ビクトル・エリセにドノスティア栄誉賞*サンセバスチャン映画祭2023 ⑫2023年09月02日 16:27

             二人目の受賞者がビクトル・エリセにびっくり

 

      

 

822日、第71回サンセバスチャン映画祭事務局は、二人目のドノスティア栄誉賞受賞者がビクトル・エリセ(ビスカヤ県カランサ1940)監督とアナウンスしました。一人目が512日に発表された俳優のハビエル・バルデム、第71回の顔になっています。順序が逆のような印象を受けますが、SSIFFの栄誉賞受賞者の公式サイトには、エリセ、バルデムの順になっており、先輩エリセに敬意をはらったようです。

ハビエル・バルデムのドノスティア栄誉賞受賞記事は、コチラ20230609

 

★授賞式は929日、メイン会場クルサールではなく、最新作「Cerrar los ojos / Close Your Eyes」(スペイン=アルゼンチン合作)が上映されるビクトリア・エウヘニア劇場、50年前に長編デビュー作『ミツバチのささやき』73)が上映された劇場です。本作はSSIFF金貝賞受賞作品、2003年には『ミツバチのささやき』金貝賞受賞30周年記念上映会が開催されています。プレゼンターは撮影時7歳だったアナ・トレント、長編4作目となる新作にも出演しています。本祭上映後に、スペインでは一般公開が確定しています。

   

   

(左から、製作者エリアス・ケレヘタ、アナ・トレント、姉役イサベル・テリェリア、

 エリセ監督、サンセバスチャン映画祭2003年)

 

1986年に新設されたドノスティア栄誉賞は、第1回に俳優グレゴリー・ペックを選出、以来演技者の受賞者が続き監督にも光があたるようになったのは、アグネス・ヴァルダ(17)、是枝裕和(18)、コスタ・ガブラス(19)、クローネンバーグ(22)など最近のことです。エリセで受賞者はトータル69人となり、スペイン人の受賞者は今回の2人を含めて7人です。フェルナンド・フェルナン=ゴメス(99)、パコ・ラバル(01)、アントニオ・バンデラス(08)、カルメン・マウラ(13)、ペネロペ・クルス(19)、ハビエル・バルデム、監督一筋の受賞者はビクトル・エリセが初めてでしょう。

 

★授賞理由は書くまでもないのか公式のコメントはありませんし、当ブログでも監督キャリア&フィルモグラフィーは「Cerrar los ojos」で最近アップしたばかり、カンヌ映画祭2023欠席の経緯も紹介済みです。以下の写真は、3つのエピソードで構成されたオムニバス「Los desafíos」(DVD邦題『挑戦』)がサンセバスチャン映画祭1969監督賞を受賞したときの、エリセ他、ホセ・ルイス・エヘアクラウディオ・ゲリンの新人3人です。今は亡き大物プロデューサーであったエリアス・ケレヘタのお眼鏡にかなった3人です。4年後にエリセは『ミツバチのささやき』で金貝賞に輝いたことは上述の通りです。

   

     

    (エリセ、ホセ・ルイス・エヘア、クラウディオ・ゲリン、

   本祭の招待客宿泊ホテルである、マリア・クリスティナ、1969年)

 

Cerrar los ojos」の撮影予告、短編の紹介記事は、コチラ20220715

 全フィルモグラフィーの紹介記事は、コチラ20220725

Cerrar los ojos」内容紹介記事は、コチラ20230429

カンヌ映画祭2023レッドカーペット欠席のニュースは、コチラ20230525

「カンヌ映画祭欠席についての公開書簡」の記事は、コチラ20230530


エレナ・マルティンの2作目が「監督週間」にノミネート*カンヌ映画祭20232023年05月22日 13:50

         スペインのエレナ・マルティンの第2作「Creatura」が監督週間に

     

       

 

★今年第55回を迎える「監督週間」にスペインのエレナ・マルティンの「Creatura」がノミネートされました。「監督週間」と「批評家週間」はカンヌ映画祭とは選考母体も異なりますが、本体と同期間にカンヌで開催されることからカンヌFFと称しています。今回は本体より1日遅れの517日から26日まで、従って結果発表も先になります。長編部門は60分以上、短編部門は60分未満という区別があり、SACD賞、ヨーロッパ・シネマズ賞、観客賞などがあります。

    

       

             (最近のエレナ・マルティン)

 

Creatura

製作:Avalon PC / Elástica Films / Filmin / S/B Films / Vilauto Films / ICEC / ICAA / Lastro Media / TV3

監督:エレナ・マルティン

脚本:エレナ・マルティン、クララ・ロケ

音楽:クララ・アギラル

撮影:アラナ・メヒア・ゴンサレス

編集:アリアドナ・リバス

キャスティング:イレネ・ロケ

プロダクション・デザイン&美術:シルビア・ステインブレヒト

音響:レオ・ドルガン、ライア・カサノバス、オリオル・ドナト

衣装デザイン:ベラ・モレス

メイクアップ&ヘアー:ダナエ・ガテル(メイク)、アレクサンドラ・サルバ(ヘアー)

製作者:(Vilauto Films)アリアドナ・ドット、マルタ・クルアーニャス、トノ・フォルゲラ、(Elástica Films)マリア・サモラ、(Avalon PC)シュテファン・シュミッツ、(S/B Films)パウ・スリス、ジェイク・チーサムCheetham、他多数

 

データ:製作国スペイン、2023年、カタルーニャ語、ドラマ、112分、撮影地バルセロナのサンビセンツ・デ・モンタルト、公開スペイン2023918日予定、国際販売LuxBox

映画祭・受賞歴:カンヌ映画祭併催の「監督週間」にノミネート(520日上映)

 

キャスト:ミラ・ボラス(ミラ5歳)、クラウディア・ダルマウ(ミラ15歳)、エレナ・マルティン(ミラ35歳)、アレックス・ブランデミュール(父ジェラルド)、マルク・カルタニャ(ジェラルド)、クリスティーナ・コロム(大人のアイナ)、カルラ・リナレス(ディアナ)、オリオル・プラ(ミラの恋人マルセル)、ベルナ・ロケ(アンドレ)、クララ・セグラ(ディアナ)、テレサ・バリクロサ、ダビ・ベルト

 

ストーリー:少女のミラはビーチで夏を過ごします。彼女の大好きな父親は彼女に優しく世界を見せます。母親は控えめです。少女から急成長するミラのエネルギーは、彼女の周囲、彼女の体、海との繋がりを変えてしまいます。大人たちは自意識の高いミラの変化に戸惑いを感じます。ミラと父親のあいだで何かが壊れます。30代になったミラは、深刻な危機に向き合っています。ミラは自分の欲望と喪失が心の奥底にあることに気づき始めます。過去の関係を再訪する自己探求の旅をしていますが、再び海に戻ることができるでしょうか。 

    

        

               (思春期のミラ)

 

監督紹介エレナ・マルティン・ヒメノは、1992年バルセロナ生れ、監督、脚本家、映画・舞台女優。ポンペウ・ファブラ大学(1990年設立)で映画を学ぶ。長編デビュー作は主役も自身で演じた2017年の「Júlia ist」、マラガ映画祭2017ZonaZine 部門の作品・監督・モビスター+賞を受賞、他トゥリア第1作監督賞も受賞、バレンシア映画祭、翌年のガウディ賞(カタルーニャ語以外部門)の作品賞にノミネートされている他、ワルシャワFF、レイキャビクFFに出品された。本作については簡単ですが作品紹介をしています。

Júlia ist」の作品紹介は、コチラ20170710

    

      

 (エレナ・マルティン、「Júlia ist」から)

     

 

   

★エレナ・マルティンは、女優としてスタートしました。2015年のライア・アラバルト他4人の共同監督作品「Les amigues de lÁgata」(Las amigas de Ágataのアガタ役で好演し、名前が知られるようになった。2019イレネ・モライの短編「Suc de síndria」(20分、英題「Watermelon Juice)に主演し、マラガFF、メディナFF、イベロアメリカンFFなどで主演女優賞を受賞している。モライ監督はゴヤ賞2020の短編映画賞以下、ガウディ賞、メディナFF、バレンシアFF、イベロアメリカン短編映画賞など多数受賞しています。

      

  

              

TVシリーズでは、2019年、レティシア・ドレラが創案者のコメディ「Vida perfecta」(14話、1920)に参加、2話を監督している。5話からなるTVミニシリーズ「En casa」(1話、20)、ミュージック・ビデオ「Rigoberta Bandeni:Perra」を監督している。他にロス・ハビス(ハビエル・アンブロシハビエル・カルボ)のシリーズ「Veneno」(全8話)のスタッフライターとして6話にコミット、脚本2話を執筆している。


フェリペ・ガルベスのデビュー作が「ある視点」に*カンヌ映画祭20232023年05月15日 11:36

   「ある視点」にフェリペ・ガルベスのデビュー作「Los colonos」がノミネート

   

     

 

★チリのフェリペ・ガルベスのデビュー作「Los colonos」が「ある視点」に正式出品、チリ、アルゼンチン、オランダ、フランス、デンマークなど8ヵ国との合作、ガルベス監督は1983年チリのサンティアゴ生れ、監督、脚本家、フィルム編集者。「ある視点」ノミネートは2011年のクリスティアン・ヒメネスの「Bonsai」以来12年ぶりです。本作は東京国際映画祭2011ワールド・シネマ部門で『Bonsai~盆栽』としてアジアン・プレミアされた。「Los colonos」の舞台は20世紀初頭のチリ南端ティエラ・デル・フエゴ島、先住民族セルクナム(またはオナス)のジェノサイドをテーマにした歴史物、彼らがチリの正史から消されてきた過程を探求している。

 

 「Los colonos / Les colons / The Settlers」(仮題「入植者たち」) 

製作:Quijote Films(チリ)、Rei Cine(アルゼンチン)、Quiddity Films(英)、Volos Films(台湾)、共同製作:Cine Sud Promotion(仏)、Snowglobe(デンマーク)、Film I Vast(スウェーデン)、Sutor Kolonko(独)

監督:フェリペ・ガルベス

脚本:フェリペ・ガルベス、アントニア・ヒラルディ

音楽:Harry Allouche

撮影:Simone DArcangelo

編集:Mattieu Taponier

プロダクション・デザイン:セバスティアン・オルガンビデ

衣装デザイン:ナタリア・アラヨン、ムリエル・パラ

メイクアップ&ヘアー:ダミアン・ブリッシオ

製作者:ジャンカルロ・ナシ、ステファノ・センティニ、ベンジャミン・ドメネク、サンティアゴ・ガレッリ、エミリー・モーガン、マティアス・ロベダ、ティエリー・ルヌーベル、(エグゼクティブ)コンスタンサ・エレンチュン、エイミー・ガードナー、ほか共同製作者多数 

 

データ:製作国アルゼンチン、チリ、イギリス、台湾、ドイツ、スウェーデン、フランス、デンマーク、スペイン語・英語、2023年、歴史ドラマ、97

映画祭・受賞歴:カンヌ映画祭2023「ある視点」部門正式出品、初長編監督作品賞カメラドールにもノミネートされている。

 

キャスト:カミロ・アランシビア(メスティーソのセグンド)、ベンジャミン・ウェストフォール(アメリカ人傭兵ビル)、マーク・スタンリー(イギリス人マクレナン中尉)、サム・スプルエル(マルティン大佐)、アルフレッド・カストロ(スペイン人地主ホセ・メネンデス)、マリアノ・リナス(フランシスコ・モレノ)、ルイス・マチン(司教)、マルセロ・アロンソ(大統領勅使ビクーニャ)、アグスティン・リッタノ(アンブロシオ大佐)、ミシェル・グアーニャ、アドリアナ・ストゥベン(ホセフィナ・メネンデス)、ほか

 

ストーリー19世紀末に羊牧場はチリのパタゴニア地方の領土を拡大していきました。1901年、裕福な地主ホセ・メネンデスは先住民の土地を開拓し、大西洋への道を開くために3人の男を雇いました。最終的な目的は当時の白人の使命に従って、この広大で肥沃な領土を文明化することでした。メスティーソのセグンド、元ボーア戦争のイギリス人船長のマクレナン、アメリカ人傭兵ビルの3人は、国家がメネンデスに与えた土地の境界を定める遠征に乗り出していった。最初は行政上の遠征のように見えたものが、次第に先住民に対する暴力的な狩猟へと変質していった。1901年から1908年のあいだにティエラ・デル・フエゴ島での先住民セルクナム虐殺を描き、先住民が被った植民地化、暴力、不正義というテーマを探求しています。

