フアン・アントニオ・バルデムの「あるサイクリストの死」*スペインクラシック映画上映会2020年05月14日 14:12

 

   

         (J.A.バルデムの「あるサイクリストの死」のポスター)

 

★この度インスティトゥト・セルバンテス東京が文化イベントとして「スペインクラシック映画上映会」をVimeoチャンネルを通じての上映が始まっています(英語・ポルトガル語字幕)。オープニング作品は、フアン・アントニオ・バルデム監督の Muerte de un cyclista が「あるサイクリストの死」の直訳で上映されました。本作はカンヌ映画祭1955に出品され、国際映画批評家連盟賞FIPRESCI を受賞したことで、当時としては珍しく翌1956年、恐怖の逢びきのタイトルで公開されました。

 

★映画上映会を機に、目下休眠中のCabina さんブログにコメントとして投稿した記事をベースに、今回改めて視聴した感想も加え、削除もして独立して読めるように再構成しました(投稿20100820日)。カビナさんブログと合わせてお楽しみいただけたらと思います。若干長すぎるので2回に分けることにしました。

Cabina ブログは、http://azafran.tea-nifty.com/blog/2010/08/muerte-de-un-ci.htmll

 

Muerte de un cyclista 『恐怖の逢びき』(上映会タイトル「あるサイクリストの死」)

製作:Suevia Films-Cesareo Gonzarez(マドリード)/ Trionfalcine(ローマ)

監督・脚本:フアン・アントニオ・バルデム

原作:ルイス・フェルナンド・デ・イゴア  

撮影:アルフレッド・フライレ

美術:エンリケ・アラルコン

音楽:イシドロ・B・マイステギ

編集:マルガリタ・オチョア

メイクアップ:フランシスコ・プジョル

助監督:ホセ・ルイス・モンテロ

製作者:マヌエル・J・ゴヤネス

 

データ:製作国スペイン=イタリア合作、スペイン語・英語、1955年、サスペンスドラマ、88分、モノクロ、撮影地マドリードのチャマルティン・スタジオ、サルスエラ競馬場、サンマルコス教会、マドリード郊外など。期間195411月~19552月。公開マドリード19559月、バルセロナ同10月、ローマ同12月、日本19562月。

映画祭・受賞歴:第8カンヌ映画祭1955アウト・コンペティション出品、国際映画批評家連盟賞受賞

 

主なキャスト

ルチア・ボゼー(マリア・ホセ・デ・カストロ)

アルベルト・クロサス(分析幾何学准教授フアン・フェルナンデス・ソレル、マリアの愛人)

オテッロ・トーソ(マリア・ホセの夫、実業家ミゲル・カストロ)

カルロス・カサラビリャ(美術評論家ラファエル・サンドバル、ラファ)

ブルーナ・コッラ(女子学生マティルデ・ルケ・カルバハル)

アリシア・・ロマイ(フアンの姉カルミナ)

エミリオ・アロンソ(カルミナの夫、フアンの義兄ホルヘ)

フリア・デルガド・カロ(フアンの母親ドーニャ・マルタ)

マティルデ・ムニョス・サンペドロ(サイクリストの隣人)

メルセデス・アルベルト(クリスティナ)

ホセ・プラダ(フアンの上司、大学正教授)

マヌエル・アレクサンドレ(もう一人のサイクリスト)

グラシア・モンテス(タブラオのカンタオーラ)

他、大学生など多数

 

ストーリー:黄昏どきのマドリード郊外を疾走する車が自転車乗りの男をはねてしまう。車には帰宅を急ぐ密会帰りのマリア・ホセとフアンが乗っていた。男は瀕死のサイクリストを助けようとするが、ハンドルを握っていた女は不倫が世間に知れ渡るのを怖れて反対する。目撃者のいないことを確認すると、二人はを犠牲者を道端に置き去りにして逃走する。翌日の新聞にはサイクリストの死が報じられていた。あくまでも豊かさを満喫したい実業家夫人マリア・ホセ、自責の念に駆られながらも現在の地位を失いたくないフアン、二人は次第に泥沼にはまっていく。

 

     

               (自転車乗りに駆け寄るフアン)

