バルガス=リョサvsガルシア・マルケス*40年間の沈黙を破る2017年07月20日 14:14

             ガルシア・マルケスとの親密な友情関係の始まり、1967

 

★毎年恒例となっているマドリード・コンプルテンセ大学の夏期講座が、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリア市で始まった。世界各地から受講者を集めるスペインでも有数の夏期講座です。ペルーのノーベル賞作家マリオ・バルガス=リョサ(1936)は本講座のプログラム編成をしています。この度コロンビアのエッセイスト、カルロス・グラネスをインタビューアーに迎えて、作家本人が対談形式でガルシア・マルケス(1927-2014)についての講義を行いました。しかしこの授業の目玉の一つは、1967年に始まったガルシア・マルケスとの幸せだった10年間が、1976年いかにして決裂するに至ったかだったにもかかわらず、新たなデータを掘り起こすまでには至らなかった印象です。結局、謎は謎のまま、コロンビアの作家同様、ペルーの作家も秘密を墓場まで持って行くつもりのようです。

 

 

 (バルガス=リョサとカルロス・グラネス、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリア、75日)

 

★後にノーベル賞作家となる二人にとって、1967はカラカスの飛行場で初めて顔を合わせて以来、10年間続く幸せの友情が始まった年でした。またガルシア・マルケスにとっては友人から可能な限りの借金をし、家財道具まで売り払って家族に極貧を強いて完成させた『百年の孤独』が、530日に刊行された年でもありました。どうしてカラカスだったのかと言えば、ペルーの作家の『緑の家』が第1ロムロ・ガジェゴス賞を受賞し、コロンビアの作家がそのプレゼンターだったからです。ベネズエラの小説家で政治家でもあったガジェゴスを記念してベネズエラ政府によって創設された文学賞(スペイン語で書かれた作品を5年ごと1作選ぶ)。1972年、第2回目の受賞作品はマコンドの作家の『百年の孤独』でした。

 

 

 

★バルガス=リョサ VL によると、ガルシア・マルケス GM の『大佐に手紙は来ない』(1961年、コロンビア刊)が自分のところにやってきたのは前年の1966年だったという。当時フランス・ラジオ・テレビジョンでラテンアメリカの新刊紹介のような番組を担当していた。本作の翻訳書がパリに現れたのが1966年だったというわけです。厳正なリアリズムと老大佐の明快な描写がとても気に入った。そしてガルシア・マルケスという作者に是非とも会いたいと思うようになった。それから二人の間で熱心な手紙のやり取りが始まり、実際に会う前に既に二人は友人関係を築いており、カラカスを去るころには大の親友になっていたという。

 

★対談にありがちなことだが、会話はあっち飛びこっち飛びしたようだが、例えばカミュ、サルトル、トルストイ、ドストエフスキー、フォークナーやヴァージニア・ウルフの影響など、すでに多くのことは書かれていることですが、VL によると、ウルフの影響が大きいことをよく口にしていたという。カミュは別としてサルトルのようなフランス実存主義の作品は読んでいなくて、どちらかというと英国系の文学をより好んで読んでいたという。これもまた周知のことでしょうか。ごく個人的な二人の共通点、それは母方の祖父母に育てられ、それぞれ両親とは確執があり対立関係にあったこと、二人が若かった時代には、今日のラテンアメリカとは違って文化的連帯が存在しなかったこと、ボゴタやリマでは不可能な何かを求めてヨーロッパに向かったこと、これまた周知のことであり、受講生の多くが期待したテーマは、どうしてこの親密な友情関係が壊れたかということだったに違いありません。

 

       ガルシア・マルケスとの決裂――キューバと「パディーリャ事件」

 

1971のキューバ、ラテンアメリカの<ブーム>の作家たちを政治的に分断した「パディーリャ事件」が起こった。320日、詩人エベルト・パディーリャは妻で詩人のベルキス・クサ= マレと一緒に逮捕された。理由は一言でいえば革命に害悪をもたらす反革命的な作家ということです。妻は2日後に釈放されたが、エベルトは38日間拘留され、427日にキューバ作家芸術家連盟 UNEAC のホールに集められたメンバーを前に「自己批判文」を読まされるという拷問の末、解放された。この吐き気を催す自己批判文には、反革命的な態度をとる彼の友人作家たちの華麗なリストが含まれていた。すなわち妻ベルキス・クサ=マレ、レサマ=リマ、ビルヒリオ・ピニェラ、セサル・ロペス、ディアス=マルティネス、ノルベルト・フエンテス・・・レサマ=リマのように欠席した人は難を逃れることができたが、名指しされた人々は恐怖にひきつって各自マイクの前で釈明しなければならなかった。冷戦時代のハリウッドを吹き荒れた「赤狩り」を想起させ、パディーリャにエリア・カザンが重なった。

 

(エベルト・パディーリャ)

 

★パディーリャの逮捕の報は、革命を支持していた当時の知識人たちに激震が走った。パリに住んでいたフリオ・コルタサルが自宅にフアン・ゴイティソロを呼んで、後に「フィデル・カストロへの最初の書簡」となる抗議文を作成した。賛同して署名した数は54名に達し、その中にはジャン・ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、マルグリット・デュラス、カルロス・フエンテス、オクダビオ・パス、フアン・ルルフォ、スーザン・ソンタグ、アルベルト・モラヴィア、勿論バルガス=リョサやコロンビアのジャーナリストで親友プリニオ・アプレヨ=メンドサも署名した。