 

        

    

      

 

★ガルベス監督談によると「誰が歴史を書くのか、どのように書かれるのか、その過程で映画の立ち位置はどのように占めるのかを考えさせてくれる」映画だとコメント。チリの正史から消されてきた先住民虐殺の事実が、如何にして闇に葬られてきたのか、その過程がどうして可能だったのか、メネンデス一家がどのように資金調達をしたのかが語られる。「この映画は、内なる旅とその登場人物の精神の崩壊を通して、強制的に文明化されたモデルを反映させた」とプレスリリースで語っている。チリが建国(1818年)100周年を迎えようとしていた頃の過去にさかのぼり、現在にまで及ぶ理念が語られる。

   

        

★監督紹介:フェリペ・ガルベスFelipe Galvez Haberle)、1983年サンティアゴ生れ、監督、脚本家、フィルム編集。2008年フィルム編集者としてキャリアをスタートさせる。2009年の短編「Silencio en la sala」(12分)がBaficiブエノスアイレス国際インディペンデント映画祭に正式出品されベスト短編賞を受賞。2018年「Rapaz」(13分)がカンヌ映画祭併催の「批評家週間」にノミネートされたことで、その後ウルグアイ映画祭2018、ダウンタウン・ロスアンゼルスFF、ノーステキサスFF、ダラスFF2019のグランプリを受賞、バレンシアFFCinema Joveにノミネートされた。本作は携帯電話の盗難で告発された十代の少年の市民拘留を描いている。フィルム編集ではクラウディオ・マルコネの「En la Gama de los Grises」(15)、マルティン・ロドリゲス・レドンドのデビュー作「Marilyn」(18)など受賞歴のある映画を多数手掛けている。

   

    

              (短編「Rapaz」のポスター)

 

★カンヌFF2000「ある視点」にノミネートされたミゲル・リティンの「Tierra del Fuego」は、ティエラ・デル・フエゴを舞台にしている。セルクナム虐殺をリードした一人であるルーマニア人ジュリアス・ポッパーを主人公にしたクロニカである。他に先住民ジェノサイドに言及している作品にパトリシオ・グスマンのドキュメンタリー「El botón de nácar」(15)があり、この作品は『真珠のボタン』の邦題で公開されています。

監督作品は以下の通り:

2009年「Silencio en la sala」短編12分、監督、脚本、編集

2011年「Yo de aqui te estoy mirande」短編、監督、脚本、編集

2018年「Rapaz」短編13分、監督、脚本、編集

2023年「Los colonos」長編デビュー作、監督、脚本

 

Marilyn」の作品紹介は、コチラ20180225

『真珠のボタン』の作品紹介は、コチラ20151116

 

「ある視点」にロドリゴ・モレノの犯罪コメディ*カンヌ映画祭20232023年05月11日 15:09

   アルゼンチンから自由と冒険を求める犯罪コメディ「Los delincuentes

            

             

    

★「ある視点」部門にはスペインはノミネートなし、アルゼンチン、チリなどラテンアメリカ諸国が気を吐いている。アルゼンチンのニューシネマの一人ロドリゴ・モレノの長編4作目「Los delincuentes」(アルゼンチン、ブラジル、ルクセンブルク、チリ)は、ブエノスアイレスに支店をおく銀行の従業員2人が勤務先で強盗を計画するというコメディ仕立ての犯罪もの、彼らの運命は如何に。モレノ監督はドキュメンタリーや共同監督作品を含めると10作近くなる。なかで単独監督デビュー作の「El custodio」は、ベルリン映画祭2006アルフレッド・バウアー賞を受賞、サンセバスチャン映画祭、マイアミ、グアダラハラ、ハバナなど国際映画祭の受賞歴は30以上に上りました。フィルモグラフィー紹介は後述するとして、新作のデータ紹介から始めます。

 

Los delincuentes」(英題「The Delinquents」)

製作:(アルゼンチン)Wanka Cine / Rizona Films / Jaque Producciones / Compañia Amateur /(ブラジル)Sancho Punta /(ルクセンブルク)Les Films Fauves /(チリ)Jirafa films 協賛INCAA

監督・脚本:ロドリゴ・モレノ

撮影:イネス・ドゥアカステージャ、アレホ・マグリオ

編集:カレン・アケルマン、ニコラス・ゴールドバート、ロドリゴ・モレノ

プロダクション・デザイン・美術:ゴンサロ・デルガド、ラウラ・カリギウリCaligiuri

衣装デザイン:フローラ・カリギウリ

音響:ロベルト・エスピノサ

製作者:エセキエル・ボロヴィンスキー(エグゼクティブ)、エセキエル・カパルド(プロダクション・マネジャー)、レナタ・ファルチェト(ヘッド)、フロレンシア・ゴルバクスGorbaczEugenia Molina、マティアス・リベラ・バシレ(アシスタント)、(以下ルクセンブルク)Jean-Michel HuetYahia SekkilManon SantarelliAlexis Schmitz

 

データ:製作国アルゼンチン、ブラジル、ルクセンブルク、チリ、2023年、スペイン語、コメディ、90分、撮影地ブエノスアイレス、コルドバの山地、期間20223月末~6月、配給マグノリア・ピクチャーズ・インターナショナル

映画祭・受賞歴:カンヌ映画祭2023「ある視点」正式出品、シドニー映画祭(6月)

 

キャスト:エステバン・ビリャルディ(ロマン)、ハビエル・ソロ(モラン)、マルガリータ・モルフィノ(モランの恋人ノルマ)、ダニエル・エリアス、セシリア・ライネロ(モルナ)、ヘルマン・デ・シルバ、ラウラ・パレデス、ガブリエラ・サイドン(ロマンの妻フロール)、セルヒオ・エルナンデス、他

 

ストーリー:ロマンとモランは、ブエノスアイレスに小規模な支店をおく銀行の従業員です。二人は自由と冒険を探しています。モランは日ごとに彼らを灰色の人生に陥れるルーチンを振りはらうというそれだけの意図で、同僚と共謀して大胆な計画を実行することにします。彼らが定年まで稼ぐ給料に相当する金額を銀行から前もって頂くことにしました。どういうわけか彼の強盗計画は成功し、自分の運命を同僚ロマンの運命に委ねます。まず全額を彼に預け、その後土地を探すつもりでコルドバに逃れます。旅先で出会った女性ノルマに無分別にも夢中になります。彼女は姉と山地の分譲地販売をしている彼氏と同居している。数日間一緒に過ごし、必ず戻ってくるが、3年間待ってくれと頼みこむ。ノルマにはすべてが馬鹿げているとしか思えない。一方ロマンは銀行で働きつづけていますが、折悪しくお金の不足についての内部調査が始まりました。非常に多額のお金を隠しているロマンは恐怖に襲われます。同僚たちだけでなく妻フローラにも隠さねばなりません。計画を変更したらいいのでしょうか・・・

   

   

              (混乱する銀行支店、左から3人目ヘルマン・デ・シルバ) 

   

       

        

★モレノ監督によると「モランは犯罪を犯して代価を支払うとしても、解放感を得るために危険な計画を考案する。共犯者のロマンも働かずに義務から解放され自由のなかでより良い生活、つまり都会、仕事、家族から離れ、海とか山とかレジャーが楽しめる田舎暮らしを誰にも依存せずに送りたい。しかし夢を達成するには、どうやって生計を立てるかという実存的な障害が立ちはだかる」。じゃあ目標を追求するにはどうしますか、というお話です。モランの計画は刑務所暮らしも想定内なのです。

 

   

  

 

    

★監督紹介:ロドリゴ・モレノ1972年ブエノスアイレス生れ、監督、脚本家、製作者、ブエノスアイレスのシネ大学の監督プログラムを卒業、独創的なストーリーテリングを目指すアルゼンチンの若い世代のグループの一人です。1993年短編「Nosotros」(8分)で監督デビュー、ビルバオ・ドキュメンタリー短編映画祭で作品賞を受賞する。2012年制作会社「Compañia Amateur」を設立し、「Reimon」以降を製作している。脚本を執筆したルシア・メンドサの「Diarios de Mendoza」、コロンビアのフアン・セバスティアン・ケブラダの「Días extraños」を製作している。フアン・ビジェガスMoVi cineを共有している。主なフィルモグラフィーは以下の通り:

 

1993年「Nosotros」短編(8分)、監督、脚本

1998年「Mala época」監督、脚本、マリアノ・デ・ロサ、ほか4名の共同作品

   (マル・デル・プラタ、トリノ、シカゴ、サンセバスチャン、他)

2002年「El descanso」監督、脚本、ウリセス・ロセル、アンドレス・タンボルニーノ、

   3名の共同作品Bafici、ロンドン、ベネチア、トゥールーズ)

2006年「El custodio」単独長編デビュー作、監督、脚本

   (ベルリン、サンセバスチャン、マイアミ、ニューヨーク、グアダラハラ、ハバナ)

2007年「La señalTV Movie、監督、脚本

2011年「Un mundo misterioso」第2作、監督、脚本

   (ベルリン、トロント、サンパウロ、Bafici

2014年「Reimon」第3作、監督、脚本、製作、72

   (ロッテルダム、ハンブルク、Bafici、サンパウロ、バルでビア)

2017年「Una ciudad de provincia」ドキュメンタリー、監督、脚本、製作、88分、IBAFF

   (ロッテルダム、ビエンナーレ、Bafici

2018年「Our Nighttime Story」ドキュメンタリー、監督、フアン・ビジェガス、

   ほか3名の共同作品

2023年「Los delincuentes」第4作、監督、脚本

2014年、ルシア・メンドサの「Diarios de Mendoza」(55分)脚本、製作

2015年、フアン・セバスティアン・ケブラダの「Días extraños」(70分)脚本、製作

Baficiは、1999年設立されたブエノスアイレス国際インディペンデント映画祭

   

       

                (ロドリゴ・モレノ)

 

★上述したように1993年に短編「Nosotros」でスタートした。オムニバス長編「Mala época」は、4名の共同作品ですが、マル・デル・プラタ映画祭1998で、若い映画製作者の視点で現代を切り取ったことが評価されてFIPRESCIスペシャルメンションを受賞、その他トゥールーズ・ラテンアメリカ映画祭1999で観客賞を受賞、ノミネート多数。共同監督作品「El descanso」は、リェイダ・ラテンアメリカFFICCI脚本賞を受賞した。

    

      

 

★ベルリン映画祭でアルフレッド・バウアー賞を受賞して国際的な評価を受けたのは、単独で監督したデビュー作「El custodio」だが、本作は前年のサンダンスFFに出品されラテンアメリカ部門のNHK賞を受賞している。その他ボゴタFF作品賞監督賞、サンセバスチャンFFホライズンズ・ラティノ部門でスペシャルメンションを受賞している。

      

        

     

           (アルフレッド・バウアー賞のトロフィーを披露する監督)

    

510日「ある視点」の審査団が発表になりました。審査委員長は俳優、コメディアンのジョン・C・ライリー、ほか俳優パウラ・ベーア、俳優エミリー・ドゥケンヌ、監督デイヴィー・チョウ、監督アリス・ウィノクールの5名です。

 

アグスティ・ビリャロンガ逝く*闇と光の世界を生きる2023年04月14日 18:39

              映画への情熱を手引きした郵便配達人の父親

 

        

   

★去る122日の明け方、アグスティ・ビリャロンガが突然別れを告げました。カタルーニャ映画アカデミーは「今朝、映画監督のアグスティ・ビリャロンガは、私たちをバルセロナに残して、愛する家族や友人に見守られて旅立ちました。彼の才能、感性、豊かな愛に満ちた包容力、そして数々の映画は永遠に残るでしょう」と報じた。彼が人生の最後の2年間闘ってきた癌は、スペインの支配的な傾向に逆らって、ユニークな作品を作り続けた、この並外れた映画人を連れ去りました。1週間の緩和ケアの後、バルセロナで69歳の生涯を閉じたということですから、突然ではなかったわけです。当ブログで紹介した「El ventre del mar」がマラガ映画祭2021で作品賞以下6冠を制したときには、既に闘病中だったことになります。

 