  

 

         画像が修復された「あるサイクリストの死」を視聴する

 

 スペインは、2014年から主にクラシック映画を高解像度(ハイビジョン)する作業を進めてDVD化していた。今回上映されたのはとても画面が鮮明でしたから、多分それで上映したのではないかと思います。以前見たのはビデオ・テープだったから別の映画のようでした。更にこんなにもクローズアップが多かったのかと意外に思いました。

 雨が降っておらず(笑)、クラシックの風情が損なわれているという方もいたのではないでしょうか。モノクロは寿命が長いです。今回はタイトルを原題の直訳「あるサイクリストの死」とすっきりしていたのもよかった。

 

          

         (ヒロインのルチア・ボゼーのクローズアップ、映画から)

 

 本作より先に第6回カンヌ映画祭1953のグランプリ作品、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー『恐怖の報酬』が公開され大当たりをとっていた。こちらの邦題はオリジナルの直訳で、タイトルと内容がどんぴしゃりでした。しかしバルデムのは恐怖逢びきもありますが、それがテーマではありません。

 つまり、柳の下の二匹目の泥鰌を狙って付けたパクリだというわけです。

 

 今回は上映前に、監督の甥、俳優で作家のカルロス・バルデムの解説がありました。バルデム一家はオールシネアスト、監督の両親も俳優でした。後でも触れますが本作に出てくるサイクリストの隣人役マティルデ・ムニョス・サンペドロは監督の実母です。監督の年の離れた妹ピラール・バルデムは、カルロスとハビエル兄弟の母親、ハビエルと結婚したのがペネロペ・クルスでした。

 解説は毎回つくようですね。ではカビナ・ブログに移行します。

バルデム一家の情報は、コチラ20170613

  

             昔むかしあるところに、時代を超えた寓話

 

 第8回カンヌ映画祭1955国際映画批評家連盟賞受賞というのだから、既に半世紀以上前の映画というわけです。日本では翌562月に恐怖の逢びき』のタイトルで劇場公開になりました。公開が素早かったのは、勿論カンヌが効いたからです。

 前年に衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞して、日本でも急にカンヌが近づいた。

 当時のグランプリは現在のパルムドールと同じ最高賞、パルムドールの名称は43回の1990年からです。

 

 バルデムの『恐怖の逢びき』は、グランプリではないのですね。

 いろいろな経緯があって、つまり邪魔がはいって、コンペティション外として上映された。第8回の審査委員長は作家のマルセル・パニョル、バルデムも審査員の一人でした。最初の頃はフランスの作家とか詩人とか歴史家が委員長を務めた。例えばアンドレ・モーロアジャン・コクトーなど。

 

 バルデムも審査員だったんですか。

 1953ルイス・ガルシア・ベルランガ『ようこそマーシャルさん』が、ユーモア賞と脚本賞をもらった、バルデムも共同脚本家でした。このコンビはスペイン映画の新しい顔として注目されつつあった。ユーモア賞は英語のジョークとは違って現在のコメディ賞に近い。この賞を貰うことはとても名誉なことでした。第7回にはルイス・ブニュエルがメキシコ監督として審査員になっています。だからスペイン監督としてはバルデムが最初の審査員した

 ブニュエルは先に『忘れられた人々』41951)で監督賞を受賞しています。メキシコ亡命時代のことで、メキシコ映画として受賞した。

 

 Cabina ブログで紹介された「この作品は案外あっさり。全く盛り上がりません」は、すこぶる大胆なコメント、5点評価で1点。過去にどんな映画を見ていたか興味をそそられました映画の好みも十人十色、感想はそれぞれあってしかるべきですが、評価はそう簡単ではありません。製作国の政治体制、製作年などを考慮するなど、その人の眼識が問われますから。

 昔々あるところに、不倫をしている男と女がおりました。不注意で自転車乗りを轢き殺してしまいましたが怖くて逃げました。男は自責の念に駆られ出頭しようとしますが、愛の冷めた女は男が邪魔になりこちらも轢き殺してしまいました。女もハンドルを切り損ねて橋の欄干に激突、バチが当たって死んでしまいました。

