アルゼンチン映画リスト一覧2020年05月04日 14:42

                       アルゼンチン映画リスト一覧

 

★以下は当ブログにアップしたアルゼンチン映画リストです。邦題は公開・映画祭上映・DVDNetflixなどで配信されたときに付けられたものです。短編・TVシリーズは割愛しております。(原題、邦題、監督名、製作年、アップ年月日の順、N Netflix


Camarera de piso / Maid 「ルーム・メイド」短編、ルクレシア・マルテル2020、 メキシコ合作、20201019

   

Argentina, 1985 サンティアゴ・ミトレ202220220906

El suplente / The Substitute ディエゴ・レルマン202220220809

Plata Quemada 「逃走のレクイエム/燃やされた現ナマ」 マルセロ・ピニェイロ  200020220616

Competencia oficial ガストン・ドゥプラットマリアノ・コーン2021

  20210910

Jesús López マキシリアノ・シェーンフェルド2021、仏合作、20210830

  

Camila saldrá esta noche イネス・マリア・バリオヌエバ202120210802

La odisea de los giles 「明日に向かって笑え!」

  セバスティアン・ボレンステイン 20192020011820210717

Karnawal フアン・パブロ・フェリックス2020、ブラジル=チリ=メキシコ他合作、

 20210613

Nosotros nunca moriremos エドゥアルド・クレスポ202020201004

Akelarre パブロ・アグエロ2020西仏合作、20200802

 

Isabella  マティアス・ピニェイロ202020200311

El prófugo The Intruder ナタリア・メタ202020200227

La odisea de los giles セバスティアン・ボレンステイン201920200118

De nuevo otra vez ロミナ・パウラ201920190910

Las buenas intencionesThe Good Intentions アナ・ガルシア・ブラヤ2019

  20190813

 

Por el dinero アレホ・モギジャンスキイ201920190505

La historia oficial 「オフィシャル・ストーリー」 ルイス・プエンソ1985

  20190331

Soldado  (ドキュメンタリー)マヌエル・アブラモヴィチ201720190221

Años luz(ドキュメンタリー、Light Yearsマヌエル・アブラモヴィチ20190221

Breve historia del Planeta VerdeBrief Story from the Green Planet

  サンティアゴ・ロサ201920190219

 

Sueño Florianópolis 「夢のフロリアノポリス」アナ・カッツ2018

 201809211114

El motoarrebatador アグスティン・トスカノ201820180907

El amor menos pensado フアン・ベラ201820180814

Teatro de guerra(ドキュメンタリー、Theatre of Warロラ・アリアス2018

  20180805

El Ángel 「永遠に僕のもの」 ルイス・オルテガ201820180515

 

La reina del miedo ヴァレリア・ベルトゥッチッリファビアナ・ティスコルニア

   201820180410

Malambo, el hombre buenoMalambo,the Good Manサンティアゴ・ロサ2018

 20180225

La coldilleraThe Summit「サミット」 サンティアゴ・ミトレ2017

  201705181025

Unaespecie de familia 「家族のように」 ディエゴ・レルマン2017

   20170903同年1023

Zama 「サマ」 ルクレシア・マルテル201720171013同年1020

 

La educación del Rey サンティアゴ・エステベス201720170917

Tigre シルビナ・シュニッセル・シュリーマンウリセス・ポラ・グアルディオラ

   201720170823

Temporada de caza 「狩りの季節」 ナタリア・ガラジオラ2017

    201708120911 (N

La novia del desiertoThe Desert Brideセシリア・アタンバレリア・ピバト

   201720170514

El otro hermanoThe Lost Brotherキリング・ファミリー 殺し合う一家

 イスラエル・アドリアン・カエタノ201720170220同年0409

 

El clanThe Clanエル・クラン」 パブロ・トラペロ201520150807

 0921201609201113

El ciudadano ilustreThe Distinguished Citizen「名誉市民」「笑う故郷」

 ガストン・ドゥプラットマリアノ・コーン2016201610131023

La idea de un lago ミラグロス・ムメンタレル201620160909

El rey del OnceThe Tenth Man) ダニエル・ブルマン201620160829

El último Elvis The Last Elvis「エルヴィス、我が心の歌」12

 アルマンド・ボー201220160622日/同0626

 

La larga noche de Francisco Sanctis  アンドレア・テスタ

  フランシスコ・マルケス201620160511

Kóblic セバスティアン・ボレンステイン201620160430

Ardor 「ザ・タイガー救世主伝説」 ブロ・ヘンドリック201520151218

Sin hijosNo Kidsアリエル・ウィノグラード201520150824

Zonda: forclore argentino(ドキュメンタリー)カルロス・サウラ2015

    20150811

 

Relatos salvajesWild Tales人生スイッチダミアン・ジフロン2014

  20141221日/20150119日/20150729

Andrés no quiere dormir la siesta 瞳は静かに」 ダニエル・ブスタマンテ

   200920150711

Jauja 「約束の地」 リサンドロ・アロンソ201420150323日/同0506日/

 同0624日/0701

PaulinaLa patota「パウリーナ」サンティアゴ・ミトレ201520150521

Muerte en Buenos Aires 「ブエノスアイレスの殺人」 ナタリア・メタ2014

 20140929日/同1101

 

El secreto de sus ojos 「瞳の奥の秘密」 フアン・ホセ・カンパネラ2009

 20140809

Refugiado ディエゴ・レルマン201420140511

Historia del miedoHistory of Fear ベンハミン・ナイシュタット2014

 20140224

Metegol(アニメーション、Futbolin) フアン・ホセ・カンパネラ2013

    20140119同年0802

El métodoThe Method マルセロ・ピニェイロ200520131219

 

MedianerasSidewall「ブエノスアイレス恋愛事情」 グスタボ・タレット2011

 20131205

Wakolda「ワコルダ」 ルシア・プエンソ201320131023

El niño pezフィッシュチャイルド―ある湖の伝説 ルシア・プエンソ2009

 20131011

 

 ★以上は2013年10月から2020年4月までのリストです。

 

オンライン映画祭 「We Are One :A Global Film Festival」 開催2020年05月09日 10:48

      YouTubeとトライベッカ・エンタープライズ共同のオンライン映画祭

 

      

★全世界に蔓延している新型コロナウイリスのため、世界の主要な映画祭が軒並み延期か中止に追い込まれているさなか、427日に、YouTubeトライベッカ・エンタープライズが共同でオンライン映画祭We Are OneA Global Film Festivalの開催を発表しました。世界の20映画祭が参加する。サンセバスチャンを含めて、ベネチア、カンヌ、ベルリナーレ、サンダンス、グアダラハラ、アヌーシー(アニメ)、トロント、ロカルノ、エルサレム、カルロヴィ・ヴァリ、ロンドン、マカオ、マラケシュ、ムンバイ、ニューヨーク、サラエボ、シドニー、東京も参加する。期間は529日から67日までの10日間、無料で見ることができるが寄付は歓迎、新型コロナウイリス対策のために尽力している世界保健機構WHOに送られる。

 

★トライベッカ・エンタープライズとトライベッカ映画祭の代表ディレクターのジェーン・ローゼンタールは「私たちは映画の持つ力についてしばしば語ってきた。今こそ国境や意見の相違を超えて助け合い団結しなければならない。全ての人が治療を必要としている」と、WHOに寄付する理由を語っています。「各映画祭が果たしている芸術の価値や映画の力は比類のないものだ」とも。

 

          

       (トライベッカ・エンタープライズの設立者のロバート・デ・ニーロと

           最高責任者プロデューサーのジェーン・ローゼンタール)

 

9月下旬開催のサンセバスチャン映画祭のホセ・ルイス・レボルディノス代表責任者は、まだ当映画祭開催の可能性がゼロになったわけではないが、このプログラム参加に合意したのは「多くのイベントが行える状態にない」ことを上げている。しかし具体的にどの作品を選ぶかは決まっていないが「当映画祭の場合は、比較的直近のスペイン映画になるだろう。つまり未公開作品からは選べない。次の映画祭がどうなるか分からないからです」と。秋開催を依然として諦められないカンヌ映画祭も同じ路線になるのでしょうか。特に映画館上映を前提にしてNetflix オリジナル作品を排除しているカンヌとしては、法的な制約をクリアーしなければならず、困難が予想されます。コロナが世界を変えようとしていることだけは確かです。

 

★テキサス州オースティンで開催される一大イヴェントSXSW、サウス・バイ・サウス・ウエスト映画祭が含まれていない。今年予定されていた313日~22日のリアルな映画祭は中止になったが、短編、ドキュメンタリー、ホラーを含む70作品をYouTubeでのオンラインによる限定公開をしていた。今回のWe Are OneA Global Film Festival」には不参加だが、同じ週にアマゾンを介して何作かを放映する予定だそうです。

 

             

              (第19回トライベッカ映画祭2020

 

★トライベッカ・エンタープライズが主催するトライベッカ映画祭は、同時多発テロ911後の復興を願って2002年に始まりました。今年は19回目を415日~26日に開催する予定でした。設立者のロバート・デ・ニーロや製作者のジェーン・ローゼンタールは、312日にニューヨーク州知事クオモ氏のロックダウンを受けて中止を発表した。しかし410日に観客なし賞ありのオンライン上映を発表、429日に結果発表がありました。当然ガラは開催されず、審査員と受賞者のやり取りはオンラインで配信されたようです。インターナショナル・ナラティブ部門のニュー・ナラティブ監督賞を受賞したチリの新人ガスパル・アンティーリョNadie sabe que estoy aquíが興味深かったので次回にアップします。ラライン兄弟の制作会社「ファブラFabula」が手掛けています。We Are OneA Global Film Festival」に含まれているかどうか分かりませんが、Netflix が資金を提供しており、いずれ世界配信される予定です。


トライベッカ映画祭でニュー・ナラティブ監督賞にチリの新人2020年05月11日 15:13

       ガスパル・アンティーリョのデビュー作「Nadie sabe que estoy aquí

 

         

★新型コロナウイリスCovid-19が全世界を席捲していることで、主要な映画祭は軒並み延期か中止に追い込まれています。トライベッカ映画祭は、911後のニューヨークを元気づけようと翌2002年に始まりました。第19回トライベッカ映画祭2020のオンライン上映の経緯は、前回触れましたように初めての試みとして観客なしだが賞ありで開催されました。全作が上映されたわけではないがネットやYouTubeで見ることができたようです。当然のことながらガラは開催されず、429日受賞結果が発表になった。審査員と受賞者はオンラインを通じてやりとりした。

   

★本映画祭は、US ナラティブ・コンペティションとインターナショナル・ナラティブ・コンペティションの2部門に大きく分かれています。チリのガスパル・アンティーリョのデビュー作Nadie sabe que estoy aquíが、後者のニュー・ナラティブ監督賞を受賞しました。チリのクール世代を代表するパブロ・ララインフアン・デ・ディオス・ラライン兄弟が設立した制作会社「ファブラ Fabula」がプロデュースしました。主人公メモ・ガリードにチリ出身だがアメリカで活躍するホルヘ・ガルシアが起用されました。ちょっとウルウルする物語です。

 

Nadie sabe que estoy aquí(映画祭タイトル「Nobody Knows I'm Here」)2020

製作:Fabula 協賛NetflixUSA

監督:ガスパル・アンティーリョ

脚本:エンリケ・ビデラ、ホセフィナ・フェルナンデス、ガスパル・アンティーリョ

撮影:セルヒオ・アームストロング

編集:ソレダード・サルファテ

音楽:カルロス・カベサス

美術:エステファニア・ラライン

キャスティング:エドゥアルド・パシェコ

衣装デザイン:フェリペ・クリアド

助監督:イグナシオ・イラバカ、フアン・フランシスコ・ロサス

プロダクション・マネージメント:エンリケ・レルマン

製作者:アンドレア・ウンドゥラガ(エグゼクティブ)、フアン・デ・ディオス・ラライン、パブロ・ラライン、エドゥアルド・カストロ、クリスティアン・エチェベリア

 

データ:製作国チリ、スペイン語、2020年、ドラマ、100分、撮影地チリのバル・パライソ、フエルト・オクタイ、サンティアゴ、2018年クランクイン。

映画祭・受賞歴:第19回トライベッカ映画祭2020「インターナショナル・ナラティブ・コンペティション」部門、ワールドプレミア、ニュー・ナラティブ監督賞受賞

 

キャスト:ホルヘ・ガルシア(メモ・ガリード)、ルイス・ニエッコ(叔父)、ミリャライ・ロボス(マルタ)、ソランヘ・ラキントン、アレハンドロ・ゴイク、ネルソン・ブロト、フリオ・フエンテす、マリア・パス・グランドジェーン、ガストン・パウルズ、エドゥアルド・パシェコ、ロベルト・バンデル