★訃報のアップは本当に気が重い。特に彼のように早すぎる死は猶更です。ガウディ賞の受賞者としてバルセロナ派を牽引してきただけにその死は惜しまれてなりません。ガウディ賞は毎年アップしていたわけではありませんが、今年は気が滅入ってアップする気になれませんでした。なにしろ旅立ちは、第15回ガウディ賞授賞式の当日でした。ガラはビリャロンガ逝くの追悼式のようだったということでした。因みに受賞結果は、発表を待つまでもなく作品賞はカタルーニャ語部門がカルラ・シモンの「Alcarràs、カタルーニャ語以外の部門はゴヤ賞ではノミネートさえされなかったアルベルト・セラの『パシフィクション』と、下馬評通りの結果でした

     

     

       (在りし日のビリャロンガ、サンセバスチャン映画祭2010)

 

★ビリャロンガと言えば、カタルーニャ語映画が初めてゴヤ賞を受賞した「Pa negre」(2010Pan negro」)でしょうか。本作はラテンビート映画祭2011で上映され、翌年『ブラック・ブレッド』の邦題で公開されました。ゴヤ賞では作品賞を含めて9部門を制覇、彼自身も監督賞と脚本賞の2冠、ガウディ賞は13冠とほぼ総なめ状態でした。その他サンジョルディ賞、トゥリア賞、フォトグラマス・デ・プラタ賞、アリエル賞(イベロアメリカ部門)作品賞などを受賞しています。

まだ当ブログは存在しておらず、目下休眠中のCabinaさんブログに、テーマ、監督キャリア&キャスト紹介などをコメントとして投稿しています。(コチラ20110303日)

   

   

 (受賞スピーチをするビリャロンガ、監督・脚本賞を受賞したゴヤ賞2011から)

 

195334日、パルマ・デ・マジョルカ生れ、監督、脚本家、俳優。スペイン内戦時に15歳で戦線に引きずり込まれた父親から映画への情熱を植え付けられた。カタルーニャの操り人形師の家系に生まれた父親は、後にパルマに定住して郵便配達員として働いていた。彼は映画に情熱を注ぎ息子アグスティを映画の世界に導きました。父親の影響を受けた息子はデッサン、マッチ箱、懐中電灯を使って手作りの映写機を作ったほど映画に熱中した。

 

★監督が「El ventre del mar」のプロモーションの過程で語ったところによると、「14歳で映画監督になる決心をして、ローマの映画学校のロベルト・ロッセリーニに手紙を書いた。彼の学校に本当に入りたかったのです。しかし若すぎるという理由で拒否されました」。彼らはまず大学を卒業すべきだと返事してきた。イエズス会の中学校を終了していた十代のアグスティはやや失望しパルマを出ることにした。バルセロナ自治大学で美術史を専攻して学位を取り、その後バルセロナの公立舞台芸術学校である演劇研究所 Institut del Teatre に入学、舞台美術を学んだ。当時を振り返って「今は彼(ロッセリーニ)の映画はあまり好きではありません。若いころには理解できなかったパゾリーニに情熱を注いでいます」と、またイングマール・ベルイマン映画にも言及し、彼は「私に多くの足跡を残した」と同じインタビューに答えている。

   

     

        (「El ventre del mar」のカタルーニャ語版ポスター)

 

 

    俳優としてキャリアをスタートさせたヌリア・エスペルトとの出会い

 

★キャリアをスタートさせて間もなく、ビクトル・ガルシアと出会い、女優で演出家のヌリア・エスペルトが設立した劇団に俳優として入る。ガルシア・ロルカの『イェルマ』ツアーに参加、ヨーロッパ、アメリカを巡業する。帰国後映画俳優としてホセ・ラモン・ララスの「El fin de la inocencia」(77)、フアン・ホセ・ポルトの「El último guateque」(78)、ホセ・アントニオ・デ・ラ・ロマの「Perros callejeros II」(79)などに出演する。しかし1982年、製作者のぺポン・コロミナスが彼を監督業に引き戻した。というのも彼は既に短編3作を撮っていたのである。

 

★そして誕生したのが、長編デビュー作「Tras el cristal」(86110分)である。ギュンター・マイスナー、マリサ・パレデス、ダビ・スストを起用したホラー・サスペンス。ベルリン映画祭で上映され、ムルシア・スペイン映画週間で初監督に与えられるオペラ・プリマ賞を受賞、ほかサンジョルディ賞1988のオペラ・プリマ賞も受賞した。第2作となるSFファンタジー「El niño de la runa」はカンヌ映画祭1989コンペティション部門にノミネートされ、翌年のゴヤ賞オリジナル脚本賞を受賞、監督賞にノミネートされた。キャストはマリベル・マルティンやルチア・ボゼーのようなベテラン女優を軸に、前作出演のギュンター・マイスナーやダビ・スストを起用している。本邦では1992『月の子ども』の邦題で公開された。

       

     

            (公開された『月の子ども』のポスター)

 

★メルセ・ロドレダの小説 La mort de primavera の映画化を模索したが、製作者を見つけることができなかった。1997年、マリア・バランコを主役に据え、テレレ・パベスやルス・ガブリエルで脇を固めたホラー「99.9」は、モントリオール、トロント、ローマ、各映画祭で上映されシッチェス映画祭に正式出品された。撮影を手がけたハビエル・アギレサロベが撮影賞、彼はヨーロッパ・ファンタジー映画に贈られる銀のメリエス賞を受賞した。続いて現れたのが同性愛をテーマにした「El mar」(邦題『海へ還る日』)である。カタルーニャ語を採用、生れ故郷マジョルカで撮られた本作はベルリン映画祭2000に出品され、新しく設けられた独立系映画に与えられるマンフレッド・ザルツベルガー賞を受賞して、認知度は国際的になった。ザルツベルガーはテディ賞生みの親の一人、20世紀ドイツのLGBT運動の推進者である。本作で映画デビューした、後の『ブラック・ブレッド』や「El ventre del mar」に出演したロジェール・カザマジョールとの出会いがあった。

El mar」の作品紹介、ロジェール・カザマジョールのフィルモグラフィー&キャリア紹介は、コチラ20210624

    

    

       (カザマジョールを配した『海へ還る日』のポスター)

 

2002年、サンセバスチャン映画祭を驚かせた「Aro Tolbukhin (en la mente del asesino)」(メキシコとの合作)は、メキシカン・ヌーベルバーグと称された偽造ドキュメンタリーである。アイザック=ピエール・ラシネ、リディア・ジマーマンとの共同監督、翌年のアリエル賞を作品賞以下全カテゴリーにノミネートされるも作品賞には及ばなかった。しかし脚本賞を含む7冠を制し、時間の経過とともにファンを増やしていった。ハンガリーの船乗りで連続殺人犯アロ・トロブキンがグアテマラに逃亡し捕らえられ銃殺刑になるまでを描き、彼の犯罪の背後にある「殺人者の心のなか」の闇に迫った。実際のドキュメンタリー映像を広範囲に使用しているが、これはドラマであってドキュメンタリーではない。本作は後にラテンビート映画祭に統一された第1回「ヒスパニックビート2004」に、『アロ・トルブキン―殺人の記憶』として上映されている。

 

          『ブラック・ブレッド』がルールを変えた

 

★海外での評価と人気はあってもスペイン全体に届いたとは言えなかった。彼はしばらく映画を離れカタルーニャTV映画「Després de la pluja」(07After the Rain」)やTVシリーズのドキュメンタリーを手がけている。何作か映画製作を模索していたが、いずれも財政的な支援が得られなかったようだ。2010年、一部の批判的な評価を覆した『ブラック・ブレッド』(フランスとの合作)が到着した。


★本作はエミリ・テシドール19322012)の同名小説 Pa negre を軸に、彼の2冊の小説をベースにして映画化されたダークミステリーである。内戦後のカタルーニャの小さな町に起きた不可解な事件を軸に、1940年代を生きた少年アンドレウに焦点を当て、真実を求める過程で過去の亡霊に出会うなかで自分のセクシュアリティに目覚める。少年は嘘と欺瞞に満ちた大人たちを許すことなくモンスターに変貌していく。マドリード派が優勢なゴヤ賞も14部門ノミネート、作品賞を含む9冠に輝いた。ゴヤ賞2011年のライバル作品は、ロドリゴ・コルテスの『リミット』、イシアル・ボリャインの『ザ・ウォーター・ウォー』、アレックス・デ・ラ・イグレシアの『気狂いピエロの決闘』と誰が受賞してもおかしくない豊作の年、いずれも公開されている。ガウディ賞は13冠、プレミアされたサンセバスチャン映画祭では、少年の母親に扮したノラ・ナバスが女優賞を受賞した。

    

           

         (少年アンドレウを配したオリジナル・ポスター)

      

     

 (左から、アグスティ・ビリャロンガ、ロドリゴ・コルテス、イシアル・ボリャイン、

      アレックス・デ・ラ・イグレシア、ゴヤ賞2011ノミネートの4監督

 

★サンセバスチャン映画祭2012でプレミアされたTVミニシリーズ「Carta a Eva」(2話)を製作、翌年放映された。アルゼンチンのエバ・ペロンのヨーロッパ・ツアーをめぐるドラマである。エバにはアルゼンチンのフリエタ・カルディナルが主演、フランコ総統にヘスス・カステジョン、ほかアナ・トレント、カルメン・マウラ、ノラ・ナバスなどスペインサイドが出演している。2015年の「El rey de La Habana」は、ラテンビート2015『ザ・キング・オブ・ハバナ』の邦題で上映された折、当ブログで作品紹介をしています。ペドロ・フアン・グティエレスの不穏な同名小説の映画化。亡命することなくキューバに止まり、故国の悲惨を弾劾しつづけている作家、詩人、ジャーナリスト、。

『ザ・キング・オブ・ハバナ』の原作者&作品紹介は、

  コチラ20150917同年1024

   

  

 

★中編ドキュメンタリー「El testament de la Rosa」(16、仮題「ロザの遺言」45分)は、女優ロザ・ノベル(バルセロナ1953-2015)が癌で亡くなる直前をカメラに収めたドキュメンタリー。既に視力を失っていた女優の最後の作品(コルム・トビンの「El testament de la Maria」)になるであろう舞台リハーサルをモノクロで追っている。結果的には亡くなってしまったのでブランカ・ポルテーリョが演じた。本作には監督自身と『海へ還る日』や『ブラック・ブレッド』の製作者イソナ・パッソラ、脚本家エドゥアルド・メンドサ、テレビでの活躍が多い女優フランセスカ・ピニョンが出演している。バジャドリード映画祭2016でプレミアされた。

        

     

             (ブランカ・ポルテーリョと監督)

 

2017年、時代背景を1937年のスペイン内戦中のアラゴン戦線にした「Incerta glòria」は、ジョアン・サレスの同名小説の映画化、ゴヤ賞では脚色賞に共同執筆のコラル・クルスとノミネート、ガウディ賞はキャスト陣、技術部門のスタッフにトロフィーを多数もたらしたが、監督自身は無冠に終わった。2019年にはアンドレス・ビセンテ・ゴメスがプロデュースした「Nacido rey」(言語は英語「Born a King」)が公開された。サウジアラビアの偉大な君主として知られるファイサル国王(190675)のビオピックである。監督は「私は映画が大好きで、お金目当てではありません。本作はアラブ諸国で撮影されましたが、経済的なもの以外の魅力も加えました。本題に無関係な話を差し挟むような依頼は受けておりません」と語っている。

  

      

 

2021年の「El ventre del mar」がマラガ映画祭2021に正式出品され、上述したように金のビスナガ作品賞を含む6冠を制した(金のビスナガ作品賞・監督・脚本・撮影・音楽・男優賞)。作品紹介は簡単ですがアップ済みです。イタリアの作家アレッサンドロ・バリッコが実話に基づいて書いた小説 Océano mar にインスパイアーされて製作されている。本作に「20年間取りくんできた」ということです。遺作となったスシ・サンチェスを主役に起用したコメディ「Loli Tormenta」(23)は、先月末に公開された。本作については別個に紹介したい。

El ventre del mar」の作品紹介、マラガFFガ授賞式の様子は、

  コチラ20210509同年0618

         

         

       (銀のビスナガ監督賞を受賞、マラガFF2021 授賞式)

 