 因果応報、教訓的でタメになるお話で古今東西、時間と空間を超えた永遠の寓話となる

 

            イタリア女優のマリア・ホセは吹替えだった

 

 マリア・ホセ役のルチア・ボゼーはイタリア人、監督が安心して顔のクローズアップができる女優の代表格。

 1931年ミラノ生れ、1947年のミス・イタリアに選ばれたのがきっかけで映画界入りした。スペイン映画出演はこれが初めて。バルデムも大いに気配りして大切に撮っています。まだスペイン語ができなかったから、クレジットされませんでしたが、エルサ・ファブレガスの吹替えでした。気をつけて見ると微妙にズレています。

 

          

   (マリア・ホセを演じたルチア・ボゼーとフアンのアルベルト・クロサス、映画から)

 

 イタリア語とスペイン語は親戚みたいなものだから言われるまで分からな。でも花形闘牛士ルイス・ミゲル・ドミンギンと結婚した。

A 映画と同じ1955年に結婚、子供も3人できた。しかし最初は「二人の会話は、ぼくはスペイン語、彼女はイタリア語、でもちゃんと通じている」とマタドール。

 愛に言葉はいらないということ。

 

 スペインでは現在も外国映画は吹替えが主流です。19414月に産業商務省が外国映画を輸入する場合、「スペイン語以外の映画の上映を禁止」しました。つまりオール吹替えです。

 193811月に内務省が出した<映画検閲委員会>の設置より、長期にわたって害毒を垂れ流し続けたと言われていますが。

 

 検閲のほうはアレコレ策を弄して戦える部分がありますが、こちらは単純明快、逃げ場がありません。これはさすがに6年間続いただけでした。

 アメリカ大使館で開催されたパーティのシーンでは、アメリカ側は英語を喋っていました。

 既に禁止は解かれていましたから問題なかった。しかしスペイン映画が受けたダメージは想像以上に大きかった。一つには観客が吹替えに慣れてしまったからです

 

 識字率が低く、年輩の観客の中には字が読めない人も多かったと聞いてますが。

 何しろそれまでスペインは、スペイン(カスティーリャ)語、カタルーニャ語、バスク語、ガリシア語の4言語。フランコ国家元首が「スペインは一つの言語」と、いくらスペイン語以外を禁止しても一朝一夕にはいかなかった

 言語は思考の道具ですから、そう簡単に乗り換えられないし、反体制側も抵抗しました。

 

 観客もさることながら、興行成績が伸びた配給会社が、吹替えのメリットにぞっこんになってしまった。つまり検閲を通すために映像を切り貼りする手間が省けるは、セリフは容易に改竄できるはで手放したがらなかった。内容まで変更したので観客は筋が追えなくて目をシロクロ。更に声優労働者組合も死活問題と字幕上映に反対した。

 三位一体で吹替を推進した。まだテレビがなかった時代です

 日本もそうですが、ニュースは映画館で見るものでした。スペインでは国家製作のつまり国策に沿った週刊ニュース映画NO-DOを劇映画の前に上映することが義務付けられ、情報操作をしたのです。

 

 フアンが映画館で見ていた特権階級の偽善じゃない慈善パーティのニュースがそれですね。

 マリア・ホセが参加者から寄付金を集めているシニカルなシーン。この映画を見て感心するのは、当時のスペイン社会のドキュメントを見ているかのようなシーンが随所に挿入されていることです。

 イタリア・ネオレアリズモの手法が巧みに取り入れられている個所ですね。

 

   ミケランジェロ・アントニオーニの『愛と殺意』のパクリ?

