(続)マヌエル・マルティン・クエンカの『不遇』 ― 2014年07月02日 14:27
★セルバンテス文化センターで『不遇』(Malas
temporadas)の「上映とトーク」があり参加しました(6月27日)。改めて見直してみると見落としが多いこと、前回(6月11日)レオノール・ワトリング扮するラウラの夫ファブレについての記述が少なかったこと、狂言回しの<マリアーノ>に触れなかったこと、テーマも絞らなかったので少し追加いたします。

★前回触れなかったファブレの立ち位置、結構重要だったマリアーノ、マドリードに押し寄せるラテンアメリカ、旧ソ連邦、アフリカからの移民問題、上映会ではそこに焦点を当てて見てきました。まず、マリアーノはマリアーノ・ロドリゲス(ハバナ1912~90)、シュルレアリスモ、フォービスム(野獣派)の画を描いたキューバの画家でしょうか。ホセ・マリアーノ・マヌエル・ロドリゲス≂アルバレスと長たらしく単に<マリアーノ>で通っていました。雄鶏を好んで描いた画家で豊かな色彩が特徴です。映画のなかではファブレの母親の肖像画を描いたことになっていて、それがちらりと映る。ここはフィクションですが、もしかしたらモデルになるような女性がいたのかもしれない。

(好んで雄鶏を描いたマリアーノ・ロドリゲスの作品)
★本作にはルネ・ポルトカレロ(ハバナ1912~85)という画家も1回だけファブレとカルロスの会話のなかに出てきます。彼は「20世紀のキューバの画家」といえば必ず言及される人。翻訳が待たれながら難解を理由に主著さえ訳されていない詩人ホセ・レサマ=リマとも友人関係にあり、彼を中心にした詩誌『オリヘネス』のグループの詩人たちと繋がっていた。キューバを離れずハバナで亡くなりましたが、あのキューバでカミングアウトしていたというから自他共に許す実力者だったのでしょう。「ポルトカレロの絵画をメキシコの収集家が入手して自分のギャラリー・リストに入れている」とカルロスに言わせている。これはキューバの文化財の海外流失が始まっていたことを暗示しているのだろうか。共同脚本家アレハンドロ・エルナンデスがキューバ人、ファブレ役のフェルナンド・エチェバリア*もキューバの俳優で、最初デザインや絵画を学んでいたから、こういう事情に詳しいと考えられ信憑性がありそう。マリアーノとポルトカレロの二人はハバナのサン・アレハンドロ造形芸術学校 Escuela de Artes Plásticas de La Habana San
Alejandroで共に学んでいる友人でした。

(バロック風の色彩豊かな絵を描いたポルトカレロの作品)
★映画では、上述したようにマリアーノはファブレの母親の肖像画を描いたことになっている。ファブレは「マリアーノは仕上げに2ヵ月かけ、母は1日4時間も同じポーズをとらされた」とカルロスに説明する。ここで母親の写真と画が映り、ファブレが保証が失効しているマリアーノの絵画を欲しがる理由が単なる収集目的でないことが鮮明になる。さらにあの革命で持てる財産を「コミュニストたちに没収された」こと、その中にはマリアーノの絵画も含まれていたことなどが分かってくる。「仮に美術館に展示するとしても、誰も個人蔵の絵画を没収すべきでない」とファブレは語気鋭く言う。カルロスは無言で聞いている。
カルロス、贋作される愛と友人関係
★ファブレが亡命キューバ人カルロスと繋がるのは、合法非合法を問わず絵画ビジネスを通してです。ファブレはカルロスがマリアーノの画の話を持ち出したことで急接近してきたようで入手を依頼する。「私は君が取り返してくれるという言葉を信じている。それに私たちはビジネス抜きで既に友人だ」とファブレは言うが、カルロスは単にビジネスだけで繋がり、友人らしく振る舞うのは贋作です。ファブレが欲しがっているマリアーノの画は、保証がほとんど失効しているから危険なしろもの、それでキューバにいて入手を画策しているカルロスの兄弟に危険が迫っていることも分かってくる。
★冒頭の密輸品らしい葉巻の受け渡しシーンで「マリアーノはどうなっている」というカルロスのセリフがのっけから飛び出した理由が、ここで初めてわかる。冒頭シーンの「これはちゃんと保証済みだ」という物品が絵画であることは分からないので、この段階でマリアーノの正体を推測できる観客は多くないと思う。分かるのはカルロスがファブレに物品を届けるシーンまで待たねばならない。それはファブレの待ち焦がれていたマリアーノの画ではないから、ここでもファブレが「マリアーノはどうなっている」と尋ねるわけです。「現在、画は貸出中で美術館に戻ってくるまで埒があかない」と、カルロスは今回も入手できなかった理由を説明する。

(愛のない夫婦、ファブレとラウラ)
★ファブレはリッチでインテリジェンス豊かな男ではあるが、事故前のラウラの過去の幻影を追い求め、無償の愛を捧げるが愛は得られない。子供の父親になることもラウラに拒絶される。一年前からいわゆるコキュなのを友人だと信じていたカルロス本人から告白されるまで気がつかない。ラウラはカルロスが自分を求めていると思いたいがカルロスはラウラを愛していない、カルロスが愛を贋作するのは亡命地マドリードで生き延びるためである。ラウラはそれを心に刻みつけてこれからを生きるしかない。電話の声でしか登場しないマイアミ在住のルイサが飛行学校の教師の仕事があると知らせてくる。カルロスはそれにすがるが事実かどう怪しい、元恋人らしいルイサはカルロスを呼び戻したいだけかもしれない。三角四角のただ不毛の愛が存在しているだけだが、カルロスは片道切符でマイアミに発つしかない。
★アナを中心に展開しているように見えるが、カルロスの存在なくしてアナ=ゴンサロ母子とミケルは出会えないし、ファブレとラウラとの三角関係も成立しない、いわばカルロスは登場人物の接着剤的存在と言っていい。ミケルと同房だったパスクアルを含めて、すべての登場人物と接触するのはカルロス一人であり、ここらへんに共同脚本家アレハンドロ・エルナンデスの思い入れが感じられる。
光を見つけるアナ母子、ミケルの再生
★この映画は登場人物を取りまく現実を裁こうとしているわけではない。ヨーロッパに押し寄せる難民問題とか、チェチェン紛争とか、スーダンのダルフールにおける民族浄化とか、革命の後遺症とか、21世紀初頭の世界の暴力が出てくるが、もっと個人が抱え込んでいる小さな問題を私たちに引き寄せて描こうとしている。それは誰でも多少はもっている自己欺瞞であり、<不遇>から抜け出すには過去に拘って止まっていてはいけないのに、それぞれ袋小路に入ってしまっている。人生はいつも順風満帆とはいかない、いい時もあれば悪い時もある、しかし生きるに値するのが人生だ、ちょっと止まって自分の心の声に耳を傾けたら別の道が開けることだってあるんだ。セカンド・チャンスは必ずあるよ、そういうメッセージを私たちに届けたかったんだと思う。

(不登校を決心するゴンサロ)
★アナは最初、息子ゴンサロの不登校(日本の引きこもりとは違う)を受け入れられない、君の仕事は勉強だ、私は忙しいのに食事を作り君のために一生懸命に難民救済の仕事をしている。なのにどうして? 現実に向き合わなくてすむように自室に閉じこもる息子に寄り添えない。これを契機にして仕事は行き詰る。担当しているイブラムの弟のロンドンでの死亡、ロシアからの移民オルガは無実の罪で収監されている息子ニコライを助けて欲しい、しかし彼は7人のレイプと4人殺害の罪で服役していた。アナは嘘をつかれていたと逆上するが、オルガは政府や軍部のデッチ上げで事実ではない。第二次チェチェン紛争の真っただ中、罪を贋作しているのは母親か権力者か映画は語らない。ただ「息子を助けるのは母親しかいない」というオルガの一言にアナは絶句する。そうゴンサロを救い出せるのは自分しかいない。
(光が見えないアナ)*ファブレ役のフェルナンド・エチェバリアは、キューバのオルギン生れ、映画・舞台俳優のほか、芸術大学ISA(Instituto Superior de Arte)演劇学部で演技指導の教師をしている。生年がはっきりしないが2010年に53歳という記述を信用するなら逆算して革命前の1957年ごろと思われる。1972年、オルギンの州立造形芸術学校でデザイン、絵画、彫刻などを学び始める。1976年、国立芸術学校の演技科を専攻、卒業。カルロス・ゴメス率いる Compañía de Teatro El Público に参加、チェーホフの『かもめ』、シェイクスピアの『リア王』、ロルカの『観客』に出演(1978~94)、映画デビューはマヌエル・オクタビオ・ゴメスの“La tierra y el cielo”(1973)。代表作にルイス・オリベロス“Pata negra”(2000、西≂キューバ)、ダニエル・ディアス・トーレス“Camino de edén”(2006)、テレドラ出演など。因みにパスポート偽造で荒稼ぎしているレオポルド(レオ)はオルギン生れに設定されていた。「1万ユーロだが同じキューバ人だから8000でいい」など逞しいキューバ人。