★生涯を通じて演技者としても活躍していたが、最後の作品はルーマニアのコルネリュ・ポルンボイュの「La gomera」出演で、冷徹なマフィアに扮した。ルーマニア、フランス、ドイツなどの合作映画だが、原題の「ラ・ゴメラ」はカナリア諸島の島名から採られている。カンヌ映画祭2019に出品され、今回は演技者としてカンヌを訪れた。2021年に『ホイッスラーズ 誓いの口笛』の邦題でWOWOWで放映され、プライムビデオでも配信されている。

 

★変わり者が多いスペインでも独特の作風をもつ監督として駆け抜けたビリャロンガですが、晩年「私のスタイルにとても近い人を見つけることはできませんが、今日では私は変わり者 bicho raro ではないと思います。ただ自分にできることをするだけです」と、フィルモグラフィーを振り返って語っている。彼は比較的早い段階で性的マイノリティを公表していたが、こどものときから「人と違うこと」に敏感だった。その内なる世界は『ブラック・ブレッド』の少年アンドレウや『海へ還る日』の青年に投影されている。

 

上記以外の受賞歴

2001年、カタルーニャ自治州の文化省が選考母体のカタルーニャ映画国民賞を受賞した。前年に国際的な活躍をした人に贈られる賞、映画のほか文学・音楽など各分野から原則1年に1人選ばれる。彼の場合は2000年の『海へ還る日』の成功によるものと思われる。

2011年、スペイン文化省が選考母体の映画国民賞を受賞、2010年の『ブラック・ブレッド』が評価されたことによる。

2012年、ゲイ-レスボ映画と舞台芸術国際フェスティバル栄誉賞、カタルーニャ・ラテンアメリカ映画祭ジョルディ・ダウダ賞などを受賞した。

2021121日、芸術功労金のメダルを受賞、国王フェリペ6世、レティシア王妃列席のもと授与された。

   

       

    (左から一人おいて、国王フェリペ6世、王妃レティシア、ビリャロンガ、

     背後に控えているのがミケル・イセタ教育・文化・スポーツ大臣)


グティエレス・アラゴン審査委員長インタビュー*マラガ映画祭2023 ⑬2023年03月31日 18:19

              ベルリン映画祭で幸運なスタートをきる

 

★マラガ映画祭の「審査委員長にマヌエル・グティエレス・アラゴン監督」のアナウンスには、スペイン映画のオールドファンの一人として驚きを隠せなかった。民主主義移行期から1980年代を通して、多くの名作が本邦にもたらされ、若手ながら批評家の評価は高かったが、突然の引退表明から大分時が経っていたからでした。2008年製作の「Todos estamos invitados」(銀のビスナガ審査員特別賞受賞作)を最後に60代での引退はいかにも早すぎ、いずれ撤回するに違いないと思っておりましたが、TVシリーズはあっても長編映画を撮ることはありませんでした。インタビューの前段として監督キャリア&フィルモグラフィーをアップします。

 

    

  (フリックスオレのインタビューを受けるグティエレス・アラゴン、マラガFF2023

 

マヌエル・グティエレス・アラゴン1942年カンタブリア州トレラベガ生れの監督は81歳、ゴヤ賞ガラの前日に鬼籍入りしたカルロス・サウラの次の世代に当たります。ホセ・ルイス・ボラウの『密漁者たち』やハイメ・カミーノの『1936年の長い休暇』に監督とシナリオを共同執筆した名脚本家としての評価も高い。マドリード大学で哲学と文学を学ぶかたわら、1947年設立の国立映画研究所(IIEC)を1962年に組織替えした国立映画学校(EOC)に入学、監督を学び、卒業制作「Hansel y Gretel」(ヘンゼルとグレーテル)を撮る。短編数編を撮ったのち、1973エリアス・ケレヘタの製作によってデビュー作「Habla, mudita」が誕生した。当時の大物プロデューサーだったケレヘタとの出会いが幸運だった。

 

★長編第1作がベルリン映画祭に正式出品されるという幸運に恵まれただけでなく、いきなり「芸術文学科学の普及国際委員会賞」という批評家賞を受賞してしまった。非常に早い段階で成功がもたらされたことになります。本作はスペイン映画が初めて23本まとまったかたちで紹介された「スペイン映画の史的展望〈19511977」(198410月~11月、東京国立近代美術館フィルムセンター)で『話してごらん』の邦題で上映された。彼はルイス・ブニュエル以下20名の監督のなかで一番の若手でした。この映画祭終了後1週間おいて渋谷東急名画座で開催された「1回スペイン映画祭」では、1982年製作の6作目「Demonios en el jardín」が『庭の悪魔』の邦題でエントリーされた。駆け出しの監督が10年間に6作というのは、当時としては驚異的な数字でした。1986年のカルロス・サウラの映画特集に続いて、翌年「アラゴン映画特集」というミニ映画祭が開催され、以下の6作が上映された。

   

       

              (『庭の悪魔』のポスター)

 

1977年「Camada negra2作目、邦題『黒の軍団』ベルリン映画祭1978監督銀熊賞受賞

1977年「Sonámbulos3作目、同『夢遊病者』サンセバスチャン映画祭1978監督銀貝賞受賞

1978年「El corazón del bosque4作目、『森の中心』ベルリンFF 1979正式出品

1980年「Maravillas5作目『マラビーリャス』シカゴ映画祭1981銀のヒューゴー賞受賞、

    サンジョルディ賞1982受賞、フォトグラマス・デ・プラタ1982など受賞

1982年「Demonios en el jardín6作目、『庭の悪魔』サンセバスチャンFF FIPRESCI賞、

    フォトグラマス・デ・プラタ1983、イタリアのドナテッロ(ルネ・クレール賞)、

    モスクワ映画祭1983 FIPRESCI 賞などを受賞

1984年「Feroz」『激しい』カンヌ映画祭「ある視点」正式出品

 

★ミニ映画祭とはいえ、若手監督の映画特集は異例のことでしたが劇場公開には至りませんでした。サンセバスチャンFFで金貝賞を受賞した9作目「La mitad del cielo」(86)が『天国の半分』の邦題で初めて公開されたのは、1990年の年末でした。本作ではアラゴン監督のお気に入り女優アンヘラ・モリーナが女優賞(銀貝)を受賞している。スペイン内戦後のマドリードを舞台にした本作は、「2回スペイン映画祭1989」の1本でした。監督の故郷カンタブリアの州都サンタンデール出身の女性がマドリードに出て、二人の姉や成功を妬む人の密告などに苦労しながらも予知能力のある祖母の霊に守られてレストラン経営で成功する話だが、日本の観客に受け入れられたかどうか。

 

1998年、スペイン大使館主催、国際交流基金後援の「スペイン映画祭98」(会場シネ・ヴィヴァン・六本木)は本当に力作ぞろいの7作品でした。うちアラゴンはキューバの俳優とスタッフを起用した「Cosas que dejé en la Habana」(97)がエントリーされ、『ハバナから来た娘』で上映された。監督がキューバに拘るのは、祖父と父親がキューバ生れのクリオーリョということがあるようです。より良い人生を築くため祖国を離れてマドリードに移住してきた3人の娘たちの誇りと郷愁が描かれた。

 

★公開作品は上記『天国の半分』1作だけだが、キューバを舞台にした「Una rosa de Francia」(06)が、2009年に『カリブの白い薔薇』でDVDが発売された他、フェルナンド・レイとアルフレッド・ランダ主演の『ドン・キホーテ』(1991年版)がNHK衛星第2で放映された。10年後2002年に再びフアン・ルイス・ガリアルドとカルロス・イグレシアス主演のコンビで製作されたものは、前作のレベルには到達しなかったと評された。これは20155月にインスティトゥト・セルバンテス東京で英語字幕入りで上映されている。

 

      「検閲は私たちを萎縮させ、苛立ちを引き起こした」と監督

 

★以下の記事は、マラガ映画祭期間中に監督とFlixOléとのインタビューを簡単に要約したものです。まだ結果発表前に行われたインタビューなので、ノミネートされた個別の作品についての言及はありません。( )内は管理人が追加したものです。

  

Q: 審査委員長を引き受けた経緯についての質問。

A: 去年も打診がありましたがお断りしました。忘れてくれることを期待しましたが、やはり今年も要請がありましたので、やるしかないと引き受けました。私は何度もマラガに来ており、審査員になることでスペインとラテンアメリカ両方の映画を楽しんでいます。

 

Q: 今年の映画の一般的なレベルについての質問。

A: まだ審査前ですから、お話しすることはできません。しかし、ラテンアメリカ映画は多様で感銘を受けています。私たちが知らない不思議な世界を描いていて、訛りがとても魅力的なのです。今年のスペイン映画の質も高く、人々の関心を高めています。審査はラクではありませんが、有意義な時間を過ごしています。

 

Q: デビュー作がベルリン映画祭で受賞したことがキャリアにどう影響したかの質問。

A: 当時スペインでは、映画祭に出品するというのはそう多くなかったので注目されました。しかし映画祭は数が多すぎて出品しただけでは気づいてもらえず、ですから受賞はとても重要でした。注目を集めるには何かプラスが必要なのです。

 

Q: フランコ政権後期から民主主義移行期に登場した世代に属しています。その頃の映画製作の実情についての質問。

A: フランコがまだ死んでいなかったので(1975年没)、第1作(Habla, mudita73)は検閲を受けましたが、受けたのはこの1作だけです。しかし、何よりも検閲は私たちを萎縮させ、苛立ちを引き起こした。しかしそれと引き換えに、人々はどこが検閲され削られたかを見つけたりして、それなりに惹かれました。観客との一種の共犯関係があったのです。移行期にはそれが特に顕著でした。検閲を気にする必要がなくなって共犯関係は失われました。

 

Q: キャリアを最も決定づけた作品は何かの質問。

A: 私が若くて欲望が強かった頃の初期の映画によい思い出があります。70年代から80年代にスペインで映画を撮るのは非常に困難でした。撮影期間が今より長いこともありました。今は残念ながら短くなって数週間です。今よりずっと製作状況は厳しかったのに、最高の思い出は初期の作品で、記憶に残るのは(名優フェルナンド・フェルナン=ゴメス主演、1980年製作の)マラビーリャス』です。

    

      

        (最高の思い出がある『マラビーリャス』のポスター)

 

Q: 『夢遊病者』や『庭の悪魔』もお気に入りと思いますが、2作についての質問。

A: 私が映画を撮り始めたとき、『夢遊病者』や『マラビーリャス』はかなり稀な作品、破壊的でした。伝統的なスペイン映画との決別がありました。一部の人には受け入れられましたが、一方ほかの人は好きではありませんでした。それで少なくともより古典的な映画に切り替えました。私も年を取ったわけです(笑)。これは一般の観客に門戸を開きましたが、破壊的な映画の新鮮さを少し失いました。一部の人にしか受け入れられなかった映画でも、初期の作品は気に入っています。いつも批判的なサポートを受けます。ほかの監督は批判されると不平を言いますが、私の場合は専門家の評価でキャリアが推進されたので、文句は言えないのです。そうでなければ、私はここにいないでしょう。それから私の映画は緩慢な領域に入りましたが製作できただけ満足です。映画製作は高価で役に立たない複雑な面があり、最終的には批評家ではなく、多くの観客に受け入れられることを望んでいます

 

★監督が審査員になることの是非について「ご存じのように、監督は一般的に私たち自身の映画の良い判断者ではありません。ある人には共感できるが、他の人はそうではない。打ちのめされた映画というのは、それはまさにあなたが好きな映画で、あなたが良い映画だと思っているものです。自分たちの映画を審査することになると、私たちは信頼できません」ということでした。「然り」ですね。

 

FlixOlé フリックスオレというのは、月額3.99ユーロでサブスクリプションして、スペイン映画をタブレットや携帯にダウンロードして視聴できる。追加料金を払えば海外の映画も見ることができる。携帯で映画を見る時代になったのでしょうか。「映画は映画館で見る」という管理人の世代は、もはや化石人間なのでしょう。


ビクトル・エリセの第4作目「Cerrar los ojos」②2022年07月25日 17:09

       国立映画学校の実習制作「テラスにて」からCerrar los ojosまで

 

ビクトル・エリセの長編4作目となるCerrar los ojos」が映画データベースIMDbにアップされました。前回紹介した内容に止まり新味はありませんが、かつて何回かあった脚本段階での打ち切りはないと判断して、キャリア&フィルモグラフィーを列挙します。前回は『マルメロの陽光』(92)以降をご紹介しましたが、今回は国立映画研究所 IIEC1947年設立)の実習制作「テラスにて」からCerrar los ojos」までとします。日本語版ウイキペディアとスペイン語版には、製作年ほか若干の相違がありますが、概ね後者によりました。1998年、詩人のイサベル・エスクデロ、ラモン・カニェリェス監督と自身の制作会社ノーチラス・フィルムズ Nautilus Films  を設立、それ以後の作品を製作している。

