バルガス=リョサvsガルシア・マルケス*40年間の沈黙を破る2017年07月20日 14:14

             ガルシア・マルケスとの親密な友情関係の始まり、1967

 

★毎年恒例となっているマドリード・コンプルテンセ大学の夏期講座が、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリア市で始まった。世界各地から受講者を集めるスペインでも有数の夏期講座です。ペルーのノーベル賞作家マリオ・バルガス=リョサ(1936)は本講座のプログラム編成をしています。この度コロンビアのエッセイスト、カルロス・グラネスをインタビューアーに迎えて、作家本人が対談形式でガルシア・マルケス(1927-2014)についての講義を行いました。しかしこの授業の目玉の一つは、1967年に始まったガルシア・マルケスとの幸せだった10年間が、1976年いかにして決裂するに至ったかだったにもかかわらず、新たなデータを掘り起こすまでには至らなかった印象です。結局、謎は謎のまま、コロンビアの作家同様、ペルーの作家も秘密を墓場まで持って行くつもりのようです。

 

 

 (バルガス=リョサとカルロス・グラネス、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリア、75日)

 

★後にノーベル賞作家となる二人にとって、1967はカラカスの飛行場で初めて顔を合わせて以来、10年間続く幸せの友情が始まった年でした。またガルシア・マルケスにとっては友人から可能な限りの借金をし、家財道具まで売り払って家族に極貧を強いて完成させた『百年の孤独』が、530日に刊行された年でもありました。どうしてカラカスだったのかと言えば、ペルーの作家の『緑の家』が第1ロムロ・ガジェゴス賞を受賞し、コロンビアの作家がそのプレゼンターだったからです。ベネズエラの小説家で政治家でもあったガジェゴスを記念してベネズエラ政府によって創設された文学賞(スペイン語で書かれた作品を5年ごと1作選ぶ)。1972年、第2回目の受賞作品はマコンドの作家の『百年の孤独』でした。

 

 

 

★バルガス=リョサ VL によると、ガルシア・マルケス GM の『大佐に手紙は来ない』(1961年、コロンビア刊)が自分のところにやってきたのは前年の1966年だったという。当時フランス・ラジオ・テレビジョンでラテンアメリカの新刊紹介のような番組を担当していた。本作の翻訳書がパリに現れたのが1966年だったというわけです。厳正なリアリズムと老大佐の明快な描写がとても気に入った。そしてガルシア・マルケスという作者に是非とも会いたいと思うようになった。それから二人の間で熱心な手紙のやり取りが始まり、実際に会う前に既に二人は友人関係を築いており、カラカスを去るころには大の親友になっていたという。

 

★対談にありがちなことだが、会話はあっち飛びこっち飛びしたようだが、例えばカミュ、サルトル、トルストイ、ドストエフスキー、フォークナーやヴァージニア・ウルフの影響など、すでに多くのことは書かれていることですが、VL によると、ウルフの影響が大きいことをよく口にしていたという。カミュは別としてサルトルのようなフランス実存主義の作品は読んでいなくて、どちらかというと英国系の文学をより好んで読んでいたという。これもまた周知のことでしょうか。ごく個人的な二人の共通点、それは母方の祖父母に育てられ、それぞれ両親とは確執があり対立関係にあったこと、二人が若かった時代には、今日のラテンアメリカとは違って文化的連帯が存在しなかったこと、ボゴタやリマでは不可能な何かを求めてヨーロッパに向かったこと、これまた周知のことであり、受講生の多くが期待したテーマは、どうしてこの親密な友情関係が壊れたかということだったに違いありません。

 

       ガルシア・マルケスとの決裂――キューバと「パディーリャ事件」

 

1971のキューバ、ラテンアメリカの<ブーム>の作家たちを政治的に分断した「パディーリャ事件」が起こった。320日、詩人エベルト・パディーリャは妻で詩人のベルキス・クサ= マレと一緒に逮捕された。理由は一言でいえば革命に害悪をもたらす反革命的な作家ということです。妻は2日後に釈放されたが、エベルトは38日間拘留され、427日にキューバ作家芸術家連盟 UNEAC のホールに集められたメンバーを前に「自己批判文」を読まされるという拷問の末、解放された。この吐き気を催す自己批判文には、反革命的な態度をとる彼の友人作家たちの華麗なリストが含まれていた。すなわち妻ベルキス・クサ=マレ、レサマ=リマ、ビルヒリオ・ピニェラ、セサル・ロペス、ディアス=マルティネス、ノルベルト・フエンテス・・・レサマ=リマのように欠席した人は難を逃れることができたが、名指しされた人々は恐怖にひきつって各自マイクの前で釈明しなければならなかった。冷戦時代のハリウッドを吹き荒れた「赤狩り」を想起させ、パディーリャにエリア・カザンが重なった。

 

(エベルト・パディーリャ)

 

★パディーリャの逮捕の報は、革命を支持していた当時の知識人たちに激震が走った。パリに住んでいたフリオ・コルタサルが自宅にフアン・ゴイティソロを呼んで、後に「フィデル・カストロへの最初の書簡」となる抗議文を作成した。賛同して署名した数は54名に達し、その中にはジャン・ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、マルグリット・デュラス、カルロス・フエンテス、オクダビオ・パス、フアン・ルルフォ、スーザン・ソンタグ、アルベルト・モラヴィア、勿論バルガス=リョサやコロンビアのジャーナリストで親友プリニオ・アプレヨ=メンドサも署名した。


★ただはっきりしないのがガルシア・マルケスであった。彼はパディーリャ逮捕を知ると、当時住んでいたバルセロナを急いで離れ、連絡の取れないカリブのどこかへ雲隠れしてしまった。そこで同じバルセロナにいたアプレヨ=メンドサが自分が責任を取ると言って友人の名前を書き加えたのである。当然マコンドの作家は署名しなかったと言い張り、コロンビアのジャーナリストは作家を庇い、他のものは署名したがフィデルの反応を見て撤回した、と真相は闇に紛れてしまった。当のプリニオにとってさえ謎なのである。

 

    

 (ガルシア・マルケス、バルガス=リョサ、フリオ・コルタサル、事件が起きる前の1971年)

 

★以上が大体のいきさつであるが、VLの証言はこの内容と若干ずれるようだ。「パディーリャが CIA のスパイだと告発され逮捕されたとき、バルセロナの私の家にフアンとルイス・ゴイティソロ兄弟、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーなどが集まり、抗議の書簡を練った。この書簡には多くの知識人が署名した。プリニオがガルシア・マルケスの名前も入れるべきだと言ったが、私たちは本人に相談してからだとコメントした。当時彼の所在は全く不明で確認を取ることができなかったのだ。しかしプリニオが署名すると決断した。これが私が知ってることです。ガルシア・マルケスは激しくプリニオに抗議した。自己批判文の後、パディーリャが解放された後の54日に書かれた抗議文「第二の公開書簡」には、ガルシア・マルケスは署名しなかった」と語った。

 

★多分、バルセロナ在住のバルガス=リョサたちが作成した草案をフアン・ゴイティソロがパリのコルタサルのところに運び込み完成させたということかもしれない。他にもう一人署名しなかったのが、キューバ革命の熱心な擁護者だった当のコルタサルである。世界を歩き回る作家として有名な彼は、1981年にキューバ、ニカラグア、プエルトリコ歴訪計画を中止したが、死の前年の1983年に知識人常任委員会 Comité Permanente de Intelectuales の会議出席のためハバナを訪れている。

 

★ペルーの作家によると、「この事件を境に私たちの間に壁ができた。当時私は革命を熱烈に支持していたが、彼はそれほどではなく、それに関しては常に慎重だった。友人のプリニオ・アプレヨと一緒にプレンサ・ラティノで働いていたとき、既に共産党によって排除されていたからだ」。「慎重だったのにフィデル・カストロとのツーショット写真に納まるようになったのは、彼に何が起こったのでしょうか?」との質問には、「分からない。彼の生き方は実に現実的で、反キューバより親キューバのほうが自分に有利だと判断したからだと思う」と。もはや立ち位置をキューバ革命賛美に変えた彼を党が再び粛正する心配はなく、ガルシア・マルケスは最期を迎えるまでフィデルとの親密な関係を保ちつづけた。(写真下は権力で結びついていた、コミュニストでなくフィデリストだった二人)

  

 (1982年)

   

 

    

★「パディーリャ事件のあと彼とは音信不通だったから、彼に何が起こったかは正確には知らない。プリニオの意見では、彼はキューバが悪い方向に進んでいることは分かっていたが、将来的にはラテンアメリカは団結するという考えをもっていた」という。「ガルシア・マルケスは権力をもつ人間に非常に魅了されており、それは文学に止まらず人生にも不可欠なものだった。いい意味でも悪い意味でも同じく、権力があらゆることを可能にしてくれると考えていた。魅力的で活力のある権力者、例えばメキシコの麻薬王エル・チャポ(ホアキン・グスマン)やパブロ・エスコバルのような人物を主人公に創作したいと考えていた。またフィデル・カストロやトリホス(パナマの最高司令官オマル・トリホス、軍事政権を率いた)のような政治家の完全な虜だった」と、『ヤギの祝宴』の作家は断言した。そう言えばコルタサルも1979年にオマル・トリホスに会いに当時の妻キャロル・ダンロップとパナマを訪れている。

 

★フアン・ルルフォやアレホ・カルペンティエル、マルケス自身のような作家たちは、「醜悪さ」の美やラテンアメリカの「後進性」を引き出す術に長けていた。「ラテンアメリカ出身の作家たちが想像力豊かな文学を生み出したのは幸運だったということですか」と尋ねられると、「分からないけど、私たちの大陸は優れた文学を生み出すのにいいところだよ。いやいや、そうじゃない。どこの国もそこに相応しい文学があるよ」と訂正した。

 

★バルガス=リョサのガルシア・マルケス殴打事件は1976212日、メキシコ国立芸術院(ベジャス・アルテス宮殿)で起きた。先述したようにその理由は語られることはなかった。いろいろ噂が飛び交っているが、多分それが事実に近いのではないか。互いに不名誉なことだから沈黙は金なのだ。完全に決裂した後でも『百年の孤独』以下の文学的価値は変わらないとも語った。

  

    

            (左目に大きな痣ができてしまったガボ、1976年)

 

「彼の訃報を知ってどう受け止めましたか」の質問には、「寂しかった。コルタサルやカルロス・フエンテスのときと同じように、一つの時代が終わったと感じた。彼らは大作家というだけでなく親友だったからね。ラテンアメリカ文学の存在を世界に知らしめた世代です。直ぐにこの世代の最後の一人が自分だと思って、少し悲しかった」と。

 

  

 (新婚ホヤホヤのバルガス=リョサと新夫人イサベル・プレイスラー、2016年ゴヤ賞ガラで)


プリニオ・アプレヨ・メンドサの紹介記事は、コチラ⇒2016年3月27日

ガルシア=マルケスのドキュメンタリー*”Gabo:la creación de Gabriel García Márquez”2016年03月27日 15:08

                    マコンドの黄色い列車に乗って

 

Gabola creación de Gabriel García Marquezは、イギリスの監督ジャスティン・ウエブスタードキュメンタリーですが、言語はスペイン語です。監督はスペイン語が流暢、前作I will Be Murdered2013Seré asesinado”)もグアテマラの弁護士暗殺事件をテーマにしたドキュメンタリー、各地の国際映画祭で受賞しています。“Gabo”はガウディ賞2016にノミネーションされましたが受賞ならず記事を見送りました。しかし毎年誕生月の3月になると何かしら記事が目につき、今年の命日(417日)は、日本流に言うと3回忌にあたるのでご紹介することに。作家本人の登場は少ないようですが、監督によると「今まで彼のドキュメンタリーはなかった。それはインタビュー嫌いだったからだ」そうです2014年の死去に際しては当ブログでも「ガボと映画」に関する記事を中心に幾つかアップしております。

 

皆無というわけではなく、「本格的な」ドキュメンタリー映画という意味に解釈したい。作家の80歳の誕生を祝して製作された、ルイス・フェルナンドのBuscando a Gabo2007、コロンビアTV52分)が、翌2008年に『ガボを探し求めて』の邦題で上映されました(セルバンテス文化センター)。他にも『百年の孤独』に関連したシュテファン・シェヴィーテルトの“El Acordeón del Diablo”(2001、スイス=コロンビア=ドイツ合作)が『惡魔のアコーディオン』の邦題でテレビ放映されている。シェヴィーテルトは音楽ドキュメンタリー『キング・オブ・クレズマー』が公開されている監督。

「ガボと映画」に関する記事は、コチラ⇒2014123日・427日・429

 

    

   

  Gabola creación de Gabriel García Márquez 2015

(“GaboThe Creation of Gabriel García Márquez”、Gabola magia de lo real”他

製作:JWProductions / CanalEspaña / Caracol(コロンビアTV)他

監督・脚本:ジャスティン・ウエブスター

データ:製作国西=英=コロンビア=仏=米、スペイン語、2015年、ドキュメンタリー、伝記、90分、公開コロンビア20153月、スペイン2015417日(1周忌)、マドリード限定(TV放映)423日、バルセロナ1219日、米国独立系の映画館で20163月、ドイツ、フランス、イタリアではテレビ放映予定、他

映画祭・ノミネーション:カルタヘナ・デ・インディアス映画祭2015313日、ニューヨークのコロンビア映画祭、シカゴのラテン映画祭、ガウディ賞2016ドキュメンタリー部門ノミネーション、他

 

キャスト:フアン・ガブリエル・バスケス(作家)、アイーダ(妹1930生れ)、ハイメ(弟1941生れ)、ヘラルド・マルティン(ガボの伝記作家)、プリニオ・アプレヨ=メンドサ(親友のジャーナリスト)、セサル・ガビリア・トルヒーリョ(元コロンビア大統領)、ビル・クリントン(元合衆国大統領)、ジョン・リー・アンダーソン(ジャーナリスト)、タチア・キンタナル(元恋人)、他 

  

                    (『百年の孤独』を頭にのせた有名なフォト)

 

       複雑に錯綜するポリフォニックな声をどこまで拾えたか?