   

ストーリー:メモは15年間のあいだ、チリ南部の人里離れた牧羊舎に閉じ込められている。ポップスターになるというかつての夢を諦め、大衆の目から遠ざかっていた。マルタはメモの歌声を聴いて、彼の才能が世間に知られる時が来たと思っている。彼女が彼の歌声を記録しビデオを投稿すると、口コミで広がっていき、それはメモを世界から切り離していた遠い過去の暗部を炙り出すことになる。なぜならメモの声が伝説上の花形歌手であったウイル・ウイリーズの声とそっくりだったからである。                             (文責:管理人)

    

         

           (メモ・ガリードに扮したホルヘ・ガルシア) 

      

     

       「姿は人生を決定づけ、人々の認識をゆがめて混乱させる」と監督

 

ガスパル・アンティーリョGaspar Antilloのキャリアについては、2015年に監督、脚本、プロデュースした短編Mala CaraBad Face8分)がマイアミ・ショート映画祭に出品されたこと以外、詳細が入手できていません。トライベッカ映画祭の監督インタビューでは「この映画はチリ南部に隠され忘れ去られた人物の肖像画です。若い女性の到着が彼の壊れやすい人生をどのように変えるかを描いています。今日の世界では、姿は人生を決定づけ、人々の認識をゆがめて混乱させます」と語っています。またNetflixにリリースされるにあたって、「映画のコンセプトは、疎外されたキャラクターの内面世界を探検するというアイデアから生まれた。偏見をもたずに彼の明るい部分だけでなく暗い部分も描いている」と語っている。

 

          

   

                (マイアミ・ショート映画祭でのガスパル・アンティーリョ)

 

★少年メモは、美しい声の持ち主だったが太っちょでかっこいいとは言えななかった。ハンサムな少年の影武者として舞台裏で歌っていた。そのことは少年の心に深い傷跡を残すことになったというのがメモの暗い過去であった。成人したメモはチリ南部の人里離れた牧羊舎で叔父と一緒に暮らしている。人目を避けながらも豊かな内面世界を育んでいた。この太っちょのメモ・ガリードに扮したのがホルヘ・ガルシアだった。 

                (叔父役のルイス・ニエッコとメモ役のホルヘ・ガルシア)

 

   (マルタ役のミリャライ・ロボスとメモ

 

ホルヘ・ガルシア Jorge Garcia1973年ネブラスカ州オマハ生れの俳優、コメディアン。父親がチリ出身の医師、母親がキューバ出身の大学教師ということで、アメリカ人だがスペイン語が堪能。1995UCLAでコミュニケーション学を専攻、演技はビバリー・ヒルズ・プレイハウスで学んだ。彼のキャリア情報は監督とは反対に豊富である。というのもアメリカABC製作のTVシリーズ、ミステリー・アドベンチャーLost200410「ロスト」)のヒューゴハーリーレイェス役でブレークしたからです。

 

     

        (ヒューゴ・レイェス役のホルヘ・ガルシア、Lostから)

 

★スペイン語映画出演は、2011年のパコ・アランゴのコメディMaktubに特別出演した。アランゴ監督はメキシコ生れ(1962年)だがスペインに移住、スペインで映画を撮っている。本作でゴヤ賞2012の新人監督賞にノミネートされている。出演者のゴヤ・トレドも助演女優賞にノミネートされている。続く2作目が同監督のThe Healer17)では神父に扮した。「Nadie sabe que estoy aquí」が3作目になる。クランクイン前に「このプロジェクトに参加できることを喜んでいます。私は何十年もチリに行っていないので、あちらの親戚との再会を楽しみにしています」と語っていましたが、果たして再会できたのでしょうか。

 

      

 (J・ガルシア、アンドニ・エルナンデス、ゴヤ・トレド、ディエゴ・ペレッティ「Maktub」)

 

ルイス・ニエッコ Luis Gnecco(サンティアゴ1662)は、パブロ・ララインの『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』16)でネルーダに扮している。他にグスタボ・G・マリノ『ひとりぼっちのジョニー』1993)、フェルナンド・トゥルエバ『泥棒と踊り子』09)、ララインNoなどでチリの俳優としては知名度があるほうかもしれない。

 

          

     (ネルーダになったルイス・ニエッコ、『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』から)

 

いずれNetflixで世界配信されるということなので(アジアが除外されないことを切に願っています)視聴できたら再アップするつもりです。

 

「スペインクラシック映画上映会」のご案内2020年05月12日 16:12

          スペインクラシック映画の名作10作品が週替わりで楽しめます

 

★この度インスティトゥト・セルバンテス東京が、文化イベント「スペインクラシック映画上映会」Vimeoチャンネルを通じて英語&ポルトガル語字幕で上映するとアナウンスしました。日時は59日から711日、毎週土曜日1500から48時間限定です。週替わり1作ずつ10作です。1回めは202059日(1500~)から、オープニングはフアン・アントニオ・バルデム監督の「あるサイクリストの死」55)です。スペイン協力開発庁(AECID Film Library)所有のカタログから選ばれたということです。上映順は分かりませんが、10作を纏めた予告編がアップされています。スペイン映画史に名を残した粒揃いの作品です。

 

10作の中には「あるサイクリストの死」のように『恐怖の逢びき』の邦題で公開された作品、ルイス・ブニュエル『ビリディアナ』のように、スペイン本国より日本で先に公開された作品、はたまたスペイン映画祭で上映されただけで未公開に終わったルイス・ガルシア・ベルランガ『ようこそマーシャルさん』52)、ホセ・アントニオ・ニエベス・コンデ『根なし草』51)、映画祭上映もなかったベルランガの代表作「死刑執行人」などが選ばれています。

    

          

        (ガルシア・ベルランガの代表作「死刑執行人」のポスター) 

    

★以下に原題、製作年、監督名、邦題(未紹介作品は仮題)の順で列挙しておきます。「」タイトルは未公開並びに映画祭上映もなかった作品です。映画祭としたのは、198410月に開催された「スペイン映画の史的展望<19511977>の略です。この映画祭は一挙に23本を上映するという画期的な企画で、日本におけるスペイン映画元年といってもよいほど素晴らしいものでした。

 

★第1回目は終了してしまいましたが、来週516日も別の作品が上映される予定、以下のリストは上映順ではありません。

 

  1Los golfos  1961年、カルロス・サウラ「ならず者/不良たち」(仮題)

  カンヌ映画祭1959出品、公開スペイン1961年。

 

  2El verdugo 1963年、ルイス・ガルシア・ベルランガ「死刑執行人」(仮題、伊合作)

   ベネチアFF1963出品、FIPRESCI 受賞、公開マドリード1964年。

 

  3) El pisito 1650年、マルコ・フェレーリ「小さなアパート」(仮題)

  1.  ロカルノ映画祭1958出品、公開マドリード1959年。

     

    4Calle mayor 1956年、フアン・アントニオ・バルデム『大通り』(映画祭)

     ベネチア映画祭1956出品、FIPRESCI 受賞、公開マドリード1956年、日本未公開。

  2.      

  3. 5) Viridiana 1961年、ルイス・ブニュエル『ビリディアナ』(メキシコ合作) 

  1.  カンヌ映画祭1961出品、パルムドール受賞、公開マドリード1977年、日本1964年。

     

    6La vida por delante 1958年、フェルナンド・フェルナン・ゴメス

  2.  「来たるべき人生」(仮題)

     公開マドリード1958年。

     

    7El cochecito 1960年、マルコ・フェレーリ、「車椅子」(仮題)

     ベネチア映画祭1960出品、FIPRESCI 受賞、公開バルセロナ1960年。

     

    8Bienvenido Mr. Marchall 1952年、ルイス・ガルシア・ベルランガ、

  3.  『ようこそマーシャルさん』(映画祭)

     カンヌ映画祭1953、コメディ映画賞・脚本賞受賞。公開マドリード1953年、日本未公開。

     

    9Surcos 1951年、ホセ・アントニオ・ニエベス・コンデ『根なし草』(映画祭)

      公開バルセロナ1952年、日本未公開。

  4.     

  5. 10)Muerte de un ciclista 1955年、フアン・アントニオ・バルデム、『恐怖の逢びき』

  1.   カンヌ映画祭1955出品、FIPRESCI 受賞。公開マドリード1955年、日本1956年。

      本上映会のタイトルは「あるサイクリストの死」と直訳されました。

     

    ★以上の10作です。クラシックといっても1950年代が主で、イタリアのネオレアリズモに影響を受けた作品から選ばれています。邦題がどのようになるか分かりませんが、一応仮題をつけておきました。この監督を選ぶなら「これよりあっちのほうがよかった」と思う作品も無きにしも非ずですが、スペイン映画の基礎をつくった作品群ではないでしょうか。巣ごもりのイライラ解消の一助となることを願っています。


フアン・アントニオ・バルデムの「あるサイクリストの死」*スペインクラシック映画上映会2020年05月14日 14:12

 

   

         (J.A.バルデムの「あるサイクリストの死」のポスター)

 

★この度インスティトゥト・セルバンテス東京が文化イベントとして「スペインクラシック映画上映会」をVimeoチャンネルを通じての上映が始まっています(英語・ポルトガル語字幕)。オープニング作品は、フアン・アントニオ・バルデム監督の Muerte de un cyclista が「あるサイクリストの死」の直訳で上映されました。本作はカンヌ映画祭1955に出品され、国際映画批評家連盟賞FIPRESCI を受賞したことで、当時としては珍しく翌1956年、恐怖の逢びきのタイトルで公開されました。

 

★映画上映会を機に、目下休眠中のCabina さんブログにコメントとして投稿した記事をベースに、今回改めて視聴した感想も加え、削除もして独立して読めるように再構成しました(投稿20100820日)。カビナさんブログと合わせてお楽しみいただけたらと思います。若干長すぎるので2回に分けることにしました。

Cabina ブログは、http://azafran.tea-nifty.com/blog/2010/08/muerte-de-un-ci.htmll

 

Muerte de un cyclista 『恐怖の逢びき』(上映会タイトル「あるサイクリストの死」)

製作:Suevia Films-Cesareo Gonzarez(マドリード)/ Trionfalcine(ローマ)

監督・脚本:フアン・アントニオ・バルデム

原作:ルイス・フェルナンド・デ・イゴア  

撮影:アルフレッド・フライレ

美術:エンリケ・アラルコン

音楽:イシドロ・B・マイステギ

編集:マルガリタ・オチョア

メイクアップ:フランシスコ・プジョル

助監督:ホセ・ルイス・モンテロ

製作者:マヌエル・J・ゴヤネス

 

データ:製作国スペイン=イタリア合作、スペイン語・英語、1955年、サスペンスドラマ、88分、モノクロ、撮影地マドリードのチャマルティン・スタジオ、サルスエラ競馬場、サンマルコス教会、マドリード郊外など。期間195411月~19552月。公開マドリード19559月、バルセロナ同10月、ローマ同12月、日本19562月。

映画祭・受賞歴:第8カンヌ映画祭1955アウト・コンペティション出品、国際映画批評家連盟賞受賞

 

主なキャスト

ルチア・ボゼー(マリア・ホセ・デ・カストロ)

アルベルト・クロサス(分析幾何学准教授フアン・フェルナンデス・ソレル、マリアの愛人)

オテッロ・トーソ(マリア・ホセの夫、実業家ミゲル・カストロ)

カルロス・カサラビリャ(美術評論家ラファエル・サンドバル、ラファ)

ブルーナ・コッラ(女子学生マティルデ・ルケ・カルバハル)

アリシア・・ロマイ(フアンの姉カルミナ)

エミリオ・アロンソ(カルミナの夫、フアンの義兄ホルヘ)

フリア・デルガド・カロ(フアンの母親ドーニャ・マルタ)

マティルデ・ムニョス・サンペドロ(サイクリストの隣人)

メルセデス・アルベルト(クリスティナ)

ホセ・プラダ(フアンの上司、大学正教授)

マヌエル・アレクサンドレ(もう一人のサイクリスト)

グラシア・モンテス(タブラオのカンタオーラ)

他、大学生など多数

 

ストーリー:黄昏どきのマドリード郊外を疾走する車が自転車乗りの男をはねてしまう。車には帰宅を急ぐ密会帰りのマリア・ホセとフアンが乗っていた。男は瀕死のサイクリストを助けようとするが、ハンドルを握っていた女は不倫が世間に知れ渡るのを怖れて反対する。目撃者のいないことを確認すると、二人はを犠牲者を道端に置き去りにして逃走する。翌日の新聞にはサイクリストの死が報じられていた。あくまでも豊かさを満喫したい実業家夫人マリア・ホセ、自責の念に駆られながらも現在の地位を失いたくないフアン、二人は次第に泥沼にはまっていく。