 

 主なフィルモグラフィー(「」は仮訳、『』は公開・DVDの邦題)

1961 En la terraza(「テラスにて」4分、無声、モノクロ)監督・脚本

1962 Entre las vías(「レールの軌間」9分、無声、モノクロ)監督・脚本

1962 Páginas de un diarios perdido(「失われた日記のページ」12分、無声、白黒)

      監督・脚本

1963 Los días perdidos(中編「失われた日々」41分、モノクロ)監督・脚本

1969 Los desafíos(『挑戦』第3話、邦題DVD)監督・脚本

1973 El espíritu de la colmena(『ミツバチのささやき』97分)監督・脚本

1983 El sur(『エル・スール』94分)監督・脚本

1992 El sol del membrillo(『マルメロの陽光』135分)監督・脚本

2002  Ten Minutes del OlderThe TrumpetLifeline)監督・脚本

   (オムニバス『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』ライフライン、10分)

   スペインでは配給の問題で未公開。

2002 Alumbramiento(「誕生」10分、上記を短編として独立させたもの)

   パンプローナ開催の第3回プント・デ・ビスタ映画祭2007のクロージング作品

2006 La morte rouge(「緋色の死」34分、カラー&モノクロ)

2007 Sea-Mail(「船乗り-メール」4分、カラー)

2007 Victoe Erice: Abbas Kiarostami: Correspondencias

   (「アッバス・キアロスタミとのビデオ往復書簡」98分)

   *2005年~2007年に交わした10通のビデオレター

2011 3.11 Sense of HomeEpisodio Ana Three Minutes ドキュメンタリー、3)

2012 Centro HistóricoEpisodio Vidrios partidos)監督・脚本

   (オムニバス『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』

        割れたガラス」30分)

2019 Piedra y cielo(「石と空」ドキュメンタリー、17分) 

2023 Cerrar los ojos (製作年は未定)

1967 El próximo otoño(監督アントニオ・エセイサ「今度の秋」)

      脚本、監督との共同執筆

1968 Oscuros sueños de agosto(監督ミゲル・ピカソ「8月の暗い夢」)

      脚本、監督との共同執筆

1998 La promesa de Shanghai(「上海の約束」)

   

1994年、フアン・マルセの小説 El embrujo de Sanghai の映画化を、プロデューサーのアンドレス・ビセンテ・ゴメスはエリセに依頼した。作家の熱意もあって3年かけて10バージョンほど脚色したが、3時間という長尺は経済的な理由で調整できず、主演の一人にフェルナンド・フェルナン・ゴメスを決定していたにもかかわらず、19993月突然中止になった。その後フェルナンド・トゥルエバの手に渡り、2002年、別バージョンで「El embrujo de Sanghai」として完成させたので、エリセの脚本は使用されなかった。

 

 

   エリアス・ケレヘタに見出された才能、オムニバス映画「Los desafíos

   

1940630日、バスク自治州ビスカヤ県カランサ生れ、監督、脚本家。一家は数ヵ月後にサンセバスティアンに引っ越し、彼の地で育った。高校卒業後、17歳でマドリードに移り、マドリード中央大学(現マドリード・コンプルテンセ大学)では、政治学と法学を専攻した。その後、1960年に国立映画研究所に入学して映画を学んだ。このイタリア映画のネオレアリズモの新しい流れを汲む映画学校の第1期生が、フアン・アントニオ・バルデムルイス・ガルシア・ベルランガである。エリセは実習制作として1961年の短編「En la terraza」と、1962年の「Páginas de un diarios perdido」を16ミリで撮り、1963年の「Los días perdidos」で監督資格をとって卒業した。

 

★映画評論家として「芸術と思想」や「ヌエストロ・シネ」などの雑誌に映画批評を執筆するかたわら、バシリオ・マルティン・パティノの「Tarde de domingo」の進行記録係、ミゲル・ピカソの「Oscuros sueños de agosto」やアントニオ・エセイサの「El próximo otoño」の脚本を監督と共同執筆、俳優としてマヌエル・レブエルタの映画に出演している。

 

1969年、エリセはクラウディオ・ゲリン(第1話)ホセ・ルイス・エヘア(第2話)3監督によるオムニバス映画「Los desafíos」(『挑戦』)を撮る。3人ともIIECの有望な卒業生として、当時の大物プロデューサーであったエリアス・ケレヘタが推薦した。脚本には名脚本家であったラファエル・アスコナが共同執筆者として参加している。音楽にルイス・デ・パブロ、撮影にルイス・クアドラド、編集にパブロ・G・デル・アモ、美術にはまだ監督デビューしていなかったハイメ・チャバリと、4年後の長編デビュー作『ミツバチのささやき』と同じ布陣で臨んでいる。第3話を務めたエリセは、チンパンジー連れのアメリカ人、スペイン人、キューバ人の若者グループが突然おこすハプニングを描いている。

 

      

              (唯一生き残るチンパンジーのピンキーを配したポスター)

       

3話に共通して主演したディーン・セルミエがアメリカ的生活様式と価値観を体現し、スペイン側の相克と攻撃性が語られており、3話ともに出口なしの結末である。サンセバスチャン映画祭1969監督部門の銀貝賞、シネマ・ライターズ・サークル賞では脚本賞と第2話に主演したアルフレッド・マヨが男優賞を受賞してケレヘタの期待に応えている。キャストはブニュエル映画でお馴染みのフランシスコ・ラバル、アスンシオン・バラゲル、テレサ・ラバル、フリア・グティエレス・カバ、フリア・ペーニャ、ルイス・スアレスなど、当時のスターが出演している。

   

   

               (ディーン・セルミエとピンキー)

  

2019年、エリセは「Piedra y cielo」をナバラで撮影した。これはビルバオ美術館がプロデュースしたホルヘ・デ・オテイサの彫刻作品とアギーニャ山の頂上にあるミュージシャンのアイタ・ドノスティアのモニュメントについてのビデオ・インスタレーション。「Espacio Día」(11分)と「Espacio Noche」(6分)の二部構成。映像にはピアニストのホス・オキニェナの演奏によるアイタ・ドノスティアの音楽テーマと、オテイサの詩の断片が挿入されている。20191113日ビルバオ美術館でプレミアされた。オテイサはギプスコア県(オリオ1908~サンセバスティアン2003)出身のバスクを代表する彫刻家で詩人。ナバラにホルヘ・オテイサ美術館がある。

 

★長編3作(『ミツバチのささやき』『エル・スール』『マルメロの陽光』)については、いずれアップするとしても既に語りつくされている感があり、今回は受賞歴にとどめます。監督は常々フィクションとドキュメンタリーは同じと語っておりますので、『マルメロの陽光』は区別しませんでした。

   

『ミツバチのささやき』El espíritu de la colmena1973

 サンセバスチャン映画祭1973金貝賞

 シカゴ映画祭1973シルバー・ヒューゴ

 シネマ・ライターズ・サークル賞1974 作品・監督・男優賞(フェルナンド・F・ゴメス)

 フォトグラマス・デ・プラタ賞1974俳優賞(アナ・トレント)

 ACE1977女優賞(アナ・トレント)、監督賞

 

  

     

       (フランケンシュタインに出会った瞬間のアナ・トレント)

  

『エル・スール』El sur1983

 シカゴ映画祭1983ゴールド・ヒューゴ

 サンジョルディ賞1984作品賞

 サンパウロ映画祭1984批評家賞

 ASECAN(アンダルシア・シネマ・ライターズ)1984 スペインフィルム賞

 フォトグラマス・デ・プラタ賞1984作品賞

 シネマ・ライターズ・サークル賞1985監督賞

 他、カンヌ映画祭1983コンペティション部門にノミネートされ好評をえる。

  フォトグラマス・デ・プラタ賞にイシアル・ボリャインがノミネートされた。

 

      

     

          (15歳の少女を演じたイシアル・ボリャイン)

 

『マルメロの陽光』El sol del membrillo1992

 カンヌ映画祭1992審査員賞・国際映画批評家連盟賞FIPRESCI

 シカゴ映画祭1992ゴールド・ヒューゴ

 サンジョルディ賞1993 特別賞

 ADIRCAE1993 監督賞

 ASECAN1994 スペインフィルム賞

 トゥリア賞1994 スペインフィルム賞

 ACE1996 作品賞

 

      

   

                (画家アントニオ・ロペス)

 

★他に栄誉賞として、1993年映画国民賞、1995年芸術功労賞金のメダル、2012年スペイン映画史家協会栄誉賞、2014年ロカルノ映画祭生涯功労賞としてヒョウ賞を受賞している。

        

         

      (トロフィーを手にしたビクトル・エリセ、ロカルノ映画祭2014


ビクトル・エリセ、30年ぶりに商業映画に復帰*「Cerrar los ojos」2022年07月15日 12:10

         カンヌ映画祭2023プレミアを視野に新作「Cerrar los ojos」に着手

   

  

      (ビクトル・エリセ、201911月、ビルバオ美術館にて)

   

★先日、75日にビクトル・エリセ(ビスカヤ県カランサ、1940)が4作目となる長編映画Cerrar los ojosを準備中というニュースが駆けめぐった。プロダクションの正式なプレス会見での発表ではなく、アンダルシア州の公共テレビのカナル・スールが資金提供する11本のフィクションと18本のドキュメンタリーのなかにエリセの新作も含まれており、「ホセ・コロナドとマリア・レオンが主演します」というアナウンスをした。続いて制作会社はタンデム・フィルムズTandem Filmsのほか、マラガの制作会社ペカド・フィルムズPecado Films、エリセ自身の制作会社ノーチラスNautilusであることが明らかになった。ただし本作の準備を秘密裏に進めてきたタンデムの製作者クリスティナ・スマラガは、この報道の取材に応じなかったようです。というわけでウラがとれておらず全体像が見えておりませんが、脚本の執筆は昨年の秋から着手、共同執筆者はミシェル・ガスタンビデということも分った。今年の10月にクランクインの予定なら、2023年のカンヌ映画祭上映の可能性もゼロではないか。

     

   

               (新作を準備中のビクトル・エリセ)

    

710日付のエル・パイス紙の記事によると、物語は20124月、「Quién sabe dónde」というスタイルのテレビ番組から始まり、今は引退して漁業をしているベテラン監督、作家でもあった人物を探しあてます。家族の不幸と2作目となるはずだった大作の頓挫で沈黙していた監督役にヒネス・ガルシア・ミリャンが扮します。この監督の兵役時代からの友人であり、2作目の主人公であった俳優が姿を消してしまったことで映画は未完成になっていた。この46歳でゴヤ賞を受賞したガラン俳優役にホセ・コロナドが扮します。このカップルはガールフレンドたちも共有しており、この切っても切れない二人の友情とアバンチュールを中心に展開するようです。マリア・レオンはそのガールフレンドの一人ということでしょうか。以上の3人以外は未発表、まだIMDbがアップされておらず、本格的なキャスティングはスクリプト完成後になるのでしょうか。

 

★肝心のスクリプトは目下推敲中だそうですが、読んだ関係者は「大幅な変更はない」と保証していますので、4作目となるエリセの商業映画への復帰作は、ベテラン監督と彼の映画の主演俳優間の友情についてのノスタルジックなドラマとなりそうです。ビクトル・エリセの紹介など今更の感がありますが、1992年のドキュメンタリー『マルメロの陽光』以来、30年間長編を撮っておりません。1999年、フアン・マルセの小説 El embrujo de Shanghai の映画化の脚本に3年間費やしましたが、最終的に撮影に至りませんでした。2002年、別バージョンの脚本でフェルナンド・トゥルエバが完成させました。

     

   

             (画家アントニオ・ロペス、『マルメロの陽光』から)

  