 

「メキシコに行くつもりだよ」と親友プリニオ・アプレヨ=メンドサ**に語って、まだノーベル賞作家ではなかった1961年に妻メルセデスと長男ロドリゴを伴ってコロンビアを去った。到着したメキシコのメディアは、ノーベル賞作家ヘミングウェイのショットガン自殺(72日)を盛んに報じていたという。出演してくれた彼の妹弟が兄への愛を語るのは当然だが、「有名な作家だから賞賛しなければならないと考えた人々には出会わなかった」と監督。妹アイーダ弟ハイメの二人は、大変な読書好きだった母親について語っている。しかし作家が大きな影響を受けたのは彼の幼少期に母親代りだった母方の祖母、つまり『大佐に手紙は来ない』に出てくる大佐夫人だった。アイーダとハイメは『予告された殺人の記録』に実名で登場している。

 

     

            (マルケス一家、妻メルセデス、ガボ、次男ゴンサロ、長男ロドリゴ)

 

**プリニオ・アプレヨ=メンドサは、1957年に共産諸国(ポーランド、チェコスロバキア、ソ連、東ドイツ、ハンガリー)を巡る旅を一緒にしたコロンビア人のジャーナリスト。しかし1971年の「パディーリャ事件」での意見の相違から袂を分かつ。彼についてはアンヘル・エステバン&ステファニー・パニヂェリのGabo y Fidel2004『絆と権力 ガルシア=マルケスとカストロ』新潮社、2010、野谷文昭訳)に詳しい。ウィキペディアからは見えてこない作家の一面が分かる推薦図書の一つ。あくまでもIMDbによる情報ですが、残念ながら二人の著者はキャスト欄にクレジットされていない。複雑に錯綜するポリフォニックな声をどこまで拾えたかが本作の評価を左右すると思います。       

 

  

   (前列左から2人目ブニュエル、一人おいた眼鏡がガボ、1965年アカプルコにて)

 

本作の語り手にコロンビアの作家フアン・ガブリエル・バスケス1973ボゴタ)を起用している。ロサリオ大学で法学を専攻、1996年フランスに渡り、1999年パリ大学ソルボンヌでラテンアメリカ文学の博士号取得、1年ほどベルギーに滞在した。その後バルセロナに移り2012年まで在住、現在はボゴタに戻っている。彼のEl ruido de las cosas al caer2011)が最近『物が落ちる音』(松籟社、20161月、柳原孝敦訳)の邦題で刊行されたばかり、推薦図書として合わせてご紹介しておきます。コロンビアと米国の麻薬戦争を巡るドキュメンタリー風の小説、2011年のアルファグエラ賞受賞作品。

 

 

            (アルファグエラ賞授賞式でスピーチをするバスケス、2011

 

タチア・キンタナル(本名コンセプシオン・キンタナル)は、1929年バスク自治州ギプスコア生れの女優、詩人(タチアTachiaは渾名、コンセプシオンの愛称コンチータCon­-chi-taのシラブルを入れ替えたもの)。フランコ独裁政権下では仕事ができず1953年フランスに亡命、1956年パリでガルシア=マルケスと知り合う。二人とも厳しい経済的困窮を抱えていた時代、あたかも後に書かれることになる『大佐に手紙は来ない』の大佐夫婦のような生活だったらしい(彼女は82歳になった2010年師走にアラカタカを初訪問している)。二人の熱烈な関係は1年とも数年とも言われている。作家がメルセデス・バルチャと結婚するのは1958年です。キンタナルも1950年に出会ったビルバオの詩人ブラス・デ・オテロ(191679)と親密な恋人関係を詩人の死まで維持していた。詩人はタチアの名付け親でもある。

 

  
     (「アディオス、ガボ」と作家の好きな黄色い花束を手にしたタチア・キンタナル)

 

★キンタナルには左耳の聴覚障害があり、映画化もされた『コレラの時代の愛』のヒロイン、フェルミーナ・ダーサを同じ聴覚障害者にしたのは、作家の元恋人への目配せだというわけです。この小説のモデルは作家の両親というのが通説ですが(本人が述べているようだ)、「私の両親は結婚しています。この小説は、アカプルコで毎年逢瀬を愉しんでいた80代のカップルを、あるとき船頭がオールで殴り殺してしまった結果事件となり、二人の秘密が白日の下になってしまった。二人はそれぞれ別の人と結婚していたからだ、という新聞記事にインスピレーションを得て書かれた」とも語っています。キンタナルも結婚してミュージシャンの息子がいる。両親は主人公フロレンティーノ・アリーサのように「519ヶ月と4日」も待たなかったというわけです。ウソとマコトを織り交ぜて話すのが大好きな作家の言うことですから、信じる信じないはご自由です。

 

ジャスティン・ウエブスターのキャリア&フィルモグラフィー

★イギリス出身の監督、脚本家、製作者、ノンフィクション・ライター、ジャーナリスト。ケンブリッジ大学で古典文学を専攻、1990年代はロンドンでジャーナリストとして働いた後、バルセロナに移り写真術を学びながらフリーランサーのレポーターの仕事をする。1996年製作会社JWProductionsを設立、現在はバルセロナを拠点にして映画製作に携わっている。本作の企画は「ほぼ10年前から温めていたが、具体的に始動したのは作家が死去する数ヶ月前のことで、亡くなったことで危機が訪れた」と監督。作家の熱烈なファンであったウエブスターにとって『百年の孤独』の作家の人生を語ることは難しく、結局予定より1年半遅れて完成。しかし、この映画を作ることで「今までと違った作家像にも出会った。例えば意外に内気で、若い頃に暮らしていたバルセロナ時代は無口で、親しい友人たちの付き合いを好んでいた」とも語っている。反面ノーベル賞受賞には執念をもやし、推薦者への根回しを怠らなかったいう話は有名です。

 

      

                        (最近のジャスティン・ウエブスター監督

 

ウエブスターが国際舞台に躍り出たのは、冒頭で触れたドキュメンタリー第1I Will Be Murdered2013Seré asesinado”、デンマーク、英、西、グアテマラ合作)だった。グアテマラの政財界に激震を走らせた「ロドリゴ・ローゼンバーグ暗殺事件」をテーマにしたドキュメンタリー、各地の映画祭に招かれそれぞれ受賞も果たした***ローゼンバーグはグアテマラのエリート弁護士、2009510の日曜の朝、サイクリング途中に或る者から差し向けられたヒットマンによって暗殺された(享年48歳の若さだった)。グアテマラ内戦(196096)の平和条約の調印がなされた後も和平合意は実現されておらず、当時の殺人件数6000人以上、誘拐件数400人以上というグアテマラでも大事件だった。それに拍車をかけるように弁護士が2日前に撮ったというビデオテープが公開されたことから国家の危機を引き起こす暗殺事件に発展した。

 

 

            

                  (政権を告発するロドリゴ・ローゼンバーグと殺害現場)

 

★ロドリゴ・ローゼンバーグの死後2日後に公開されたビデオは、「自分が殺害された場合の首謀者は、アルバロ・コロン大統領私設秘書官グスタボ・アレホスであり、大統領夫妻も私の殺害を了承していた」という衝撃的な内容だった。ローゼンバーグは国家資金を運用しているグアテマラ農村開発銀行の執行委員を務めていた企業家とその娘の殺害事件の調査に関与していた。彼は起業家が違法取引の隠蔽工作の協力を断ったために殺害されたと政権を告発した。 

 

 

         (高い評価を受けた“I will Be Murdered”のポスター)

 

***受賞歴:サンパウロ映画祭2013ドキュメンタリー部門審査員賞・栄誉メンション、ウィチタ映画祭2013ベスト・フューチャー・ドキュメンタリー賞、ハバナ映画祭2013ラテンアメリカ以外の監督部門サンゴ賞、グアナファト映画祭作品賞、カルタヘナ映画祭2014監督賞、バルセロナPro-Docs2014ベスト・ドキュメンタリー賞、その他、シカゴ映画祭2013正式出品、ガウディ賞2015ノミネーションなど多数。



グアダラハラ映画祭2016*ロベルト・スネイデルの新作2016年03月22日 13:37

        『命を燃やして』の監督作品“Me estás matando, Susana

 

グアダラハラ映画祭2016に出品されたコメディMe estás matando, Susana、次のゴールデン・グローブ賞の候補になったので前回ほんの少しだけ記事にいたしました。ロベルト・スネイデル監督は当ブログ初登場ですが、アンヘレス・マストレッタのベストセラー小説の映画化Arráncame la vidaがラテンビート2009『命を燃やして』2008)の邦題で上映された折り来日しています。新作は約30年前に刊行されたホセ・アグスティンの小説Ciudades desiertas1982)に触発され、タイトルを変更して製作された。ランダムハウス社が映画公開に合わせて再刊しようとしていることについて、「タイトルを変えたのに、どうしてなのか分からない。出版社がどういう形態で出すか決まっていない」とスネイデル監督。製作発表時の2013年には原題のままでしたので、混乱することなく相乗作用を発揮できるのではないか。原作者にしてみれば大いに歓迎したいことでもある。刊行当時から映画化したかったが、他の製作会社が権利を持っていてできなかった。「そこが手放したので今回可能になった」とグアダラハラFFで語っている。 

    

       

            (Me estás matando, Susana”のポスター)

 

     Me estás matando, Susana2016(“Deserted Cities”)

製作:Cuévano Films / La Banda Films

監督・脚本・製作:ロベルト・スネイデル

脚本(共同):ルイス・カマラ、原作:ホセ・アグスティン“Ciudades desiertas

音楽:ビクトル・エルナンデス

撮影:アントニオ・カルバチェ

編集:アレスカ・フェレーロ

製作者:エリザベス・ハルビス、ダビ・フィリップ・メディナ

データ:メキシコ=スペイン=ブラジル=カナダ合作、スペイン語、2016年、102分、ブラック・コメディ、ジェンダー、マチスモ、フェミニズム。グアダラハラ映画祭2016コンペティション正式出品、公開メキシコ201655

 

キャスト:ガエル・ガルシア・ベルナル(エリヒオ)、ベロニカ・エチェギ(スサナ)、Jadyn・ウォン(アルタグラシア)、ダニエル・ヒメネス・カチョ(編集者)、イルセ・サラス(アンドレア)、アシュリー・ヒンショウ(イレーネ)、アンドレス・アルメイダ(アドリアン)、アダム・Hurtig 他

 

解説:カリスマ的な俳優エリヒオと前途有望な作家スサナは夫婦の危機を迎えていた。ある朝のこと、エリヒオが目覚めると妻のスサナが忽然と消えていた。スサナは自由に執筆できる時間が欲しかったし、夫との関係をこれ以上続けることにも疑問を感じ始めていた。一方、自分が捨てられたことを知ったマッチョなエリヒオは、妻が奨学金を貰って米国アイオワ州の町で若い作家向けのプログラムに参加していることを突き止めた。やがてエリヒオも人生の愛を回復させようとグリンゴの国を目指して北に出発する。

 

ロベルト・スネイデルのキャリアとフィルモグラフィー

ロベルト・スネイデルRobberto Sneider1962年メキシコ・シティ生れ、監督、製作者、脚本家。フロリダの大学進学予備校で学んだ後のち帰国、イベロアメリカ大学でコミュニケーション科学を専攻、後アメリカン・フィルム・インスティテュートで学ぶ。1980年代は主にドキュメンタリーを撮っていた。21年前の1995年、Dos crimenesで長編映画デビュー、メキシコのアカデミー賞アリエル賞新人監督賞を受賞した。ホルヘ・イバルグェンゴイティアの同名小説の映画化、ダミアン・アルカサル主演、ホセ・カルロス・ルイス、ペドロ・アルメンダリス、ドロレス・エレンディアなどが共演した話題作。第2作目Arrancame la vida08『命を燃やして』)、第3作目が本作である。

