アレハンドロ・ホドロフスキー 『リアリティのダンス』①2014年07月14日 23:05

★前回アップしたドキュメンタリー『ホドロフスキーのDUNE』と重なる部分が出てきてしまいますが、二つはセットになって世界行脚をしていますから仕方ありません。公開中ですが熱が冷めないうちにアップします。当然ネタバレしていますからご注意ください。2001年刊行された回想録La danza de la realidadをベースにして映画化されました。まあ<自伝>のようなものだからフィクションも混じっていると考えてよいかと思います。つまり本人の記憶で書くわけですから「こうだったと思うこと」も含まれているという意味だと解釈して下さい。ホドロフスキー自身も、登場してくる人物名・場所・出来事は本当のことですが、これは「想像上の自伝」だと断っています。2012年、同タイトルで翻訳書も出ていますが、勿論この自伝的回想録と映画は別物と考えています。似てるところもあれば創作された部分もあり、二つには違いがあるということです。

 


    『リアリティのダンス』(La danza de la realidad

製作:Camera One / Le Soleil Films

監督・脚本・プロデューサー:アレハンドロ・ホドロフスキー

撮影:ジャン=マリー・ドルージェJean-Marie Dreujou

音楽:アダン・ホドロフスキー

編集:マリリーヌ・モンティウMaryline Monthieux

衣装デザイン:パスカル・モンタンドン≂ホドロフスキー

プロデューサー:モイゼス・コシオ(メキシコ)、ハビエル・ゲレーロ・ヤマモト(チリ)、

ミシェル・セドゥー(フランス)

データ 製作国:フランス、メキシコ、チリ 言語:スペイン語 撮影地:トコピージャ、チリのサンティアゴ 2013年 130分 製作費:約300万ドル 映倫区分:日本R15+、チリR18+、メキシコR16+指定 他

 

キャスト:ブロンティス・ホドロフスキー(父親ハイメ)/パメラ・フローレス(母親サラ)/イェレミアス・ハースコヴィッツ(少年アレハンドロ)/アレハンドロ・ホドロフスキー(老アレハンドロ)/バスティアン・ボーデンホーファー(カルロス・イバニェス・デル・カンポ大統領)/アダン・ホドロフスキー(アナーキスト)/クリストバル・ホドロフスキー(行者)/アンドレス・コックス(ドン・アキレス)/カルロス・カンテロ(市長)他

 

     

            (写真左から、ウクライナ商店宣伝マンの小人、赤い靴を履いた少年アレハンドロ、
       消防隊員の服を着たハイメ、母サラの背後にスターリンの写真が飾ってある)

プロット:カルロス・イバニェスの軍事政権下、ウクライナから移民してきたユダヤ人一家は、チリ北部の港町トコピージャで暮らしていた。少年アレハンドロは威圧的で独断的なスターリン崇拝者の父ハイメ、アレハンドロを自分の父親の生れかわりと信じている母サラの愛に翻弄され、両親の偏った価値観に苦しんでいた。大きな鉤鼻と白い肌や割礼は差別やイジメを生み、悪夢と孤独、辛い現実に日々耐えていた。父親は独裁者イバニェス暗殺のため家族を捨てサンチャゴに向かう。ホドロフスキーが自らと一族の魂を癒すため初めて母国チリで撮った反時代的だった家族の再生の物語。(文責:管理人)

 

    監督紹介

アレハンドロ・ホドロフスキー Alejandoro Jodorowsky Prullansky AJ):1929217日、チリのトコピージャ生れ。国籍はチリ、1980年にフランス国籍取得、作家(小説家・戯曲家・詩人・エッセイスト、コミック)、映画・舞台監督、脚本家、俳優、パントマイム役者、マリオネット制作・役者、彫刻家、画家、デザイナー、タロット教師、サイコテラピストetc、つまりなんだ、ひっくるめるとアーティストということか。執筆は基本的にスペイン語だが、コミックやエッセイはフランス語。

 