★しかし今回は上述しましたようにミシェル・ガスタンビデが共同執筆者、予断は許しませんが大いに期待できます。彼はフリオ・メデムの『バカス』(92)でシネマ・ライターズ・サークル賞、エンリケ・ウルビス『悪人に平穏なし』ではゴヤ賞2012オリジナル脚本賞を監督と受賞しています。ウルビスとはホセ・コロナドが主演した『貸し金庫507』(02)でも共同執筆しています。1958年プロヴァンス生れ、主に監督との共同執筆がもっぱらですが、相手によって仕事のやり方を選んでいる。気難しいエリセとの共同執筆はうまくいってるのでしょうか。詩人、監督、脚本の指導教官と多才な人です。

 

          冬眠していたわけではないビクトル・エリセ

 

★ビクトル・エリセのキャリア&フィルモグラフィーは後日にアップしますが、エリセは結構短編を撮っているほか、イランのアッバス・キアロスタミとのオーディオビジュアルによる書簡をやりとりしています。また2002年には、7人の監督による10分間ずつのオムニバス映画10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』に、「ライフライン」で参加した。本作の舞台はエリセが生まれた年と同じ1940年、スペインの片田舎で一つの生命が誕生する自伝的なモノクロ作品。アキ・カウリスマキ、ヴェルナー・ヘルツォークなどをおさえて7作中では最も印象深い秀作、批評家からも観客からも絶賛されました。

 

2006年、「La morte rouge」(32分)は、5歳のとき初めて見た映画を語る短編、映画とはロイ・ウィリアム・ニールのミステリー『シャーロック・ホームズ 緋色の爪』(1944)を指し、後年の自作に大きなインパクトを与えたという。2007年「Sea-Mail」(4分)と「Víctor EriceAbbas KiarostamiCorrespondencias」(96分)は、バルセロナの現代文化センターの依頼によるアッバス・キアロスタミとのビデオ往復書簡、2011年、21人の監督からなる共同作業「311 Sense of Home」は、河瀨直美の呼びかけで2011311日に起きた東日本大震災の犠牲者に捧げられた各311秒の短編でした。エリセはアナ・トレントと再びタッグを組んで参加した。

 

   

          (短編「La morte rouge」のポスター)

   

   

(ビデオレター「Víctor EriceAbbas KiarostamiCorrespondencias」のポスター)

 

2012年、「Centro Histórico」は、ポルトガルの世界遺産ギマランイス歴史地区を題材にしたオムニバス映画。エリセの「Vidrios partidos」(「割れたガラス」)のほか、アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタマノエル・ド・オリヴェイラ4監督が参加している。本作は第13回東京フィルメックス映画祭2012の特別招待作品として上映され、翌年『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』の邦題で公開された。

  

    

      (ペドロ・コスタ、ビクトル・エリセ、バジャドリード映画祭、201310月)

 

★そのほか、昨年11月にエリセは、バスクの彫刻家ホルヘ・オテイサに関するエッセイ「Piedra y cielo」を発表しました。その折りのマスメディアとの会談で、90年代から業界は根本的に変化して、リュミエール兄弟以来の映画は映画館のスクリーンで見る体験がなくなり、映画館が残骸として残った。テレビやタブレットで見ることを否定しないが、映画を見る理想の場所は映画館であると語っている。

  

★「問題は映画を製作することではなく、それが映しだされる場所なのですが、これが難問です。1992年以来、私は長編ではありませんがかなりの仕事をしてきましたが、ほとんど知られていません。私の最後の商業映画のリリースは、アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、マノエル・ド・オリヴェイラと一緒に作った「Centro Histórico」ですが、映画を上映する場所を確保するためにお金を払わねばならず、監督たちの知名度にもかかわらず、スペインではほとんど誰も見ていません。これがこの国で起こっている現実です」とも語っている。しかし新作「Cerrar los ojos」のニュースは駆けめぐり、映画界はエリセの新作を熱心に待っています。

    

★キャスト紹介は気が早いと思いますが、主役の監督役に決定しているヒネス・ガルシア・ミリャンを簡単に紹介しておきます。1964年ムルシア州プエルト・ルンブレラス生れ、映画、TV、舞台俳優、1992年デビュー。当ブログでの紹介記事は初めて、主にTVシリーズに出演、2008年「Herederos」でスペイン俳優組合TVシリーズ部門の助演男優賞を受賞している。イサベル女王の生涯を描いた「Isabel」(141113)のフアン・パチェコ役、「Matadero」(1019)のパスクアル役、直近では Netflix  初出演のメキシコを舞台にした『そしてサラは殺された』(3シーズン25話、2122)で主役のセサル・ラスカノを演じている。他に字幕入りで見られる『海のカテドラル』(8話、2018)も Netflix で配信された。

   

   

             (ヒネス・ガルシア・ミリャン)


★映画では、主に脇役ですが、チェマ・デ・ラ・ペーニャの1981223日に起きた軍部のクーデタを描いた「23-F: la pelicula」(11)でアドルフォ・スアレス首相を演じた。グラシア・ケレヘタのコメディ「Felices 140」(15)、エンリケ・ウルビスの歴史物「Libertad」(21)ほか、脇役が多いので出演数は多い。主役を演じるのは今回が初めてでしょうか。

Felices 140」の作品紹介は、コチラ20150107

Libertad」の作品紹介は、コチラ20210406

 

ホセ・コロナド(マドリード1957)については、Netflix で配信されたミゲル・アンヘル・ビバスの『息子のしたこと』(18)、TVシリーズ『麻薬王の後継者』(1820)など、最近の出演作はアップしておりませんが、既にキャリア紹介をしています。マリア・レオン(セビーリャ1984)については、ベニト・サンブラノの『スリーピング・ボイス 沈黙の叫び』(11)他でキャリア紹介をしています。いずれキャスティングが確定してからアップします。

 

ホセ・コロナド関連記事は、コチラ2014032020170417

              /20180729

『貸し金庫507』の紹介記事は、コチラ20140325

マリア・レオンの紹介記事は、コチラ2014041320150202

『スリーピング・ボイス 沈黙の叫び』の作品紹介は、コチラ20150509

 

セシリア・バルトロメ*第9回フェロス栄誉賞受賞2022年02月09日 16:17

       反フランコを貫く勇敢な映像作家セシリア・バルトロメ

 

      

      (フェロス栄誉賞のポスターを背にしたセシリア・バルトロメ)

 

★第9回フェロス栄誉賞を受賞したセシリア・マルガリタ・バルトロメ・ピナは、1940910日バレンシア州のアリカンテ生れ、映画監督、脚本家、製作者。7歳のとき父親が当時のスペイン植民地で映画検閲の責任者に任命されて以来、家族と赤道ギニアのフェルナンド・ブー島に移住した。当地の演劇学校で演技と演出を学び、10代後半には先住民高等学校の生徒たちを指導した。20歳のときマドリードに引っ越すまで暮らしている。数年後のインタビューで「私は適応するのに時間がかかった途方もない不道徳と、間違いを認めようとしないマチスモに出会った」と語っている。後にここの体験をテーマにした長編「Lejos de África」(96)を撮ることになる。

 

      

   (自らの少女時代の体験を織り込んだ長編「Lejos de África」のポスター)

 

     

     (受賞を前にしたセシリア・バルトロメ、マドリードの8 2/1書店にて)

 

★スペインに戻ると、大学で工学と経済科学を専攻したが断念、1947年に開校したマドリードの国立映画研究所に入学して、本格的に映画を学ぶことにした。1969年、今は亡きピラール・ミロ、現役で活躍するホセフィーナ・モリーナと共に卒業、本校最初の女性シネアストの一人になった。既に「La noche del doctor Valdés」など数編の短編を送り出しており、1970年の離婚をテーマにしたミュージカル「Margarita y el lobo」(モノクロ、45分)が卒業制作作品。本作はフランコ政権を挑発しているということで検閲に引っかかり、民主主義の到来まで国外で秘密裏に上映されていた。バルトロメの名前はブラックリスト入りしてしまい、卒業後は宣伝や産業ドキュメンタリーしか撮ることが出来なくなった。他の監督のプロジェクトでも背後に彼女の影を見つけると検閲が通らず、長いブランクを余儀なくされた。セクシュアリティや離婚、中絶問題、女性の自由などは検閲を通らない時代であった。

   

国立映画研究所は、イタリア映画のネオレアリズモの流れをくむ新しい考え方をもとに設立され、内容の乏しい映画を拒否した。スペイン映画史に名を残したフアン・アントニオ・バルデムガルシア・ベルランガなどが第1期生卒業生、後マドリードのコンプルテンセ大学に発展解消された映画研究所。

 

     

      (35ミリで「La noche del doctor Valdés」を撮影するバルトロメ、1964年)

 

  

     (中編ミュージカルMargarita y el lobo」のポスター

 

★フランコ没後の民主主義移行期に最初に撮った、1977年の「Vámos, Bárbara」は、マーティン・スコセッシの『アリスの恋』(74)に触発された作品、スペイン最初のフェミニスト映画といわれる。エンディングを変更して、スペインのアリスは白馬に乗った王子様を夢見ない、自立した自身を見つける女性として描いている。主役アナをアンパロ・ソレル・レアルが扮し、バルバラは12歳になる一人娘の名前。撮影監督はパートナーだったホセ・ルイス・アルカイネが手掛けている。

 

  

  (アンパロ・ソレル・レアルと娘バルバラ役のクリスティナ・アルバレス

 

1979年から翌年にかけて、兄ホセ・フアン・バルトロメと移行期のスペインを描いたドキュメンタリー2編「Después de.....」(No se os puede dejar solos / Atado y bien atado)の撮影に取りかかり完成させる。しかし独裁政権の終りのスペインの変化を批判的に描いているため公開が遅れ、1981年のクーデタ未遂事件を経て、3年後の1983年、ピラール・ミロが映画総局長に就任したことで紆余曲折があったにしろ陽の目を見ることができた。検閲は19764月全廃されたが表現の自由は直ぐには手に入らなかった。ミロ監督は1984年の「1回スペイン映画祭」の企画者で、団長としてフアン・アントニオ・バルデムやカルロス・サウラ以下と一緒に来日している。心臓にトラブルを抱えており、撮影中に心臓発作で急死している。

  

     

                 (ドキュメンタリー「Después de.....」のポスター)

 

     

       (ホセ・アントニオ・バルトロメとセシリア・バルトロメ)

 

1996年、脚本を兄ホセ・フアン・バルトロメと共同執筆した長編「Lejos de África」を撮る。キューバとの合作で、キューバで撮影した。アフリカにおけるスペイン植民地主義に関する最初の映画といわれ、二十歳まで暮らしていた赤道ギニアの体験を織り込んでいる。白人と黒人という2人の少女の友情と冒険という単純なストーリーのなかに、少女たちの無垢な目を通して、異文化間の対立、人種差別、政治情勢の推移を描いている。

 

      

           (2人の少女を演じたニーニャ、フレームから)

 

2005年、放映時間には通りに人影が途絶えたと言われた長寿TVシリーズ「Cuéntame cómo pasó」(01~)のドキュメンタリー編「Especial Carrero Blanco: el comienzo del fin」を撮る。フランコ総統の右腕であった軍人ブランコ首相の生涯と暗殺事件を精査、分析したドキュメンタリーである。これが最後の作品となっている。女性映画製作者協会 CIMA の名誉会員。

映画祭の受賞歴、映画賞は以下の通り:

2009年、アリカンテ大学と女性学センターが共催した回顧展が企画された。

2012年、第50回ヒホン映画祭で Mujeres de cine 賞を受賞。

2014年、美術功労賞〈金のメダル〉受賞、スペイン文化省が選考母体。

2018年、バレンシア視聴覚アカデミー賞受賞。

2019年、スペイン映画アカデミー主催の「マエストロ」プログラムが企画される。

2021年、第4回女性映画祭のキャリア賞受賞。

2022年、フェロス栄誉賞受賞

 

        

(フェリペ6世、レティシア王妃、国王夫妻列席のもと授与された〈金のメダル〉 

 授与式は2015年2月)

 

     

   (盟友ホセフィーナ・モリーナから〈金のメダル〉を手渡される)

  

カルロス・サウラの『急げ、急げ』*時代を反映したキンキ映画2022年01月14日 17:32

         民主主義移行期のキンキ映画の誕生と終焉

 

★以下は長らく休眠中のCabina さんブログにコメントしたものを、前回アップしたダニエル・モンソンの新作Las leyes de la fronteraの付録として、単独でも読めるように削除加筆して再構成したものです。特に後半部のキンキ映画の父とも称されるエロイ・デ・ラ・イグレシア紹介は今回大幅に加筆しています。カルロス・サウラのキンキ映画 Deprisa, deprisa81)の邦題『急げ、急げ』は、1986年に開催されたミニ映画祭カルロス・サウラ特集〉で上映された折りに付けられたものです。犯罪を犯すときのキンキたちの口癖「急げ、急げ!」からきています。

Cabinaブログ「急げ、急げ」には時代背景など詳しい、コチラ⇒20110219

   

     

            (アンヘラとパブロを配したポスター)

 

データ:製作国スペイン・フランス、スペイン語、1981年、犯罪ドラマ、99分、監督・脚本カルロス・サウラ、撮影テオ・エスカミーリャ、製作エリアス・ケレヘタ・プロダクション、モリエール・フィルム、撮影地アルメリア。受賞歴ベルリン映画祭1981金熊賞受賞。

   

キャスト ベルタ・ソクエジャモス(アンヘラ)、ホセ・アントニオ・バルデロマール・ゴンサレス(パブロ/エル・ミニ)、ヘスス・アリアス(メカ)、ホセ・マリア・エルバス・ロルダン(セバス)、マリア・デル・マル・セラーノ(マリア)、ほか多数

   

ストーリー:スペインが民主主義移行期の1970年代後半、マドリードの貧困地区にたむろするアウトローたち、アンヘラとパブロによって結成された4人の犯罪グループの物語。彼らは故郷を捨て家族を持たずマフィアのような組織にも属していない。手っ取り早い車上荒らしや銀行強盗を繰り返し、せしめたお金で自由を満喫している。軽い気持ちで始めた犯罪もやがて少しずつより危険で無謀なものに変貌していく。1970年代後半から80年代にスペイン社会を震撼させたヘロイン中毒を背景にしている。

 

 

            サウラといえばフラメンコ?