 

 

      (ロベルト・スネイデル監督)

 

20年間に3本という寡作な監督だが、1999年に製作会社「La Banda Films」を設立、プロデューサーの仕事は多数。日本でも公開されたジュリー・テイモアの『フリーダ』02、英語)の製作を手がけている。製作者を兼ねたサルマ・ハエックの執念が実ったフリーダだった。画家リベラにアルフレッド・モリーナ、メキシコに亡命していたトロツキーにジェフリー・ラッシュ、画家シケイロスにアントニオ・バンデラスが扮するなどの豪華版だった。

 

       

             (サルマ・ハエックの『フリーダ』から)

 

         マッチョな男の「感情教育」メキシコ編

 

ホセ・アグスティンの原作を「メキシコで女性の社会的自由を称揚したアンチマチスモの最初の小説」と評したのは、スペイン語圏でもっとも権威のある文学賞の一つセルバンテス賞受賞者のエレナ・ポニアトウスカだった。原作の主人公はスサナだったが、映画では焦点をエリヒオに変えている。スネイデルはエリヒオの人格も小説より少し軽めにしたと語っている。何しろ30年以上前の小説だからメキシコも米国も状況の変化が著しい。合法的にしろ不法にしろメキシコ人の米国移住は増え続けているし、男と女の関係も変化している。原作者もそのことをよく理解していて、「映画化を許可したら、どのように料理されてもクレームは付けない。小説と映画は別の芸術だから」、「既に監督と一緒に鑑賞したが、とても満足している。メキシコ・シティで公開されたら映画館で観たい」とも語っている。

 

 

                 (原作のポスター)

 

★ボヘミアンのマッチョなメキシコ男性に扮したガエル・ガルシア・ベルナル、メキシコでの長編劇映画の撮影は、なんと2008年のカルロス・キュアロンの『ルドandクルシ』(監督)以来とか。確かに英語映画が多いし、当ブログ紹介の『NO』(パブロ・ラライン)はチリ映画、『ザ・タイガー救世主伝説』(“Ardor”パブロ・ヘンドリック)はアルゼンチン映画、ミシオネス州の熱帯雨林が撮影地だった。堪能な英語のほかフランス語、ポルトガル語もまあまあできるから海外からのオファーが多くなるのも当然です。米国のTVコメディ・シリーズMozart in the Jungle”出演でゴールデン・グローブ賞主演男優賞を受賞したばかりです。スネイデル監督は、「私だけでなく他の監督も語っていることだが、ガエルの上手さには驚いている。単に求められたことを満たすだけでは満足せず、役柄を可能な限り深く掘り下げている」と感心している。物語の中心をエリヒオに変えた一因かもしれない。どうやらマッチョなメキシコ男の「感情教育」が語られるようです。

 

★スサナ役のベロニカ・エチェギ:日本ではガエルほどメジャーでないのでご紹介すると、1983年マドリード生れ。日本公開作品はスペインを舞台に繰り広げられるアメリカ映画『シャドー・チェイサー』(2012)だけでしょうか。スペイン語映画ではビガス・ルナの『女が男を捨てるとき』(06Yo soy la Juani”)、アントニオ・エルナンデス『誰かが見ている』(07El menor de los males”)、エドゥアルド・チャペロ=ジャクソン『アナザーワールド VERVO』(11Verbo”)などがDVD発売になっています。Yo soy la Juaniでゴヤ賞新人女優賞の候補になって一躍注目を集めた。今は亡きビガス・ルナに可愛がられた女優の一人です。邦題を『女が男を捨てるとき』と刺激的にしたのは、如何にも売らんかな主義です。イシアル・ボリャインのKatmandú, un espejo en el cielo12)でゴヤ賞主演女優賞にノミネートされた。実話を映画化したもので、カトマンズで行われた撮影は過酷なもので、実際怪我もしたと語っている。きちんと自己主張できるスサナのような役柄にはぴったりかもしれない。

 

     

       (ベロニカ・エチェギとガエル・ガルシア・ベルナル、映画から)

 

★このようなロマンチック・コメディで重要なのは脇役陣、メキシコを代表する大物役者ダニエル・ヒメネス・カチョを筆頭に、イルセ・サラス(アロンソ・ルイスパラシオスの『グエロス』)、アシュリー・ヒンショウSF映画『クロニクル』)、カナダのホラー映画『デバッグ』出演のJadyn・ウォンなど国際色も豊かである。かなり先の話になりますが、例年10月開催のラテンビートを期待したいところです。

  

パウラ・オルティス”La novia”*ゴヤ賞2016ノミネーション ④2016年01月05日 16:10

        最多の12個ノミネーションはサプライズではない?

 

★ワールド・プレミアしたサンセバスチャン映画祭であまり話題にならなかったのは、コンペティションではなく「サバルテギ」上映だったせいもある。前にも触れたがバスク語の「サバルテギ」は「自由」という意味で、このセクションには30作くらいの、それこそジャンルを問わない国際色豊かな良作が集められている。かつてハネケの『愛、アムール』、ララインの『NO』などがこのセクションで上映された。しかし話題性はコンペにかなわない。本作はフェロス賞選考あたりから急に脚光を浴びるようになった印象を受けたが、実は「コンペに選ばれなかった理由を誰も説明してくれない」と、当初から不満の声が上がっていたらしい。12個ノミネーションは不思議ではないということです。ゴヤ賞ノミネーション発表に花婿役のアシエル・エチェアンディアを抜擢したのも意図的というわけです。

 

               (“La novia”のポスター)

 

  La novia(“The Bride”)2015

製作:Get In The Picture Productions / Mantar Films / TVE、協賛ICAA

監督・脚色:パウラ・オルティス

脚色(共同)ハビエル・ガルシア・アレドンド

音楽:シゲル・ウメバヤシ(梅林茂)、ドミニク・ジョンソン(バックグラウンド音楽)

撮影:ミゲル・アンヘル・アモエド

編集:ハビエル・ガルシア

美術:ヘスス・ボスケ・マテピラール・キンタナ

衣装デザイン:アランチャ・エスケーロ

メイクアップ・ヘアー:エステル・ギジェムピラール・ギジェム

プロダクション・マネージメント:ミゲル・アンヘル・ゴメス、マリアノ・リウスキィ

録音:ナチョ・アレナスセサル・モリナ

プロデューサー:アレックス・ラフエンテ、ロサナ・トーマス 

 

データ:製作国スペイン=トルコ=ドイツ、スペイン語、2015年,100分、配給BettaPictures、撮影地:カッパドキア(トルコ)、アラゴン州のサラゴサ及びロス・モネグロス、マドリード限定上映、スペイン公開1211

映画祭・映画賞ノミネーション:サンセバスチャン映画祭2015,シッチェス映画祭2016、他上映。ゴヤ賞12カテゴリー、フェロス賞9カテゴリー

 

キャストインマ・クエスタ(花嫁・主演)、アシエル・エチェアンディア(花婿・主演)、ルイサ・ガバサ(花婿の母・助演)、アレックス・ガルシア(レオナルド・新人)、レティシア・ドレラ(レオナルド妻)、カルロス・アルバレス=ノボア(花嫁の父)、コンスエロ・トルヒージョ(花嫁の家の女中)アナ・フェルナンデス(隣人)、マリア・アルフォンサ・ロッソ(女物乞い)、マリアナ・コルデロ(姑)、ホルヘ・ウソン、他

ゴチック体はゴヤ賞にノミネーションされたもの。

 

   

     (婚礼の日、オレンジの花冠を被った花嫁インマ・クエスタ、映画から)

 

解説19333月に初演されたガルシア・ロルカの戯曲『血の婚礼』(“Bodas de sangre”)を土台に、自由にアレンジして映画化された作品。5年ほど前にアルメリア県で実際に起きた「ニハル事件」にヒントを得て書かれた戯曲。一人の女を二人の男が奪い合う「愛の三角関係」、片方には妻と赤子もいるから四角関係ともいえる。二人の男が死ぬのはニハル事件と同じだが、死に方は異なる。つまりテーマは挫折した愛と死、ロルカ劇として初めて大成功を収め、詩人も念願の経済的自立を確信した作品。現在でも舞台での再演、映画化、TVドラマ化と人気が高い。本作以外にもロルカの多くの作品に現れるは悲劇的な死のシンボル、強力な性欲のシンボルとしての、死と脅しを意味するナイフ、死を招く物乞い、純潔を意味するオレンジの花冠など、いずれにも登場している。原作は『血の婚礼』として翻訳書も出版されている(岩波文庫、牛島信明訳)。

 

          

                 (月と花嫁、映画から)

 

  

       (馬に跨ったアレックス・ガルシア扮するレオナルド、映画から)

 

トレビア

★ロルカ没後間もなくの1938年にアルゼンチンのエドムンド・ギブルグGuibourgがモノクロで映画化した。当時フランコを嫌ってスペインを出国、南米で仕事をしていたマルガリータ・シルグ(1988,バルセロナ)を「花婿の母」に迎えて撮った。主役は花嫁というより、アンダルシアに典型的な強すぎる「花婿の母」を演じたシルグに力点をおいている。それはロルカが意図したことでもあり、この母親像には詩人の母親が投影されている。レオナルド以外に名前がないのは象徴的といえます。シルグも結局1939年に亡命の道を選び、チリ、ウルグアイ、アルゼンチンなどで活躍、1969年モンテビデオで生涯を閉じました。スペインでは当然のことながら公開されることはなかったが、現在ではYouTubeで鑑賞できます。

 

★上記のアルゼンチン版は、フランコ没後の1977年、モロッコのSouheil Ben Barka がギリシャのイレーネ・パパスを起用してリメイクした。本作はカンヌ映画祭で上映されたが評価はイマイチだった。配給元は成功の確信はもてなかったが、スペインで公開したところ大衆に受け入れられ、カルト映画のカテゴリーにも影響を与えた。

 

★その4年後にカルロス・サウラが撮った『血の婚礼』(1981)は、1984年の「第1回スペイン映画祭」で上映され、翌年公開された。これはフラメンコ舞踊家のアントニオ・ガデス(レオナルド)とクリスティーナ・オジョス(花嫁)がフラメンコで舞台化した、そのリハーサル風景を中心に撮ったドキュメンタリー風ドラマ。サウラの「フラメンコ三部作」の第1作目。主役の二人はそれぞれ来日公演をしているフラメンコ界の大御所。他にも映画化、TVドラマ化されているのは、原作の魅力がアーチストを刺激するからだと思います。パウラ・オルティスがタイトルを変えて挑戦したのがLa noviaです。

 

  

    (アントニオ・ガデスとクリスティーナ・オジョス、サウラの『血の婚礼』から)

 

パウラ・オルティスPaula Ortiz1979年サラゴサ生れの監督、脚本家、製作者。またバルセロナ大学のGrado de Comunicacion Audiovisual やサラゴサのサンホルヘ大学で教鞭をとっている。2002年サラゴサ大学のスペイン哲学を卒業、2003年バルセロナ自治大学の映画テレビ表記法でマスター取得、その後文部教育省の奨学金を得て、サラゴサ大学の博士課程に在学しながら映画スタジオで仕事をした(200408)。2011年、サラゴサ大学の映画史家で小説家でもあるアグスティン・サンチェス・ビダルの指導のもと、「映画脚本―理論と実践の現前化」と題した博士論文で博士号を取得した。ニューヨーク大学で監督演出、UCLAで脚本技術などを学ぶ一方、ロスアンジェルスのスクリーンライター・エキスポなどに参加、両国で開催される脚本家会議でも活躍している。2010年、仲間のキケ・モラやラウル・ガルシア他と製作会社「Amapola Films」を設立した。ビガス・ルナ工房やスペイン女性シネアスト協会のメンバー、「欧州女性オーディオビジュアル・ネット」の副会長を務める、まさに八面六臂の活躍をしている。

 

   

      (才色兼備のパウラ・オルティス、デビュー作のポスターを背にして)

 

★長編デビュー作は人気のマリベル・ベルドゥを起用したDe tu ventana a la mía2011)、自身が設立したAmapola Films」が製作した。ゴヤ賞2012で新人監督賞と歌曲賞にノミネーション、ベルドゥも助演女優賞にノミネートされた。ほか、レティシア・ドレラがサンジョルディ女優賞、オルティスがバジャドリード映画祭の新人監督に贈られる「ピラール・ミロー賞」を受賞した。国際的には上海映画祭審査員スペシャル・メンション、トゥールーズ(スペイン)映画祭でミゲル・アンヘル・アモエドが撮影賞を受賞した。二人とも本作に参加している。