**アナトリー・カルポフ(1951~)はロシア(旧ソ連邦)ズラトウース生れの世界チャンピオン(1975・85・93・98)。本作では実名で登場する人物として他にヴァーツラフ・ハヴェル(1936~2011)がいる。日本にも来日したことのあるチェコスロヴァキアの最後の大統領にして、 チェコ共和国初代大統領。戯曲家でもあって、「カフカ賞」や「アストゥリアス皇太子賞(コミュニケーションと人文科学)」(1997)を受賞している。
★監督は本作の前にドキュメンタリーを撮りたかったが、製作者を説得させられなかったという。2001年の「9・11」アメリカ同時多発テロで幕開けした21世紀、第二次チェチェン紛争(1999~2009)、スーダンのダルフールにおける民族浄化(2003)などをさりげなく取り入れているのは、クエンカ監督の意思のようだ。カルロスに「パイロットだが、オレンジ農園の散布が仕事で軍隊ではない」、やましい気持ちがあるので「ビルには突っ込まないよ」と冗談言って、却って係官の不信を買ってしまう。盛り沢山の印象も受けるが、画面構成の巧みさ、沈黙と視線の重要性は、新作『カニバル』にも通底している。
デ・ラ・イグレシア、ドキュメンタリー”Messi” を完成 ― 2014年07月03日 22:50
★ワールド・カップ2014、アルゼンチンはなんとか「8強」入りを果たしました。メッシの不調が気になりますが、それでも4ゴール、もともとそんなに走り回る選手じゃなかったのでは? 「走らぬ神の子メッシ」とか、「彼には5秒あれば充分」(ハビエル・マスチェラーノ談)とか、今回のトーナメント戦、敗軍の将スイスのオットマール・ヒッツフェルト監督は、「メッシは1秒あれば試合を決められる」と舌を巻いたというが、いくらなんでも1秒では入れられない。

★メッシのテレビ・ドキュメントは何本かありますが、生れてこのかた一度もサッカーボールを蹴ったことがないという<コミック少年>アレックス・デ・ラ・イグレシアが彼のドキュメンタリーを撮った。ワールド・カップ開催中のリオデジャネイロで7月2日封切られた。
データ:スペイン、スペイン語、ドキュメンタリー、2014、撮影地:ロサリオ(サンタ・フェ)、
ブエノスアイレス、バルセロナ
製作:MEDIAPRO、オビエドBS
監督:アレックス・デ・ラ・イグレシア
脚本:ホルヘ・バルダノ
協賛:バルセロナ市、FIFA、リオネル・メッシのファミリー
キャスト:マルク・バラゲル(レオ・メッシ)、ラモン・べサ、アンドレス・イニエスタ(西MF)、ヨハン・クライス(蘭FW/MF、監督)、ディエゴ・マラドーナ(亜FW)、ハビエル・マスチェラーノ(亜・伊MF)、ジェラール・ピケ(西DF)、セサル・ルイス・メノッティ(亜FW監督)、アレハンドロ・サベジャ(亜ナショナルチーム監督)、フランセスク・パヘス(FCバルセロナの経営幹部)、ホルヘ・バルダノ他
*メッシを俳優が演じるわけで純然たるドキュメンタリーではない。インタビューに応じた出演者は分かる範囲で国名とポジションを付け加えた。現役を引退したクライスやマラドーナのポジションは現役当時のもの。メッシの4歳からの記録、アーカイブ、インタビュー、ビデオ録画で構成されている。

★メッシの人気は日本のチビッコにも浸透、メッシの背番号10や名入りのバルサのユニフォームを着ている子供を見かける。成長ホルモン分泌不全性低身長症を克服して一流選手になったことがチビッコの心を打つらしい。マラドーナも小柄だったがメッシは治療費を出してくれたバルサのお蔭で143センチだった身長も169センチに伸びたとか。何しろ最初の頃は小柄だったから、「彼に強くアタックしてはダメだ、小さくて壊れやすいから」と初めて一緒に練習したとき監督に頼まれたとジェラール・ピケ。
★「外へ、中へ、神業のように望むところに運んでいく」とセサル・ルイス・メノッティ。彼はメッシと同郷のロサリオ出身、ワールド・カップ1978では、アルゼンチンを優勝に導いた(八百長の噂あり、当時アルゼンチンは軍事独裁政だった)。FCバルセロナの監督経験もあり(1983~84)、当時マラドーナも在籍していた。
★デ・ラ・イグレシアにとって最初のドキュメンタリーとなるが、サッカー・オンチの監督が撮ったというのがお味噌です。『ブランカニエベス』のパブロ・ベルヘルは、闘牛もフラメンコも見たことがなく知識ゼロだった由、却ってオタクでないほうがいいのかもしれない。アタマのなかに何が詰まっているのか分からない鬼才が撮ったのでご紹介いたしました。準々決勝は7月6日ブラジリアでベルギーと戦う。
★デ・ラ・イグレシアの小説第2弾“Recuérdame
que te odie”がプラネタ社から刊行された。ユーモアと皮肉、激しいアクションが繰り広げられる冒険ものとか。ビルバオ生れのコミック少年も50歳になった。「文学は、映画のように大勢でチームを組むわけではないから、一種の解放感がある、誰も仕上がりを当てにしていないからね」。彼の小説の師は、エドゥアルド・メンドサだそうで、昨年4月来日、セルバンテス文化センターで講演会があった。翻訳書は目下『奇跡の都市』だけだが、これから刊行が予定されているようです。
★映画のほうは“Que
no pare la música”の脚本が仕上がったばかりだそうで、大分先になりそうです。

(一時38キロのダイエットに成功してほっそりしましたが、またぞろメタボまっしぐら?)
『ホドロフスキーのDUNE』*未完の映画「DUNE」をめぐるドキュメンタリー ― 2014年07月08日 17:26
★公開が迫ってきた『リアリティのダンス』と対になって世界を駆け巡っている話題のドキュメンタリー。監督はフランク・パヴィッチ、ニューヨーク生れのクロアチア系アメリカ人、ただし現在はジュネーブ在住(後述)。どうしてホドロフスキーが23年間も沈黙していたのか、「荒唐無稽で壮大なな映画DUNE」がどうしてポシャったかが分かります。カンヌの観客を感動と爆笑で沸かせた“Jodorowsky’s Dune”(2013)は、同年東京国際映画祭ワールド・フォーカスで『ホドロフスキーのDUNE』の邦題で上映され、日本の観客も感動したのでした。それが現在公開中の『ホドロフスキーのDUNE』です。


★公開中の映画と、これから封切られる映画『リアリティのダンス』ですがネタバレさせてます。ではネタバレしていたら面白くないか、いいえ、そんなことありません。それに宣伝チラシ、各界の名士の推薦文などワンサカ出回っていて、結構ネタバレしています。
常識ではあり得ないキャストとスタッフ
★1974年、アレハンドロ・ホドロフスキーとフランスのプロデューサー、ミシェル・セドゥーは、フランク・ハーバードのベストセラーSF小説『デューン/砂の惑星』の映画化を企画する。世界を股に掛けた二人の奔走でスタッフもキャストも決まり、ストーリーボード集まで完成していたのに、結局1シーンも撮影されることなく終わった。「実現しなかった映画」としては映画史上に残ると言われる所以は、顔ぶれを見て頂くと頷ける。キャスト陣にサルバドール・ダリ、ガラ夫人公認の愛人アマンダ・リア、ミック・ジャガー、ウド・キア、オーソン・ウェルズにデヴィッド・キャラダインと豪華版。スタッフには、コミック作家メビウスことジャン・ジロー(絵コンテ)、画家でデザイナーのH.R.ギガー(建築物デザイン)、画家クリス・フォス(宇宙船デザイン)、特殊効果のダン・オバノン、ピンク・フロイドなど常識ではあり得ない組合せ、既に鬼籍入りしている人も。何しろ今から40年前、1974年の企画ですから当然です。
★まだインターネットなどなかった時代のことだから本当にビックリする。二人の映画に賭ける情熱と勇気というより無謀には呆れるが、最後にホドロフスキーが私たち観客に送る「去る者は追わず、来る者は拒まず」、「人間はいくつになっても変わりたければ変われる」というメッセージには勇気を貰える。彼に振り回されて迷惑を被った人がいたかもしれないが、数々の都市伝説でファンを右往左往させた絶滅危惧種のようなアーティストが絶滅せずにいたことに感謝したくなる。
★10年後、『エレファント・マン』(1980)でアカデミー賞8部門にノミネートされたデビッド・リンチが、『デューン/砂の惑星』(1984)を撮る。「もう辛くて見る気になれない。でも周囲が見なくちゃダメだというのでいやいや見に行った。最初は悲しくて涙がこぼれそうだったが、しかし失敗作だと分かったら嬉しくてだんだん元気が出てきた」と。なんと可愛らしくチャーミングなお爺さんなんだ。それに失敗の責任は監督じゃなく製作会社にあるとリンチを庇う優しさはいいよね。老人はこうでなくちゃあ、見習いたい。