 

 カルロス・サウラのキンキ映画 Deprisa, deprisa急げ、急げ』)のストーリー、時代背景、特に類似作品についての紹介はCabinaさんブログに詳しい。198610月にスペイン映画講座カルロス・サウラ特集〉が開催され、サウラの問題作といわれる6が上映されました

 長編第1Los golfos59ならず者)から数えると既に40作近くなります

 *『ならず者』(59)、『狩り』(La caza 65)、『カラスの飼育』(Cria cuervos 75)、『愛しのエリサ』(Elisa, vida mía 77)、『ママは百歳』(Mamá cumple cien años 79)、『急げ、急げ』(81)以上の6作。

 

    

    (天使の丘で職務質問を受ける名場面を配した『急げ、急げ』のポスター

 

 Pajarico97パハリーコ・小鳥)がスペイン映画祭1998で上映された後、特に気に入ったものがありません。監督自身がフラメンコ、タンゴ、ファドなど音楽物にシフトしているせいか、ラテンビート映画祭でもドラマは上映されていません。

 *ラテンビート映画祭LBFFの上映作品。Fados07ファド2008上映)、Flamenco, Flamenco10フラメンコ、フラメンコ2010上映)の2作。後者がLBFFで上映された際のチケット完売でした

 

 Cabina ブログでもドラマは久々、製作順ではTaxi96、『タクシー』1997公開)以来です。

 『タクシー』は、日本スペイン協会創立40周年記念の一環として開催された<スペイン映画祭1997>で上映され、続いて一般公開されました。映画祭には監督来日がアナウンスされておりましたが、来日したのは本作でデビューを飾ったイングリッド・ルビオでした。直前に急にお腹が痛くなるのは、よくある話です。

 

 サウラは一般公開、映画祭、映画講座等々含めると、字幕入りで60%以上の作品が紹介されているようですが。

 DVDも発売されていてスペイン映画としては破格の扱いです。しかし、残念ながら『急げ、急げ』のような私の好きな作品は漏れてしまっています。1981年のベルリン映画祭金熊賞を受賞しながら、一般公開は見送られました

 

 今でこそ「巨匠」と紹介されますが、日本ではシネマニアは別として無名に近かったでしょう。

 スペイン自体が金熊賞受賞を例外と考え、これを快挙とポジティブにはとらなかった。民主主義移行期(197578)の混乱はスペイン全体を覆い、映画界も創造性と産業的なインフラを安定させるための国家的な援助体制が確立していなかったようです。

 

 サウラ映画が初めて劇場公開されたのが1983年には驚きますが『カルメン』が米アカデミー外国語映画賞部門にノミネートされたおかげです。

 フラメンコ三部作の2作目『カルメン』(83)、次が同じ三部作の1作目『血の婚礼』(8185公開)→『カラスの飼育』(7587公開)→三部作の最後『恋は魔術師』(86、同)→『エル・ドラド』(8789公開)という具合で、公開年は製作順ではありませんでした

  

 やはりフラメンコ強しの感があります。フランシスコ・ロビラ・ベレタのフラメンコ映画『バルセロナ物語』63Los Tarantos)が公開されたのは翌年の1964年でした。

 ロビラ・ベレタは1940年代から活躍しているベテラン監督で、フラメンコに拘ったわけではありません。本作は1984年秋開催のスペイン映画の史的展望195177でも上映されました。他にもスペイン映画祭1984が企画され、80年代は日本におけるスペイン映画の黎明期というだけでなく、本国スペインでも歴史に残る名画が量産された時代でもありました。

 上述した〈カルロス・サウラ特集〉のうち第3作目になる『狩り』は、スペイン映画の史的展望195177で既に紹介されていました。

 

       

             (『狩り』のスチール写真

 

    80年代の新しいアウトサイダー映画シネ・キンキCine quinqui

 

 前置きが長くなりましたが、1980年を前後して社会のはみ出し者を主人公にした犯罪映画シネ・キンキ cine quinqui に戻ります。大雑把にジャンル分けする警察・刑事の範疇に入り、こちらにはテロリズムをテーマにしたものも含まれます。

 いわゆるETAものと言われる映画こちらも70年代から80年にかけて記憶に残る作品が生みだされました。

 

 キンキ映画には例えばホセ・アントニオ・デ・ラ・ロマPerros callejeros77)、エロイ・デ・ラ・イグレシアNavajeros80)やColegas82)、マヌエル・グティエレス・アラゴンMaravillas80などが代表作として挙げられる

 デ・ラ・ロマ監督のは、少年犯罪三部作の第1作目です。

   

 グループのリーダーEl Toreteエル・トレテを主人公に、続編Perros callejerosⅡ”79)、Los ultimos golpes de El Torete80)を撮り、つづいて女性版Perras callejeras85)も撮ったのでした。

 *19875スペイン映画講座アラゴン監督特集〉でマラビーリャス』として上映された。

  

 だいたい未紹介作品ばかりです。ピークは80年代末に終りを告げたということですが。

 シネアストたちがこのテーマを忘れたわけではなく、アルフォンソ・ウングリアAfrica96)やフェルナンド・レオン・デ・アラノアBarrio98)のような映画も記憶に新しいところです。「バリオ」の主人公たちは急げ、急げの息子世代に当たります

 

 ウングリアの「アフリカ」にはエレナ・アナヤが出演しています。

 ポスト・ペネロペの呼び声が高いエレナのデビュー作。その後の活躍は御存じの通り、この秋公開のアルモドバルの新作に抜擢され、監督の新ミューズとなるかもしれません。

 

 サウラの『タクシー』やアチェロ・マニャスEl bola00)もこの延長線上ですね。

A 遡ればメキシコ時代ルイス・ブニュエルLos olvidados50、『忘れられた人々』53公開)は、少年犯罪映画の先駆け的作品といえます。フランコ体制下の60年代にも多くの監督が厳しい検閲をくぐり抜けて、落後者の挫折と失望を描いた作品を手掛けています。変動期の80年代とは時代背景が異なりますから自ずと主テーマは異なります。

 

 『忘れられた人々』はメキシコ映画ですが、ブニュエルはサウラ映画の原点の一つですね。

 ブニュエルは翌1951年のカンヌ映画祭で監督賞を受賞したのですが、スペインでは上映禁止になりました。ブニュエルに限らず当時の外国映画禁止リストを見ると、意味不明の映画のオンパレードです。

 処女作ならず者の英題はThe Delinquents不良少年たち)、このほうがイメージしやすい。これはブニュエルの影響を受けて作られたということですか。

   

     

             (『ならず者』のポスター)

   

 勿論ブニュエルの遺産だけではありません。当時はイタリアネオレアリズモが支配的でしたが、これは危機に瀕しているイタリアを象徴しており、一方フランスヌーベルバーグ台頭は流動的なフランスの転換期を象徴していました。スペインのキンキ映画は軍事独裁政権からの屈折した離脱を反映しています。ドキュメンタリー・タッチのならず者の登場は、新しいスペイン映画の到来を予感させたのではないでしょうか。

 

 1960年カンヌ映画祭では好意をもって迎えられた。

 しかしスペイン公開は62年夏と1年半も後、おまけに事後検閲の鋏がチョキチョキ入っていた。

 新人なので事前検閲はお目こぼしをもらえたが、カンヌが認めたからには事はそう簡単にはいかないと事後検閲が厳しくなった

 スペイン公開前にフランス、スイス、西ドイツ、イタリアなどで上映、外貨を稼いだはずなのに、それはそれ、これはこれとはっきり区別している。最初からヌードなしの国内外貨稼ぎのヌードあり海外を作ったもあそうですから不思議ではありません。

 

 死に急ぐ若者たち、ここにあるのは現在だけ

 

 数ある少年犯罪物のなかでも、この急げ、急げは突出した成功作。20年の時を経てならず者のテーマに回帰したといっていいですね。

 ならず者の主人公の子供たちが主人公です。前作との違いは、まずポスト・フランコ、女性のチンピラ quinqui の登場、ドラッグの拡大。<三猿>を決め込んでいた国民は、構造的な社会矛盾の深まりに直面するなかで大量消費時代にフルスピードで突入していきました。

 

 価値観が180度転換した時代、女性の自己主張も始まった。アンヘラ役のベルタ・ソクエジャモス発見は大きいです。

 主人公はアンヘラといっていい、その肉付けが如何にもサウラらしい。4人のなかで最も大胆不敵、射撃の名手だし、頭もよく用意周到、ヤク漬けのチンピラ青年とは違ってヘロインには手を出さない。まだ未来を信じているようです。

 

 パブロ(エル・ミニ、ホセ・アントニオ・バルデロマール・ゴンサレスとメカヘスス・アリアスが偶然アンヘラに出会ったことで映画は動き出す。

 エスカレートしていくのは二人が彼女の射撃の才能を知った時からでいっそアンヘラに会わなければよかった。やはり他作品よりプロットや伏線の張り方に感心します。

 

  

             (パブロとアンヘラ、フレームから)

 

 彼らはマドリード出身でなく、義務教育もそこそこにアンダルシア地方からこの界隈に住みついたという設定です。

 サウンドトラックにフラメンコを使用したのはそのため、カンテの歌詞がよく聞き取れないこともあって断定できませんが、直感的にいえば4人のセリフ代わりになっているのではありませんか。彼らは人生を安定させるための故郷や家族から切り離されているというか切り離してきた。

 

 家族といえるものがあったかどうか分かりませんが、過去を切り捨ててきた。かといって未来があるとも信じていない、あるのは現在だけ

 ユートピアの夢は見ない。だからサウラに特徴的なフラッシュバックや回想は禁欲的に排除されている。彼らの表情のクローズアップから、観客に類推させるだけで映像化しない。時間も一直線に進むだけです。

 

 パブロとアンヘラが盗んだお金で購入したマンションも何やら怪しげな建物ですね。

 すぐ傍を走る線路がマドリード中心部から彼らを分断している。大都市がもつ華やかさや喧噪とは無縁な場所です。

 マンション近辺の荒涼とした風景は、彼ら自身のメタファーでしょうか。

 緑のない空き地に建つ四角いコンクリートの塊り、迷わず殺人も犯すアンヘラがパブロの古アパートから持ってきた鉢植えの世話をする。何を語らせたいのだろう。

 

 例の線路を電車が通過するショット、あれも何かを意味するのかな。

 45回繰り返されたので何処へ向かうか気になりますね。汚水の垂れ流しで濁った川、貸し馬の厩舎は「テキサス・シティ」、繋いでいた綱を解いて走り去る1頭の馬、それらが暗示するものは何だろう。