 

     

               (自転車乗りに駆け寄るフアン)

  

 

         画像が修復された「あるサイクリストの死」を視聴する

 

 スペインは、2014年から主にクラシック映画を高解像度(ハイビジョン)する作業を進めてDVD化していた。今回上映されたのはとても画面が鮮明でしたから、多分それで上映したのではないかと思います。以前見たのはビデオ・テープだったから別の映画のようでした。更にこんなにもクローズアップが多かったのかと意外に思いました。

 雨が降っておらず(笑)、クラシックの風情が損なわれているという方もいたのではないでしょうか。モノクロは寿命が長いです。今回はタイトルを原題の直訳「あるサイクリストの死」とすっきりしていたのもよかった。

 

          

         (ヒロインのルチア・ボゼーのクローズアップ、映画から)

 

 本作より先に第6回カンヌ映画祭1953のグランプリ作品、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー『恐怖の報酬』が公開され大当たりをとっていた。こちらの邦題はオリジナルの直訳で、タイトルと内容がどんぴしゃりでした。しかしバルデムのは恐怖逢びきもありますが、それがテーマではありません。

 つまり、柳の下の二匹目の泥鰌を狙って付けたパクリだというわけです。

 

 今回は上映前に、監督の甥、俳優で作家のカルロス・バルデムの解説がありました。バルデム一家はオールシネアスト、監督の両親も俳優でした。後でも触れますが本作に出てくるサイクリストの隣人役マティルデ・ムニョス・サンペドロは監督の実母です。監督の年の離れた妹ピラール・バルデムは、カルロスとハビエル兄弟の母親、ハビエルと結婚したのがペネロペ・クルスでした。

 解説は毎回つくようですね。ではカビナ・ブログに移行します。

バルデム一家の情報は、コチラ20170613

  

             昔むかしあるところに、時代を超えた寓話

 

 第8回カンヌ映画祭1955国際映画批評家連盟賞受賞というのだから、既に半世紀以上前の映画というわけです。日本では翌562月に恐怖の逢びき』のタイトルで劇場公開になりました。公開が素早かったのは、勿論カンヌが効いたからです。

 前年に衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞して、日本でも急にカンヌが近づいた。

 当時のグランプリは現在のパルムドールと同じ最高賞、パルムドールの名称は43回の1990年からです。

 

 バルデムの『恐怖の逢びき』は、グランプリではないのですね。

 いろいろな経緯があって、つまり邪魔がはいって、コンペティション外として上映された。第8回の審査委員長は作家のマルセル・パニョル、バルデムも審査員の一人でした。最初の頃はフランスの作家とか詩人とか歴史家が委員長を務めた。例えばアンドレ・モーロアジャン・コクトーなど。

 

 バルデムも審査員だったんですか。

 1953ルイス・ガルシア・ベルランガ『ようこそマーシャルさん』が、ユーモア賞と脚本賞をもらった、バルデムも共同脚本家でした。このコンビはスペイン映画の新しい顔として注目されつつあった。ユーモア賞は英語のジョークとは違って現在のコメディ賞に近い。この賞を貰うことはとても名誉なことでした。第7回にはルイス・ブニュエルがメキシコ監督として審査員になっています。だからスペイン監督としてはバルデムが最初の審査員した

 ブニュエルは先に『忘れられた人々』41951)で監督賞を受賞しています。メキシコ亡命時代のことで、メキシコ映画として受賞した。

 

 Cabina ブログで紹介された「この作品は案外あっさり。全く盛り上がりません」は、すこぶる大胆なコメント、5点評価で1点。過去にどんな映画を見ていたか興味をそそられました映画の好みも十人十色、感想はそれぞれあってしかるべきですが、評価はそう簡単ではありません。製作国の政治体制、製作年などを考慮するなど、その人の眼識が問われますから。

 昔々あるところに、不倫をしている男と女がおりました。不注意で自転車乗りを轢き殺してしまいましたが怖くて逃げました。男は自責の念に駆られ出頭しようとしますが、愛の冷めた女は男が邪魔になりこちらも轢き殺してしまいました。女もハンドルを切り損ねて橋の欄干に激突、バチが当たって死んでしまいました。

 因果応報、教訓的でタメになるお話で古今東西、時間と空間を超えた永遠の寓話となる

 

            イタリア女優のマリア・ホセは吹替えだった

 

 マリア・ホセ役のルチア・ボゼーはイタリア人、監督が安心して顔のクローズアップができる女優の代表格。

 1931年ミラノ生れ、1947年のミス・イタリアに選ばれたのがきっかけで映画界入りした。スペイン映画出演はこれが初めて。バルデムも大いに気配りして大切に撮っています。まだスペイン語ができなかったから、クレジットされませんでしたが、エルサ・ファブレガスの吹替えでした。気をつけて見ると微妙にズレています。

 

          

   (マリア・ホセを演じたルチア・ボゼーとフアンのアルベルト・クロサス、映画から)

 

 イタリア語とスペイン語は親戚みたいなものだから言われるまで分からな。でも花形闘牛士ルイス・ミゲル・ドミンギンと結婚した。

A 映画と同じ1955年に結婚、子供も3人できた。しかし最初は「二人の会話は、ぼくはスペイン語、彼女はイタリア語、でもちゃんと通じている」とマタドール。

 愛に言葉はいらないということ。

 

 スペインでは現在も外国映画は吹替えが主流です。19414月に産業商務省が外国映画を輸入する場合、「スペイン語以外の映画の上映を禁止」しました。つまりオール吹替えです。

 193811月に内務省が出した<映画検閲委員会>の設置より、長期にわたって害毒を垂れ流し続けたと言われていますが。

 

 検閲のほうはアレコレ策を弄して戦える部分がありますが、こちらは単純明快、逃げ場がありません。これはさすがに6年間続いただけでした。

 アメリカ大使館で開催されたパーティのシーンでは、アメリカ側は英語を喋っていました。

 既に禁止は解かれていましたから問題なかった。しかしスペイン映画が受けたダメージは想像以上に大きかった。一つには観客が吹替えに慣れてしまったからです

 

 識字率が低く、年輩の観客の中には字が読めない人も多かったと聞いてますが。

 何しろそれまでスペインは、スペイン(カスティーリャ)語、カタルーニャ語、バスク語、ガリシア語の4言語。フランコ国家元首が「スペインは一つの言語」と、いくらスペイン語以外を禁止しても一朝一夕にはいかなかった

 言語は思考の道具ですから、そう簡単に乗り換えられないし、反体制側も抵抗しました。

 

 観客もさることながら、興行成績が伸びた配給会社が、吹替えのメリットにぞっこんになってしまった。つまり検閲を通すために映像を切り貼りする手間が省けるは、セリフは容易に改竄できるはで手放したがらなかった。内容まで変更したので観客は筋が追えなくて目をシロクロ。更に声優労働者組合も死活問題と字幕上映に反対した。

 三位一体で吹替を推進した。まだテレビがなかった時代です

 日本もそうですが、ニュースは映画館で見るものでした。スペインでは国家製作のつまり国策に沿った週刊ニュース映画NO-DOを劇映画の前に上映することが義務付けられ、情報操作をしたのです。

 

 フアンが映画館で見ていた特権階級の偽善じゃない慈善パーティのニュースがそれですね。

 マリア・ホセが参加者から寄付金を集めているシニカルなシーン。この映画を見て感心するのは、当時のスペイン社会のドキュメントを見ているかのようなシーンが随所に挿入されていることです。

 イタリア・ネオレアリズモの手法が巧みに取り入れられている個所ですね。

 

   ミケランジェロ・アントニオーニの『愛と殺意』のパクリ?

 

 ルチア・ボゼは、日本では『愛と殺意』(1950直訳「ある恋の記録」)というタイトルで公開されたミケランジェロ・アントニオーニ監督の長編デビュー作に出演した。これは大実業家の若い人妻の不倫を描いていたせいか、バルデムのはパクリではないかと非難する人もいたそうです。

 ネオレアリズモの手法、上流階級のヒロインが不倫をする、女優も時代も同じ、サスペンスもあり、死人が出る。似てると言えば似てるけど、テーマ違うのでは。

 

 アントニオーニが追求したのは、不安定な <不毛の愛> です。殺人でなくあくまで <殺意>、死者は自殺だったり事故だったり、目指すテーマは見かけほど似ていない。しかしバルデムに限らず、アントニオーニの『愛と殺意』は、スペインの映画人に多大な影響を及ぼしたのです。

 パクリならカンヌ受賞はなかったでしょう

 しかし剽窃とは言わないまでも、監督がインスピレーションを受けたことは否定できません。

 

 どういう経緯でイタリア女優を起用したのでしょうか。

 バルデムは前作のFelices pascuas1954直訳「メリークリスマス」)が思ったほど評価されず、もっと社会にコミットした、つまりフランコ体制を批判した映画を作りたがっていた。しかし検閲の壁に突き当たって前に進めなかったのですスペインの検閲制度は脚本段階からという厳しいものでした。

 微妙なテーマですから正攻法ではダメ、鉄格子も覚悟しなくちゃならない。

 

 そういうとき、プロデューサーのマヌエル・J・ゴヤネスに出会い、それが転機となった。ゴヤネスがイタリアの製作会社トゥリオンファルチネの協力を取りつけてきた。

 そこからボゼ起用となるのですね。

 他にも候補者はあったようですが、バルデムは彼女に絞りこんで脚本作りをした。

 

 Cabinaブログにマリア・ホセ役はメキシコのグロリア・マリンだったとあります。

 契約金も決まっていたようです。しかしバルデムは1954年のベネチア映画祭でボゼと知り合い、どうしても彼女でやりたかった。まだシナリオも書いてなかったのに。

 グロリアなら吹替えの必要もなかったのでは。

 

 バルデムはインターナショナルな映画を意図していたとも考えられます。次の『大通り』の主役を演じたベツィ・ブレアはアメリカの舞台女優出身です。

 マリア・ホセの夫ミゲル・カストロ役オテッロ・トーソ、女子学生マティルデのブルーナ・コッラもイタリア出身です。

 

 原作はルイス・F・デ・イゴア、しかしシナリオはバルデム自身が手掛けた。原作者から映画化の権利を買い取ったようです。彼の映画デビュー作でしたが、その後何作か脚本を手掛けています。バルデムはフランコ体制との対立を巧みに避け、検閲官の感情を傷つけないよう配慮もした。努力の甲斐あって <高危険度映画> と分類されずに済んだわけです。

 

              検閲官との丁々発止を推察すると・・・

 

 濡れ場は厳禁、しかし工夫をしている。二人の密会場所の室内のベッドは乱れていないが、マリア・ホセは外したネックレスを手で弄んでいる。

 このように細部をさりげなく描くことが重要なのです。アンモラルな不倫をしてるのだから、マリア・ホセがフアンと一緒にいるときの笑顔は厳しくチェックされた。不倫を後悔しているように観客を誘導することが求められたからです。不倫同士のいかなる親密な会話も削られたということです

 確かに笑っているシーンはないし、愛しあっているのかどうかスクリーンから読みとれない

 

 衣装もチェックされた。女たちのドレスの胸あき具合も規則を守っており、つまり谷間が見えてはいけなかった。しかし背中はよかったのかマリア・ホセがパーティで着ていたドレスの背中はざっくり開いていました。

 外貨不足に悩まされていた政権は、喉から手が出るほどドルが欲しかった。それにスペイン女優ではないからパスさせたのかもしれない ()。富の象徴としてマリア・ホセが着ていたロングコートは、ミンクの女王といわれるロシアンセーブルのようでした。

 

 作品によっては露出ゼロの国内版と露出オーケーの輸出版の2 バージョンがあったそうです。またモラルが強調されている。特にサイクリストを置き去りにした結果死亡させたことをフアンが悔いること、不倫関係を解消すること結果はどうあれ、フアンがマリア・ホセを悔悛させること、自首するよう説得する過程が求められた表現に自由がなく制約が多かった時代だった。

  

 また、バチカンを含め教会批判はオミットです。当時はカトリック至上主義でした。

 二人が教会で待ち合わせをするシーンはサンマルコス教会でロケされた。先に着いていたフアンが落ち着きなくうろうろしていると、懺悔聴聞僧が近づいてきて話しかける。フアンは何でもないと断るシーンは意味深でした。懺悔したかったができなかったのか、そもそもその意思はなかったのか。