★フランク・パヴィッチ監督:1995年、22歳のときにアングラのカルト音楽についてのドキュメンタリー“N.Y.H.C.”(ニューヨーク・ハードコアシーン)を撮る。2003年、「ダイ・マミー・ダイ」(Die
Mommie, Die!)がサンダンス映画祭審査員特別賞を受賞、2013年の本作が初の長編監督作品となる。前述したカンヌ2013の「監督週間」で、ホドロフスキー夫妻隣席のもとプレミア上映された。監督は涙を拭いて「パーフェクト」と一言感想を述べてくれたとパヴィッチ監督。詳しくは映画館で。
ホドロフスキー一家のディアスポラ
★このドキュメンタリーをきっかけに35年振りに再会したホドロフスキーとミシェル・セドゥーの二人が中心になって作ったのが『リアリティのダンス』です。これから公開される映画なので控えめにお届けいたします。
★アレハンドロ・ホドロフスキー Alejandro Jodorowsky Prullansky :1929年2月17日、チリ北部トコピージャという港町で、ユダヤ系ウクライナ人の父ハイメ・ホドロフスキーとユダヤ系リトアニア人の母サラ・プルランスキーの第2子として生れる(現在はトコピージャ県の県都、人口は約3万人)。カタログ類ではロシア人と紹介されていおります。当時ウクライナは帝政ロシアに組み入れられていたから間違いではありませんし、父親もロシアから移民してきたと監督に話していたようです。厳密にはウクライナ、だからお店の名前が「ウクライナ商店」です。ただチリに移民していたのですからチリ人です。1929年と言えば、10月24日のニューヨーク証券取引所の株価大暴落で始まった世界大恐慌元年、不運な年に生れたんですね。『リアリティのダンス』ではアレハンドロの誕生した年が冒頭シーンで象徴的に描かれますから見逃さないで、大きな意味を持っているからです。時代背景となる1920年代後半には、2歳年長の姉ラケル・レアも一緒だったはずですが、映画には登場いたしません。お姉さんは詩人、1950年代からペルーで暮らし、2011年首都リマで死去しています。
★ユダヤ人なのにどうして<ホドロフスキー>という苗字なのかという謎は、祖父の代まで遡ると解けます。20世紀初頭にチリに移民してきたとあったので1903~06年に渡って猛威をふるったポグロムに関係ありと睨んだが、予想は的中でした。ポグロムは帝政ロシア政府が国民の鬱積した不満のはけ口として導入した反ユダヤ主義のホロコースト、一種のジェノサイド、民族同化も含む民族浄化のことです。ホドロフスキーの父方の祖父の本名はアレクサンドル・レビAleksandr Leviといい、1873年、ウクライナのエカテリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)で生れた。1900年にテレサ・グロイスマンと結婚、翌1901年ヤコブ(つまりハイメ・ホドロフスキー)が誕生した。繰り返されるポグロム、ユダヤ人排斥の風潮に身の危険を感じたレビは、1909年、あるポーランド貴族の苗字<ホドロフスキー>を合法的に買い取った。軍隊に入るのを避けるためというのはタテマエで本当の動機はポグラムだったという。

(『エル・トポ』のホドロフスキー父子)
★しかし第一次世界大戦が終わる前に、フランスの知り合いを頼って結局ウクライナを脱出した。パリからマルセーユを経由して、他のユダヤ人移民一行と南米チリを目指してホドロフスキー親子も船出、祖父は二度とヨーロッパに戻ることはなかった。1901年に生れたハイメが、監督のお父さん、『リアリティのダンス』ではこの規格品外の破天荒な父親<ハイメ>を演じたのが、監督の長男ブロンティスです。1962年メキシコで生れたが、間もなく母親とフランスに移住、6歳のときメキシコに戻ってきた。6カ月後に出演した映画が『エル・トポ』(1970、メキシコ)で、エル・トポの子供になった。もしかして出演させるため呼び寄せたのかな。帽子と靴を履いただけの可愛いトウガラシ坊やがこのブロンティスです。『ホドロフスキーのDUNE』にも顔を出しています。アレハンドロは5人の子供に恵まれ、長女エウヘニア、次男クリストバル、三男テオ、四男アダン、1995年テオは24歳で事故死、エウヘニアはフツウの人生を送りたいと離れて暮らしており、フツウでない息子3人は『リアリティのダンス』に出演しています。
チリで最も有名になったトコピージャ
★映画はホドロフスキー一家がトコピージャを去るシーンで終わるのですが、この父親ハイメは1970年代に新しい妻を伴って、つまり70歳を過ぎて、イスラエルに移住、彼の地で二人の子供にも恵まれた(!)、2001年に百歳で天寿を全うしたというから、ホドロフスキー家は長命の家系ですね。監督の現在の奥さんパスカル・モンタンドンとは10年前に、つまり70過ぎてから結婚した。ただし子供はいない(笑)。今年四月にプロモーションのため監督と一緒に来日して座禅までした。監督は『ホドロフスキーのDUNE』のなかで、「300歳まで生きたい、・・これは無理かな」とか言ってましたが、オリベイラは100歳超えても映画撮っているから、ホドロフスキーにも頑張ってもらいたい。

★2014年6月19日、R18+指定(¡!)でやっとチリでも公開された(IMDbによると日本はR15+だが、公式サイトにはなかったようだ)。監督も3人息子も不在のまま、カルロス・イバニュス大統領に扮したチリ在住のバスティアン・ボーデンホーファーが出席、子供アレハンドロ役のイエレミアス・ハースコヴィッツも姿を見せた。封切り2週間で14,000人、チリでは今年の最高を記録した。
★どうして来チリしなかったかは『リアリティのダンス』をアップしたときに。日本のチラシでは製作国は「チリ≂フランス」となっておりますが、監督に言わせると「フランス≂メキシコ=トコピージャ」だそうです。既に昨年8月、トコビージャでは市営スタジアム(野外)で8000人の観客を前にプレミア上映されました。人口3万人の町で8000人です。チリで最も有名になった町がトコビージャ、『フェリーニのアマルコルド』(1973)がよかった方もどうぞ、フェリーニはファシズム、ホドロフスキーはナチズムと背景は違いますが、両方とも船出します。
アレハンドロ・ホドロフスキー 『リアリティのダンス』① ― 2014年07月14日 23:05

*『リアリティのダンス』(“La
danza de la realidad”)*
製作:Camera One / Le Soleil Films 他
監督・脚本・プロデューサー:アレハンドロ・ホドロフスキー
撮影:ジャン=マリー・ドルージェJean-Marie Dreujou
音楽:アダン・ホドロフスキー
編集:マリリーヌ・モンティウMaryline Monthieux
衣装デザイン:パスカル・モンタンドン≂ホドロフスキー
プロデューサー:モイゼス・コシオ(メキシコ)、ハビエル・ゲレーロ・ヤマモト(チリ)、
ミシェル・セドゥー(フランス)
データ 製作国:フランス、メキシコ、チリ 言語:スペイン語 撮影地:トコピージャ、チリのサンティアゴ 2013年 130分 製作費:約300万ドル 映倫区分:日本R15+、チリR18+、メキシコR16+指定 他
キャスト:ブロンティス・ホドロフスキー(父親ハイメ)/パメラ・フローレス(母親サラ)/イェレミアス・ハースコヴィッツ(少年アレハンドロ)/アレハンドロ・ホドロフスキー(老アレハンドロ)/バスティアン・ボーデンホーファー(カルロス・イバニェス・デル・カンポ大統領)/アダン・ホドロフスキー(アナーキスト)/クリストバル・ホドロフスキー(行者)/アンドレス・コックス(ドン・アキレス)/カルロス・カンテロ(市長)他