 

★花嫁役のインマ・クエスタ(主演女優賞)、花婿役のアシエル・エチェアンディア(主演男優賞)、レオナルド役のアレックス・ガルシア(新人男優賞)の三人は揃ってノミネーションを受けている。上記のレティシア・ドレラ(レオナルドの妻)は女優業のほか、今年マラガ映画祭で監督デビュー、そのRequisitos para ser una persona normalは、マラガ映画祭の新人脚本家賞(銀賞)を受賞、今回ゴヤ新人監督賞にもノミネートされた。混戦が予想されるカテゴリーの一つです。ドレラもオルティスに負けない才色兼備のシネアスト、新人監督賞の項で改めてご紹介したい。 

  

       (左から、A・エチェアンディア、I・クエスタ、A・ガルシア)

 

 

   (監督と主演を兼ねたデビュー作“Requisitos para ser una persona normalから

 

*関連記事・管理人覚え

ロルカの死をめぐる新資料の記事は、コチラ⇒2015911


ロルカの死をめぐる謎に新資料*マルタ・オソリオ2015年09月11日 22:20

          恐怖 miedo から謎 enigma へ―失われた鎖の輪を探す

 

★毎年命日の818日が近づくとフェデリコ・ガルシア・ロルカの周りが騒がしくなる。2012年にはロルカ最後のアマンテは、定説になっている「ラファエル・ロドリゲス・ラプンではない」というマヌエル・レイナのLos amores oscurosが出てサプライズがあった。今年は没後79周年、本当に「光陰矢の如し」です。スペインでもっとも有名な詩人の謎に満ちた死についての研究でタクトを振っているのが、ロルカと同郷のマルタ・オソリオです。最近新資料をもとにEl enigma de una muerte. Crónica comentada de la correspondencia entre Agustín Penón y Emilia Llanosという長いタイトルの研究書をコマレス社から刊行して話題になっています。直訳すると「ある死をめぐる謎:アグスティン・ペノンとエミリア・リャノスの往復書簡注釈記録」でしょうか(オソリオについては後述)。 


★オソリオは15年前に同社からMiedo, olvido y fantasía: Crónica de la investigación de Agustín Penón sobre Federico García Lorca(1955~1956)2000、直訳「恐怖、忘却と空想:ロルカについてのアグスティン・ペノンの調査記録」)を上梓しています。これはペノンの資料をもとに、闇の中に埋もれていた独裁者の犯罪に光を当てたものでしたが、新作はこれを補う内容をもつようです。結論としては、往復書簡から見えてきたのは、「証言者たちが、ロルカが銃殺された場所として指し示した墓穴から、遺体は他に移されていた」ということです。オソリオは一応これでロルカの死をめぐるテーマにけりが付いたので、これからは短編や物語の執筆に戻りたい、つまり決定版ということです。

 

アグスティン・ペノン19201976)という人は、バルセロナ生れだが、内戦時に家族と一緒にアメリカに亡命してアメリカ国籍を取った熱烈なロルカ信奉者。アメリカのパスポートで1955年スペインに入国、バルセロナで知り合った舞台演出家ウィリアム・レイトンと一緒にグラナダに滞在して、18カ月ほどロルカの死をめぐる聞き書き調査をした。レイトンはテレノベラのラジオ版脚本で得た資金を蓄えていた。クエーカー教徒で、内戦後のスペイン旅行に費やしていた。タイトルに1955~1956とあるのはペノンが調査した期間を示しています。しかし、当時のフランコ体制側からの監視の目は厳しく、ゲイの<アカ>をしつこく嗅ぎまわっている男は「ロシアのスパイか、アメリカCIAのメンバーに違いない」と圧力を掛けてきた。当時のグラナダは<恐怖>が支配していて、身の危険を感じたペノンは調査を打ち切って帰国した。収集した全資料はスーツケースに収められ、当時ペノンが暮らしていたニューヨークに運ばれ保管されていた。

 


     (左から、調査をするアグスティン・ペノンとウィリアム・レイトン)

 

★フランコ政権での出版は、取材相手に危険が及ぶことが考えられ時の来るのを待っていた。帰国後ペノンとレイトンは別の人生を歩いていたが、何か予感めいたものがあったのか、ペノンは「私にもしものことがあったらスーツケースを預かって欲しい」とレイトンに頼んでいた。1976年ペノンはコスタリカの首都サン・ホセに住んでいた両親に会いに行った先で突然の死に見舞われた。フランコ没後1年も経っていなかった。遺言通り資料はレイトンのもとに渡ったが出版されることもなく静かに眠っていた。レイトンは長生きして1995年に亡くなった。巡りめぐって資料は最終的にマルタ・オソリオの手に渡った。スーツケースの長い旅も詩人の死同様、数奇な運命を辿ったことになる。

 


                  (アグスティン・ペノン)

 

エミリア・リャノスは、ロルカの10歳年上の親しい友人でグラナダに住んでいた。家族同士の付き合いだった。1936714日、ロルカは故郷への最後の旅をした。720日グラナダ守備隊が蜂起、急激に事態が悪化して共和派関係者は一挙に検挙投獄された。ロルカにも危険が迫り避難先の候補の一つとして選ばれたのがリャノス家だった。結果的にはファランヘ党のリーダーだったロサレス兄弟の家に落着くのだが、兄弟の留守中に逮捕されてしまう。ペノンはこのルイス・ロサレス、ホセ・ロサレスのインタビューも行っている。

 

★ペノンが聞き書きをした中で特に親交を重ねた証言者がエミリア・リャノスで、彼が帰国した後も手紙のやり取りをしており、これが新作の資料になっている。リャノスは書簡で、最初は「オリーブの木の下に埋められ、その後そこから移されたのです」と書いている。秘密にしているのは「或る有力者」から口止めされているからだと。今ではその「或る有力者」が当時の極め付きのフランコ主義者、グラナダ市長ガジェゴ・ブリンだったことが分かっている(ペノンは息子アントニオ・ガジェゴにも取材している)。内戦後のグラナダは恐怖の坩堝で、<フェデリコ>は禁句だった。移された場所はどこか分からないが、ビスナルからアルファカルに行く道路沿いの何処かしか分かっていない。ビスナルというのはナショナリストたちが<好ましからざる>人物たちを処刑した場所です。「誰も何も知らないのです」とオソリオ、死後80年も経てば、生存者は殆どいない、何か新資料が出ない限り闇の中ということか。

 


         (ロルカが唯一愛した女性といわれるエミリア・リャノス)

 

マルタ・オソリオはグラナダ生れの作家、かつては舞台女優(196165)であった。1966年、児童図書El caballito que queria volar”で「ラサリーリョ賞」を受賞。日本では“Jinetes en caballos de palo”(1982)が『棒きれ木馬の騎手たち』(行路社)の邦題で翻訳されている。ロルカ研究者というより児童文学者として知られていると思います。生年が確認できてないのですが(調べ方が悪い)、「レアレホにある私の家から、フランコ主義者が思想家、文学者、自由主義者、先生たちを銃殺するのを見ないで過ごすことは難しかった」と語っているところから、人生の初めに内戦を体験した世代だと思います(レアレホはグラナダ市郊外、アルハンブラの近くの地区)。

 

★「ペノンが残した資料に導かれて、資料に敬意を払って」編纂した。「自分を黒子にして、自分の意見を加えることをしたくなかった」とも語っている。なかなか真似できない研究態度です。志を遂げることなく旅立ってしまったペノンへの哀悼の意が感じられる。オソリオは「家族が遺体を移した可能性もあるが」、「ロルカの墓穴が共和派の聖地になるのを恐れたフランコ主義者の命令で移された」と考えているようです。ペノンが公刊しなかった理由は一つでなく、いくつか考えられると話す。「彼は感受性豊かな人で、ロルカに関して生み出された沈黙と挫折の世界を暴くのを躊躇した」とオソリオ。ロルカの死に拘りつづけたペノンとリャノスは、真相を突き止めるのを諦めなかったようです。

 


      (マルタ・オソリオ、グラナダの自宅の庭で、2012年撮影)

 

★日本では翻訳書も出ているギブソン『ロルカ』が、日本語で読めるロルカの伝記として決定版だと思う。本書は評価も高くベストセラーにもなった。本書にもエミリア・リャノスは登場している。夥しい参考資料から分かるように力作には違いないが、今では間違いも指摘されている。特にロルカの晩年、死をめぐる記述には問題があるという。オソリオが第1作を上梓した理由もギブソンの「不完全」版を変えたかったからだと語っている。特にペノンの資料があることを知っていたのに無視したことを非難している。

 

イアン・ギブソン1939年ダブリン生まれ、フランコ時代の1965年に来西してグラナダに1年ほど取材して、『ロルカ・スペインの死』**を出版した。フランコ没後、より正確な伝記執筆を考え、1978年来西、グラナダにどっしり腰を下ろして、1984年にはスペイン国籍まで取得して完成させたのが『ロルカ』です。これにロルカ最後のアマンテとして度々登場するのがラファエル・ロドリゲス・ラプンです。

 


     (ロルカとラファエル・ロドリゲス・ラプン)

      

★しかしラプンではなく、実は「最後のアマンテは私です」というフアン・ラミレス・デ・ルカスの告白を載せた本が出版された。それが冒頭に書いたマヌエル・レイナのLos amores oscuros2012)です。1917年アルバセテ生れ、1934年にマドリードでロルカと出会ったとき未だ17歳だった。愛は詩人の死で終止符がうたれたが、彼は長生きして2010年に93歳で没した。無名の人ではなく、日刊紙「ABC」などに芸術コラムを執筆していた有名なジャーナリストだった。レイナは1974年カディス生れ、小説家、詩人、脚本家、戯曲家、一時期「ABC」紙のコラムニストだった。ギブソンを責められないが聞き書きという作業の落とし穴をみる思いです。

 


         (美青年だったというフアン・ラミレス・デ・ルカス

 

★ロルカの親しい友人たちは皆知っていたが、内戦が激しくなったうえ、ロルカが殺害されたことを考えると沈黙を守らざるを得なかった。ロルカからの「メキシコに一緒に亡命しよう」という内容の手紙があるようです。ロルカにはコロンビアとメキシコの両国から亡命の許可が下りていたから、亡命しようと思えばできたというのは最初から言われていたこと。何故メキシコ亡命を選ばず危険なグラナダに帰郷したかが謎だったはずです。デ・ルカスは亡命には親の承諾が必要な年齢だったので同行できない、ロルカは彼が一緒でなければ亡命したくない、ということなのでしょうか。ロルカは彼のために秘密を墓場まで持っていった。これは別テーマなので深入りしませんが、アグスティン・ペノンが後にフアン・ラミレス・デ・ルカスと会っているという事実です。ペノンが公刊しなかった理由の一つかもしれません。

 


     (Los amores oscuros のポスターを背にしたマヌエル・レイナ)

 

イアン・ギブソン『ロルカ』(中央公論社1997刊)
Federico García Lorca: A Life”(英語版、ロンドン19892部立てのスペイン語版を1冊にまとめたもの(11985年、21987年、バルセロナ)

**イアン・ギブソン『ロルカ・スペインの死』(晶文社1973年刊)、“La represión nacionalista de Granada en 1936 y la muerte de Federico García Lorca”(パリ、1971


パブロ・ララインの新作*ノーベル賞詩人ネルーダの伝記2015年07月30日 16:59

          共産主義者ネルーダの逃亡劇を映画化

 

★パブロ・ララインの新作は、その名もずばりネルーダ“Nerudaです。ベルリン映画祭2015El Club審査員賞グランプリを受賞したばかり。キャストは既にアナウンスされていましたが、この度撮影が開始されたようです。1971年ノーベル文学賞を受賞した詩人、作家、外交官、政治家といくつもの顔をもつチリではよく知られた存在、既にネルーダをテーマにした映画やTVドラは多数あります。なかでもマイケル・ラドフォードのイタリア映画『イル・ポスティーノ』(1994)は劇場公開された後、吹替えでテレビで放映されたほどでした。ネルーダにフィリップ・ノワレ、主人公郵便配達人マリオに病をおして出演したマッシモ・トロイージが撮影後に他界したことも話題になった。

 

   

    (審査員賞グランプリのトロフィーを掲げるラライン監督、ベルリン映画祭2015

 

★ララインの「ネルーダ」では、ネルーダにチリのルイス・ニェッコ、妻デリア・デル・カリルにアルゼンチンのメルセデス・モラン、共産党活動家ネルーダを追い回す刑事オスカルにメキシコのガエル・ガルシア・ベルナルと国際色豊か。ネルーダは1945年にチリ共産党に入党していた。しかし1948年ガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権が共産党を非合法化したため亡命を余儀なくされ、アンデス山脈を越えて隣国アルゼンチンに亡命する。ですから時代背景としては、50年代のナポリ湾に浮かぶカプリ島が舞台だった『イル・ポスティーノ』の少し前になります。