1939年、家族は10年間過ごしたトコピージャから首都サンティアゴへ転居、チリ大学付属の中高一貫の学校Liceo de Aplicacion で学ぶ。ナチスドイツの支持者の子弟が多く通っていたため反ユダヤ主義者に囲まれ、相変わらず居場所がなかった。文学や映画に関心を抱き、1945年、最初の詩集を出版するという早熟な若者は、ニカノール・パラ(1914~)やエンリケ・リン(192988)のような詩人たちと交流を深める。同時にパントマイムやマリオネットに興味をもち、17歳で俳優としてデビュー、親友リンとともにパントマイムの劇団を創設する。1947年、チリ大学の哲学科と心理学科に入学するも3年足らずで中退する。

 

1948年、最初の戯曲La fantasma cosquillosaを書く。1950年、チリ大学実験演劇科人形芝居のセクションをを設立、リンやパラと一緒に新聞の切り抜きを用いた壁面詩のコラージュQuebrantahuesosを創作する。1953年、チリを24歳で出国してからは、主にフランス、メキシコで暮らす。196074年(メキシコ時代)、うち1972年と1974年はニューヨーク滞在。1974年末からパリを本拠に、1980年フランス国籍を取得した。チリ出国後のアレハンドロ情報は溢れております、知りたいことはググると見つかりますので割愛。

 

ホドロフスキー家の家系図

★ウクライナ系ユダヤ人のハイメ・ホドロフスキー・グロイスマン、リトアニア系ユダヤ人のサラ・フェリシダー・プルランスキーを両親にもつ複雑な出自は、本作の少年アレハンドロを理解するうえで重要と思われたので、<ホドロフスキー>の苗字の由来なども含めて前回述べておきました(「ホドロフスキー一家ディアスポラ」の項へ)。監督はこの主人公ハイメを自分の長男ブロンティス・ホドロフスキーに演じさせました。

 

      

                         (父ハイメ、母サラ・フェリシダー)

サラ・フェリシダー・プルランスキーは、ユダヤ人の事業主モイシェを父に、セファルディムのハシェ・アルカビ
Jashe Arcaviを母にブエノスアイレスで生れた。しかし実の父親は金髪のロシア人ダンサーでサラが胎内にいるとき事故で焼死した。つまり実父はユダヤ人から見ると「非ユダヤ人」異教徒(ゴイgoy
)だった。「フェリシダー(幸福)」と名付けられた理由はこの出生が背景にあると思われる。祖母ハシェもポグロムでロシアからアルゼンチンに逃れてきた。髪はブルネットだったと書いている。一家はチリ北部の港町イキケに移転、当時イキケは<白い金>天然硝石の積み出し港として繁栄していた。日本でも津波の影響で死者まで出したイキケ巨大地震(1877)の町として有名。サラは会うことのなかった実父のゴイの立場を徹しており、親に強いられてユダヤ系のハイメと結婚したという。ただし当時の結婚は親同士が決めるものであり、サラの両親を非難するには当らない。

○コミュニストのスターリン主義者ハイメは当然無神論だったから、両親はユダヤ教を信仰していなかった。ゴイと無神論者の夫婦は、イキケのユダヤ人コミュニティを嫌い、近くのトコピージャに転居、そこでアレハンドロが誕生した。監督が「宗教教育は特別受けなかった」と語っている理由の一つです。ただし割礼は受けており差別は付いてまわった。映画はここトコピージャから始まります。因みに父方の祖母の苗字グロイスマンはドイツ系、母方の祖母アルカビはセファルディム、プルランスキーはポーランド系です。

エッセイMetagenealogia マリアンヌ・コスタMarianne Costaとの共著、2011年刊

 

     チリ映倫区分「R18+」のアイロニー

 

: 2010年はサン・ホセ鉱山の落盤事故からの坑夫33名の生還劇、2012年から翌年にかけてはボラーニョ旋風、今年は春からホドロフスキー台風が上陸、何かとチリが話題になっております。ホドロフスキーをメキシコ人、またはメキシコで映画を撮ってるフランス人と思っていた人が多いのでは?