消防隊員の服を着たハイメ、母サラの背後にスターリンの写真が飾ってある)
プロット:カルロス・イバニェスの軍事政権下、ウクライナから移民してきたユダヤ人一家は、チリ北部の港町トコピージャで暮らしていた。少年アレハンドロは威圧的で独断的なスターリン崇拝者の父ハイメ、アレハンドロを自分の父親の生れかわりと信じている母サラの愛に翻弄され、両親の偏った価値観に苦しんでいた。大きな鉤鼻と白い肌や割礼は差別やイジメを生み、悪夢と孤独、辛い現実に日々耐えていた。父親は独裁者イバニェス暗殺のため家族を捨てサンチャゴに向かう。ホドロフスキーが自らと一族の魂を癒すため初めて母国チリで撮った反時代的だった家族の再生の物語。(文責:管理人)
*監督紹介*
★アレハンドロ・ホドロフスキー Alejandoro Jodorowsky Prullansky (AJ):1929年2月17日、チリのトコピージャ生れ。国籍はチリ、1980年にフランス国籍取得、作家(小説家・戯曲家・詩人・エッセイスト、コミック)、映画・舞台監督、脚本家、俳優、パントマイム役者、マリオネット制作・役者、彫刻家、画家、デザイナー、タロット教師、サイコテラピストetc、つまりなんだ、ひっくるめるとアーティストということか。執筆は基本的にスペイン語だが、コミックやエッセイはフランス語。
○1939年、家族は10年間過ごしたトコピージャから首都サンティアゴへ転居、チリ大学付属の中高一貫の学校Liceo de Aplicacion で学ぶ。ナチスドイツの支持者の子弟が多く通っていたため反ユダヤ主義者に囲まれ、相変わらず居場所がなかった。文学や映画に関心を抱き、1945年、最初の詩集を出版するという早熟な若者は、ニカノール・パラ(1914~)やエンリケ・リン(1929~88)のような詩人たちと交流を深める。同時にパントマイムやマリオネットに興味をもち、17歳で俳優としてデビュー、親友リンとともにパントマイムの劇団を創設する。1947年、チリ大学の哲学科と心理学科に入学するも3年足らずで中退する。
○1948年、最初の戯曲“La
fantasma cosquillosa”を書く。1950年、チリ大学実験演劇科人形芝居のセクションをを設立、リンやパラと一緒に新聞の切り抜きを用いた壁面詩のコラージュ“Quebrantahuesos”を創作する。1953年、チリを24歳で出国してからは、主にフランス、メキシコで暮らす。1960~74年(メキシコ時代)、うち1972年と1974年はニューヨーク滞在。1974年末からパリを本拠に、1980年フランス国籍を取得した。チリ出国後のアレハンドロ情報は溢れております、知りたいことはググると見つかりますので割愛。
ホドロフスキー家の家系図
★ウクライナ系ユダヤ人のハイメ・ホドロフスキー・グロイスマン、リトアニア系ユダヤ人のサラ・フェリシダー・プルランスキーを両親にもつ複雑な出自は、本作の少年アレハンドロを理解するうえで重要と思われたので、<ホドロフスキー>の苗字の由来なども含めて前回述べておきました(「ホドロフスキー一家ディアスポラ」の項へ⇒)。監督はこの主人公ハイメを自分の長男ブロンティス・ホドロフスキーに演じさせました。

(父ハイメ、母サラ・フェリシダー)
★サラ・フェリシダー・プルランスキーは、ユダヤ人の事業主モイシェを父に、セファルディムのハシェ・アルカビJashe Arcaviを母にブエノスアイレスで生れた。しかし実の父親は金髪のロシア人ダンサーでサラが胎内にいるとき事故で焼死した。つまり実父はユダヤ人から見ると「非ユダヤ人」異教徒(ゴイgoy)だった。「フェリシダー(幸福)」と名付けられた理由はこの出生が背景にあると思われる。祖母ハシェもポグロムでロシアからアルゼンチンに逃れてきた。髪はブルネットだったと書いている*。一家はチリ北部の港町イキケに移転、当時イキケは<白い金>天然硝石の積み出し港として繁栄していた。日本でも津波の影響で死者まで出したイキケ巨大地震(1877)の町として有名。サラは会うことのなかった実父のゴイの立場を徹しており、親に強いられてユダヤ系のハイメと結婚したという。ただし当時の結婚は親同士が決めるものであり、サラの両親を非難するには当らない。
○コミュニストのスターリン主義者ハイメは当然無神論だったから、両親はユダヤ教を信仰していなかった。ゴイと無神論者の夫婦は、イキケのユダヤ人コミュニティを嫌い、近くのトコピージャに転居、そこでアレハンドロが誕生した。監督が「宗教教育は特別受けなかった」と語っている理由の一つです。ただし割礼は受けており差別は付いてまわった。映画はここトコピージャから始まります。因みに父方の祖母の苗字グロイスマンはドイツ系、母方の祖母アルカビはセファルディム、プルランスキーはポーランド系です。
*エッセイ“Metagenealogia” マリアンヌ・コスタMarianne Costaとの共著、2011年刊
チリ映倫区分「R18+」のアイロニー
A: 2010年はサン・ホセ鉱山の落盤事故からの坑夫33名の生還劇、2012年から翌年にかけてはボラーニョ旋風、今年は春からホドロフスキー台風が上陸、何かとチリが話題になっております。ホドロフスキーをメキシコ人、またはメキシコで映画を撮ってるフランス人と思っていた人が多いのでは?
B: 長編デビュー作『ファンド・アンド・リス』、『エル・トポ』がメキシコ、『ホーリー・マウンテン』はメキシコ=米国、『サンタ・サングレ』はメキシコ=伊合作です。今回初めてチリで映画を撮った。

A: 監督はチリ≂フランス合作ではなく、「フランス=メキシコ=トコピージャだ」と否定しています(笑)。チリの Fondart にはオカンムリなんです。実際、フランス(ミシェル・セドゥー)が50%、メキシコ(モイゼス・コシオ)が25%、日系チリ人ハビエル・ゲレーロ・ヤマモトと監督が各12.5%です。
B; Fondart
はビタ一文出さなかった。
A: Fondart というのは、チリの文化芸術のプログラムに資金援助をする団体、監督によれば、「あなたの映画はゲイジュツ映画だ、私たちはそんなものに興味はない、ハリウッドのアクション映画みたいなのが見たいんだよ」と審査委員から言われたそうです。
B: チリを出てから半世紀以上も経って、どうしてチリで撮ろうとしたんですか。
A: 1995年に息子テオを24歳の若さで失って以来、アートを作る理由を考えつづけていたということが根っこにあるようです。2001年回想的自伝“La
danza de la realidad”を発表、映画化を模索していたようです。ハビエル・ゲレーロが「チリで映画をつくるなら25万ドル出資する、Fondartも40万ドルは出す」と言ったので、「じゃ、トコピージャでやろう」となった。
B: ところが Fondart は断った。なにしろイバニェス軍事政権下のチリが舞台だって言うんだから。

A: 警戒しますよ。何を作りだすか分からないホドロフスキーの才能が怖かったんだと思う。しかし『ホドロフスキーのDUNE』のお蔭でミシェル・セドゥーと35年振りに再会できた。新しいプロジェクトの話をしたら、「どのくらい必要」と訊かれたので、「100万~200万ドル」、「いいよ」となった。
B: データによると、製作費はアバウトで300万ドルでした。つまりドキュメンタリー「DUNE」での再会がなかったら、こんなに早く誕生しなかったかもしれない。
A: この映画は極めて政治的な映画です。カルロス・イバニェスはピノチェトの透かし絵でしかありません。それに1929年の世界大恐慌の経済危機は、ピノチェトが推進した長い新自由主義のせいで危機的状況に陥っていたことに重なる。貧しい人はより貧しく、一握りの富める人はますます豊かにという国民の経済的二極化と読める。そのほか硝石鉱山の事故で手足を失った坑夫が何の保障もなくゴミ扱いされるなど、現在とあまり変わっていないのではないですか。
B: ピノチェト支持者が3割、反ピノチェトも同じ3割、残りがどちらでもない人々、ピノチェトはまだ生きているというわけですね。2006年ですから10年も経っていない。さすがに国葬ではなかったけれど、あの最高の栄誉で行われた陸軍葬に世界は目を剥いたのでした。
A: ホドロフスキーの少年時代は、イバニェス大統領時代ではなかった。彼は第20代(1927~31)と第26代(1952~58)の2回大統領になっています。監督は1929年世界大恐慌の年に生れたから、映画は5~6年くらいずらしています。もっとも1931年に失脚したあと一時アメリカに亡命しますが、1年足らずで舞い戻り、裏で糸を引いていたから同じかな。
B: 映倫区分が「R18+」は、いくらなんでもやりすぎです。
A: Fondartの審査委員に神父さんがいたんではと揶揄されています。確かに残酷なシーン、ヌードやセックス・シーンがありますから。でも今時の子供は13~14歳になればネットで見放題なのではないかしらん。これが却って人々の関心を呼び起こしてしまった。つまり国民に知られたくないことが盛り込まれているようだと。(続く)
アレハンドロ・ホドロフスキーの 『リアリティのダンス』 ② ― 2014年07月19日 16:13
トコピージャはチリで一番有名な町
B: チリのプレミア上映は、昨年8月のトコピージャだった。若いプロデューサーのハビエル・ゲレーロは華々しく首都でやりたかったでしょう。3万人の町で8000人が見に来たというのは驚きです。
A: 南半球だから真冬で寒かった。「R18+」には監督は呆れ、プロダクションは憤慨した。反対にトコピージャ市民の協力は、300人のエキストラだけでなく感激の連続だったようで、それがプレミア上映の観客数に表れています。上映当日、監督は仕事で来られなくて、お詫びのメッセージ映像がスクリーンに大写しされた。
B: トコビージャの人々は本当に尊敬に値すると感激していますね。市長役のカルロス・カンテロ氏は、実際に元市長だったとか。
A: 監督は10歳で後にした故郷に再び戻るとは思ってもいなかったと語っています。ましてや映画のために戻るとは。再訪して驚いたのは、父ハイメが経営していた店「La Casa Ukrania」(ウクライナの家)以外なにも変わっていなかったこと。たちまち小さな子供に戻ってしまった。日本から移民してきた床屋さんに髪を切って貰っていたのだが、店内の家具調度も全く同じ、目眩がしてしまったと。勿論、店主は80歳ぐらいの息子さんに変わっていたが(笑)。
B: じゃあ、セットを組まず、そのまま撮影できたのですか?
A: お店は消防署のすぐ傍にあって火事の巻き添えで焼失していたから、そこだけ立て替えたそうです。首都サンティアゴで2ヵ月間下準備して、トコピージャでの撮影は5週間とデータにあります。
B: 宣伝チラシには「チリの田舎町を舞台に」とありますが、世界大恐慌の煽りで失業者に溢れていたようですが、実際のトコビージャは無尽蔵の天然硝石のお蔭で栄えていた。
A: 欧米(イタリア、イギリス、スペイン、ドイツ)、ギリシャ、中国、日本からの移民が多く住んでおり、文化的には信じられないほど豊かだった。ラテンアメリカ諸国はおしなべて多民族国家です。劇場を兼ねた映画館では海外のフィルムが上映され、同じく演劇団も来演して大いに楽しんだ。映画に出てくるサーカスだけじゃなかった。市立図書館には成功した市民からの専門書や文庫本の寄贈があり、本の虫だった監督も大いに利用したようです。それぞれ母国から持ちこんだ文化に固執しながらも溶解が起きるのは自然なことです。
少年アレハンドロに寄り添うお爺ちゃんは何者?
B: トコピージャの浜辺、少年の足元には数えきれないイワシが打ち上げられ、突然カモメの大軍がイワシ目がけて襲ってくる。飢えた人々の一団がその鳥の大群を追い払ってしまう。少年は恐ろしくなって浜辺から逃げ出すと老人の腕が彼を抱きとめる。
A: この冒頭シーンのメタファーは、観客のそれぞれが違って受け止めると思います。少年を抱きとめた<老人>が誰かも含めて。監督が演じているから老アレハンドロと考える観客が多いかと思いますが、回想録を読んだ方は違うかも。父方の祖父アレハンドロは統合失調症で何度も異次元をさまよい最後は狂気に陥った人。この同じ名前の祖父は自分のなかに想像上の人物Reveレーベを住まわせていた。父ハイメも自分の都合によって息子の教育にレーベを利用した。次第に少年はレーベを友とするようになり、自分の内からわきあがる声をレーベに貸し与え、その助言を想像し、それに従って行動したと書いている。