 

 ルチア・ボゼは、日本では『愛と殺意』(1950直訳「ある恋の記録」)というタイトルで公開されたミケランジェロ・アントニオーニ監督の長編デビュー作に出演した。これは大実業家の若い人妻の不倫を描いていたせいか、バルデムのはパクリではないかと非難する人もいたそうです。

 ネオレアリズモの手法、上流階級のヒロインが不倫をする、女優も時代も同じ、サスペンスもあり、死人が出る。似てると言えば似てるけど、テーマ違うのでは。

 

 アントニオーニが追求したのは、不安定な <不毛の愛> です。殺人でなくあくまで <殺意>、死者は自殺だったり事故だったり、目指すテーマは見かけほど似ていない。しかしバルデムに限らず、アントニオーニの『愛と殺意』は、スペインの映画人に多大な影響を及ぼしたのです。

 パクリならカンヌ受賞はなかったでしょう

 しかし剽窃とは言わないまでも、監督がインスピレーションを受けたことは否定できません。

 

 どういう経緯でイタリア女優を起用したのでしょうか。

 バルデムは前作のFelices pascuas1954直訳「メリークリスマス」)が思ったほど評価されず、もっと社会にコミットした、つまりフランコ体制を批判した映画を作りたがっていた。しかし検閲の壁に突き当たって前に進めなかったのですスペインの検閲制度は脚本段階からという厳しいものでした。

 微妙なテーマですから正攻法ではダメ、鉄格子も覚悟しなくちゃならない。

 

 そういうとき、プロデューサーのマヌエル・J・ゴヤネスに出会い、それが転機となった。ゴヤネスがイタリアの製作会社トゥリオンファルチネの協力を取りつけてきた。

 そこからボゼ起用となるのですね。

 他にも候補者はあったようですが、バルデムは彼女に絞りこんで脚本作りをした。

 

 Cabinaブログにマリア・ホセ役はメキシコのグロリア・マリンだったとあります。

 契約金も決まっていたようです。しかしバルデムは1954年のベネチア映画祭でボゼと知り合い、どうしても彼女でやりたかった。まだシナリオも書いてなかったのに。

 グロリアなら吹替えの必要もなかったのでは。

 

 バルデムはインターナショナルな映画を意図していたとも考えられます。次の『大通り』の主役を演じたベツィ・ブレアはアメリカの舞台女優出身です。

 マリア・ホセの夫ミゲル・カストロ役オテッロ・トーソ、女子学生マティルデのブルーナ・コッラもイタリア出身です。

 

 原作はルイス・F・デ・イゴア、しかしシナリオはバルデム自身が手掛けた。原作者から映画化の権利を買い取ったようです。彼の映画デビュー作でしたが、その後何作か脚本を手掛けています。バルデムはフランコ体制との対立を巧みに避け、検閲官の感情を傷つけないよう配慮もした。努力の甲斐あって <高危険度映画> と分類されずに済んだわけです。

 

              検閲官との丁々発止を推察すると・・・

 

 濡れ場は厳禁、しかし工夫をしている。二人の密会場所の室内のベッドは乱れていないが、マリア・ホセは外したネックレスを手で弄んでいる。

 このように細部をさりげなく描くことが重要なのです。アンモラルな不倫をしてるのだから、マリア・ホセがフアンと一緒にいるときの笑顔は厳しくチェックされた。不倫を後悔しているように観客を誘導することが求められたからです。不倫同士のいかなる親密な会話も削られたということです

 確かに笑っているシーンはないし、愛しあっているのかどうかスクリーンから読みとれない

 

 衣装もチェックされた。女たちのドレスの胸あき具合も規則を守っており、つまり谷間が見えてはいけなかった。しかし背中はよかったのかマリア・ホセがパーティで着ていたドレスの背中はざっくり開いていました。

 外貨不足に悩まされていた政権は、喉から手が出るほどドルが欲しかった。それにスペイン女優ではないからパスさせたのかもしれない ()。富の象徴としてマリア・ホセが着ていたロングコートは、ミンクの女王といわれるロシアンセーブルのようでした。

 

 作品によっては露出ゼロの国内版と露出オーケーの輸出版の2 バージョンがあったそうです。またモラルが強調されている。特にサイクリストを置き去りにした結果死亡させたことをフアンが悔いること、不倫関係を解消すること結果はどうあれ、フアンがマリア・ホセを悔悛させること、自首するよう説得する過程が求められた表現に自由がなく制約が多かった時代だった。

  

 また、バチカンを含め教会批判はオミットです。当時はカトリック至上主義でした。

 二人が教会で待ち合わせをするシーンはサンマルコス教会でロケされた。先に着いていたフアンが落ち着きなくうろうろしていると、懺悔聴聞僧が近づいてきて話しかける。フアンは何でもないと断るシーンは意味深でした。懺悔したかったができなかったのか、そもそもその意思はなかったのか。