 後から着いた似非信者のマリア・ホセは礼拝堂には入らず、ただしエントランスに置かれている浄財箱には迷わず寄付してい。特権階級の偽善性、エゴイズムを描いて無駄がない。

 

 最初二人の気持ちは一致していたが次第に齟齬が生じてくるシーンですね。ブルジョア同士の連帯のなさや偽善、インテレクチュアルズの責任放棄を描くことは推奨された。反対に労働者たちの連帯強調されている。体制側は民衆の不平不満の捌け口として映画を巧みに利用していたからです。

 

 それで最後の部分が180度変更された。もとの台本はマリア・ホセは逃げ去るバージョンだった。

 しかし逃げ去るフィナーレに検閲官は応じなかった。独善的な殺人者を生かしておくわけにはいかない。バルデムはここが一番重要な変更だったとフランコ没後に語っています。20年以上も経って真相が語られるのですから、映画の評価は難しい。

 事故死は確実でも、サイクリストは助けを求めて走りだす必要があった。マリア・ホセに宗教的道徳的な<>科すことで決着をつけさしたしかし私には関わりを怖れて逃げ去ったように見えましたが。

 

           

           (今や心が離れてしまったフアンとマリア・ホセ)

 

 フアンとマリア・ホセがとったかつて行動とは反対のことを労働者がとるよう求められた。いま見ると逃げたようにも取れます。時代が経つにつれて見え方が違ってくることもある。検閲逃れにバルデムが仕掛けた巧妙さに感心します。同じ鑑賞者でも、年齢、時代、状況によって映画の視点は異なってくる。分からなかったことが長生きしたことで、あるとき突然「あっ」と分かることもあるのです。

 

           「サラマンカ映画会議」の開催、新時代の鼓動

 

 検閲側としては、市民戦争に言及してもいいがマルクス主義の階級闘争に触れてはいけない。フアンと母親の会話を通してなんとなく伝わってきます

 戦死した兄弟は勲章を貰ったが、生き残った自分は持っていない。このこと国家は戦死者にはそれなりの<名誉>で報いたと言ってるのです。

 しかし、勝ち組のフランコ側に属していた軍人だけという皮肉も込められている。

 

 こういう危険なところのセリフは韜晦している。厳しい検閲があった時代にテーマ性をもつ映画を目指すなら、ステレオタイプな人格、セリフのわざとらしさ、芝居がかった社会的主張、紋切り型なプロットなどは許容されていいのではないか現代の目から見れば陳腐であってもです。

 世代間の対立も取り入れ、上流階級の特権を守るためには阿吽の呼吸で男同士は団結する様子など、当時のスペイン社会を批判的視点で描いています。

 

 1950年代半ばのスペイン映画は外国映画に押されて風前のともしび、その消滅を救った映画と称される所以です。これには1947年、イタリア・ネオレアリズモの流れをくむ映画作りを目指した国立映画研究所IIECが開校されたことが大きかったのです

 バルデムとガルシア・ベルランガそこの第1期生です。

 同校の教官や卒業生たちを中心にして1953年、映画雑誌「オブヘティボ」も創刊された。

 残念ながら1956年に発禁となりました。

 

 また同じスローガンのもと、1955514日から6日間の日程でサラマンカ映画国民会議が開催された。カンヌ映画祭上映は425日、帰国早々のバルデムも出席、以後再三再四引用されることになる演説をした。スペイン映画は世界の水準に遠く及ばず、「政治的に効なく、社会的に偽り、知的に最低、美的に無能、産業的に脆弱**」と。

 他にもドキュメンタリー分野におけるNO-DOの独占廃止も求めたんでした。 (続く)

 

サラマンカ映画国民会議Conversaciones Nacionales Cinematograficas de Salamanca

**原文はel cine espanol es politicamente ineficas, socialmente falso, intelectualmente infimo,esteticamente nulo e industrialmente raquitico他にドキュメンタリー分野におけるNO-DO独占廃止なども訴えている。

 

続 フアン・アントニオ・バルデムの「あるサイクリストの死」2020年05月15日 22:18

               内戦の爪痕、貧富の二極化が鮮明

 

 50年代半ばのマドリードが舞台、撮影の大半はチャマルティン・スタジオ、ロケ地はマドリードとその近郊で行われた。ですから事故現場となるマドリード郊外の深夜のような静寂と暗闇は、現実だったと考えていい。雨に濡れた石畳が薄暗い街灯の光の中で映える、モノクロならではの美しさです。

 まだ石畳だった。時刻は夕食前だというのに、あの荒涼とした風景には胸を突かれます。

 チャマルティン・スタジオは19421月に完成、本格的な設備を整えたスタジオだそうです。マルセリーノ坊やでお馴染みの『汚れなき悪戯』(54)もここで撮影された。

 

 青春時代を内戦のうちに過ごしたフアンの世代は、過去から自由になりたい欲求が強く、理想と現実のギャップから精神的に屈折している。

 特にフアンの場合は、内戦前に愛しあっていた恋人が、今では実業家夫人におさまっている。二重の挫折感に襲われている。それに彼はファランヘ党員として従軍していて、現状に幻滅している。

 民兵としてではなく職業軍人みたいですね。

 ファランヘ党の性格は時期によって異なるのですが、内戦時にはフランコ側の母体となっている。スペインの伝統を重んじ、勿論カトリック至上主義、反ナチだがムッソリーニからは資金援助を受けているという複雑さです。

 

 フアンは姉カルミナの夫ホルヘのコネで現在の分析幾何学助教授という地位を得ている。

 日本では準教授と名称の変わった助教授とは少し違う印象です。正教授を補佐する教授補のような身分じゃないかな。現在は廃止されている。だから正教授になることが周囲から期待されている。

 つまり母親の目からは、フアンはまだ成功者として映っていない。

 

 学年末試験の風景に興味を惹かれました。途中で立ち去ったのが多分正教授だと思う。合否を決める試験なのに席を立つなんて、一種の職場放棄です。

 インテレクチュアルのいい加減さ、危機感のなさです。女子学生マティルデを含めて聴講していた学生に美人を揃えたのは、スペイン女性の美しさと先進性を宣伝するよう指導があったのかと勘ぐった。

 

A マティルデ役のブルーナ・コッラは、1933年トレント生れ、大人っぽくて大学生には見えませんでした。次の時代を指導するだろう新しい世代のリーダーとして登場させている

B いわばマリア・ホセのような古い世代の女性と対比させている。しかしルチア・ボゼーより2歳若いだけだから殆ど同世代、見た目の違いが分からなかった。                

 

          アルベルト・クロサスはラテンアメリカの二枚目だった

 

 フアン役のアルベルト・クロサス19211916年説もあるバルセロナ生れ、1994年に鬼籍入りしています。父親がカタルーニャ自治州政府の高官だったことで、内戦が始まると家族でチリに亡命しました。俳優としての本格デビューは1943チリ映画でした。アルゼンチン映画にも多数出演、あちらでは二枚目として活躍してい

B スペイン映画に出るきっかけは?

   

A 本作のスペイン側の製作会社スエビア・フィルム1941年設立セサレオ・ゴンサレスの推挙、バルデムに彼を起用するよう助言した。この大物製作者はガリシアのビゴ市出身ですが、若い頃はキューバやメキシコで仕事をしていた。その線で最初はマリア・ホセ役もメキシコのグロリア・マリンだった。

 

 本作出演を転機に、その後はもっぱらスペイン映画に出演、本数も多い。

 そうですね、一時的に戻ってアルゼンチン映画に出ることがあっても、生涯を閉じるまでスペインがメインでした。日本でも公開なったフェルナンド・パラシオス『ばくだん家族』65La gran familiaペドロ・マソー『試験結婚』72La experiencia prematrimonialなどがそうです

 海外にも紹介され、コマーシャルベースにも乗った。

 

 前者はファミリー・シリーズのひとつ、15人の子持ちのパパ役でした。未公開ですがエドガル・ネビーリェEl baile59では、シニカルで冷静な紳士役を演じ、シリアス、コメディともにこなし、演技の幅も広かった。ネビーリェはブニュエルと同世代です。より先にハリウッドに渡った経験豊かな監督、帰国してからも若い世代に影響をあたえている。もっと評価されていい監督です。

 

 フアンがまだ息があるのに見殺しにしてしまった自転車乗りアパートを訪ねるシーン、労働者階級の貧困を目の当たりにして慄然とする。

 事故以前からフアンは何のために自分は闘っているのかと苦しんでいる。内戦を生き延びたのに、将来を誓い合った恋人は既に人妻になっている。さらに貧富の差は拡大して決して交錯することがない。二極化なんて言うと聞こえがいいですが、平たく言えば三度のご飯が満足に食べられない階層と贅沢三昧ができる階層に分かれている、ということです。

 

B 労働者の事故死なんか誰も調べようとしないそういう社会的混乱の時代を生きている国の象徴として、フアンに貧民街を訪れさせている。自首の動機付けとしてではない。

 前述したように、フアンの相手をする隣りの奥さんは、監督の実の母親マティルデ・ムニョス・サンペドロバルデム家は、両親も俳優、息子ミゲルは監督、ピラールは女優、彼女の二人の息子カルロスとハビエル兄弟、娘モニカも俳優という映画一家です。 

 最近ハビエルがペネロペ・クルスと結婚、さらに増えました

 

        夫ミゲルはコキュ、美術評論家‘ラファ’は寄生虫 

 

 夫ミゲル役は辛い、権力も財産も容貌も不足ないのに女房に浮気された<寝とられ男>です。男としてまことに不面目このうえないのに堂々としていなければならない。

 理解ある亭主を演出することで、逆に妻を苦しめている。

 オテッロ・トーソは、ミゲルのような産業ブルジョアジーが台頭する背景には、外貨不足に陥っていたフランコ側が軍事基地の提供をエサに、アメリカから経済援助を引き出し自己の体制強化を狙いたい事情がありました1914年パドゥア生れ、スペイン映画出演は初めて、主にイタリアのメロドラマに出演している。1966年パドゥア近郊で自動車事故のため52歳の若さで鬼籍入りしてしまった。

 

 新興ブルジョアジーの台頭例として登場するのが、アメリカ大使館で開催されたパーティ。ユニークだったのが上流階級に巣食う熟達のパラサイト“ラファ”。ゴシップを嗅ぎまわって脅しをかけて生き延びている

 しかし腐った社会に「警鐘を鳴らす人」でもあるのです。二人の密通を嗅ぎつけていたが、轢き逃げ事件までは知らなかった。カルロス・カサラビリャ1900年ウルグアイのモンテビデオ生れ、国籍はウルグアイですが1981年バレンシアで死去している。戦前から活躍しており、バルデム映画にはカンヌ映画祭1954出品の Cómicos(「役者たち」)や、Sonatas59「ソナタ」メキシコ合作)に出演している。前者の「喜劇役者たち」は、その社会的批判性から危険人物と目されるようになった意義深い作品でした。

  

 ハリウッド映画にも出演していますスタンリー・クレマーのスペクタクル『誇りと情熱』57にケーリー・グラントやソフィア・ローレンと共演している。

 ハリウッドといっても当時、アメリカ人が製作費の格段に安いスペインで大作を量産していた時代があったのですが、これもその一つです。カサラビリャは脇役が多いのですが、なかでセサル・フェルナンデス・アルドバン El Lazarillo de Tormes では主役の盲人に扮した。これはベルリン映画祭1960の金熊賞受賞作品です。アクセントにウルグアイ訛りがあったせいか外国人役が多く、その特異な顔立ちから皮肉っぽい役柄を得意とした。

 

           

         (マリア・ホセを脅すラファことラファエル・サンドバル)

 

 タブラオ・フラメンコのシーンのカンタオーラは、グラシア・モンテスだそうです

 1936年セビリア生れ、グラシータの愛称で親しまれ、当時はまだ十代でしたが独特の声をしており、若いアーティストとしてセビリアで成功していた。歌っているのはフラメンコのファンタンゴスのAmor, ¿por que no viniste amor?です。

 

 ファンタンゴスというのは愛、悲しみ、宗教がテーマのフラメンコ、ぴったりです。

 このシーンは特別撮影用に録音された別バージョンだそうです。

 闘牛とフラメンコは格好の<輸出品>だったから故意に挿入されたように感じました。

 体制側からドル箱アメリカに気配りするよう求められたかも知れません。その後もカルメン・フロレスと共に<コプラ>の歌手としてファンを楽しませております。

 