★ただはっきりしないのがガルシア・マルケスであった。彼はパディーリャ逮捕を知ると、当時住んでいたバルセロナを急いで離れ、連絡の取れないカリブのどこかへ雲隠れしてしまった。そこで同じバルセロナにいたアプレヨ=メンドサが自分が責任を取ると言って友人の名前を書き加えたのである。当然マコンドの作家は署名しなかったと言い張り、コロンビアのジャーナリストは作家を庇い、他のものは署名したがフィデルの反応を見て撤回した、と真相は闇に紛れてしまった。当のプリニオにとってさえ謎なのである。

 

    

 (ガルシア・マルケス、バルガス=リョサ、フリオ・コルタサル、事件が起きる前の1971年)

 

★以上が大体のいきさつであるが、VLの証言はこの内容と若干ずれるようだ。「パディーリャが CIA のスパイだと告発され逮捕されたとき、バルセロナの私の家にフアンとルイス・ゴイティソロ兄弟、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーなどが集まり、抗議の書簡を練った。この書簡には多くの知識人が署名した。プリニオがガルシア・マルケスの名前も入れるべきだと言ったが、私たちは本人に相談してからだとコメントした。当時彼の所在は全く不明で確認を取ることができなかったのだ。しかしプリニオが署名すると決断した。これが私が知ってることです。ガルシア・マルケスは激しくプリニオに抗議した。自己批判文の後、パディーリャが解放された後の54日に書かれた抗議文「第二の公開書簡」には、ガルシア・マルケスは署名しなかった」と語った。

 

★多分、バルセロナ在住のバルガス=リョサたちが作成した草案をフアン・ゴイティソロがパリのコルタサルのところに運び込み完成させたということかもしれない。他にもう一人署名しなかったのが、キューバ革命の熱心な擁護者だった当のコルタサルである。世界を歩き回る作家として有名な彼は、1981年にキューバ、ニカラグア、プエルトリコ歴訪計画を中止したが、死の前年の1983年に知識人常任委員会 Comité Permanente de Intelectuales の会議出席のためハバナを訪れている。

 

★ペルーの作家によると、「この事件を境に私たちの間に壁ができた。当時私は革命を熱烈に支持していたが、彼はそれほどではなく、それに関しては常に慎重だった。友人のプリニオ・アプレヨと一緒にプレンサ・ラティノで働いていたとき、既に共産党によって排除されていたからだ」。「慎重だったのにフィデル・カストロとのツーショット写真に納まるようになったのは、彼に何が起こったのでしょうか?」との質問には、「分からない。彼の生き方は実に現実的で、反キューバより親キューバのほうが自分に有利だと判断したからだと思う」と。もはや立ち位置をキューバ革命賛美に変えた彼を党が再び粛正する心配はなく、ガルシア・マルケスは最期を迎えるまでフィデルとの親密な関係を保ちつづけた。(写真下は権力で結びついていた、コミュニストでなくフィデリストだった二人)

  

 (1982年)

   

 

    

★「パディーリャ事件のあと彼とは音信不通だったから、彼に何が起こったかは正確には知らない。プリニオの意見では、彼はキューバが悪い方向に進んでいることは分かっていたが、将来的にはラテンアメリカは団結するという考えをもっていた」という。「ガルシア・マルケスは権力をもつ人間に非常に魅了されており、それは文学に止まらず人生にも不可欠なものだった。いい意味でも悪い意味でも同じく、権力があらゆることを可能にしてくれると考えていた。魅力的で活力のある権力者、例えばメキシコの麻薬王エル・チャポ(ホアキン・グスマン)やパブロ・エスコバルのような人物を主人公に創作したいと考えていた。またフィデル・カストロやトリホス(パナマの最高司令官オマル・トリホス、軍事政権を率いた)のような政治家の完全な虜だった」と、『ヤギの祝宴』の作家は断言した。そう言えばコルタサルも1979年にオマル・トリホスに会いに当時の妻キャロル・ダンロップとパナマを訪れている。

 

★フアン・ルルフォやアレホ・カルペンティエル、マルケス自身のような作家たちは、「醜悪さ」の美やラテンアメリカの「後進性」を引き出す術に長けていた。「ラテンアメリカ出身の作家たちが想像力豊かな文学を生み出したのは幸運だったということですか」と尋ねられると、「分からないけど、私たちの大陸は優れた文学を生み出すのにいいところだよ。いやいや、そうじゃない。どこの国もそこに相応しい文学があるよ」と訂正した。

 

★バルガス=リョサのガルシア・マルケス殴打事件は1976212日、メキシコ国立芸術院(ベジャス・アルテス宮殿)で起きた。先述したようにその理由は語られることはなかった。いろいろ噂が飛び交っているが、多分それが事実に近いのではないか。互いに不名誉なことだから沈黙は金なのだ。完全に決裂した後でも『百年の孤独』以下の文学的価値は変わらないとも語った。

  

    

            (左目に大きな痣ができてしまったガボ、1976年)

 

「彼の訃報を知ってどう受け止めましたか」の質問には、「寂しかった。コルタサルやカルロス・フエンテスのときと同じように、一つの時代が終わったと感じた。彼らは大作家というだけでなく親友だったからね。ラテンアメリカ文学の存在を世界に知らしめた世代です。直ぐにこの世代の最後の一人が自分だと思って、少し悲しかった」と。

 

  

 (新婚ホヤホヤのバルガス=リョサと新夫人イサベル・プレイスラー、2016年ゴヤ賞ガラで)


プリニオ・アプレヨ・メンドサの紹介記事は、コチラ⇒2016年3月27日