 

       

            (撮影中のルイス・ニェッコとメルセデス・モラン、中央の二人)

 

★ネルーダは1904年生れ、1948年には44歳、1945年3月に上院議員に当選、7月に入党している。当時はまだノーベル賞とは無関係(1971年受賞)な時代でした。ネルーダは離婚を2回しており、映画に登場する妻デリア・デル・カリルは、ネルーダがヨーロッパから帰国した1943年に再婚した2番目の妻(1955年離婚)、余談だが現在ネルーダ記念館として観光名所になっているイスラネグラの美しい別荘は、3番目の妻マティルデ・ウルティアのために建てたもの。観光客でにぎわっているそうですが、ララインによると、ネルーダは自らを神話化する傾向があり、チリ人はそういうタイプを好まない。日本で人気を博した『リアリティのダンス』の監督ホドロフスキーも好かれていないようだ。チリ公開がR18+に本気で怒っていたが、そもそもゲイジュツ映画は及びでない()

 

★ガルシア・ベルナルは、既にNo2011)でララインとはコラボしている。彼は1978年グアダラハラ生れの37歳、『アモーレスペロス』は遠い昔になりました。今回は主人公をつけ回す嫌われ役の刑事を演じる。どちらかというと彼が主役のようです。他にラライン映画の殆どに出演しているアルフレッド・カストロもクレジットされている。『トニー・マネロ』を怪演した個性派俳優。ノーベル賞詩人ネルーダガエル・ガルシア・ベルナル、ベルリンのグランプリ受賞監督ラライン・・・と話題性もあるから、どこかが拾ってくれることを期待しています。

 

         

                 (ネルーダをつけ回す刑事G.G.ベルナル、髭を生やして登場)

 

★チリ、アルゼンチン、スペイン、フランス合作、言語はスペイン語、撮影地は首都サンティアゴ、少し西側のバルパライソ、亡命先ブエノスアイレスなど。2016年半ば公開を予定している。

関連記事*管理人覚え

ベルリン映画祭審査員賞グランプリの記事は、コチラ⇒2015222

ララインのフィルモグラフィー、“El Club”作品紹介他、チリ映画界の現状を紹介。


『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(1947)ラファエル・ヒル2015年06月19日 15:00

   郷士アルフォンソ・キハーノVS 騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ

 

★作者の名前も題名も知ってるが実際に読み通した人は少数派と言われるのが世界の古典『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』。前編は「機知にとんだ郷士hidalgoドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(1605)、後編は「機知にとんだ騎士caballeroドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(1615)と前編と後編のフルタイトルには重要な違いがある。「騎士道物語」の熱烈な愛読者アルフォンソ・キハーノは騎士ではなく郷士で、「騎士道物語」を読みすぎて、「騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」になるべく従士サンチョ・パンサを従えて旅に出る。だから「郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」というのは矛盾しているのだが、ここに作者セルバンテスの「機知にとんだ」作為があるわけです。

 

          (遍歴の旅に出るドン・キホーテとサンチョ・パンサ)

 

★今年2015年は「後編」刊行400周年にあたり、東京セルバンテス文化センターでは関連催しが目白押しです。映画『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(1947、日本語字幕付)が613日上映されたのを鑑賞しましたのでご紹介いたします。フランコ体制化の1947年にモノクロで撮られたという60数年前の映画です。日本語字幕は「ドン・キホーテ」の翻訳最新版を出された神奈川大学の岩根圀和教授、上映会にもご出席しておられました(『新訳 ドン・キホーテ』前編後編、彩流社、2012刊)。

 

  『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』Don Quijote de la Mancha

製作 Companñía Industrial Film Español S. A.(CIFESA)

監督・脚本 ラファエル・ヒル

脚本(共同):アントニオ・アバド・オフエル、(原作:ミゲル・デ・セルバンテス)

撮影:アルフレッド・フレイレ

音楽:エルネスト・アルフテル

編集:フアン・セラ

製作者:フアン・マヌエル・デ・ラダ

プロダクション:エンリケ・アラルコン、エドゥアルド・トーレ・デ・ラ・フエンテ

データ:スペイン、スペイン語、1947年、モノクロ、スペイン公開19483

受賞歴ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル(スペイン1948

 

キャスト:ラファエル・リベリェス(ドン・キホーテ)、フアン・カルボ(サンチョ・パンサ)、フェルナンド・レイ(学士サンソン・カラスコ)、マノロ・モラン(床屋)、サラ・モンティエル(姪アントニア)、フアン・エスパンタレオン(司祭)、ギジェルモ・マリン(公爵)、ギジェルミーナ・グリン(公爵夫人)、エドゥアルド・ファハルド(ドン・フェルナンド)ほか

 

*監督キャリア&フィルモグラフィー*

ラファエル・ヒル Rafael Gil Alvarez1913年マドリード生れ、1986年没(享年73歳)、監督、脚本家、批評家、製作者。1931年から日刊紙「ABC」や雑誌などに映画批評を執筆し始める。内戦中は共和派のグループのために10分ほどの短編ドキュメンタリーを多数手掛けた。内戦後は主に脚本を手掛け、1942年バレンシアの制作会社CIFESAからEl hombre que se quiso matar”(自殺したかった男)で長編映画デビューを果たした。本作はウェンセスラオ・フェルナンデス・フローレスの小説の映画化(1970年にもキャストを替えてカラーで撮っている)、その後もベニト・ペレス・ガルドス、ミゲル・ミウラなどの文芸路線を歩む。最初の成功作は“Eloisa está debajo de un almendro”(1943、エロイサはアーモンドの木の下に)、エンリケ・ハルディエル・ポンセラの戯曲の映画化、製作はデビュー作と同じCIFESA社である。他にEl clavo”(1944、釘)など合計8本をここで製作、概ねヒット作となっている。初期の短編ドキュメンタリーを含めると85作に及び、遺作は“Las alegres chicas de Colsada”(1984、コルサダの陽気な娘たち)である(日本語タイトルは直訳、以下同じ)。

 

                 (ラファエル・ヒル監督)

 

1940年代から50年代にかけて量産しており、当時の売れっ子監督の一人、良作もこの時期に集中している。『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の1947年には他に、宗教をテーマにした“La fe”(信仰)と“Reina Santa”(聖女王)を撮っている。軍事物の“Los novios de la muerte”、闘牛物の“Sangre en el ruedo”(闘牛場の血)など、いわゆる芸術性の高い作品とは言えないが、ブニュエルと同じように映画の「職人」であることを貫いたのではないか。

 

*主な代表作・受賞作は以下の通り(製作順)

1940La gitanilla”(ジプシー娘)ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル脚本賞

1942El hombre que se quiso matar 自殺したかった男)長編デビュー作

1942Viaje sin destino”(宛てのない旅)ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル作品賞

1943Eloisa está debajo de un almendro”(エロイサはアーモンドの木の下に)同上

1945Tierra sedienta”(干上がった大地)同上

1948Mare nosttrum”(我らが海―地中海)同上スペシャル・メンション、

シネマ・ライターズ・サークル(スペイン)1949監督賞

1948La calle sin sol (太陽のない通り)同上

1949Una mujer cualquiera (売春婦)同上

1953Teatro Apolo (アポロ劇場)同上、

1953La guerra de Dios”(神の戦い)サンセバスチャン映画祭1953作品賞・監督賞、

ヴェネチア映画祭1953ブロンズ賞ほか

1960Siega verde”(青草の刈入れ)ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル監督賞

 

1940年代には16本も撮っており、受賞作も40年代に集中している。有名作家の小説や戯曲をベースにしたのは、脚本段階での厳しい事前検閲を逃れるための一つの手段だったかもしれない。確かに体制側にいた監督ではあったが(そうでないとこんな本数は撮れないし、受賞もあり得ない)、体制御用達監督とまでは言えないし、彼を抜きにしてスペイン映画史を語ることはできないと思う。

 

    原作に忠実だった『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』

 

A: ドン・キホーテ物はスペイン以外でも撮られているが、なかで最も筋に忠実な作り方をしているのがラファエル・ヒルの『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』だそうです。上映前に岩根教授の映画紹介があり、先生も同じご意見でした。

B: 神奈川大学からの助成金を得て、字幕はスペイン語科の学生も参加して練られたそうです。

A: 原文に忠実とはいえ、暴力や卑猥な言葉は削除されていたということでした。またドン・キホーテのセリフは騎士らしく厳かなものに、サムライ言葉に訳したとも。

 

B: 騎士に限らず概ねセリフは長いから日本語でも字幕を追うのは容易じゃありませんでした。白いスクリーンに白文字で載せてあるダイアローグは全然読めないことも・・・

A: お金を取るプロの仕事ではないから致し方ありません。スペインからも商業用ではなく教育に関連した場所だけの上映が許可されたということでした。

B: 最近の映画は100分前後の映画が多いから、137分はいかにも増長の印象が拭えません。

 

A: 「日本ではあまり知られていない女優」サラ・モンティエルが出演していることに触れられていましたが、彼女に限らず知られている女優など一人もおりませんですね()

B: 姪アントニアに扮していて、美しさは飛びぬけています。

A: しかし、まだ泣かず飛ばずの頃で本作出演でも人気はイマイチでした。ブレークするのは1957年、ハリウッドでの成功を手土産に帰国してからです。アルモドバルの『バッド・エデュケーション』にポスターで登場してましたが、1951年生れの監督の少年時代には超有名になっていた。

B: 晩年は同じ女優とは思えないほど肥って、でも引退しませんでした(2013年没、享年85歳)。 

     (死の床に臥すアロンソ・キハーノと姪アントニアのサラ・モンティエル)

 

ゲオルク・ヴィルヘルム・パブスト「ドン・キホーテ」1933年、ミュージカル映画で独英仏語の三つのバージョンがあり、うちフランス版が優れておりDVD化されている。ドン・キホーテはロシア出身のオペラ歌手「歌う俳優」と呼ばれたフョードル・イワノヴィッチ・シャリアピンが演じている。

〇その他、スペイン≂メキシコ合作のコメディ「ドン・キホーテ」(73)の主役はフェルナンド・フェルナン≂ゴメス、マリオ・モレノ<カンティンフラス>がサンチョ・パンサを演じた。

〇オーソン・ウェールズの「オーソン・ウェールズのドン・キホーテ」(95)は、ウェールズが最後まで監督できず、ヘスス・フランコが引き継いで完成させた。

〇テリー・ギリアムのドキュメンタリー(02)、アスセン・マルチュナ他「キホーテ映画に跨って」(07)(セルバンテス上映627日)、TVアニメーション(97)(セルバンテス上映711日と18日)、スペインで一番有名な人物がドン・キホーテです。

 

   『ドン・キホーテ』は不滅です

 

A: 解説のなかでよく分からなかったのが、Ley(法)をPaz(平和・秩序)に置き換えてあるというところで、聞きもらしがあるのかも。

B: また最後のシーン、二人の主従が同じ格好で遍歴の旅に出る後ろ姿がスクリーンに現れ、「これは終わりでなく、始まりである」というナレーションが流れる。これは原文になく、それをどうとらえるかと仰られていた。

A: 登場人物の不死性を暗示しているのではないですか。つまり『ドン・キホーテ』は不滅ですという監督と脚本家の偉大な作家セルバンテスへの敬意です。

B: 他にラファエル・ヒル監督の紹介、岩根教授の解説はだいたいこんなところでしょうか。

 

A: ヒル監督がセルバンテスに関わったのは、1940年にフェルナンド・デルガドの“La gitanilla”の脚本にフアン・デ・オルドゥーニャと執筆したのが始まり。セルバンテスの『模範小説集』の冒頭作品「ジプシー娘」のことで、上述したように「ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル」脚本賞を受賞しています。

B: 作品賞ではありませんが最初の受賞です。これは翻訳書が国書刊行会から刊行されている(牛島信明訳)。

A: 内戦終結間もないころで製作はCIFESA社。新しく生まれ変わったスペインで最も世界に知られた作家セルバンテスの小品は検閲も通りやすかったし、フランコ派の受けも良かったから受賞もしたのでしょう。実際ヒロインはジプシー娘ではなくジプシーの老婆に赤ん坊のとき誘拐された良家の子女だったわけで、それでメデタシメデタシに終わるんです。

 

             (風車に投げ飛ばされるドン・キホーテ)

 

B: 岩根教授が「暴力や卑猥な言葉は削除されていた」と解説されていましたが、これは作り手の意図なのか検閲で削除されたのか微妙ですね。

A: 脚本作成の基本は「可能な限り原文に忠実でいく」と決めていたが、それは原典への尊敬だけでなく、スペイン王立アカデミーの許可を得やすいという理由もあった。なかなかすんなりと検閲を通らず何ヵ所も修正削除を余儀なくされたと語っていたそうです。

B: だとすると原文にあった庶民の卑猥な言葉は修正削除個所だったかもしれない。

A: 原文にある残酷な件りを和らげる、読んでいない庶民でも知っているエピソード、例えば風車と闘うシーンは必ず入れる、なども工夫したとか。

 

   ヒル監督のドン・キホーテ、元気で逞しい女性たち

 

A: セルバンテスは1547年生れ(1616没)、つまり1947年はセルバンテス生誕400年の年にあたり、映画化は祝賀行事の一つとして企画されたようです。ヒル監督は当時売れっ子監督で体制の受けもよかった。この映画がフランコ最盛期に作られた映画であることを忘れてはいけない。

B: 一応の賞讃を受けることができたが、原典に添えられたエル・グレコ風のイラストとは違った印象を受けますが。

A: ドン・キホーテ役は体制派の名優だったラファエル・リベリェスが演じた。体形は原作より少し太めで、それに合わせてロシナンテも痩せ馬というほどではない。高邁な精神の持ち主で、知識も豊かなうえ雄弁、ユーモアを解し、とても純粋です。しかし時代錯誤、悪への挑戦と挫折の繰り返し、男らしくあろうとするが本物の騎士ではないから失敗ばかり、周りの嘲笑を受けるというパターンは同じかな。

 

B: 旅籠の主人の悪ふざけの儀式によって騎士になった、つまり正式の叙任は受けていない。.

