の殆どが今回初めて公開されたもので占められているそうです。「私には祖父の知識がなく、それで彼のことがもっと知りたかった。自己顕示欲からではなく、より深い愛着からです。このドキュメンタリーを通して家族の沈黙の理由を理解しようと心がけ、悲惨なエピソードの存在が分かるようにしました」とコメントしている。
*“Allende, mi abuelo Allende”(「我が祖父アジェンデ」仮題)*
監督・脚本:マルシア・タンブッティ・アジェンデ
共同脚本:ブルニ・ブレス、パオラ・カスティジョ
データ:2014年、チリ=メキシコ合作、スペイン語、ドキュメンタリー・ドラマ、家族史、90分
*グアダラハラ国際映画祭2015「Work in Progresss」部門上映(メキシコ)
(アジェンデ大統領夫妻と二人の孫娘マルシアとマヤ、1971年)
主な証言者とアジェンデ家系図
サルバドール・アジェンデ・ゴッセン(愛称チチョ、監督の祖父):1908年6月26日サンチャゴ生れ、外科医、チリの社会党所属の政治家。チリ大統領(1970年11月3日~1973年9月11日)、9月11日の軍事クーデタで自害、享年65歳。本作にはペテカ Peteca(ブラジル先住民起源のバトミントンに似た競技)をする若いときの映像が挿入されている。ほっそりした体形で「健康に気をつけていたスポーツマンだった」と娘イサベル・アジェンデ。
(海水パンツ姿でペテカに興じる若き日のチチョ)
オルテンシア・ブッシ・デ・アジェンデ(愛称テンチャ、監督の祖母):1914年7月22日ランカグア生れ、撮影中の2009年6月18日サンチャゴで死去、享年94歳。1940年3月17日サルバドール・アジェンデと結婚、子供は娘3人。クーデタ後メキシコに亡命、ピノチェト政権末期の1988年チリに戻る。ピノチェトの信任を問う国民投票「イエスかノー」には投票できなかったが、「NOキャンペーン」に参加。この選挙運動を題材にしたパブロ・ララインの『NO』は、カンヌ、サンセバスチャンなどの映画祭で上映、アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされた。
「1973年9月11日は悪夢を見るようなものでした。あの日を境に人生は一変しました。夫を失い、続いて娘を失い、孫たちは世界各地に散らばって暮らすことになってしまった」と失意を語っていた祖母も、監督の「あなたの夫はとても洒落者でしたね」という質問には、「ウッふ、彼は何にでも手を出すのが好きだったのよ」と答えている。
(長女カルメン・パス、90歳のテンチャ、三女イサベル)
イサベル・アジェンデ・ブッシ:1945年サンチャゴ生れ、アジェンデ大統領の三女、監督の母親。セルヒオ・メサと結婚長男ゴンサロ(・メサ・アジェンデ)、ロミリオ・タンブッティと再婚長女マルシア(・タンブッティ・アジェンデ)をもうける。父親と同じチリの社会党に所属する現上院議員。
カルメン・パス・アジェンデ・ブッシ:アジェンデ大統領の長女、生年検索できなかったが1941年か。監督の伯母。亡命はしないでマスコミを避けてずっとサンチャゴで暮らしており、彼女にとってあれ以来時間は止まったも同然だったから、インタビューのためにことさら記憶を蘇らせる必要はなかった。
(監督、母イサベル、伯母カルメン・パス。両脇に異父兄ゴンサロと従姉妹マヤが同席)
ベアトリス・アジェンデ・ブッシ(愛称タティ):1943年サンチャゴ生れ、アジェンデ大統領の次女、監督の伯母。1977年10月11日、亡命先のキューバで精神を病み自ら生を絶つ。ルイス・フェルナンデス・デ・オニャと結婚、長女マヤと長男アレハンドロの一男一女。クーデタ当日には第2子妊娠中で、父親のいるモネダ宮殿に馳せつけることができなかったことがトラウマになっていた。タティは父サルバドールと同じ医学を学んだ医者、三人娘のなかでは一番身近な存在だったらしく、それだけに打撃も強かった。
ゴンサロ・メサ・アジェンデ:1965年生れ、アジェンデ大統領の初孫、監督の異父兄。本作撮影中の2010年12月15日自死、享年45歳。
マヤ・フェルナンデス・アジェンデ:1971年9月27日サンチャゴ生れ、監督と同い年の従姉妹(写真上:祖父サルバドールに抱かれている右側の赤ん坊)。クーデタ後キューバに亡命、母親自死の際は6歳だった。1990年帰国、祖父と同じチリの社会党に所属する現下院議員。
(同い年の従姉妹マヤ・フェルナンデス)
アレハンドロ・フェルナンデス・アジェンデ:1973年か74年キューバ生れ、監督の従弟。現在ニュージーランド在住。母親ベアトリス自死の際は4歳足らずだったが、「母はキューバでは知られた存在だったが、非常に孤独だったと思う」とインタビューに答えている。革命家は精神病などに罹っている場合じゃないという偏見というか時代精神の犠牲者でもあった。多分キューバ亡命は誤算だったのかもしれない。
★家族間では悲劇の詮索はタブーだったから何も知らされていなかったと監督。家族並びに親類縁者のインタビューを開始するが、封印された悲劇の扉をこじ開けるのは難しく、結果的には32人の証言を得るのに6年以上かかった。ふさがった傷口を開くことでもあったから当然です。特に高齢の祖母は病の床にあったから40分の時間制限を求められた。伯母カルメン・パスからは「40分は長すぎる」とクレームがついた。口火を切ってくれたのは、母親イサベル、「カメラを前にして、9・11のことを次第に話してくれるようになった」。両親のこと、つまり監督にとって祖父母のこと、9月11日に小さな2人の子供(ゴンサロとマルシア)を抱いて自宅で待機していたことなどを話し始めたという。難しいジグソーパズルの一つ一つを嵌めこんでいくような作業だったという。
★撮影中に祖母テンチャと兄ゴンサロを失ったことは大きな打撃だった。特に兄は自ら生を絶ったから尚更だった。かつては伯母タティの自死もあった。祖父サルバドールの兄妹は6人だが、2人夭逝しているので実際は4人兄妹。1981年、祖父の妹(大叔母)ラウラ・アジェンデも末期ガンの苦しみから逃れるため自殺している。カトリック教徒にしては多い印象を受けるが、アジェンデ家の人々が口を開かなかった理由がなんとなく伝わってくる。軍事独裁の17年間は「9・11」を体験したアジェンデ家の人々にとって、相当長い年月であったことを改めて思い知らされる。
★監督は本作完成後チリ定住を決意したが、グアダラハラ映画祭上映は殊のほか嬉しいという。何故ならメキシコは今まで自分を育んでくれた国だから。
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