 誰が乗っていた馬だったろうか。メカが逃走に用いた車を燃やすインパクトのあるシーン、特に最後の闇に炎が高く燃え上がるところは映像的にも印象深い。

 メカは放火狂という設定なんでしょうね。証拠隠滅だけでなく炎に魅せられている。ドキュメンタリーの報道番組を見てるようでした。撮影監督は狩りの撮影助手をしていたテオ・エスカミーリャ、『カラスの飼育』以来ずっとサウラ映画の専属カメラマン。夜の海、ディスコ、特に夜の灯りの扱いがいい。

 

 メカの恋人マリアも入れてCerro de los Angeles(天使の丘)に遊びに行く。突然パトカーが現れて二人の警官が現れるや服装検査をする。毎度のことなので素早くヤクは捨ててしまう。

 あそこは有名なシーンです。当時すでにマドリード近郊の観光地になっていたんですね。年配の女性観光客をからかったせいで「不埒者がいる」と忽ち通報されてしまう。フランコ時代の密告制度は健在と言いたいのでしょうか。ジャケ写はアンヘラとパブロのツーショットですが、当時の宣伝用スチール写真はここがよく使用された。映画でも分かるように内戦と深い関係があります。

  

 ここが地理学的にイベリア半島のヘソというだけではないのですね。

 映画にも出てきたキリスト像を真ん中に配置したMonumento al Sagrado Corazon de Jesus’というモニュメントが建っている。1919年、アルフォンソ13世によって建造され、530日に除幕式が行われた。内戦が始まって間もない19367月に共和派の若者5人がモニュメントの警備員によって殺害されるという事件が起こった。

 

 第二共和制(19314月)になってから、修道院の焼き打ち事件が多発していた事実が背景にあります。

 ですから関係者は襲撃に脅えていたようです。事件5日後、共和派の民兵がやってきて報復措置としてキリスト像を的に射撃のセレモニーをしたうえ、最終的には破壊、廃墟にしてしまった。内戦後の1944年、フランコ政府はレプリカをもとに再建計画のプロジェクトを組み、完成除幕は約20年後の19656月でした。

 

 内戦時代の或る意味で象徴的な場所なんです。

 内戦伝説なんでしょう。狩りの舞台となるウサギの狩猟場も、内戦時には激しい戦闘があった場所、もっともスペイン全土が戦場だったわけですが。

   

 サウラのスタイルについては、よく検閲回避のための「シンボリズムに富んだリアリズム」ということが言われますが。

 確かに検閲時代には顕著でしたが、これは検閲回避だけではないと思います。彼の好きな手法であって、検閲撤廃後の本作にあっても列挙したように浮遊している。

 

 それは先述したフラメンコ三部作にも当てはまります

 乾英一郎氏が『スペイン映画史』「一体どうしてしまったのかと思うほど精彩を欠いていく」と書かれた三部作ですが、彼の映画には価値観の異なる者同士の不自然な<>というテーマが通底音としてあります。死に方は猟銃の撃ち合い、腹上死、ナイフなどいろいろですが、階級社会的な矛盾の追及とか告発は主テーマではなかったと思う、結果的にそうなったとしても。作品はひとたび公表されれば作り手の意図を離れて独り歩きをしてしまう。

 

 本作でも若者たちのモラルを裁いたりしないかわりに結末は容赦がない。

 埋もれている現実を明るみに出すこと、それをどうするかは当然政治の仕事だと考えている。冒頭からパブロとメカの死は約束されているし、後から仲間に入るヤクの売人でもあるセバスホセ・マリア・エルバス・ロルダンも同じ。残された時間の多寡はあっても人間はおしなべて死ぬ運命にあり、重要なのは「今という時間、愛、友情」であり、誰でも自分の人生を選ぶ権利がある。個人的にはそういうメッセージ受け取りました。

 仕事が成功すれば浮かれ踊るが、突然黙りこむ。そういう若者特有の感情の起伏の激しい揺れが細かく描かれていました。

 

      

       (左から、パブロ、セバス、メカ、アンヘラ、主演のキンキ

 

 だいたいアウトサイダーとか底辺とかいっても、厳密な意味での定義があるわけでなく曖昧です。主人公たちはマフィアとかの組織には縛られていない。極端だけど自由だしスリルはあるし、おばあちゃんにだって大型テレビを買ってやれる。ドロボーされるほうがバカ、デカい仕事に成功すればヒーローです

 実際の二人も大監督の映画に出たことで刑務所内では一目置かれていたようです。

 バルデロマールのちょっと青みがかった眼には人を惹きつける力があり自分たちが社会の底辺にいるという意識はなかったと思います。         

 

         これは愛を描いたフィクション

 

 ベルリン映画祭コンペ出品というのは、デビュー23作目が対象と思っていましたが、サウラのように知名度の高い監督が金熊賞を受賞するのは意外です。

 既にベルリン映画祭1966出品の狩り』で監督賞を受賞、カンヌ映画祭では1974に「従姉アンヘリカ」が審査員賞、1976には『カラスの飼育』が審査員特別賞、ママは百歳79)が米アカデミー外国語映画賞にノミネートされてます。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』が審査員特別賞を貰った年、日本ではこちらが話題になりました。

 

 サウラは『ならず者同様ドキュメンタリー手法で撮っています。

 撮影に入る前、マドリードの周辺地域を入念に取材した。2月間の準備期間中ビデオを廻しつづけ、撮影は1980年の夏、9週間を費やしています。

 

      

            (カメラを手放さないサウラ監督)

 

 この準備期間中に主人公を演じた本物のヘロイン中毒の青年たちに出会ったのでしょうか。

 2月下旬のベルリン映画祭から帰国して間もない311日に、パブロ役のバルデロマールはマヌエル・ソラ・テレスと銀行強盗をして一緒に逮捕されている。このマヌエルがサウラに紹介したようです

 映画での経験を実地に移したんですかね。

 

 出演料をどの段階で受け取ったかによりますが、あっという間に使い果たしたと証言しています。ディスコなどの遊興費やドラッグ代、とにかくお金に困っていたということです。俳優たちの自然な演技が受賞に貢献したにちがいありませんが、演技じゃなかったわけです

 自然な「演技しない演技」を追求するあまり、サウラは落とし穴に落ちた

 

 この事件でサウラと大物プロデューサーエリアス・ケレヘタは窮地に立たされた。撮影中にヘロインを使用していたことも発覚して、「知らなかった」では済まされない。

 サウラは「マドリード周辺の若者の犯罪や社会差別をテーマに社会学的なドキュメンタリーを作る意図はなかった」と言ってます。

 多分その通りだと思います。しかし、いくら「大都会の片隅で太く短く死に急ぐ若者の愛についてのフィクション」だと説明されても、事件の重大性を鑑みれば世間は納得してくれない。フランコ心酔者が黙っていないフランコ再評価の波は引いたり寄せたりしていた時代でした

  

 長年サウラとコンビを組んできたケレヘタもショックを受けたようですね。

 インタビューに「バルデロマールは撮影中は魅力的だったし、ベルリンでの記者会見の受け応えも申し分なかった」と答えている。真相の穿鑿など全く無意味ですが、ベルリンからの凱旋早々の事件だっただけに堪えたでしょう。もしこの事件が映画祭前だったらすんなり出品されたでしょうか。

 

 ホンモノに近づきすぎるとギリシア神話のイカロスの二の舞になりかねない。

 夏には相棒だったアリアスも銀行強盗に失敗して逮捕され、二人とも同じカラバンチェル刑務所に収監されています。長年続いたサウラ=ケレヘタのコンビ解消には、路線の違いだけでなく一連の騒動が関係していたかもしれない。

 

 監督はいわば現場の指揮官ですが、俳優があたかも「地でやってる」ように演技指導するのも仕事です。

 「スタート!」「カット!」の決断はもっとも重要な仕事ですが危うさと壁一重の犯罪者起用の是非は慎重に検討されてもよかった。例が極端ですが、『冷血』執筆中のカポーティを連想します。スランプ中だった作家は、望みの薄い死刑減刑をちらつかせながら虚実を尽くして犯人に近づき、一家四人惨殺の真相を聞き出しました。本物だけがもつ魅力には抗しがたいものがあるのかもしれない

 

         そしてQuinqui俳優は旅立ってしまった

 

 映画出演の quinqui の多くが90年代初めに亡くなっています。

 ヘロインは一番危険なドラッグ、解毒も難しく、服用を止めると激しい禁断症状に苦しむ。現在では危険なので医療用も禁止されてるほどです。

 マリファナなんかとは比較にならない。ふつう大麻マリファナ、ハシシュ→コカイン→ヘロインの道を辿る。

 

 バルデロマールは撮影時は23歳ですから、すでに常習者だった可能性が高い19921111日、マドリードのカラバンチェル刑務所でヘロインの摂取過剰により死亡した

 アリアスはそれより早く、1992422日、バスク州ギプスコア県でエイズのため死去。

 1960年マドリード生れですから31歳の若さです。IMDb によると4人のうち唯一他作品に出演している。ホセ・ルイス・クエルダ監督の『にぎやかな森』(891990公開)の下男役です。

 

      キンキ映画の父エロイ・デ・ラ・イグレシアの軌跡

 

 サウラ映画から逸れますが、90年代初めには<失われた世代>といわれる若者が、薬物中毒やエイズが原因で命を落としています。

 冒頭で触れた、エロイ・デ・ラ・イグレシアのNavajerosエル・ハロEl Jaro映画の結末と同じ銃弾で、ホセ・アントニオ・デ・ラ・ロマのPerros callejerosエル・トレテはエイズでした

 エル・ハロを演じたホセ・ルイス・マンサノは当時15歳、映画のオーディションに応募してきてデ・ラ・イグレシアの目に止まったそうです。

 

     

          (ホセ・ルイス・マンサノ、Navajerosから

 

 監督は1944ギプスコア生れですが、幼いころからマドリードのこの界隈で育ち、若者の生態を熟知していた。監督自身も1983年からヘロインに手を染め、1987年に解毒治療のため戦線離脱、復帰まで16年間ものブランクがありました

 1983年にエル・ハロを主人公にEl pico、その翌年に続編2を撮ってます。

 興行的にヒットしましたが、10代の子供たちや友人たちとドラッグに夢中になっていたことが発覚すると問題が吹き出しました。ヤクやりながら仕事していたわけです。「未来が見えない」と語っていたが、努力して立ち直り今世紀に入ってから2作発表した。しかし2006腎臓癌摘出後に他界享年62歳でした。

  

      

       (治安警備隊の帽子を配したヒット作El picoのポスター

 

 デ・ラ・イグレシアは、批評家の無理解もあって正当に評価されていないと言われています。アンチフランコ、コミュニストでホモセクシュアルであることを隠さなかった。

 いくつもゴルディオスの結び目を抱えていた。フランコ時代の60年半ばから事前検閲と闘い問題作を発表しつづけた監督です。カルメン・セビーリャを起用して撮った3作目となる El techo de cristal71「ガラスの天井」)は、商業的にも成功をおさめた犯罪スリラーでした。

     

 検閲を避けるための道具としてスリラーとかホラーは有効です。

 次回作 La semana del asesino72)も連続殺人犯に陥ってしまうスリラー、こちらは検閲がなかなか通らず、65ヵ所カットされたということです。本作は『カンニバルマン精肉男の殺人記録』という目を剥く邦題でDVD化されました。

 

 彼がフランコ没後に向かう先は、性的なテーマと分かっていた。

 1976年に同性愛をテーマにした映画 La otra alcoba(「もう一つの寝室」)を発表した。1978年のホセ・サクリスタンを起用した El diputado が東京国際レズビアン&ゲイ映画祭1999で『国会議員』の邦題で上映されたほか、2004年には遺作となったコメディ Los novios lgaros03)が『ブルガリアの愛人』の邦題でエントリーされた。後者は前年開催された画期的な企画〈バスク・フィルム・フェスティバル2003〉で既に上映されていました。

   

     

                   (復帰後のエロイ・デ・ラ・イグレシア)

   

  

           (遺作『ブルガリアの愛人』英語版ポスター)

 

 マラガ映画祭の特別賞の一つにエロイ・デ・ラ・イグレシア賞があります。

 再評価の流れが出来てるのでしょう。ロドリゴ・ソロゴジェンラウル・アレバロなど若い作家性の強い監督が受賞しています。ただし2018年からマラガ才能賞-ラ・オピニオン・デ・マラガと改名され、名前が消えてしまいました。2021年はオリベル・ラシェでした。