A: 原作では本物の騎士でないことを自覚して、自分が虚構の世界で騎士を演じていることを知っていたが、映画は分別を失くした人として描かれていたように思います。ドン・キホーテは間違ったことは言ってない。つまり言葉と行為のあいだに落差があり、ここが面白いところです。

B: 狂気なのは郷士アロンソ・キハーノであって騎士ドン・キホーテではない。一致しているのは女性たちの元気の良さ、賢さ、男性優位の社会を笑い飛ばしている。

 

A: 原作者が生きた時代の女性が本当にこんなだったのか知りませんが、少なくともフランコ時代の女性は、女性も闘わねばならなかった内戦中より縛りがきつかったのではないか。時代精神は不寛容、人種差別主義、カトリック至上主義でしたから。

B: 残酷なシーンは削られたと言いますが、残酷な仕打ちを受けるのは常に主人公側でした。

 

            (銀月の騎士カラスコに敗れるドン・キホーテ)

 

A: 映画のキホーテの人格は、作り手が意図したことかどうか分かりませんが、不寛容で分別を欠いたフランコ主義を象徴しているようにも思える。フェルナンド・レイ扮する名門サラマンカ大学を出た学士サンソン・カラスコと決闘して破れ、騎士を断念して故郷に帰る。

B: カラスコ学士はキホーテの友人で、彼を故郷に戻そうとこちらも「偽の騎士」を演じている。

A: 偽物同士が闘う可笑しさ。最後に熱病に罹って夢から覚めると元の郷士アロンソ・キハーノに戻っている。少し脳みそが足りないはずのサンチョのセリフにちょっと感動します。彼も僅かながら遺産が貰えるんですけどね。

B: 岩根教授が「最後に涙する」と話されていましたが、その通りになりました。映画を見て、じゃ原作にも挑戦しようとする人が出たら嬉しいとも。

 

    時代にあわせ作りたい映画を撮ったラファエル・ヒル監督

 

A: ドン・キホーテを演じたラファエル・リベリェスは、絶世の美女といわれたアンパロ・リベリェスの父親、ヒル監督の「釘」、「エロイサはアーモンドの木の下に」、「信仰」、「太陽のない通り」などに出演、監督とは父親より縁が深い。

B: 監督の映画はいずれも未公開です。1984年秋に初めてスペイン映画が纏めて日本に紹介された「スペイン映画の史的展望<195177> 」や「第1回スペイン映画祭」でも紹介されませんでした。

A: 40年代の映画はヒルに限らず「出来が悪く、面白味が全くないからである」と、「スペイン映画小史」の著者アウグスト・M・トーレスは本映画祭の冊子の冒頭に述べています。

B: 出来の悪い中に本作やフアン・デ・オルドゥーニャの『愛と王冠の壁の中で』(48)が挙げられている。

A: 名指しされた『愛と王冠の壁の中で』が戦後間もなくの1952年に公開されています()。女王フアナにアウロラ・バウティスタ、美男王にフェルナンド・レイが扮した。

B: サンソン・カラスコ<銀月の騎士>になってキホーテを打ち負かす役でした。

A: ブニュエルの話題作に出演しているので日本では認知度が高い。1994年で死去する直前まで現役でありつづけた息の長い俳優でした。

B: 本作のフェルナンド・レイは二枚目、ガラン役者だったのですね。

 

A: サンチョ役のフアン・カルボは、ヒル監督の“Huella de luz”(光の跡43)や「干上がった大地」などに出演している。日本登場はハンガリー出身のラディスラオ・バフダの『汚れなき悪戯』(55)でしょうか。これにはラファエル・リベリェスも出演している。

B: ガルシア・ベルランガの“Calabuch”(カラブッチ56)にも。彼の代表作『ようこそ、マーシャルさん』の上映&トークの会がセルバンテス文化センターであります(722日)。

  

             (サンチョ・パンサ役のフアン・カルボ)

 

A: ヒル監督が好きだった監督は、ウィキペディアによるとムルナウ、チャップリン、キートン、ジョン・フォード、ハワード・ホークス、フランク・キャプラ、それにキング・ヴィダーだったとある。

B: なんか出身国は違ってもハリウッド監督が多いね()

A: 訃報に接したフェルナンド・レイは「私が無名だった頃から信頼してくれた監督、頭の中は映画工場のようで、アメリカ映画の熱烈なファン、特にキング・ヴィダーが好きだった。根っからのシネアスト、作りたい映画を作った」と語っている。

B: 代表作として「太陽のない通り」を挙げる批評家が多い。契約した製作費と期限を守ってエンターテインメント映画を作った「職人」監督でした。

 

『アマンテス/ 愛人』 のビセンテ・アランダ逝く2015年06月06日 23:01

       パションを介して愛と性と死を描いて社会のタブーに挑んだ

 

★アランダが死んでしまった。訃報は気が重くて書きたくないが、ガルシア・ベルランガの次くらいに好きな監督だった。二人の共通点は、フランコ時代に思いっきり検閲を受けたことぐらいか。もう1週間以上も経つのに「もう新作は見られない」と拘っている。大分前から映画は撮っていなかったのに不思議な気がする(2009年の“Luna caliente”が遺作)。デビュー作“Brillante porvenir”(1964)が38歳と同世代の監督に比して遅かったので、88歳になっていたなんて驚いてしまった。改めてフィルモグラフィーを調べたら27作もあり、フィルムで撮っていたことを考慮すると寡作というほどではないかもしれない。日本で公開された映画は4作だけだが、映画祭上映やビデオ発売はセックスがらみで結構多いほうかもしれない

 


公開作品リスト、ほか

198811月公開『ファニー 紫の血の女』1984Fanny Pelopaja フィルム・ノアール

19942月公開『アマンテス / 愛人』1991Amantes”ビデオ

20043月公開『女王フアナ』2001Juana la LocaDVD

20043月公開『カルメン』2003CarmenDVD

 

映画祭上映及びビデオ発売(未公開)作品製作順

1972『鮮血の花嫁』“La novia ensangrentada”ゴシック・ホラー 原作『カーミラ』ビデオ

アイルランドのシェリダン・レ・ファニュ(181473)の怪奇小説の映画化

1977『セックス・チェンジ』“Cambio de sexo 東京国際レズ&ゲイ映画祭1999上映、ビデオ

1989『ボルテージ』“Si te dicen que caí原作フアン・マルセ、ビデオ発売1998

1993『危険な欲望』Intrusoビデオ発売2001

1994『悦楽の果て』La pasión turca 原作アントニオ・ガラ、 ビデオ発売1998

1996『リベルタリアス自由への道』Libertarias東京国際映画祭1996上映、審査員特別賞

1998『セクシャリティーズ』“La mirada del otro”原作フェルナンデス・G・デルガド、ビデオ

 

ビセンテ・アランダVicente Aranda Ezquerra  1926119日、バルセロナ生れの監督、脚本家(526日マドリードの自宅で死去)。7歳のときカメラマンだった父親が死去、家計を助けるため中学生の頃から働きはじめ、学校は義務教育止まりだった。一家がスペイン内戦で負け組共和派に与していたことも人生の出発には不利だった。経済的政治的な理由から、1949年ベネズエラで情報処理の分野で働くため生れ故郷を後にした。アメリカの総合情報システム会社、後には現在のNCRコーポレーションで中心的な役職についたが、1956年、映画の仕事への執着やみがたく帰国する。しかし学歴不足で希望していたマドリードの国立映画研究所入学を拒絶され、バルセロナに戻って独学で映画を学んだ(ベネズエラ移住期間195259年など若干の異同はありますが、英語版ウィキペディアを翻訳したと思われる日本語版があります。スペイン語版はごく簡単な作品紹介にとどめ、デビュー前の記載はありません)。

 

   「アランダはヒッチコックの足元にも及ばなかった」とフアン・マルセ

 

★デビュー作Brillante porvenirから遺作のLuna calienteにいたるまで執拗と言えるほど同じテーマ、つまりパションを介してEspaña negra≫の性愛と死の現実を風刺的でビターな語り口で明快に描き続けた。多くの作品が小説を題材に、または実際に起きた犯罪事件に着想を得て映画化されたが、そのことが物議をかもすことにもなった。フアン・マルセの小説を上記の『ボルテージ』を含めると4作撮っている。作家はどれも気に入らず、「アランダはヒッチコックじゃなかった、彼の足元にも及ばなかった」と不満をぶちまけた。監督も負けてはおらず、「マルセも所詮、ギュスターヴ・フローベールじゃなかった」と応酬した。後で仲直りしたから()、ちょっとした子供の口ゲンカなんでしょうね。

 

★しかし本気で怒った作家もいた。『悦楽の果て』の邦題でビデオが発売されたLa pasión turcaのアントニオ・ガラ、処女小説“El manuscrito carmesí”が『さらば、アルハンブラ、深紅の手稿』として翻訳書が出ている。原作を読んでいないから分からないが、原作とは凡そかけ離れているんだと思う。映画の結末には2通りあって、なんとなく作家の怒る理由が想像できる。個人的には小説と映画はそれぞれ独立した別の作品だから、映画化を許可した時点で我が子とはサヨナラするべき、だって小説の筋をなぞる映画など見たくもないからね。主演のアナ・ベレンの妖しい美しさを引き出しており、女優を輝かせるベテランであった。ビクトリア・アブリルは言うに及ばず、『セクシャリティーズ』のラウラ・モランテ『ファニー 紫の血の女』のファニー・コタンソンなどにも同じことが言える。

 

                 

             (“La pasión turca”のアナ・ベレン)

 

★第1Brillante porvenirF・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、第2Fata Morgana65)はゴンサロ・スアレス、La muchacha de las bragas de oro80)はフアン・マルセ、Asesinato en el Comité Central82)はマヌエル・バスケス・モンタルバン、『ファニー 紫の血の女』84)はアンドルー・マルタン、Tiempo de silencio86)はヘスス・フェルナンデス・サントスなどなど。

 

★晩年のTirante el Blanco06)はジョアノ・マルトレルの Tirant lo Blanc”、『ドン・キホーテ』より先にカタルーニャ語で書かれたスペイン古典中の古典、セルバンテスが大笑いしたという騎士道物語の映画化だった。これは製作費約1400万ユーロをつぎ込んだわりに評判が悪く、しかしアランダが“Tirant lo Blanc”を撮るとこうなるんだ、という映画だった。『カタルーニャ語辞典』の著者、田沢耕氏が講演会で「この監督は何という人ですか、ひどすぎます!」とマルトレルにかわって憤慨しておられたが、小説と映画は別物なんです()。撮影にホセ・ルイス・アルカイネ、音楽にホセ・ニエト、キャストにエスター・ヌビオラビクトリア・アブリルレオノル・ワトリングイングリッド・ルビオ、などを揃えた豪華版だった。

 

          

      (左から、ワトリング、ヌビオラ、ルビオ “Tirante el Blanco”)

 

     『アマンテス / 愛人』のテーマは内戦後と愛の物語

 

★実際に起きた事件に着想を得て映画化された代表作が『アマンテス / 愛人』、『セックス・チェンジ』以来、アランダのミューズとなったビクトリア・アブリル、まだ初々しかったホルヘ・サンスマリベル・ベルドゥ3人が繰りひろげる愛憎劇。アランダはエロティシズムとやり切れない内戦後に拘った。その二つをテーマに選んだのが本作。舞台背景は内戦後の1955年、しかし主要テーマは性と愛と死、だから今日でも起こりうる物語といえる。