 出番はほんの数分でしたが、助けを求めに行くサイクリスト役マヌエル・アレクサンドレは、マルコス・カルネバル『エルサフレド』でフレドになった人です。

 本作はラテンビート2005で上映され好評でした。1917年マドリド生れ、77歳のときの作品、今でも現役です。バルデム作品ではLa venganza58直訳「復讐」)に出演しています。

投稿2ヵ月後の20101012日、癌で死去、享年92歳。

 

             イタリア・ネオレアリズモの優れた教科書

 

 テクニックも当時としては斬新です。場面展開にハッとするシーンがいくつもあった。

 ベッドにいるマリア・ホセがマドリドから逃れたくて、夫に「どこか旅行に連れてって」とせがむシーン、夫に両手差し出すので抱き合うのかと期待すると、突然夫の顔はフアンの顔に入れ替わる。

 無力感ただようフアンの顔にね。口髭が似ているので一瞬アレっと思う。

 

 ラファの仄めかしで不倫がばれる。マリア・ホセが「他に知ってることは何?」と狂ったように問い詰めるシーン。夫ミゲルもラファを軽蔑ので見やる。やりきれなくなったラファが酔いに任せて傍らのワインの瓶を投げつける。

 割れるのはフアンの勤務する大学の窓ガラス、学生たちが石礫を投げて抗議している場面に転換していく。

 

 唸ったのは、マリア・ホセの友人クリスティナが、私たちが集めた寄付金は「おバカな貧乏人の子供のためよ」と歌うと、カメラが貧民街で遊んでいる子供たちに移動する。

 次は同じ構図で着飾ったお譲ちゃんお坊ちゃんが現れるという具合。

 

 寄付金はおバカな子供の酔っ払いとデブのおっ母さんを増やすだけという自嘲も込められている。

 検閲が通ったのは歌に託して逃げたからです如何にして検閲を通すかに知力を尽くした。

 当時のシネアストたちは検閲に神経をすり減らしていたので、、フランコ没後、検閲が廃止されると気が抜けて仕事が手につかなかった、というジョークがあるくらいでした。

 

 後年ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』73で使いました

 これから始まるのおとぎ話ですからね」と。教室から小学生の歌が聞こえてくる歌詞がそうです。1973年は既にフランコ体制も緩み始めていた時代でしたが、それでも警戒を怠らなかった。エリセの場合、他にもたくさん手込んだ細工をしています。反体制文化の発展のなかの単なる通過点にすぎないという評は公平じゃないです。

 

 

  監督キャリア&フィルモグラフィー

★フアン・アントニオ・バルデムJuan Antonio Bardem は、1922年俳優ラファエル・バルデムとマティルデ・ムニョス・サンペドロの長男としてマドリードに生れる。内戦勃発時は14歳だったので従軍していないが内戦の体験者である。内戦の初期はマドリードやバルセロナの共和政府地域、1937年からはサンセバスティアンやセビーリャのフランコ軍地域を転々とし、終結後はマドリードに移った。この体験はその後の生き方の根幹をなしている。

 

1943年、家族の希望で農業学校に入学するも卒業は1948年と長期を要した。その間、1946年からは農業省で働きながら映画の勉強を始める。また1947年開校した国立映画研究所に第1期生として入学する。同期生に「幸せなカップル」51、公開53)を共同監督したルイス・ガルシア・ベルランガがいる。この時期には「スペインクラシック映画上映会」でも上映される予定の『ようこそマーシャルさん』の共同脚本執筆者の一人。また『大通り』56)もエントリーされている。第16回ゴヤ賞2002栄誉賞受賞。同年1030日にマドリードで死去、享年80歳。

 

       

  (映画監督の息子ミゲル・バルデム、妹で女優のピラール・バルデム、ゴヤ賞2002授賞式)

 

198410月、東京国立近代美術館フィルムセンター(京橋フィルムセンター)で開催された「スペイン映画の詩的展望<19511977>」に続いて、11月に東京の渋谷で開催された「第1回スペイン映画祭」のとき来日している。1976年以降に製作された名作10作が上映されている。

 

日本語版ウイキペディアでも紹介記事が読めるので、以下に代表作を年代順に列挙しておきます。短編・TVシリーズ・ドキュメンタリーは割愛。

   

1951 Esa pareja feriz 「幸せのカップル」

1953  Cómicos 「喜劇役者たち」

1954  Felices Pascuas 「メリー・クリスマス」/「楽しいクリスマス」

1955  Muerte de un ciclista 公開『恐怖の逢びき』

1956  Calle mayor 『大通り』(映画祭タイトル)

1957  La venganza 「復讐」

1959  Sonatas 「ソナタ」メキシコ合作

1960  A las cinco de la tarde 「午後の5時に」

1962  Los inocentes 「無実の人」ベルリン映画祭FIPRESCI受賞

1963  Nunca pasa nada 「何も起こりはしない」

1965  Los pianos mecánicos 「自動ピアノ」(フランス合作)、公開『太陽が目にしみる』

1968  El último día de la guerra 『最後の戦塵』(未公開、TV放映)

1970  Varieetés 「ヴァリエラ」

1971  La isla misteriosa (伊=仏との合作)、公開『ミステリー島探検・地底人間の謎』

1972  La corrupción de Chris Miller 公開『真夜中の恐怖』

1975  El poder de deseo 「欲望の力」

1976  El puente 「橋」モスクワ映画祭作品賞受賞

1979 Siete dias de enero 「1月の7日間」モスクワ映画祭作品賞受賞

1982 Die Mahnung (スペイン語題 La advertencia)西ドイツ、独語

1997 Resultado final 「最後の結果」

 

TVシリーズは割愛したが、ミニシリーズ「Lorca, muerte de un poeta」(6話、60分)が198711月から翌年の1月まで、毎週土曜日のゴールデン・タイムに放映され好評だった。ドキュメンタリーとドラマで構成する、いわゆるドクドラマ、脚本には、マリオ・カムス監督、イギリス出身ながらロルカ研究の第一人者イアン・ギブソンが共同執筆している。


第23回マラガ映画祭2020、8月24日開催のニュース ⑩2020年05月17日 17:16

             3日間縮小して、赤絨毯なしで開幕の予定

 

     

★延期か中止かペンディングだった第23回マラガ映画祭2020の開催が、824日~30日の7日間の予定で開催するとアナウンスされました(512)。セクション・オフィシアルの長編、短編、ドキュメンタリー、ZonaZine、料理映画は予定通り、不可欠ではないと分類された、例えばドキュメンタリーの特別セッションのようなエキシビションは除外されるようです。主な会場はアルベニス館、セルバンテス劇場、エチェガライ劇場など、国から要請される消毒などの衛生管理の基準はきちんと守り、ファンが密集しやすいレッド・カーペットはやらない。

 

★オープニングとクロージング、栄誉賞やマラガの特別賞、マラガ栄誉賞(ハビエル・フェセル)、マラガ・スール賞(ガエル・ガルシア・ベルナル)、マラガ才能賞(カルロス・マルケス=マルセ)、リカルド・フランコ賞(タチアナ・エルナンデス)、レトロスペクティブ賞(アルトゥーロ・リプスタイン)、ビスナガ・シウダ・デル・パライソ賞(キティ・マンベールとオスカル・マルティネスの2人)は、予定通り行いたいということです。しかし飽くまで予定であって、今後の新型コロナウイリスの動向次第では変更もありではないか。マラガ市はこれに関しては、まだ決断していないようです。

栄誉賞・特別賞の記事は、コチラ20200318  

 

★昨年の来場者15万人には遠く及ばないにしても、マラガの8月はフィエスタ・シーズン、15日から22日までマラガ・フェリアがあり、このフィエスタに集まった観光客を含めた来場者を取り込もうとして決まったのではないでしょうか。日本人の目からみれば、まだ収束の目途も立っていない時期に開催日程が発表されるなど信じがたいことです。人々が例年通り夏のバカンスを取れるかどうか分からないではありませんか。

 

★一方、9月に入ると映画祭シーズン、カンヌ映画祭はまだ論議中、ベネチアは92日から12日まで、続いてサンセバスティアンは918日から26日まで、その後スペインではシッチェス、バジャドリード、セビーリャ、ヒホンなど陸続と映画祭が連なっています。シネマニアでも多すぎると感じますが、ここ東京国際映画祭は、開催か、または延期か中止かと逡巡した結果、予定通り1031日オープニングに向けて発進したようです(~119日)。勿論、収束状況によっては変更ありとなっています。  

追記:8月21日から8月30日まで、例年と同じ10日間で行われることになったようです。コロナに振り回される映画祭ですが、更なる変更もあるかもしれません。  


ベルランガの『ようこそ、マーシャルさん』*スペインクラシック映画上映会2020年05月22日 11:55

   2回目はルイス・ガルシア・ベルランガのコメディ「ようこそ、マーシャルさん」

       

 

 

ルイス・ガルシア・ベルランガ19212010「ようこそ、マーシャルさん」は、今まで「ようこそマーシャルさん」でご紹介してきました。こちらの邦題は198410月から11月にかけて開催された「スペイン映画の史的展望<19511977>」(全23作上映)という画期的な映画祭のときに付けられたものです。本作は映画祭で上映されただけで残念ながら未公開でした。今回の上映会を企画したセルバンテス東京がアップしたポスター(上記の写真)を見て、ビックリマークがついているので驚きました。映画は勿論Bienvenido Mister Marshallでした。しかし今回は企画者に敬意を表して句点を入れた上記のタイトルを採用しました。因みにIMDbを検索したところ、ポスターはオリジナルの他に幾つものバージョンがあるのでした。

    

★監督紹介は以前にNovio a la vista54「一見、恋人」)の作品紹介をした折りにアップしていますが、当時の検閲制度や「ようこそマーシャルさん」についても触れています。

「一見、恋人」の紹介記事は、コチラ20150621

 

     

              (ルイス・ガルシア・ベルランガ)

  

★本作は200212月、プロデューサーのエンリケ・セレソEGEDAオーディオビジュアル著作権管理協会)現会長の提案で、撮影地だったマドリード郊外のグアダリックス・デ・ラ・シエラ市(マドリード北方49キロ)で再公開され、25,260人が押しよせました。2016年の人口は6000人足らず、観客はマドリードや近郊から出向いたことになります。当時エキストラで出演していたスマートな若者がサンチョ・パンサのようにふくよかになって取材に応じていました。更にマドリードのグランビア100周年を記念して催行されたクラシック映画を特集した映画祭でもオマージュとして上映されたということです。

   

    

 (「ようこそ、マーシャルさん」の記念プレート、グアダリックス・デ・ラ・シエラ市)

  

★更に2015年、スクリーンでクラシック映画を観たことのない若者のために企画された上映会で再リリースされました(6館で1月~5月)。ラディスラオ・バフダの『汚れなき悪戯』(54)、フアン・デ・オルドゥーニャの「最後のクプレ」(57)、ハイメ・デ・アルミニャンの「お嬢さま」(72)、少し新しいがカルロス・サウラの『歌姫カルメーラ』(90)などと一緒に上映されました。スペイン人が最も愛した映画監督がベルランガと言われるだけあって没後も根強い人気を誇っています。

 

★上映前の解説者はチュス・グティエレス監督でした。当時の時代や舞台背景についての説明、監督紹介がありました。当ブログではコロンビア=スペイン合作『デリリオ~歓喜のサルサ』(ラテンビート2014上映)や公開されたドキュメンタリー『サクラモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』などでグティエレス監督をご紹介しています。

『デリリオ~歓喜のサルサ』の紹介記事は、コチラ20140925

『サクラモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』の紹介記事は、コチラ20170201

  

 

Bienvenido Mister Marshall(『ようこそ、マーシャルさん』)

製作:UNINCIUnión Industrial Cinematográfica

監督:ルイス・ガルシア・ベルランガ

原案:フアン・アントニオ・バルデム、ルイス・ガルシア・ベルランガ

脚本:フアン・アントニオ・バルデム、ルイス・ガルシア・ベルランガ、ミゲル・ミウラ

音楽:ヘスス・ガルシア・レオス

歌曲:ホセ・アントニオ・オチャイタ、シャンドロ・バレリオ、フアン・ソラノ・ペドレロ

撮影:マヌエル・べレンゲル

編集:ペピータ・オルドゥーナ

美術:フランシスコ・カネト、フランシスコ・ロドリゲス・アセンシオ

衣装デザイン:エドゥアルド・デ・ラ・トーレ

メイクアップ&ヘアー:アントニオ・フロリド、ロサリオ・バケロ

プロダクション・マネージメント:ビセンテ・センペレ

助監督:リカルド・ムニョス・スアイ

美術:フェデリコ・デル・トーレ、エンリケ・ビダル

録音:アントニオ・アロンソ、ロレンソ・ライネス

カメラ:エロイ・メリャ

製作者:ビセンテ・センペレ

 