(老アレハンドロと少年アレハンドロ)
B: 他にも温厚で聖人のようだった母方の継祖父モイシェも混在しているのではありませんか。本作は同タイトルの自伝的回想録の少年時代がベースになっていますが、自由にアレンジした殆どフィクションです。
A: 老アレハンドロでもレーベでも、夢想好きな少年アレハンドロの分身でも同じことですが。先に回想録を読んで映画を見た人は、極端にデフォルメされた父ハイメと母サラには呆気にとられたと思います。文学と映画という表現方法の違いもありますが、ジャンルの違い以上に二つには十年以上の時の流れがあったということです。監督の心の軌跡を垣間見ることにもなっています。
B: どの映画にも言えることですが、「コレはコレコレを意味しています」と断定するのは避けなければならない。観客は自分が受けたイメージに合わせて自由に解釈していいと思う。
A: 回想録ではまだ果たせなかった和解を、80歳過ぎて映画にすることで、三代にわたる複雑で歪だった一族の和解がやっとできたという印象です。それまでは偏った価値観の両親、プリンセスのように家族に君臨した姉を許すことができなかったんだと思う。
B: 現在では、2歳年上の姉ラケル・レア*も鬼籍入りしましたからね。
A: 母サラはハイメと別れた後ペルーで娘と暮らし、監督が50歳のとき(1979年)亡くなった。監督によると、ラケルは両親の愛を独り占めにしていたが、父ハイメの束縛から脱出するため偽装妊娠をして挙式を急がせたという。実際花婿はラケルに指一本触れてなくバージンだった。見栄っ張りなハイメは結婚費用に全財産をつぎ込んだあげく破産した。息子アレハンドロも末子アダンが生れた頃(1979)、未完の映画「牙」のプロデューサーが破産して、監督自身も一文無しになった。ハッハッハ。

(晩年のラケル・ホドロフスキー)
*ラケル・レア・ホドロフスキー:詩人、1927年トコピージャ生れ。15歳のときユダヤ系移民の数学教師サウル・グロスと結婚するも間もなく破綻。1950年代に国立サン・マルコス大学の奨学金を得てペルーへ移住、小説家、文化人類学者のホセ・マリア・アルゲダスと知り合い、ペルー文化に寄与。ユダヤ系アメリカ人、ビート文学の代表者、詩人アレン・ギンズバーグ(1926~97)とは互いに連絡を取り合っていた。両親が同じ船でアメリカに到着した間柄だった。2011年10月27日、首都リマで死去(享年84歳)。処女詩集は“La Dimensión de los Días”、他に“Poemas Escogidos”、“Caramelo de Sal”など。
誰にも愛されなかった父ハイメ
B: 映画には父親ハイメをたばかった<女王さま>は登場しません。
A: ハイメが唯一愛をそそいだ存在だったのに裏切った。緑の瞳の美しい娘でラケリータと父は呼んで可愛がった。王女さまの目には弟アレハンドロは透明人間、ハイメから無視されていた母サラと少年は、常に余所者として存在し、そういう関係で連帯していたのではないか。だから映画では姉は見事に消されてしまった。
B: ハイメは勤勉な靴職人だった父アレハンドロを憎んでいたという。そういう父親と同じ名前を息子に付ける。やはり尋常とは思えない。ハイメの歪な人格には出自以上に、その苦労の大きさが影響を与えている。
A: ハイメの兄妹は5人で日本風に言うと次男です。長男はドニエプル河の氾濫で溺死していたから実際上は長男だった。1914年に父親が死んだとき、母テレサと一人の弟、二人の妹が残された。実直な靴職人には何の蓄えもなく母子は道に放り出された。ハイメは家族を食べさせるため学業を止め、荷役人夫、炭売り、坑夫、店を持つ前はサーカスの空中ブランコ乗りの芸人だった。
B: これは映画にも登場します。ろくすっぽ教育を受けていなかったから、監督に言わせると、マルクス主義も自己流の解釈だったようです。
A: 主人公ハイメを演じた長男ブロンティスは「サーカスのブランコ用の綱に登らなくちゃならないし、祖母サラとのセックスシーンもあるし、拷問シーン、聖人との出会い・・・いい経験だが大変だった」と語っています。本作には監督の3人の息子全員が出演していますが、ハイメ役ほど精神的に厳しい役はない。事実上の祖父ハイメを孫の自分が演じるというより、父親の父親を演じるという意識があった。本当のサラは祖母だが映画では妻、パメラ・フローレスは妻と同時に潜在意識では祖母だから混乱した。
B: 巷では監督だけに光を当てていますが、このブロンティスの怪演なしに映画の成功はなかったと思う。虚栄心と憎しみをエネルギーにした矛盾だらけの人格、苦労と怒りで心の発達が子供で止まってしまい体だけが逞しくなった人間の悲しみ、粗野と純粋が複雑に絡み合ったハイメを演じ切りました。
A: 監督もブロンティスには一目置いていますね。さて、サラを演じたパメラ・フローレスは、チリ生れのオペラ歌手、女優。第2作目、デビューはフランス映画。その叙情的な声にはうっとりします。今後いい監督に出会えることを期待したい。
B: 実際の両親も映画同様「蚤の夫婦」で、妻のほうが夫よりかなり大きく、パメラの胸のように豊満だったという。体形に合わせて声もオペラのアリアのようだったらしく、サラのセリフをオペラ風にしたアイディアはそこから生れたのかもしれない。

(パメラ・フローレスとイェレミアス・ハースコヴィッツ、映画から)
A: 母親についてのホドロフスキーの記憶には曖昧なところがあり、回想録と家系図“Metagenealogia”(後述)には矛盾があります。必ずしも幸せとはいえなかった母親を美化できるのは、子供しかおりませんから不思議ではありません。(サラ・フェリシダー・プルランスキーについては前回①にUP)
息子たちの母親は誰?
B: 生れた順にハイメを演じたブロンティスから。
A: ブロンティスはベルナデット・ランドリューを母に1962年メキシコで生れた。パリの演劇界ではよく知られた俳優。母親は父親を愛したが、父親はそうではなかった。仕方なく生れたての赤ん坊ブロンティスを背負ってフランスへ、父との再会は6年後、6歳で呼び戻されるまで父親を知らない子供だった。そして6カ月後に『エル・トポ』(70)で映画デビュー、これは前回書きました。
B: 監督曰く、呼び戻したのではなく、母親ランドリューがアフリカから送りつけてきたという。
A: 荷物じゃあるまいし、まったく。実際は監督が迎えに行った(笑)、愛が憎しみに変わっていたというわけです。他に『ホーリー・マウンテン』、『サンタ・サングレ』に出演しています。
B: ランドリューはその後、先鋭的なコミュニズムの政治活動に専念、1983年スペインの飛行場で離陸に失敗した飛行機に乗り合わせていて亡くなった。
A: ぐちゃぐちゃになった遺体を一人で確認したブロンティスは、まだ21歳の多感な青年だったから、トラウマを抱えることになった。ランドリューの子供はブロンティスだけです。行者になったクリストバル、アナーキストになったアダン、1995年に事故死したテオの3人の母親はメキシコ出身のヴァレリー、比較的長続きしましたね。彼女は『ファンド・アンド・リス』(68)や『エル・トポ』にヴァレリー・ホドロフスキー名で出演しています。娘エウヘニアの母親は分かりませんでした。今はフツウの人生を送りたいと一家とは離れて暮らしています。