 

           

       (アランダとアブリル、『アマンテス / 愛人』撮影のころ)

 

★この作品はゴヤ賞1992の作品賞と監督賞を受賞している。他にノミネートこそあれ受賞はこれだけ。アカデミー会員はマドリードに多いから、どうしてもバルセロナ派は不利になる。またベルリン映画祭1991でアブリルが主演女優賞を受賞、アランダの名前を国際的にも高めた作品といえる。最後の雪が舞うブルゴスのカテドラルを前にしたサンスとベルドゥのシーンは忘れ難い。ろくでもない不実な男に一途な愛を捧げる娘のひたむきさ、二人のクローズアップからロングショットへの切り替えの巧みさなど名場面の連続だった。

             

       (ベルドゥとサンス、『アマンテス / 愛人』最後のシーン)

 

<エル・ルーテ>と呼ばれた実在の犯罪者エレウテリオ・サンチェスの自伝にインスパイアーされて撮ったのがEl Lute87)とEl Lute ,mañana seré libre88)。収監中に勉強して弁護士になったエル・ルーテにイマノル・アリアス、その妻にビクトリア・アブリルが扮した。

 

              

             (アリアスとアブリル、“El Lute”)

 

      なりたかったのは作家、小説の映画化に拘った

 

★デビュー作“Brillante porvenir”を共同監督した友人で作家のロマン・グベルンが「エル・パイス」紙に寄せた追悼文によると、アランダは「本当は監督じゃなく作家になりたかった」が物書きとしては芽が出ず映画監督に方針を変えた。グベルンは「本当は監督になりたかったが監督になれず作家になった」。「これは何というパラドックスだ」とアランダが叫んだそうです。

 

★プレス会見でもあまり胸襟を開かないと言われた監督だが、それは映画が語っているから充分と考えていたのではないか。愛の混乱と曖昧さ、愛と性は爆弾のようなもの、幸せになれない登場人物たち、性愛の解放を描いて社会のタブーに挑んだ監督だったと思う。グベルンによると、バルセロナ派の監督なのにマドリードに住んでいたのは、バルセロナ派との関係が必ずしも良好ではなかったからで、それは彼がカタルーニャ語で撮らないことも一因だったという。アランダはそういう狭量な仲間意識を嫌っていたのではないか。「高校に行くことができなかった青年は優れた観察力をもっていた。神々は運命が計り知れないことを御存じだったのだ」と温かい言葉で追悼文を締め括っている。

 

『スリーピング・ボイス』*ベニト・サンブラノの第3作2015年05月09日 12:18

        ドゥルセ・チャコンの同名小説の映画化

  

★“La voz dormidaが字幕入りで見られるとは正直驚きました。スペイン語映画ファンでも監督第1作『ローサのぬくもり』(1999)を映画館で見た人は今や少数派、更に本作は2011年製作とかなり古い(!) から、邦題を見てもとっさに“La voz dormida”と繋がりませんでした。現実に起こった出来事が元になって書かれた同名小説の映画化。そのエモーショナルな描き方、複眼的でない若干世論操作の危険をはらむ映像描写に賛否両論は当然あるでしょうが、とにかく公平を心がけてご紹介したい。

     


 『スリーピング・ボイス~沈黙の叫び~』(“La voz dormida

製作Audiovisual Aval SGR / Maestranza Films / Warner Bros. /

監督・脚本:ベニト・サンブラノ

脚本(共同):イグナシオ・デル・モラル 原作:ドゥルセ・チャコン

製作者:アントニオ・ペレス

撮影:アレックス・カタラン

音楽:フアン・アントニオ・レイバ、マグダ・ロサ・ガルバンカルメン・アグレダノ

編集:フェルナンド・パルド

メイクアップ&ヘアー:ロマナ・ゴンサレス・エスクリバノ

衣装デザイン:マリア・ホセ・イグレシアス・ガルシア

   

データ:スペイン、スペイン語、2011、スペイン内戦ドラマ、128分、撮影地:マドリード、ウエルバの元の刑務所、配給元ワーナー・ブラザーズ、製作費:約350万ユーロ(収益833,283ユーロ、スペイン)、スペイン公開201110月、TVプレミアWOWOW 201410月、日本公開2015425

 

キャストインマ・クエスタ(姉オルテンシア・ロドリゲス)、マリア・レオン(妹ホセファ‘ペピータ’・ロドリゲス)、マルク・クロテット(ゲリラ兵パウリノ・ゴンサレス)、ダニエル・オルギン(同右フェリペ・バルガス)、アナ・ワヘネル(看守メルセデス)、スシ・サンチェス(セラフィネス尼)、ベルタ・オヘア(女囚フロレンシア)、ロラ・カサマヨール(女囚レメ)、アンヘラ・クレモンテ(女囚エルビラ)、チャロ・サパルディエル(女囚トマサ)、テレサ・カロ(ドーニャ・セリア)、ヘスス・ノゲロ(元医師ドン・フェルナンデス)、ミリアム・ガジェゴ(同妻ドーニャ・アンパロ)、ルイス・マルコ(同父ドン・ゴンサロ)ほか

 

プロット:時代に飲み込まれた姉妹オルテンシアとペピータの物語。内戦終結後の1940年マドリード、負け組共和国派のゲリラ兵フェリペの子を身ごもったままマドリードのベンタス女性刑務所に収監されたコミュニストの姉、姉の同志の母セリアを頼って姉を支えるべくコルドバから上京してきた敬虔なクリスチャンの妹、二人は鉄格子を隔てて2年ぶりに再会する。ペピータは最初の面会日から山中に隠れて抵抗しつづける義兄たちの連絡係として否応なく危険に巻き込まれていく。悲しみのなかでも初めて恋を知るペピータ、死刑執行を出産まで延期された信念の姉、「始めるべきではなかった内戦」に翻弄された多くの女たちの「沈黙させられた声」に光を当てる。                              (文責:管理人)

 

受賞歴・トレビア

サンセバスチャン映画祭2011「銀貝賞」女優賞にマリア・レオン

ゴヤ賞2012、新人女優賞マリア・レオン/助演女優賞アナ・ワヘネル/オリジナル歌曲賞“Nana de la hierbabuena”カルメン・アグレダノの3賞受賞。ノミネーションは作品賞・監督賞・主演女優賞(インマ・クエスタ)・新人男優賞(マルク・クロテット)・脚色賞・衣装デザイン賞の6個。

シネマ・ライターズ・サークル賞2012、新人女優賞マリア・レオン受賞。ノミネーションはアナ・ワヘネルの助演女優賞、ベニト・サンブラノ&イグナシオ・デル・モラルの脚色賞。

スペイン俳優組合賞2012、マリア・レオンとアナ・ワヘネルが各同賞を受賞した。

55回ロンドン映画祭(2011)のヨーロッパ・シネマ部門に出品。

トゥリア賞2012特別賞受賞。

2011年アカデミー賞スペイン代表作品のプレセレクションに選定されたが、最終的にはアグスティン・ビリャロンガの『ブラック・ブレッド』(10)が選ばれた。
ゴヤ賞オリジナル歌曲賞受賞のカルメン・アグレダノは、コルドバ出身のアーティスト、カンタオーラ(フラメンコ歌手)、受賞作の作曲家。2010年12月ハバナ滞在中に本作のために作曲した。(ゴヤ胸像を手にしたアグレダノ、後方はプレゼンテーターのアントニオ・レシネス)

 


監督紹介&フィルムグラフィー

*ベニト・サンブラノBenito ZambranoTejeroは、1965年セビーリャのレブリッハ生れ、愛称エル・ガンバ(小エビ)、監督、脚本家。セビーリャの演劇学校で学ぶ。後キューバのサン・アントニオ・デ・ロス・バニョス国際映画TV学校で脚本と演出を学んだ。短編数本を取ったのち、中編“Para qué sieve un río?”(91)、“Los que se quedaron”(93)、“El encanto de la luna llena”(95)を撮る。長編デビュー作『ローサのぬくもり』99Solas”)、第2『ハバナ・ブルース』05 Habana Blues”ラテンビート2005)、3作目が本作と極めて寡作な映像作家である。 (写真下:二人の美女に挟まれてご機嫌な監督)

 

 

サンブラノが有名になったのは『ローサのぬくもり』というより、2002年放映の3回シリーズのTVドラPadre Coraje(「勇敢な父」)である。カディスのヘレス・デ・ラ・フロンテラで実際に起きた殺人事件に材を取っている。延々と続く裁判に業を煮やした父親が、息子を殺害した犯人を自ら捜す決心をする。父親に人気のフアン・ディエゴが扮したこと、まだ係争中の事件ということもあってお茶の間の話題をさらった。

 

*監督の主な受賞歴

『ローサのぬくもり』、ベルリン映画祭1999パノラマ部門観客賞ほか、アリエル賞2001イベロアメリカ映画銀賞、ブリュッセル映画祭2000国際映画批評家連盟賞、カルタヘナ映画祭2000初監督賞・批評家賞ほか、シネマ・ライターズ・サークル賞、ゴヤ賞2000オリジナル脚本賞・新人監督賞、ハバナ映画祭1999サンゴ賞、トゥリア賞2000観客賞・トゥリア賞ほか

『ハバナ・ブルース』、ハバナ映画祭2005サンゴ賞、
 ロスアンゼルス・ラテン映画祭
2005脚本賞

『スリーピング・ボイス~沈黙の叫び~』上記参照

 

  ドゥルセ・チャコンの同名小説の映画化

 

: ドゥルセ・チャコンの小説を「偶然手にしなかったら、この映画は生れなかった」という監督の言葉から、このサフラ出身の夭折の原作者から始めましょうか。

: まだ公開中なので、これから鑑賞なさりたい方はどうぞ御注意下さい。

: スペインで最も所得の少ない州と言われるポルトガルと国境を接するエストレマドゥーラ州サフラ出身。サフラは国境の町バダホスとローマ帝国が建設した円形劇場などの観光スポットがあるメリダを直線で結んだ真南に位置した小さな町です。

: ローマ時代には「銀の道」の中継地として栄えたが、現在でも人口17000に満たない小さな町です。彼女が生れた1950年代には人口1万弱でした。メリダからバスで小一時間のところですが本数が少ないから訪れるのはちょっと不便です。

 

: チャコンはサフラ出身の著名人の一人に挙げられていますが、父親はフランコ政権下のサフラ市長をつとめた人。彼女自身の言によれば、家族は「保守的なフランコ側に与した右派の富裕階級」に属していたという。父親とは11歳のときに死別、その1年後に母親と双子の姉妹インマとマドリードに移住した。ですからサフラは生れ故郷ではあるが、都会育ちと言えますね。

: 簡単なキャリア紹介は下記を読んで頂くとして、享年49歳は如何にも早すぎますね。

: 現在でも膵臓癌は早期発見が難しい癌、分かったときは手遅れが多く、彼女の場合も診断後約1ヵ月後に亡くなっています。病床でも遺作となる『スリーピング・ボイス』の映画化に触れ、監督と「一緒に脚本を書く約束だった」と語っていたそうです。

: サンブラノが「彼女のためにも早く完成したい」と考えるのは当然、大分掛かりましたが。

 

: 保守的な家族に育ちながら、社会的な不公平、不平等には敏感な少女で、下記に列挙した愛読書の詩人作家の名前がそれを証明しています。本作刊行後押し寄せたマスメディアのインタビューでも「許せないのは社会的な不公平」と語っており、オルテンシアのように信念の人でもあったようです。

: 好きなのは「学ぶこと」、世の中は豊かになったが「背中の後ろは見ることができない」とも。イラク戦争反対とか女性差別に敏感で、集会やデモ行進などにも積極的に参加していたようです。

: 行動する詩人でもあった。内戦で収監された女性たちの聞き書きを始めた動機も、「今まで自分は勝者の苦悩を語ってきた、勝者の視点で書いていたことに気づいたから」と本作刊行後にメディアに語っています。

 

: 証拠書類集めに4年半かけたとありますが。

: 歴史家と話し、図書館、特に新聞雑誌を集めた資料図書館を訪れて調べたが、最も重要だったのは収監された女囚たちの生の証言だったと。この証言がベースになって物語はできた。現実にあった出来事ですが、勿論登場人物は架空ですね。

: ドキュメンタリーの手法で書かれていますが、これはドキュメンタリーでもルポルタージュでもなくフィクションです。

 

: 多分ジャンル的にはファクションFaction」(FactFiction)ということになるのかな。限りなく歴史事実に近いがあくまでフィクションという造語です。チャコンもルポルタージュのカテゴリーに入れられることを拒絶しています。「私は詩人です」とはっきり、元女囚たちの誇り、信念、誰も耳を貸してくれなかった考え、社会からずっと無視されてきた不公平に「声」を与えたかった、と語っています。