データ:製作国スペイン、スペイン語・ラテン語・英語、1953年、コメディ、78分、撮影地グアダリックス・デ・ラ・シエラ市、スタジオCEA他。公開マドリード195344日、バルセロナ同4月㎜日、フランス717

映画祭・受賞歴:第6回カンヌ映画祭1953出品、コメディ(ユーモア)脚本スペシャル・メンション受賞。第9回シネマ・ライターズ・サークル賞(音楽賞ヘスス・ガルシア・レオス、オリジナル脚本賞ルイス・ガルシア・ベルランガ、フアン・アントニオ・バルデム、ミゲル・ミウラ)

 

キャスト:ロリータ・セビーリャ(カルメン・バルガス)、マノロ・モラン(マノロ)、ホセ・イスベルト(村長ドン・パブロ)、アルベルト・ロメア(郷士ドン・ルイス)、エルビラ・キンティーリャ(小学校教師エロイサ)、ルイス・ぺレス・デ・レオン(司祭ドン・コスメ)、フェリックス・フェルナンデス(医師ドン・エミリアノ)、ニコラス・ベルチコト(薬剤師)、ホアキン・ロア(公示者フリアン)、フェルナンド・アギレ(秘書ヘロニモ)、マヌエル・アレクサンドレ(秘書)、ホセ・フランコ(使節団長)、ラファエル・アロンソ(使節)、ホセ・マリア・ロドリゲス(ホセ)、エリサ・メンデス(ドーニャ・ラケル)、マティルデ・ロペス・ロルダン(ドーニャ・マティルデ)、他グアダリックス・デ・ラ・シエラのエキストラなど多数、ナレーションはフェルナンド・レイ

 

ストーリー:カスティーリャの村ビリャール・デル・リオは、スペインならどこにでもあるのんびりした農村である。折しも村長ドン・パブロが経営するバルに出演すべく、美貌の歌姫カルメンとマネージャーのマノロが村営の定期バスで広場に到着する。村長が馬車で客人を案内している最中、今度は県庁のお偉方4人が2台のバイクに先導されて到着した。一体何事ならんと、小父さんたちは床屋談議に花を咲かせ、川で洗濯ちゅうのおかみさんたちも井戸端会議に熱中する。マーシャル・プランの生みの親、米国国務長官ミスター・マーシャルの使節がビリャール・デル・リオを通るという。このビッグニュースはたちまち村中を駆けめぐり、アメリカ人を感動させる準備が始まった。ボストンで過ごしたことのあるマノロのアドバイスで、道路沿いをアンダルシア風の街並みに変え、村民にはフラメンコ衣装を着せることにした。学校ではアメリカ史のにわか勉強、ローラー車がデコボコ道路を整備し、歓迎パレードのリハーサルまでして、マーシャル御一行さまを待ち受けることになった。果たして努力は報いられるでしょうか。

 

   

(左から、エロイサ、マノロ、カルメン、村長ドン・パブロ、本番並みのリハーサル風景)

 

 

       ロリータ・セビーリャ出演が前提だった「ようこそ、マーシャルさん」

 

A: 結構厳しい社会批判がオブラートに包まれているとはいえ出てきますが、よく検閲の目を潜り抜けました。制作会社UNINCIからは、ロリータ・セビーリャを主演に据えることが求められていた。1935年セビーリャ生れ、10歳でダンサーとしてデビューした。オファーが来たとき、ミュージカル映画に主演できると喜んだのに、実際は検閲逃れのパロディ映画であることに気がついたようです。

B: 歌って踊れる女優として映画界への足掛かりを得たと胸弾ませていたのに、どうやら主役はドン・パブロとマノロ。

A: カルメン・バルガスの主役を射止めたと思ったが、実は違った。しかしカンヌで本作が成功すると、ロリータも引っ張りだこになって結果的には大成功だったのでした。

 

B: 製作側としては、外貨を得るには外国人がイメージするスペインに、アンダルシア風やフラメンコは欠かせなかった。

A: 原案者のフアン・アントニオ・バルデムも監督もそれは承知の助、利用しない手はなかった。検閲逃れの極めつきは、本作にナレーションを入れて、ナレーターにフェルナンド・レイ(ラ・コルーニャ1917)を抜擢したこと、「昔むかし・・」で始まり、結びの常套句「Y colorín, colorado, este cuento se ha acabado」で映画を締めくくらせたことです。

B: 「これでおしまい、めでたしめでたし」、これは昔々のお話だから目くじら立てないでね。

 

A: フェルナンド・レイはスクリーンには現れませんが、当時スペイン人にも人気のあったタイロン・パワーローレンス・オリヴィエの吹替として知名度があった。彼については次回上映予定のブニュエルの『ビリディアナ』(61)でご紹介したいが、内戦の関りではベルランガとの共通点があるのです。

B: 内戦後、それぞれの父親が刑務所に収監されていたのです。

 

           舞台となったビリャール・デル・リオは実在の村

 

A: 舞台となるビリャール・デル・リオは、架空の村ではなくカスティーリャ-レオン自治州ソリア県の町、近くのビリャール・デル・カンポまでは鉄道が来ているが、デル・リオには通じていない。ドン・パブロはそれが悔しくてならない。

B: 鉄道を通すことが村長の宿願だった。県庁から派遣されてきた使節団長に「デル・カンポ」と何回も間違えさせている。村長はその度に「デル・リオ」と訂正して笑わせる。

A: デル・カンポへの対抗心が滲みでており、中央から忘れられた村の代表として選ばれている。実際の撮影は上述したように、マドリード近郊のグアダリックス・デ・ラ・シエラでした。

 

B: 最初はビリャール・デル・リオを予定していた。

A: しかし人口も少なく、村民はジャガイモやタマネギの農作業に忙しく、エキストラが集まらなかったらしい。それにマドリードから遠すぎることも一因かもしれない。

 

B: 現在の市庁舎のバルコニーには村長役ホセ・イスベルトそっくりのドン・パブロの銅像が建っています。

A: 2011年に建てられた比較的新しいもので、市庁舎は当時のままを使用しているが、1階にはバルと中国料理店が入っているそうです。写真にあるように、予算がなくて310分で止まったままの大時計は4時を指しているから、新品に変えたのかもしれない。2016年の人口調査によると、6000人足らずの町のようです。市民はグアダリックスで撮影されたことが知られていないことが残念だったようです。

 

B: ドン・パブロが演説するバルコニー付きの村役場が立派すぎたのは、グアダリックス・デ・ラ・シエラの市庁舎だったからですね。

A: 広場に集まった村民に「私は皆さんの村長です。だから村長としてご説明しなければなりません・・・」を延々と繰り返すだけで、説明しなければならない事案が一向に分からない。意味深な演説です。何を説明してもらいたかったかは、当時の国民にとってそれぞれ違ったはずです。

 

     

  (「私は・・・」と意味不明の演説をする村長、目立ちたがり屋マネージャーのマノロ)

 

        

   (バルコニーで熱弁をふるうドン・パブロの銅像、マノロと助役は割愛されている)

 

         マーシャル・プラン排除を逆手にとったパロディ映画

 

B: タイトルに使用されたミスター・マーシャルは、かの有名なマーシャル・プランの立案者、米国国務長官ジョージ・マーシャルを指す。第2次大戦後の1947年、疲弊したヨーロッパ経済の復興計画として1951年まで実施された。

A: ドイツとスペインは除外された。スペインは参戦しませんでしたが、民主国家ではないとして国際連合による<スペイン排斥決議>をうけていた。本作が完成したときには既に解除されていましたが、当時のスペイン人がマーシャル・プランに寄せる期待は大きかったという。

 

B: 歴史の浅い米国より伝統のあるスペインのほうがウエだと思いつつ、内戦から立ち直れない経済をアメリカに救済して欲しかった。その屈折した感情が本作を貫いている。

A: 対象国でもないのに、マーシャル・プランを主軸にしてストーリーを展開させた。それがカンヌ映画祭脚本賞受賞に繋がったのだと思います。

 

B: 反米的なシーンもありました。県庁の使節団長から「失礼のないようにしなさい」と言われたドン・パブロに「レモネードでもお出ししましょうか」なんて言わせたり、ロード・ローラーを走らせて一行が通る道路だけ整備させている。

A: 結局マーシャル使節団は村に立ち寄ることなく、あっという間に村を駆け抜けてしまい、後には溝に落ちてずたずたになった星条旗が残された。スペイン人の外国人嫌いというか恐怖症を描いていますが、カンヌでこのシーンを目撃したアメリカ人が怒り出したという。

 

B: 移民の寄り合い所帯の合衆国で一番重要なのが国旗、星条旗のパロディ化は御法度です。しかしこのシーンは、スペイン人のヒダリもミギにも共通した感情だった。

A: アメリカから経済援助を引き出したいフランコ政権の検閲がよく通したと思うのですが、フランコ政権は「ウチは検閲などしておりませんよ」と海外に知らせるために容認したとも。

B: マーシャルさんを歓迎するコメディだから、バルデムやベルランガたちが仕掛けた深慮遠謀に全体的に気づかなかったということもあった。

 

         登場人物のキャラクター、村長ドン・パブロは聴覚障害者

 

A: 登場する人物は当時のスペイン人のサンプルです。村長ドン・パブロが聴覚障害者なのは都合が悪くなると聞こえなくなる。司祭ドン・コスメ(ルイス・ぺレス・デ・レオン)は太っていて噂好き。飽食できたのは政治家と宗教関係者だけだったから、映画に現れる司祭は肥満が通り相場だった。懺悔の内容はマル秘でなければならない司祭を噂好きに設定した。

B: 知ったかぶりにアメリカの悪口を言いふらしたことで、マーシャル一行が到着する前日には、KKKに捕らえられたあげく、非米活動委員会裁判で絞首刑を言い渡される夢を見る。

 

          

    (聴覚障害者の村長ドン・パブロ)

 

        

         (司祭ドン・コスメを演じたルイス・ぺレス・デ・レオン)

 

A: 郷士イダルゴのドン・ルイス(アルベルト・ロメア)は、先祖がアメリカ大陸に初めて上陸した名誉ある家柄だから表向きには尊敬されている。しかし今は落ちぶれて先祖の肖像画や時代物の家具に囲まれて孤独に暮らしている。当然誰からも手紙はこない。マーシャル一行が到着する前日に見た夢は、先住民に捕らえられ海岸で釜茹でにされてしまう。

 

         

           (郷士ドン・ルイスを演じたアルベルト・ロメア)

 

B: ドン・パブロといえば、アメリカ西部で保安官になり、悪漢マノロと歌姫カルメンをめぐって酒場でドンパチやる夢を見る。村長は美人のカルメンにほの字のようだ。

A: 村長は、ボストンにいたことがあるというカルメンのマネージャーがアメリカ通ということで村長を差し置いて仕切りたがるので、悪漢をマノロにしている。

B: デル・リオの村民でもないのにバルコニーに登場してドン・パブロの演説の邪魔をしていた。マノロのような出しゃばりのアメリカ通は、えてして敬遠されていた。

  

          

                       (ドン・パブロは歌姫カルメンにほの字)

 

       

   (夢の中で悪漢にされたマノロ)

 

A: マーシャルさんが1人に1つだけ望みを叶えてくれると聞かされていた農夫のフアンも、アメリカ空軍機から念願の新型トラクターがパラシュートで落下してくる夢を見る。

B: 小学校教師のエロイサ(エルビラ・キンティーリャ)には眼鏡をかけさせ独身にした。大人にアメリカ史を教える授業では、クラスの優等生をアンチョコ代わりに教壇の下にもぐらせていた。女性の地位の低さを描いている。

A: 女性蔑視を皮肉っているが、優等生にも眼鏡をかけさせている。若い人の眼鏡は負のイメージか。現在の女性の社会進出をベルランガが知ったら驚くでしょう。

 

      

              (教師のエロイサを演じたエルビラ・キンティーリャ)

 

B: 村長役のホセ・イスベルト(マドリード18861966)は、今回のクラシック映画上映会では出番が多い。

A: ベルランガの『死刑執行人』63)の他に、マルコ・フェレーリ『車椅子』60)でも主演しています。小柄でガラガラ声、お世辞にもガランとは言えないが、1950年代60年代で最も活躍した俳優の代表格でした。キャリア紹介は次回にいたします。

      