 後から着いた似非信者のマリア・ホセは礼拝堂には入らず、ただしエントランスに置かれている浄財箱には迷わず寄付してい。特権階級の偽善性、エゴイズムを描いて無駄がない。

 

 最初二人の気持ちは一致していたが次第に齟齬が生じてくるシーンですね。ブルジョア同士の連帯のなさや偽善、インテレクチュアルズの責任放棄を描くことは推奨された。反対に労働者たちの連帯強調されている。体制側は民衆の不平不満の捌け口として映画を巧みに利用していたからです。

 

 それで最後の部分が180度変更された。もとの台本はマリア・ホセは逃げ去るバージョンだった。

 しかし逃げ去るフィナーレに検閲官は応じなかった。独善的な殺人者を生かしておくわけにはいかない。バルデムはここが一番重要な変更だったとフランコ没後に語っています。20年以上も経って真相が語られるのですから、映画の評価は難しい。

 事故死は確実でも、サイクリストは助けを求めて走りだす必要があった。マリア・ホセに宗教的道徳的な<>科すことで決着をつけさしたしかし私には関わりを怖れて逃げ去ったように見えましたが。

 

           

           (今や心が離れてしまったフアンとマリア・ホセ)

 

 フアンとマリア・ホセがとったかつて行動とは反対のことを労働者がとるよう求められた。いま見ると逃げたようにも取れます。時代が経つにつれて見え方が違ってくることもある。検閲逃れにバルデムが仕掛けた巧妙さに感心します。同じ鑑賞者でも、年齢、時代、状況によって映画の視点は異なってくる。分からなかったことが長生きしたことで、あるとき突然「あっ」と分かることもあるのです。

 

           「サラマンカ映画会議」の開催、新時代の鼓動

 

 検閲側としては、市民戦争に言及してもいいがマルクス主義の階級闘争に触れてはいけない。フアンと母親の会話を通してなんとなく伝わってきます

 戦死した兄弟は勲章を貰ったが、生き残った自分は持っていない。このこと国家は戦死者にはそれなりの<名誉>で報いたと言ってるのです。

 しかし、勝ち組のフランコ側に属していた軍人だけという皮肉も込められている。

 

 こういう危険なところのセリフは韜晦している。厳しい検閲があった時代にテーマ性をもつ映画を目指すなら、ステレオタイプな人格、セリフのわざとらしさ、芝居がかった社会的主張、紋切り型なプロットなどは許容されていいのではないか現代の目から見れば陳腐であってもです。

 世代間の対立も取り入れ、上流階級の特権を守るためには阿吽の呼吸で男同士は団結する様子など、当時のスペイン社会を批判的視点で描いています。

 

 1950年代半ばのスペイン映画は外国映画に押されて風前のともしび、その消滅を救った映画と称される所以です。これには1947年、イタリア・ネオレアリズモの流れをくむ映画作りを目指した国立映画研究所IIECが開校されたことが大きかったのです

 バルデムとガルシア・ベルランガそこの第1期生です。

 同校の教官や卒業生たちを中心にして1953年、映画雑誌「オブヘティボ」も創刊された。

 残念ながら1956年に発禁となりました。

 

 また同じスローガンのもと、1955514日から6日間の日程でサラマンカ映画国民会議が開催された。カンヌ映画祭上映は425日、帰国早々のバルデムも出席、以後再三再四引用されることになる演説をした。スペイン映画は世界の水準に遠く及ばず、「政治的に効なく、社会的に偽り、知的に最低、美的に無能、産業的に脆弱**」と。

 他にもドキュメンタリー分野におけるNO-DOの独占廃止も求めたんでした。 (続く)

 

サラマンカ映画国民会議Conversaciones Nacionales Cinematograficas de Salamanca

**原文はel cine espanol es politicamente ineficas, socialmente falso, intelectualmente infimo,esteticamente nulo e industrialmente raquitico他にドキュメンタリー分野におけるNO-DO独占廃止なども訴えている。