(行者に扮したクリストバル・ホドロフスキー)
B: 次男クリストバル(同アクセル)、1965年メキシコ生れ。サイコシャーマン(患者に即興の劇を演じさせる心理療法をする)、俳優、造形アーティスト。『サンタ・サングレ』では主演、本作では行者になりました。
A: 四男アダン(同アダノフスキー)、1979年パリ生れ(公式サイトに南アメリカとあるがWikiと回想録によった。カタログは未確認)。俳優、監督、ミュージシャン(ベースギター奏者、ピアノ、作曲)とキラキラ輝いている。本作ではイバニェス暗殺に失敗して自殺するアナーキスト役と音楽を担当した。『サンタ・サングレ』、ジュリー・デルピーの『パリ、恋人たちの2日間』(2007)などに出演。短編“The Voice Thief”(2013、米・仏・チリ)が「ジェラールメ映画祭2014」(仏)で短編賞を受賞した。父親アレハンドロも出演、ストーリーも共同執筆して応援した。本作のプロデューサーの一人ハビエル・ゲレーロ・ヤマモトも出資している。

(アダンとホドロフスキー)
ホドロフスキーは何婚したの?
A: 結婚した、いや恋人だったという女性がマリアンヌ・コスタ、“La via del tarot”(2004)と“Metagenealogia”(2011)の共著者です。これも前回少し触れました。正式に籍を入れたのか親密なパートナー関係だけだったのか複数のウラが取れなかった。ホドロフスキーがタロットを読みといて行うサイコマジックの処方行為の記録を取っていた女性。1960年代の初めにフランスで生れ、大学では比較文学を専攻、作家、ロック歌手、感傷小説の翻訳者。紛争後のサラエボで、フランス文学のアシスタント、アンドレ・マルロー文化センターの協力者として働いたという大変な才媛。詩集も出版していて、舞台女優でもある。今年春に来日した監督はインタビューで、新妻パスカル・モンタンドンとは、「10年前に結婚」と語っていましたから、関係を解消した後も仕事はいっしょに続けていたことになります。

(マリアンヌ・コスタと監督)
B: パスカル・モンタンドンとは親子ほど年が離れていますから、最初は名前の公表をしないよう周囲に頼んでいたとか。世間的にはスキャンダルの類です。
A: 長男次男より若いのかな。70歳を過ぎて再婚、イスラエルに移住したという父ハイメがダブります。憎み合った父子でしたが不思議な縁です。あちらは子供まで2人できた! パスカルは本作の衣装デザインを手掛けている、ヴェトナム系フランス人の画家、デザイナー。彼女の一目惚れのようです。監督はさすがにビビって、パスカルの父親(つまり舅)に承諾を貰いに行った。舅より1日だけ若かったので許して貰えた。アッハッハ。

(パスカル・モンタンドンと監督)
B: 回想録には夢で最初の妻「デニス」と再会するくだりがあります。
A: この女性は繊細で知的で狂気につけ狙われていた。故郷カナダの精神病院に入院させたとき、20本脚のテーブルの制作に没頭していたという。夢では、デニスのまわりには親友で詩人のエンリケ・リン、トポール、息子テオがいたという。デニスを含めると何人と結婚したのか、他に短期間のパートナーもいたから(ヘビースモーカーだったので直ぐ別れた)正確には分からない。また変わるかもしれないしね。
B: 鬼才と一緒に暮らすのは容易なことではありません。
個人的なカタルシス
A: 近年、スペイン語映画でこれほどジャンルを越えて話題になった監督作品は記憶にありません。ボラーニョが「チリの作家」と紹介されるたびに覚えた違和感がホドロフスキーにも当てはまります。「チリ生れの」ぐらいが妥当でしょう。
B: 「チリの監督」では括れない。ブニュエルの小人、『フェリーニのアマルコルド』、サーカスに魅了され裕福な家庭を飛びだしてピエロをやっていたトッド・ブラウニング監督を思い出す人は相当のシネマニア。
A: でもそれらとは「違うのが私の映画」と監督は語っています。
B: 未公開の“The Rainbow Thief”(1990)から数えて23年振りの映画が大成功、世界を駆け巡っています。ブロンティスも台湾→エストニア→フランス→メキシコ→ケベック→アメリカと、父親と手分けして行脚をしています。
A: メキシコでは最近とみに存在感を増してきた「モレリア国際映画祭2013」で上映され、今年6月に一般公開されたのには驚いた。1974年の『ホーリー・マウンテン』では、撮影の途中で「アレハンドロに死を!」と叫ぶ群衆にマンションを取りかこまれ、やむなくニューヨークで仕上げた。年末に生活の本拠をパリに移した理由の一つと思います。ずっと時代が下ったカルロス・カレロの『アマロ神父の罪』(2002)でさえ暴動が起きて上映中止になったくらいだから、公開は無理だと思っていた。
B: アジアでは「釜山映画祭13」がさすがに早く、「香港映画祭14」、「エルサレム映画祭14」と上映が続いているが、国民の大半がカトリックの中南米諸国では目下のところチリとメキシコぐらいです。
A: 軍事独裁政で苦しんだスペインやアルゼンチンはまだのようですが、多分公開されないのではないか。泣き虫の独裁者などあまりに嘘っぽくて皮肉も空回りして楽しめない。他人が踏み込めない個人的な辛い記憶からの解放に政治を持ちこむことへの拒否反応が予想されます。
B: 豊かな色彩や音楽は楽しめても、鉱山事故で手足をもぎ取られた人々のゴミ扱いは、事実だっただけに爆弾を落とされたように感じる人がいるかもしれない。
A: 日本は長いこと戦争や飢えを知らずにいるから、こんな感想は無用でしょうか。
『ビースト 獣の日』アンヘル神父アレックス・アングロ逝く ― 2014年07月21日 22:34
アレックス・アングロ逝く
★以前、管理人がよくお邪魔していたブログCabinaさんから「アレックス・アングロ急死」の訃報が届きました。 7月20日午後15:30(現地時間)、リオハの国道で交通事故に遭遇して亡くなった。ハンドルを握っていたのはご自身らしい。アレックス・デ・ラ・イグレシアの作品で日本のファンにもお馴染みでした。名脇役者として新旧の監督に起用されたことは、公開未公開も含めて指折り数えたら結構な数になったことでも分かります。ここに哀悼の意をこめて急遽UPすることに致します。訃報を聞いた「ビースト 獣の日」の監督アレックス・デ・ラ・イグレシアは、一言「神さま・・」と絶句したと。本当に人生は儚いものです。

(彼の誠実な人柄が知れるいい写真です)
★以下は劇場公開・映画祭上映・DVDなど(製作順):
①1992 「ハイルミュタンテ!電撃XX作戦」 アレックス・デ・ラ・イグレシア 公開1994
②1994 「わが生涯最悪の年」 エミリオ・マルティネス・ラサロ スペイン映画祭1997
③1995 「ビースト 獣の日」 アレックス・デ・ラ・イグレシア 公開1995
④1996 「17歳」 アルバロ・フェルナンデス・アルメロ 未公開・ビデオ・テレビ放映
⑤1997 「ライブ・フレッシュ」 ペドロ・アルモドバル スペイン映画祭1998上映 公開1998
⑥1999 「どつかれてアンダルシア」 アレックス・デ・ラ・イグレシア 公開2001
⑦2001 「マイ・マザー・ライクス・ウーマン」 ダニエラ・フェヘルマン&イネス・パリス
東京国際レズ&ゲイ映画祭2003/第1回ラテンビート2004上映
⑧2006 「パンズ・ラビリンス」 ギジェルモ・デル・トロ 公開2007
★漏れがあるかもしれませんが、チョイ役も含めて結構あります。なかでも多くのファンの記憶に残るのは「ビースト 獣の日」のアンヘル神父ですね。珍しく主役でゴヤ賞1996ベスト男優主演賞ノミネート、オンダス賞とスペイン俳優組合賞の二つで受賞しました。ゴヤ賞がらみでいうと、「どつかれてアンダルシア」、未公開作品オスカル・アルバルの“El Gran Vázquez”(2010)で助演男優賞にノミネートされました。残念ながらゴヤ賞は受賞歴なしです。