: 長編デビュー作『ファンド・アンド・リス』、『エル・トポ』がメキシコ、『ホーリー・マウンテン』はメキシコ=米国、『サンタ・サングレ』はメキシコ=伊合作です。今回初めてチリで映画を撮った。 

              

                                      (上から、トコピージャ、フランス、メキシコの順)

: 監督はチリ≂フランス合作ではなく、「フランス=メキシコ=トコピージャだ」と否定しています(笑)。チリの Fondart にはオカンムリなんです。実際、フランス(ミシェル・セドゥー)が50%、メキシコ(モイゼス・コシオ)が25%、日系チリ人ハビエル・ゲレーロ・ヤマモトと監督が各12.5%です。

; Fondart はビタ一文出さなかった。

: Fondart というのは、チリの文化芸術のプログラムに資金援助をする団体、監督によれば、「あなたの映画はゲイジュツ映画だ、私たちはそんなものに興味はない、ハリウッドのアクション映画みたいなのが見たいんだよ」と審査委員から言われたそうです。

 

: チリを出てから半世紀以上も経って、どうしてチリで撮ろうとしたんですか。

: 1995年に息子テオを24歳の若さで失って以来、アートを作る理由を考えつづけていたということが根っこにあるようです。2001年回想的自伝La danza de la realidadを発表、映画化を模索していたようです。ハビエル・ゲレーロが「チリで映画をつくるなら25万ドル出資する、Fondart40万ドルは出す」と言ったので、「じゃ、トコピージャでやろう」となった。

: ところが Fondart は断った。なにしろイバニェス軍事政権下のチリが舞台だって言うんだから。 

      

         (独裁者イバニェス大統領の張り紙の前を連れだって歩く父子、当時アイスは贅沢品)

: 警戒しますよ。何を作りだすか分からないホドロフスキーの才能が怖かったんだと思う。しかし『ホドロフスキーのDUNE』のお蔭でミシェル・セドゥーと35年振りに再会できた。新しいプロジェクトの話をしたら、「どのくらい必要」と訊かれたので、「100万~200万ドル」、「いいよ」となった。

: データによると、製作費はアバウトで300万ドルでした。つまりドキュメンタリー「DUNE」での再会がなかったら、こんなに早く誕生しなかったかもしれない。

 

: この映画は極めて政治的な映画です。カルロス・イバニェスはピノチェトの透かし絵でしかありません。それに1929年の世界大恐慌の経済危機は、ピノチェトが推進した長い新自由主義のせいで危機的状況に陥っていたことに重なる。貧しい人はより貧しく、一握りの富める人はますます豊かにという国民の経済的二極化と読める。そのほか硝石鉱山の事故で手足を失った坑夫が何の保障もなくゴミ扱いされるなど、現在とあまり変わっていないのではないですか。

: ピノチェト支持者が3割、反ピノチェトも同じ3割、残りがどちらでもない人々、ピノチェトはまだ生きているというわけですね。2006年ですから10年も経っていない。さすがに国葬ではなかったけれど、あの最高の栄誉で行われた陸軍葬に世界は目を剥いたのでした。

: ホドロフスキーの少年時代は、イバニェス大統領時代ではなかった。彼は第20代(192731)と第26代(195258)の2回大統領になっています。監督は1929年世界大恐慌の年に生れたから、映画は56年くらいずらしています。もっとも1931年に失脚したあと一時アメリカに亡命しますが、1年足らずで舞い戻り、裏で糸を引いていたから同じかな。

 

: 映倫区分がR18+は、いくらなんでもやりすぎです。

: Fondartの審査委員に神父さんがいたんではと揶揄されています。確かに残酷なシーン、ヌードやセックス・シーンがありますから。でも今時の子供は1314歳になればネットで見放題なのではないかしらん。これが却って人々の関心を呼び起こしてしまった。つまり国民に知られたくないことが盛り込まれているようだと。(続く)