ルイス・ブニュエルの『ビリディアナ』*スペインクラシック映画上映会2020年05月29日 17:47

          ヨーロッパ回帰の第1作目『ビリディアナ』をスペインで撮る

 

   

★メキシコで映画を撮っていたルイス・ブニュエルが、ヨーロッパ、それもスペインで撮ることにした『ビリディアナ』61メキシコ合作)は、デビュー作『アンダルシアの犬』28仏)から数えて23作目、スペイン映画としては、1932年、スペインでも最も貧しいラス・ウルデス地方に入って撮ったドキュメンタリー『糧なき土地』(短編27分、公開37)以来、およそ29年ぶりの2作目でした。ブニュエルと言えばスペイン映画を代表する監督ですが、スペイン映画としてはトレドを舞台にして撮った『哀しみのトリスターナ』70仏伊西、ベニト・ぺレス・ガルドスの短編の映画化)と『欲望のあいまいな対象』77仏西)を含めて生涯に4本だけ、スペイン単独としてはドキュメンタリー1作のみでした。

『糧なき土地』(Las Hurdes. Tierra sin pan)撮影の経緯を描いたサルバドール・シモーのアニメーションBuñuel en el laberinto de las tortugas18)の紹介記事は、

コチラ20200205

 

★本作はカンヌ映画祭1961のグランプリ(現在のパルムドール)受賞作品、公開作品の一つということで字幕入りで鑑賞でき、DVDも発売されている。ブニュエルのキャリア&フィルモグラフィについては多くのことが書かれ語られているので紹介は不要と思います。また今回の上映会の解説者である金谷重朗氏のコンパクトながら実に適切な作品紹介では、ビリディアナ事件にまで及んでおり、これで充分と思えますが、映画より事件の顛末のほうが面白いので補足したい。一応例のごとく作品データを以下にアップしておきます。

 

Viridiana1961『ビリディアナ』

製作:Uninci-Films 59

監督:ルイス・ブニュエル

脚本:フリオ・アレハンドロ、ルイス・ブニュエル(原案ベニト・ぺレス・ガルドス Harma 1895

助監督:フアン・ルイス・ブニュエル、ホセ・プヨル

撮影:ホセ・フェルナンデス・アグアヨ

美術:フランシスコ・カネト

音楽(選曲):グスタボ・ピッタルガ

編集:ペドロ・デル・レイ

録音:アウレリオ・ガルシア・ティヘラス

製作者:グスタボ・アラトリステ、リカルド・ムニョス・スアイ、ペレ(ペドロ)・ポルタベリャ

 

データ:製作国スペイン=メキシコ、スペイン語、1961年、ドラマ、90分、撮影地トレド、マドリード(アルガンダ・デル・レイ)、マドリードのスタジオC.E.A. Ciudad Lineal、撮影19611月、スペイン公開マドリード197749日、バルセロナ530日。日本公開は1964101日、再上映198181日、20171223日。

 

映画祭・受賞歴:第14回カンヌ映画祭1961出品517日上映、グランプリ(現在のパルムドール)受賞、ベルギー批評家協会賞1962を受賞した。

 

キャスト:シルビア・ピナル(ビリディアナ)、フェルナンド・レイ(伯父ドン・ハイメ)、フランシスコ・ラバル(ハイメの庶子ホルヘ)、マルガリータ・ロサノ(家政婦ラモナ)、テレサ・ラバル(ラモナの娘リタ)、ビクトリア・シニー(ホルヘの愛人ルシア)、ホセ・カルボ(物乞いドン・アマリオ)、ルイス・エレディア(同マヌエル、エル・ポカ)、ホセ・マヌエル・マルティン(同エル・コホ)、ホアキン・ロア(同セニョール・セキエル)、フアン・ガルシア・ティエンドラ(同ホセ、エル・レプロソ)、ホアキン・マヨール(同)、ロラ・ガオス(同エネディナ)、マリア(マルハ)・イスベルト(同、歌い手)、アリシア・ホルヘ・バリガ(同)、パルミラ・ゲーラ(同)、ミラグロス・トマス(同)、フランシスコ・レネ(執事モンチョ)、ロシータ・ヤルサ(マザー修道院長)、他多数

 

ストーリー:若く美しい見習い修道女ビリディアナは、誓願式を数日後に控えている。経済的援助をしてもらっている後見人である伯父ドン・ハイメから館を訪れるよう通知を受けとるが、日頃疎遠な伯父に会うことは気がすすまなかった。しかし修道院長の強い勧めでしぶしぶ館に向かった。一方ドン・ハイメは、その昔、結婚式の夜にビリディアナの伯母である妻を心臓発作で亡くして以来、家政婦のラモナ、その娘リタ、執事のモンチョなどと、広大な領地に隠棲していた。しかし久しぶりに会った亡き妻そっくりのビリディアナに、ドン・ハイメは激しく心動かされ、修道院に戻さず手元に置きたいと願うようになる。

 

       19世紀の文豪ベニト・ぺレス・ガルドスの小説 Harma に材をとる

 

A: 冒頭から予想通りのフェティシストぶりに苦笑を禁じえませんが、反復して現れます。それはさておき、タイトルの由来から入りましょうか。ブニュエル監督によると「ビリディアナの名前の由来は、ラテン語の緑の場所 <ビリディウム> からきているが、実際に存在した聖女ビリディアナから取った。映画に出てくるように十字架、棘の冠、釘をもっている肖像がメキシコ市博物館にある」と語っています

B: 解説者の金谷重朗氏がベニト・ぺレス・ガルドスHarma を下敷きにしていると話されていましたが。

         

             (フェティシストぶりを発揮した極めつきシーン)

 

A: IMDbにも作品名まではクレジットされておりませんが、ガルドスの小説とあります。上記のインタビューでは監督自身は「脚本は、フリオ・アレハンドロと私のオリジナル」と応じている。彼は3人いるブニュエル映画の共同執筆者の一人、他に『砂漠のシモン』63)、上記の『哀しみのトリスターナ』などを手掛けています。スペイン版の映画紹介では、ガルドスの Harma をベースにしているとあります。しかしあらすじを読むと人格造形は似ているが、3年前にメキシコで撮った『ナサリン』58)のような相似性はないようです。

B: 『ナサリン』は、ガルドスの小説 Nazarin の映画化と明記されていますね。本作の脚本を手掛けたのもアラゴン州はウエスカ生れのアラゴネスのアレハンドロでした。

 

A: 深入りしませんが、ナサリンは主人公の名前、アルマはアルマ-ローテンバーグ伯爵夫人カタリナ・デ・アルタルのアルマから取られています。しかしalma(魂、精神)が隠れているのは想像できる。ヒロインのカタリナとナサリンは対になっている。貧しい人に慈悲を施しても結局裏切られて破局を迎える。

 

B: 例のインタビューでブニュエルは「ビリディアナはスカートを履いたドン・キホーテ」と語っていますが。

A: ビリディアナは乞食や浮浪者のグループに食事を与え保護しますが裏切られ、なおかつエル・コホから暴行を受ける。彼女は現実に目覚め、ありのままを受け入れようとする。ドン・キホーテも正気に戻って現実を受け入れる。 Harma が上梓されたとき、『裁判官夫人』の著者レオポルド・アラス(筆名クラリン)が、ナサリンとアルマのカタリナのドン・キホーテ相似性を指摘しました。多分そこからきているのかもしれません。

 

B: ブニュエルはガルドスの小説の映画化を温めていた。Nazarin はガルドスの代表作ではないが、映画化権をガルドスの娘ドーニャ・マリアから買っており、それはメキシコ国籍を取得する1951年より前のことです。

A: 実現しませんでしたが、他にDoña Perfecta1876「ドーニャ・ペルフェクタ」)も買っていた。ガルドスの Tristana が原作の『哀しみのトリスターナ』は、1952年に一度計画されたが実らず、実際の完成は1970年でした。『ビリディアナ』の脚本が全くのオリジナルか否かは別として、記憶は年とともに想像と夢想に侵されるから、何が本当だったか曖昧になる。いずれにしても、ガルドスの Harma と無縁ではなかったでしょう。

 

             個性的に描き分けられた人格造形

       

A: フェルナンド・レイ扮するドン・ハイメが伯父か叔父か映画からは類推するしかありませんが、映画紹介記事でも混在しています。ビリディアナの両親は亡くなっており、ドン・ハイメは身寄りのないビリディアナの後見人として学費の援助をしている。亡き妻の姉妹の子供だから伯父姪の関係とはいえ血は繋がっていない。

B: ドン・ハイメは老人というほど年寄りには見えないが、既に人生を半分諦めている。片やビリディアナは数日後に修道女誓願式を控えている若い女性で20歳未満に設定されているようです。

 

A: フェルナンド・レイ(ラ・コルーニャ1917)については、前回の『ようこそ、マーシャルさん』で少し触れましたが、ブニュエル作品では、『哀しみのトリスターナ』の他に『ブルジョワの秘かな愉しみ』72)と、最後の作品となる『欲望のあいまいな対象』に主演している。当時ガラン俳優として、仲介役をしたバルデム監督のCómicos54役者たち)やSonatas59ソナタ)に出演していた。主役を演じるようになるのは、『ビリディアナ』以降、ゴヤ賞やサンセバスチャン映画祭の銀貝男優賞を取るのは、ずっと後の話です。

  

B: シルビア・ピナル1931年生れで撮影当時は30歳になっていたから、美貌ではあるが初々しさに欠けていた。大金を提供した製作者のグスタボ・アラトリステが夫君で、彼女の起用が前提だった。アラトリステはスペインで撮ることを希望していたそうですね。

 

          

 (ドン・ハイメから亡き妻の花嫁衣裳を着せられるビリディアナ、共犯者の家政婦ラモナ)

 

A: ブニュエルのヨーロッパ回帰の転機となった作品ですが、当時スペインとは距離をおいていたので可能性の点でクエスチョンでした。とにかくフランコ政権から嫌われていた。橋渡しをしてくれたのがブニュエルの親友で闘牛士のルイス・ミゲル・ドミンギンと『恐怖の逢びき』の監督フアン・アントニオ・バルデムでした。

B: ドミンギンはバルデムの『恐怖の逢びき』のヒロイン、ルチア・ボゼーと結婚していた。

 

A: 検閲を通すための脚本チェックを、『ようこそ、マーシャルさん』の助監督リカルド・ムニョス・スアイがしてくれた。当時の文化局長ホセ・マリア・ムニョス・フォンタンが結末の一部を変更させたが無事通過した。変更の経緯は後述しますが、スペインの検閲は脚本段階からで、これが通らないとクランクインできない。カンヌ映画祭ではフランス側の強い要請でスペイン映画の代表として出品された。

B: 資金はメキシコ側が出したのにね。

 

A: 合作とはいえ、メキシコからはアラトリステ夫妻と監督、実子の助監督の一人フアン・ルイス・ブニュエル、彼は既に『ナサリン』でも助監督を務めていた。キャストもシルビア以外はスペイン人です。ブニュエルは『ビリディアナ』以後も、アラトリステ夫妻と組んでメキシコ映画の『皆殺しの天使』62)や『砂漠のシモン』65)を手掛けていますが、それでもフランスやイタリア、スペインとの合作が主流でした。

 

B: ドン・ハイメの自死後、愛人ルシアを伴って館に現れるホルヘ役のフランシスコ・ラバルは、神父ナサリン役や『昼顔』66などに出演している。ブニュエルのお気に入りで、ラバルも「おじさん」と呼んで慕っていたそうです。

A: ホルヘはドン・ハイメの庶子で遺産の半分を相続する人物。何十年も手入れされなかった領地の整備に余念がない。何百万もいるだろう浮浪者の何人かに慈悲をほどこすなど愚かな行為とビリディアナに批判的だが、荷車の心棒に繋がれた犬が可哀そうだと買い取る。しかし繋がれたまま道路を走らされる犬は山ほどいるわけだから1匹助けても意味がない。この象徴的なシーンはビリディアナの浮浪者救済と同じ構図です。

     

B: 愛人がいながらビリディアナにも家政婦のラモナにも秋波を送る自信家です。彼の愛人ルシアを演じたビクトリア・シニーは、もともと退屈な田舎暮らしはしたくない、ホルヘがビリディアナに関心を寄せるのも気に入らないとさっさと館を後にするが、なかで一番まとも人物です。

 

       

        (ホルヘ、愛人ルシアのビクトリア・シニー、ブニュエル監督)

 

A: 家政婦を演じたマルガリータ・ロサノは、フランシスコ・ロビラ=ベレタ『バルセロナ物語』63)に出演している。「ロミオとジュリエット」バルセロナ版と言われた本作は翌年公開された。日本はフラメンコ愛好家が多く、当時からフラメンコ物は人気があったのです。カルロス・サウラでさえ最初に公開された映画は、あまり評価の高くない『カルメン』(83)でした。