(「ビースト 獣の日」共演のアルマンド・デ・ラッツァとサンティアゴ・セグラに挟まれて)
★日本でもロングランになった「パンズ・ラビリンス」では、ゲリラ側にたつ医師に扮し、それが発覚して卑怯にも背後から撃たれて死ぬ役でした。本作についてはカビナさんが詳しい紹介をしております。他にも「マイ・マザー・ライクス・ウーマン」、“El Gran Vázquez”なども。前2作については、管理人も本ブログと同じハンドルネームでコメントしています。
*キャリア紹介*
★アレックス・アングロ Alejandro ≪Alex≫ Angulo Leon :1953年4月12日、ビスカヤ県のエランディオErandio 生れ、俳優、2014年7月20日死去、享年61歳。最初は教職を目指していたが、23歳のとき自分のやりたいことは演技者と気づき進路変更を決意した。舞台俳優から映画、テレビと活躍の場を広げ、トータルで短編、テレビを含めると90作以上になる。映画はバスク映画界を牽引してきたイマノル・ウリベのETA三部作“La fuga de Segovia”(1981未公開)でデビュー、実話に基づくドキュメンタリー手法で撮られた力作です。
★アングロの人柄は、不屈、誠実、礼儀正しい教養人と、映画の登場人物に似ていて、悪口は聞こえてきませんでした。映画をご覧になった方は異を唱えないと思います。長寿テレドラ・シリーズ“Periodistas”の共演者ホセ・コロナドも「彼ほど大きな心をもった人を知らない・・・友よ、安らかに」とコメントを寄せています。コロナドはエンリケ・ウルビスの『悪人に平穏なし』(2011)の主役になった俳優、アングロは出演しませんでしたが、ウルビスの初期のコメディ“Tu novia está loca”(1988)、“Todo por la pasta”(1990)に出演していました。本ブログでご紹介したことがあります⇒コチラ。
★纏まらない記事ですが、取りあえずUPしておきます。これからなのに、本当に残念です。
映画国民賞2014は脚本家ローラ・サルバドール ― 2014年07月24日 16:20
★まず、映画国民賞
Premio Nacional de
Cinematografiaというのは1980年に始まった賞です。国民賞は他に文学賞や美術賞、科学賞いろいろあるようです。選出するのは日本の文部科学省にあたる文化教育スポーツ省と映画部門ではICAA(Instituto de la Cinematografia y de las Artes
Audiovisuales)です。副賞は3万ユーロと少額ですが、1年に1人ですからゴヤ賞とは比較にならない「狭き門」、かなりの栄誉賞です。一時期(19887~94)は2人でしたが、今は1人に戻っています。特に映画部門は監督・俳優・製作者・音楽家・脚本家と多方面にわたるから、文学のように1人というわけにいかない。大体前年に活躍したシネアストから選ばれます。例年7月に発表になり、授賞式は9月のサンセバスティアン映画祭です。

★今年の受賞者、ロラ・サルバドール Dolores(Lola) Salvador Maldonadoは、1938年バルセロナ生れの脚本家、劇作家、プロデューサー。ラジオの脚本家として出発(1962)、テレビ・シリーズ(1973~)、演劇、映画(1980~)と幅広い活躍が認められた。脚本家が選ばれるのは珍しく、1982年の故ラファエル・アスコナ以来というから地味な分野です。監督が脚本家を兼ねていることがその一因かもしれない。テレビ・シリーズは『セサミ・ストリート』(1979)のスペイン語版を手掛けた。演劇の代表作はテネシー・ウィリアムズの『熱いトタン屋根の猫』(1984)、ヘンリック・イプセンの『幽霊』(1993)などクラシック作品を翻案した。執筆以外に教師として若いシネアストの指導に当たっている。
*代表的フィルモグラフィー(ライター)*
1980 El
crimen de Cuenca 『クエンカ事件』* 監督:ピラール・ミロー
1983 Bearn
o la sala de las muñecas 「ベアルン」** 監督:ハイメ・チャバリ
1984 Las
bicicletas son para el vsrano 「自転車は夏」** 監督:ハイメ・チャバリ
1984 El
jardín secreto 「秘密の庭」 監督:カルロス・スアレス
2001 Manolito Gafotas en ! Mola ser jefe ! 「メガネのマノリート」 監督:Joan Potau
2001 Salvajes 「教養のない人々」 監督:カルロス・モリネロ
2008 Titón, de la Habana a Guantanamera 「ティトン」 監督:ミルタ・イバラ
★比較的高評価の作品を選びました。脚本は単独より監督や原作者との共同執筆が多い、上記もすべて共同です。*は「第1回スペイン映画祭1984」の邦題、**は乾英一郎の『スペイン映画史』により、その他は一応仮題を付けました。

(「自転車は夏」より、右ガビノ・ディエゴ)
★フランコ時代からという経歴から、厳しい事前検閲と戦ってきた世代といえます。特に『クエンカ事件』は、フランコ没後の民主主義移行期の作品にも拘わらず、ミロー監督が事情聴取のために拘留されるという一大スキャンダルとなりました。1913年クエンカで起きた冤罪事件がテーマ、治安警備隊が自白を強要するために行った凄惨な拷問シーンが理由でした。「ベルリン映画祭1980」の正式出品ということもあって、検閲廃止が名ばかりであったことが内外に知れ渡ってしまうという汚点を残してしまった。サルバドールは「フランコ残党のこれが最後のあがきだったのよ」と語っています。粒揃いだった「第1回スペイン映画祭1984」の上映作品は、その後『エル・スール』のように公開された作品が多かったのですが、本作は映画祭上映だけで終わりました。

(『クエンカ事件』より、爪を剥がすシーンは序の口、もっと凄惨なシーンがある)
★受賞歴は、「ゴヤ賞2002」に“Salvajes”で監督以下4名が「最優秀脚色賞」を受賞、2011年、内閣府より芸術功労者に与えられる「Medalla de Oro金のメダル」を受賞しています。脚本家という仕事が世間的にどんな職業か知られていない不満はあるようですが、「今は文句を言う時ではなく、とにかく受賞は素晴らしい」という辛口談話を出しました。自分にも他人にも厳しい人のようです。
第1回受賞者はカルロス・サウラ
★因みに過去に、どんなシネアストが選ばれているかというと、第1回がカルロス・サウラ→故ルイス・ガルシア・ベルランガ→故アスコナ→故パブロ・ゴンサレス・デル・アモ→故パコ・ラバル→マリオ・カムス・・・の順。やはり監督が多い。最初の俳優受賞者パコ・ラバルは依然アップした『無垢なる聖者』の演技が認められて受賞したのでした。大分鬼籍入りしてます。
★運不運があるのは何の賞でも同じ、大物監督アントニオ・バルデムは受賞できないまま旅立ったが、代わりに甥のオスカー俳優ハビエル・バルデムが『ノーカントリー』の国際的な活躍で2008年受賞しました。若くても貰えます。例えば、イマノル・ウリベの『時間切れの愛』でカルメロ・ゴメス2009、昨年は『インポッシブル』のフアン・アントニオ・バヨナが泥船だったスペイン映画界の救世主として受賞、おなじ救世主でも政府やICAAに批判的なサンチャゴ・セグラはまだ声が掛からない(笑)。でもペドロ・アルモドバルは1990年受賞しています、何しろヒット作を飛ばしていたから無視できなかった。それにまだテキも少なかった。
★上記以外の当ブログに登場してもらった受賞者には、故エリアス・ケレヘタ1987、カルメン・マウラ1988、故ホセ・マリア・フォルケ1994、マリサ・パレデス1996、モンチョ・アルメンダリス1998、メルセデス・サンピエトロ2003、マリベル・ベルドゥ2009、アレックス・デ・ラ・イグレシア2010、アグスティ・ビリャロンガ2011、音楽家ではホセ・ニエト2000、アルベルト・イグレシアス2007、撮影監督ではハビエル・アギレサロベ2008など、男性優位です。
★現在の ICAA の役員は、スサナ・デ・ラ・シエラ会長以下、アナ・アミゴ、エンリケ・ウルビス、ジョアン・アントニ・ゴンサレス、バヨナ、マリア・デル・マル・コル、ホセ・マリア・モラレス、マリエラ・ベスイエブスキーの8名(会長は発表直後の7月18日に辞職した)。
イサベル・コイシェの新作はサイコ・スリラー”Another Me” ― 2014年07月27日 17:38
★最近「ミス・ワサビ」ことイサベル・コイシェの話題が聞こえないなぁと思っていたら、ホラー映画“Another Me”(2013、英≂西)が、スペイン題“Mi otro yo”で6月27日公開されました。残念ながら言語は英語です。6月末のことだから、もうニュースじゃないか。その後、立て続けに新作がアナウンスされています。コイシェも1960年生れだから人生の折り返し点に差しかかってきた。

(ソフィー・ターナー、“Another Me”から)
★イマイチだった『エレジー』(2008)に続いて『ナイト・トーキョー・デイ』(2009)ではガックリしてしまったのですが、新作は面白そうです。『ナイト・トーキョー・デイ』以来、ガルソン判事のドキュメンタリー、ドラマでは“Ayer no termina nunca”(“Yesterday Never Ends”)が「ベルリン映画祭2013」のコンペに出品され、「マラガ映画祭2013」でもエントリーされた。コイシェが銀のジャスミン監督賞、カンデラ・ペーニャが同女優賞、ジョルディ・アサテギが同撮影監督賞・編集賞のダブル受賞をしてマラガでは話題になりましたがヒットしなかった。わが子を失ったことで壊れてしまった夫婦が、5年後にバルセロナで再会するという地味な内容というか、デジャヴュのせいか、経済危機のせいか歓迎されなかったようです。夫婦を演じたのがペーニャとハビエル・カマラと申し分なかったのですが。
★さて、前作とがらりとスタイルを変えて登場した“Another Me”は、例年11月開催の「ローマ映画祭2013」でプレミアされた。主にイギリスの俳優を起用(言語が英語ですから)、撮影もウェールズの首都カーディフで行われた。オリジナル・タイトルは“Panda eyes”でしたが“Another Me”に改題された。いわゆるドッペルゲンガーもの(英語だとダブルといってる、要するに「もう一人の自分を幻視する」こと)。ホラーというよりコイシェ風に味付けされたサイコ・スリラーの印象です。思えば彼女のデビュー作“Demasiado viejo para morir
joven”(1989)はスリラーでした。「コイシェ、激しい妄想に取りつかれるサイコ・スリラーに初めて挑戦」と書かれていますが、「再び」が正しそうです。ホラー大好き日本、既にどこかが配給権取ってるのかな。
*“Another Me”(“Mi otro yo”)*
製作:Rainy Day Films / Tornasol Films
監督・脚本:イサベル・コイシェ
原作:キャサリン・マクフェイルの同名小説“Another Me”
撮影:ジャン≂クロード・ラリュー
音楽:マイケル・プライス

データ:英≂西合作 言語:英語 2013 ミステリー 撮影地:ウェールズのカーディフ 86分
キャスト:ソフィー・ターナー(フェイ)/ジョナサン・リース・マイヤーズ(教師ジョン)/クレア・フォラーニ(フェイの母アン)/リス・エヴァンス(フェイの父ドン)/グレッグ・Sulkin(ドリュー)/ジュラルディン・チャップリン(ブレナン夫人)/イバナ・バケロ(Kaylie)/レオノール・ワトリング他
プロット:高校生フェイの人生は完璧のように思われたが、すべてが思いがけないやり方で少しずつ変わり始めていた。ある日のこと、フェイは何者かに付け狙われているような感覚を覚えた。それは彼女そっくりのもう一人の自分、次第にフェイの内面に入りこみ彼女を脅かすようになった。アイデンティティばかりでなく人生そのものが崩壊していくなかで、フェイの過去の秘密が明かされてゆく・・・
★日本のホラー映画『リング』(1998)にインスパイアーされたと言われていますが、監督自身によると「リングはそんなに怖くなかったの。より大きい影響を受けた映画は、スウェーデンのヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストが2004年に発表したサスペンス小説“Let the Right One in”で、それを映画化したもの」という。いわゆるヴァンパイア映画でスウェーデンのトーマス・アルフレッドソンが監督した。シッチェス映画祭2008で上映され、日本では『ぼくのエリ200歳の少女』の邦題で2010年に公開されヒットした。2010年に英語版をマット・リーヴスが舞台をニューメキシコに移して“Let Me in”として リメイクした。こちらも『モールス』の邦題で2011年公開された。スペインではどちらのタイトルも“Déjame entrar”で、題名からだけではどちらを指すか分からない(困ったもんだ)。
★以前から自分の好みとは無関係のジャンルで撮りたいと模索していた。若者の世界に引きつけられていて、たまたまそういうとき、テレビで故ロバート・マリガンの“The Other”(1972、スペイン題“El otro”)を見た。とても怖かったと語っています。日本では『悪を呼ぶ少年』の邦題で公開、じわじわと恐怖が湧きおこるスリラー映画の佳作。マリガン監督はサマセット・モームの『月と六ペンス』を映画化したり、ゲイリー・クーパーを主役にした『アラバマ物語』などでオールド・ファンには懐かしい。
★今までの個人的な好みが強く、デリケートで、少しもったいぶったカルト的映画とは違った本作は、広い層に受け入れられているようです。あるコラムニストは、荘子の説話「胡蝶の夢」に言及している。荘子が胡蝶が飛んでいる夢を見て目覚めたが、「果たして自分が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て自分になったのか」と自問する説話です。自分をフェイ、胡蝶を分身に置き換えると分かりやすい。分身がフェイの内面に入りこんできてしまう。
★監督はアルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの『コーラ看護婦』に触発されて、『あなたになら言える秘密のこと』を撮ったというほどのコルタサル・ファンです。彼の分身ものとは少し違いますが、ドッペルゲンガー、鏡、悪夢、写真、空想と共通項が多い。過去に戻ろうとしても一回りしてくると現実に戻ってくる。メビウスの帯のように無限に繰り返され、逃げ口は閉ざされている。逃げても追いかけてくる怖い話です。

★主役のソフィー・ターナーは、人気テレドラ・シリーズ『ゲーム・オブ・スローンズ』*のサンサ役でお馴染みですね。1996年生れの17歳と演技は未知数ですが、コイシェによれば、「ワルキューレのようにエネルギーに溢れ、それでいてよく秩序を守り、純粋よ」と高評価、「リス・エヴァンスは雰囲気作りが上手く、セット以外でもお父さんのようだった」。他にコイシェがすべてのジャンルを網羅できると信頼しているのがジュラルディン・チャップリン、「そのインテリジェンスとエネルギーには脱帽」とぞっこん。次回作にも出演の予定。友人でカメオ出演しているのがレオノール・ワトリング、「もっと重要な役をやりたかったのに」と監督に文句言ってたらしいけど、「いずれ彼女を主役に撮るつもりだ」とコイシェ。ジュリエット・ビノシェを主役にした“Nobody Wants
the Night”(2015予定)の後になるようだ。デル・トロの『パンズ・ラビリンス』(2006)の美少女イバナ・バケロも大人になって出演しています。
*『ゲーム・オブ・スローンズ』については、“10,000 KM”の主演女優ナタリア・テナのところで触れています。(4月11日⇒コチラ)

(監督が手を焼いた、ジョナサン・リース・マイヤーズ)
★反対に二度と仕事をしたくないのがジョナサン・リース・マイヤーズ、「勿論イケメンよ、しかし秩序は乱すし、悩みの種だった。可能性を秘めてるけど、コミュニケートするのが難しかった。忍耐に忍耐を重ねて完成させたの。今までこんな経験したことなかった」と不満を吐露した。はっきりものを言うコイシェだが、自作に起用したばかりの俳優について、しかも公開インタビューの席での発言にしては珍しい。ウディ・アレンの『マッチポイント』(2005)の冷酷な殺人犯役が記憶にありますが、扱いにくかったようです。ローマ映画祭にも現れませんでしたね、お互い顔を合わせたくなかったのでしょう。

(左から、ワトリング、グレッグ、監督、ソフィー、クレア・フォラーニか。ローマFF)
世界を駆け巡るミス・ワサビ
★次回作は“Learning to drive”、『エレジー』に出演したベン・キングズレーがパトリシア・クラークソンとタッグを組んで、ニューヨークでの撮影も昨年終了した。今年中に完成の予定。クラークソンは『アンタッチャブル』でデビュー、『エデンより彼方に』などが代表作。サラ・ケルノチャンの同名エッセイの映画化。やはり言語は英語です。ケルノチャンはロバート・ゼメキスが監督した『ホワット・ライズ・ビニース』(2000)の原作者、ハリソン・フォードとミシェル・ファイファーが主演したサスペンス・スリラーでした。
★現在は先述の“Nobody Wants the Night”(“Nadie quiere
la noche”)がカナリア諸島で進行中、ジュリエット・ビノシェ、ガブリエル・バーン、『ナイト・トーキョー・デイ』の菊池凛子、脚本はミゲル・バロスと国際色豊か。バロスはマテオ・ヒルが監督した『ブラックソーン』(2011)の脚本家、伝説の無法者ブッチ・キャシディの伝記映画。コイシェは「脚本は何回も満足いくまで書き直す、これも4年前から温めていたプロジェクトです。3年前にアビニョン演劇祭でビノシェに会い、出演が決まった」という。こちらも英語です。
★いつも上手くいくとは限らない、例えばロベルト・サビアーノの小説の映画化を企画してイタリア語を勉強していたが実現に至らなかったそうです。サビアーノはベストセラー小説『死都ゴモラ』の著者、2008年に映画化された『ゴモラ』もヒット、ナポリのマフィア組織を糾弾したことで脅迫を受けていた。
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