 

        

       (既に関係ができているホルヘとラモナ役のマルガリータ・ロサノ)

 

B: ルシアが消えるとホルヘを手に入れる。ここからラモナ、ホルヘ、ビリディアナの三角関係が暗示される。ラモナの娘リタを演じたテレサ・ラバルは、ペペ・ラバルと同じ姓ですが。

A: ラバルと女優のアスンシオン・バラゲルの娘で1952年バルセロナ生れ、本作でデビューした。二人は1950年に結婚、2001年のラバルの死まで半世紀も長続きした、スペインでは珍しいカップルでした。テレサはその後女優になり、現在でもテレビ司会者として活躍している。あと残るのが放浪者14人ですが、本当に乞食をしていたのは一人で、他は俳優が演じました。リタの縄跳びの縄が重要なオブジェとして登場する。

 

           

            (ドン・ハイメと縄跳びが大好きなリタ)

 

 

           悪夢だったパルムドール <ビリディアナ事件>の顛末

 

B: 本作はスペイン公開が16年後の19774月と極めて遅い。

A: フランコ時代(193676)には上映できなかった。上記したようにメキシコとの合作でしたがスペイン映画の代表作品としてカンヌで上映され、スペインに初めてグランプリをもたらした。ところが映画祭にドメニコ会派の神父がバチカンの「オッセルバトーレ・ロマーノ」紙の通信員として派遣されていた。彼が宗教を冒瀆しているとか、道徳的に堕落していると非難したことが発端でした。

 

B: それがスペインに伝わると、まだ映画を観てもいないのに、これはスペイン映画ではないとした。それは次々に連鎖反応を起こしていった。

A: 映画祭に出席していた文化総局長ホセ・マリア・ムニョス・フォンタンは罷免され、製作会社は解散の憂き目にあい、マスコミも記事にすることを一切禁じられた。原盤を破壊されるのを怖れたシルビア・ピナルが秘かにメキシコに持ち帰ったお蔭で私たちは鑑賞できているのです。

B: スペイン側の参加者は、帰国の途次、追放されたとか。

 

A: 映画以上に面白いのがビリディアナ事件の顛末です。バチカンは映画関係者を破門さえしたそうです。本作のスペイン側のプロデューサーペレ・ポルタベリャが、後に語ったところによると、映画祭が始まってもコピーは完成ぜず、上映は映画祭最終日だった。

B: 監督も息子で助監督だったフアン・ルイスがコピーを持って到着したのは「二、三日前」と言ってます。ぶっつけ本番、誰もスクリーンでは見ていなかったわけですね。

 

A: 会場で映画を観終わった総局長は、恐怖のあまりホテルの部屋に逃げ込んでしまった。しかし本当の悪夢は翌日に待っていた。パルムドールを受賞してしまったからです。当のブニュエルは仮病を使って偽の咳をしながら現れない。さて、誰がこの毒入り饅頭を貰いに登壇するか。突然、ドミンギンがポルタベリャに「ムニョス・フォンタンの部屋に行きましょう、私が話すから、君は黙っていていい」と。

B: ドミンギンはマタドールというよりある意味政治家ですね。

 

A: ドミンギンは「これはスペインにとって名誉なことだし、スペイン映画の名のもとに受け取って欲しい」と説得し、結局彼が登壇した。激怒した政権が即刻罷免したから、これが彼の最後の仕事になった。

B: そもそもあのブニュエルを帰国させ、検閲を通過させたこと自体が槍玉に挙がった。

A: 驚愕したのだから、脚本と作品には大きな違いがあったのでしょう。脚本段階での判断は難しい。特にブニュエルは「人生はすべてが気まぐれ」という人ですから。亡命共和派からは裏切り者となじられ、スキャンダルを待ち焦がれていたシュールレアリストたちは大喜びした(笑)。

 

B: ポルタベリャは本作で初めてブニュエル映画に参加した。

A: 二人の接点もカンヌでした。ポルタベリャはカルロス・サウラの「ならず者」60)をプロデュースし、デビュー作ながらカンヌに出品できた。そこでブニュエルと初めて会い、それが機縁で『ビリディアナ』に参画したようです。

   

B: ブニュエルはこの映画が「フランコ政権の好みでないことは承知していたが、かくも長き上映禁止が続くとは思っていなかった」とインタビューで語っていた。

A: しかし監督の意思はどうあれ、ドン・ハイメの自死、フェティシストであるばかりでなく女装趣味者で窃視主義者、さらに嘘つきです。夢想するだけでなくバージンのビリディアナを犯そうとさえする。また女性の胸を露出させることは禁止されていたのに無視した。なおかつ8歳ぐらいの少女に盗み見させている。ドメニコ修道会ならずとも眉を顰めるに充分だった。

 

B: 問題は他にもありそうです。浮浪者たちが乱痴気騒ぎの果てに、イタリアの至宝、ダヴィンチの「最後の晩餐」をパロディ化したことも許せなかったでしょうね。

A: 盲人のキリスト役を中心に12人の弟子役が、31組で並び、4つのグループに等間隔に分けられている。おまけにイエスの右側の女乞食は、ダヴィンチが描いたトマスのように右手の指を1本立てている。ここにはカメラマン役のエネディアだけが入っていない。

 

           

            (ダヴィンチの「最後の晩餐」のパロディ)

 

B: ダヴィンチの壁画のように全員座っていないので台形にはなっていないが、ワイングラスは13個です。登場する浮浪者は14人いたが、13人にするためエネディアをカメラマンにして外した。

A: 『ブニュエル、ロルカ、ダリ』の著者アグスティン・サンチェス・ビダルは、ダリが1955年に発表した「最後の晩餐」との関連を述べている。翌年ワシントンのナショナル・ギャラリーに出品された。

B: イエスを中央にして12人の弟子が6人ずつ分かれ、シンメトリーに描かれている。

 

A: 画家はこれはロルカへのオマージュでもあると書いている。ロルカ、ブニュエル、ダリの確執は複雑にもつれている。結果、ダリはフランコにお目通りを許され、2年後ガラとカトリックの儀式に則って結婚、翌年にはヨハネ23世にも謁見した。だから関係がこじれていたダリを皮肉ったのではないか。

B: ブニュエルは撮影中にパロディ化することを思いついた。「私は憤ることがわからないよ。乞食が晩餐していて、たまたま、レオナルドの絵のように構図をとった」と韜晦している(笑)。

A: 他にもキューバのトマス・グティエレス・アレアが、そのものずばりのタイトル『最後の晩餐』(La ultima cena 75)を撮っている。

 

         本当の物乞いはレプラ患者役のエル・レプロソだけだった  

 

B: 薄汚い浮浪者の区別は難しいが、だんだんきちんと描き分けられていることが分かってくる。

A: 最後の晩餐に唯一人映っていないエネディア役のロラ・ガオスは、『哀しみのトリスターナ』にも出演している。ベルランガ&バルデムが共同監督したデビュー作「幸せなカップル」51)やアンヘリーノ・フォンス『探求』66)に出ています。特異な容貌から区別しやすい女優です。盲人ドン・アマリオ役のホセ・カルボは、セルジオ・レオーネ『荒野の用心棒』64)にイーストウッドと共演している。

 

            

                (ロラ・ガオスとホセ・カルボ)

 

B: 1人いるという本当の乞食は誰ですか。

A: エル・レプロソ役、つまりレプラ患者を演じたフアン・ガルシア・ティエンドラ、マラガ生れでマドリードで物乞いをしていた。アルコール漬けで撮影後亡くなったということです。一番役にハマって見えたのは、演技というより地だったのかもしれない。

 

        

         (ウエディングドレスを着て浮かれ踊るエル・レプロソ)

 

B: ビリディアナを暴行しようとするエル・コホ(ホセ・マヌエル・マルティン)を、お金欲しさに暖炉のスコップで殴打して殺してしまう乞食ですね。エル・コホからイジメを受けていた。エル・コホに画家の真似をさせていたが、何か意味がありそうです。エル・ポカのルイス・エレディア、歌い手のマリア・イスベルトにしろ、総じて女浮浪者たちは品がありすぎた。

 

           夢遊病者だったビリディアナ、オブジェの謎解き

 

A: 夜中にビリディアナが毛糸の入った籠を抱えてドン・ハイメの部屋に現れる。驚く伯父には目もくれず暖炉に毛糸を投げ入れ、代わりに灰を掴んで籠に入れる。その灰を伯父のベッドの上に置く。これはインタビューによると、ドン・ハイメの死を暗示しているシーンだそうです。

B: カトリックの慣例では灰は死を意味する。旧約聖書の創世記にある「汝、塵なれば、塵に戻るものなり」を引用している。

 

       

           (ドン・ハイメのベッドに灰を播くビリディアナ)

 

A: ビリディアナが館に携えてきた十字架棘の冠3点セットは聖女ビリディアナのオブジェ、最後に冠は少女リタの手で焚き火にくべられてしまう。このシーンを神を汚すと不快に思った人もいた。

     

           (3点セットを並べて祈りを捧げるビリディアナ)

         

B: ブニュエルは古くなった教会の品物は、よく燃やされると言ってますが(笑)。ホルヘが父親の遺品を整理しているなかにあったキリスト受難の像のようなナイフも非難された。

A: 偶然アルバセテの店で見つけたもので面白いからオブジェとして挿入したので他意はないと。事件の後スペインでは使用が禁止されたと語っているが、どれくらい守られたか怪しい。

 

           

       (田舎暮らしが不満なルシア、遺品のナイフを手にしているホルヘ)

 

B: リタが縄跳びしていた縄でドン・ハイメは首を吊る。その縄は三度現れる。それは浮浪者たちの乱痴気宴のあと、縄を偶然見つけた乞食が腰ひもにするシーンです。

A: 監督は縄は知的な伏線ではなく「明らかに欲望と関連のある、潜在的な無意識の線はある」と言っているだけです。ドン・ハイメの視線は、少女の顔ではなく足と縄に注がれている。主人公と監督が重なる部分です。

 

B: ドン・ハイメが姪に結婚を強く拒絶され、遺言を認めるシーンで微笑というか苦笑いをすのは、どう判断したらいいのか。

A: 観客は微笑しながら何か書いているドン・ハイメを見ている。ところが翌日彼は枝に吊るした縄で首を吊る。観客がどんなに驚くか知りたかった。彼は自分の死で姪が修道院を出て館に留まること、つまり現実を受け入れることに期待をかけた。確信できなかったが結果はそうなった。微笑は自身を嘲笑しているととることもできると語っている。

    

          フィナーレの変更は検閲者の怪我の功名?

 

B: あれこれ分析しても仕方がない。ドン・ハイメと監督、ホルヘと監督、それぞれ好みや性格が一脈通じている。最後に総局長ムニョス・フォンタンが書き直させたフィナーレのトランプ遊びの部分、元はどうだったのか。

A: 最初は「ビリディアナがホルヘの部屋のドアをノックする。ホルヘが出てきてビリディアナが入るとドアを閉める」だけだった。製作者のポルタベリャが語るところによると、撮影に入る前にムニョス・フォンタンから私たちは大臣室に呼び出された。「他は問題ないんだが、この最後の部分が気に入らない――しばし沈黙の後――そうだ、3人にしたらどうだろう」と。私とブニュエルは当惑して顔を見合わせた。するとブニュエルが、即座に「いいでしょう、とてもいいアイディアです」と。

B: 3人になったのは、総局長のアイディアだった?

 

        

  (トランプをしながら互いに真意を探り合う、ホルヘ、ビリディアナ、ラモナの3人)

 

A: 大臣室を辞したエレベーターの中ではみんな笑いが止まらなかったという。「ルイスは『三角関係にするなんて、実に素晴らしい』と言い続けた」とポルタベリャは経緯を説明している。

B: ホルヘ、ビリディアナ、ラモナの3人がトランプ遊びをしているシーンは検閲のお蔭だった。

A: 検閲前より深みができて、観客の想像力を刺激することになった。この三角関係は大ヒット作になったビリー・ワイルダーの『アパートの鍵貸します』(60)へのオマージュでもあったそうです。

 

インタビュー『ルイス・ブニュエル 公開禁止令』(LUIS BUÑEL Prohibido Asomarse Al Interior 1986)、インタビュアー:トマス・ぺレス・トレント(メキシコのシネアスト)、ホセ・デ・ラ・コリーナ(スペインの脚本家、雑誌編集者)。翻訳書は1990年刊行。