: インタビューされた女性たちの誰も恨みを語らなかったが、決して忘れないと。「あったこと」は「なかったこと」にならないということですね。

 

*ドゥルセ・チャコンDulce Chacón Gutiérrez(バダホス県サフラ1954年~マドリード2003)の詩人、小説家、劇作家。ペンネーム「Hache」、双子の姉妹インマ・チャコンも作家。父親の死後家族はマドリードに移り、姉妹は寄宿制度の学校で学び、その頃から詩を書きはじめる。愛読書はパウル・ツェラン(ユダヤ教徒の家庭に生まれたルーマニアの詩人、本作の献辞は彼の詩から)、リルケ、セサル・バジェッホ、ホセ・アンヘル・バレンテ(オレンセ生れの詩人)、後にはフリオ・リャマサーレス、ルイス・ランデロ、ジョゼ・サラマーゴなど。ランデロとサラマーゴとはサラマーゴ夫人ピラール・デル・リオを介して深い親交があった。

1992年第1詩集“Querrán ponerle nombre1995年の3詩集Contra el desprestigio de la altura”が、イルン市賞を受賞、2000年の小説“Cielos de barro”がアソリン賞を受賞、最も知名度の高いのが2002年刊行のLa voz dormidaAlfaguara社)である。本作は日本でいうと本屋大賞にあたるLibro del Año 2003を受賞している。

 

         

    (『スリーピング・ボイス』の表紙と2002年頃のドゥルセ・チャコン)

 

          人間の二面性、矛盾を抱えた登場人物たち

 

: 原作と映画は別という立場から、当ブログでは原作者に踏み込まないことが多いのですが、今回は少し深入りしました。というのも日本の観客にとって必要と思われるスペイン内戦前夜、内戦そのものが語られていないため、国民戦線(フランコ側)は悪、共和国軍は善というような安易な誤解を招かないようにしたかったからです。

: 内戦は非常に複雑でどちら側から照射するかで解釈は正反対になる。内戦をテーマにするのは危険と背中合わせです。サンセバスチャン映画祭でプレミアされたとき、かなりイライラした観客がいたことがそれを物語っています。

 

: 監督は旗幟鮮明の人ですが、原作者は善悪の二元論を一部から非難されたとき、人間の二面性をもつ人物を登場させたと反論しています。つまりペピータは敬虔なクリスチャンでアンチコミュニストだがコミュニストの姉と生れてくる赤ん坊を助けたい、フェルナンド元医師は寝返ったことで良心の呵責に苦しんでいる、メルセデス看守は夫と息子を内戦で失ったフランコ側の人間だが、残された子供を食べさせるため心に痛みを感じながら職務を果たしている。

: スペイン内戦は第二次世界大戦の序曲のようなもの、スペインの明暗はヨーロッパが握っていた。ファッシズムとコミュニズムの対立という側面が大きく、チャコンは誰が正しく誰が間違っているかを描こうとしたのではない。

 

: 映画だとエコヒイキ感が残りますね。もっと抑制と節度をもった描き方ができたんじゃないか。

: 銃殺刑のシーンは1回で充分とか、ペピータの拷問シーンには目をつぶったとか、それと赤ん坊の洗礼を拒むオルテンシアを恐喝する司祭やセラフィネス尼に代表される教会の描き方がステレオタイプすぎるとか・・・

: 女囚たちに幼子イエスの人形に口づけを強要するセラフィネス尼や軍事法廷での裁判の描き方、体制の操り人形みたいに描かれたことへの反発はあったようです。

: かなりカリカチュアされていた印象です。

 

: 看守メルセデスを演じたアナ・ワヘネル(読みは正しいでしょうか?)は、ゴヤ賞助演女優賞を受賞しましたが、得な役柄でした。脇役に徹しているから出演本数は多く意外と日本登場も早い。アルベルト・ロドリゲスの『7人のバージン』、サンティアゴ・タベルネロの『色彩の中の人生』(共にラテンビート2006)、翌年のラテンビート上映のダニエル・サンチェス・アレバロの『漆黒のような深い青』、本作で俳優組合助演女優賞を受賞している。

: でも記憶に新しいのは『バードマン』でオスカーを3個もゲットしたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『ビューティフル』、主人公と同じ死者と会話ができる能力の持主ベア役でしょうか。バルデム扮するウスバルの相談役、これも得な役だった。

 

      

   (メルセデス看守アナ・ワヘネルとオルテンシアのインマ・クエスタ)

 

: 1962年カナリア諸島のラス・パルマス出身、セビーリャの演劇上級学校を出て舞台女優として出発、映画デビューはアチェロ・マニャスのデビュー作El Bola2000)、ラテンビートが始まっていたら絶対上映された映画です。主人公のフアン・ホセ・バジェスタが子役ながらゴヤ賞新人男優賞を受賞した話題作でした。

: サンブラノ監督との接点は、上記したTVドラのミニシリーズ“Padre Coraje”出演かもしれない。映画、舞台、テレビの三本立てで活躍している。

 

: 反対に損な役柄だったのがセラフィネス尼に扮したスシ・サンチェス1955年バレンシア生れ、彼女もワヘネルと同じく大柄で主役には恵まれず脇役が多い。彼女も映画、演劇、テレビと忙しい。公開作品ではビセンテ・アランダの『女王フアナ』のイサベル女王役、同監督の『カルメン』、ラモン・サラサールの『靴に恋して』、アルモドバルの『私が、生きる肌』、『アイム・ソー・エキサイテッド』など、両方とも母親役だった。ラモン・サラサールの最新作“10.000 noches en ninguna parte”でアルコール中毒の母親を演じて、ゴヤ賞2014助演女優賞にノミネーションされた。

: クラウディア・リョサの『悲しみのミルク』、ヒロインのマガリ・ソリエルを家政婦として雇うピアニスト役、これは主役級に近かった。

: ペルー映画としてアカデミー賞2010外国語映画賞に初めてノミネートされた。

: 実力があるのに脇役なので日本語版のカタログやサイトでは二人とも紹介してもらえない。

 

           

       (スシ・サンチェス“10.000 noches en ninguna parte”から)

 

           誰もが認めたマリア・レオンのペピータ

 

: 「世論を操る危険をはらんでいる」「描写が感情的すぎて却って効果を弱めている」などとイチャモンをつけた批評家も、突然彗星のように現れたマリア・レオンには脱帽した。サンセバスチャン映画祭で女優賞を貰って、翌年のゴヤ賞新人女優賞は確実視されていた。

: 彼女については本作のサイトやパンフでも紹介されているし、兄パコ・レオンのデビュー作“Carmina o revienta”(12)、その続編“Carmina y amén”(13)、特にベレン・マシアスの“Marsella”(14)でキャリア紹介をしています。

 

           

       (生れてくる子のために信念を曲げることを頼むペピータ)

 

: ゴヤ賞主演女優賞ノミネートのインマ・クエスタの対抗馬は、アルモドバルの『私が、生きる肌』のエレナ・アナヤだったから、最初から無理でしたね。『マルティナの住む街』の聡明な女性、『ブランカニエベス』の母親役など強い印象を残している。

: 舞台で演技を磨き、コメディもこなせる演技派、本作では逃しましたが、いずれゴヤ胸像を手にできますね。

    

               

           (あくまで信念を曲げないオルテンシア)

 

: 共和国派のゲリラ兵(マキMaquis)になったマルク・クロテットはこれからの俳優、オルテンシアの夫役ダニエル・オルギンは監督志望のようですね。

: マキというのはフランコ体制に反対して内戦後も山中で戦いつづけた共和国派のゲリラ兵、というか敗残兵ですね。ギジェルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』(06)にも登場していた。

: あの舞台は1944年のアラゴン、『ブラック・ブレッド』(10)は1949年カタルーニャの山村と、内戦終結は名ばかりで、水面下ではスペイン全土で戦いは続いていた。誰が味方で誰が敵か、疑心暗鬼で息をひそめて暮らしていたのが現実だった。

: 内戦の犠牲者は大雑把に75万から80万に近いと言われていますが、内戦中の餓死者5万、刑務所内での死者20万のうち病死の殆どが餓死だったという。戦闘で亡くなった人に匹敵します。

: 内戦に限らず「始めるべきではなかった」戦争は今も世界のあちこちで続いている。

 

                  

           (危険な逢瀬、ペピータとパウリノ)

 

Carmina y amen”の記事はコチラ⇒2014年0413

Marsella の記事はコチラ⇒20150202

パコ・レオンの記事はコチラ⇒20141227


フアン・アントニオ・バヨナの『怪物はささやく』*イギリスでの撮影終了2014年12月13日 20:46

★以前フアン・アントニオ・バヨナの新作のご案内をしたときは(コチラ⇒2014317)、まだキャスト陣が決まってない段階でしたが、11月に3週間かけてイギリスでの撮影が終了、現在はバルセロナ近郊のテラッサでの撮影が始まりました。予定は3カ月、公開は再来年2016年秋と大分先になります。ベストセラー作家パトリック・ネスの小説“A Monster Calls”(“Un monstruo viene a verme”)の映画化。癌で夭折したシヴォーン・ダウドの原案をパトリック・ネスとイラストレーターのジム・ケイが完成させたもの。原作は既に2011『怪物はささやく』として翻訳が刊行されています。 


    A Monster Calls(“Un monstruo viene a verme”)

製作Apaches Entertainment / La trini / Participant Media / River Road Entertainment

監督:フアン・アントニオ・バヨナ

脚本:パトリック・ネス

撮影:オスカル・ファウラ(前2作と同じ)

音楽:フェルナンド・ベラスケス(前2作と同じ)

プロダクション・デザイン:エウヘニオ・カバジェロ

製作者:ベレン・アティエンサ(アパッチ・エンターテインメント)、サンドラ・エルミダ、
    ジョナサン・キング、他

配給会社:フォーカス・ヒューチャーズ/ライオンズゲイト(米国)、
     ユニバーサル・ピクチャー(スペイン)など。

 

データ:米国=スペイン、英語、製作費2500万ユーロ、2016年秋公開(米国1014日)

キャスト:ルイス・マクドゥーガル(コナー)、リーアム・ニーソン(イチイのモンスター)、フェリシティ・ジョーンズ(母)、シガニー・ウィーバー(祖母)、トビー・ケベル(父)、ジェラルディン・チャップリン、他

 

ストーリー イチイの大木の怪物と13歳のコナー少年のファンタジー・ドラマ。両親は離婚して父親はアメリカで新しい家族と暮らしている。少年は癌と闘っている母親と一緒に暮らしており、学校ではイジメにあって孤立している。禁欲的で厳しい祖母がコナーの面倒をみるため到着した。ある夜、怪物が少年の家にやってきて、「私が先に三つの物語を語ります。それが終わったら君が四つめを語りなさい。その物語は君が心に閉じ込めている真実の物語でなければなりません。なぜなら君はそれを語るために私を呼んだのだから」と。

 

       
         (最後列ニーソン、脚本家パトリック・ネス、ウィーバー、前列マクドゥーガル)

 

★キャストの顔ぶれを見れば、予告通り、大物俳優起用が頷けます。コナー少年はオーデションを受けた1000人ぐらいの中から選ばれたとか。本作より先に『パン』(ピーターパン)で来年夏以降に登場することになるでしょう。

 

             

                   (2015年夏アメリカ公開の『パン』のポスター)


 

★祖母役は初めてというシガニー・ウィーバーはオファーがあったとき、監督の過去の作品から判断して、脚本を読まずにオーケーした由。読んでからこれは挑戦的なプロジェクトになると思ったそうです。「こんな才能豊かな独特の視点をもった監督の映画に参加できるとはなんと幸運なのと思った。いちいちどこがと列挙するのは難しいけど」と監督の傍らで褒めちぎった。撮影の大部分が水の中、顔は傷だらけという汚れ役に、恐る恐るオファーをかけたら一発でOKしてくれた『インポッシブル』のナオミ・ワッツの例を思い出しました。バヨナもスペインを代表する監督の仲間入りということですか。

 

★母親役のフェリシティ・ジョーンズ1983バーミンガム生れ)は、『アメジング・スパイダーマンⅡ』に出ています。リーアム・ニーソン(1952北アイルランド生れ)は有名すぎて説明いりませんね。ニーソン演じるモンスター、不吉な墓場に立っているイチイの大樹は12メートル、この撮影が大変らしい。『インポッシブル』では打ちつける大波の撮影が難しかったそうですが。技術的にはジェームズ・キャメロンの『アバター』や、ピーター・ジャクソンの『ロード・オブ・ザ・リング』などを応用することになるそうです。ギジェルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』でオスカー賞(美術賞)を受賞したエウヘニオ・カバジェロが担当、鉄製の足場を組んだようです。

 

★「母子三部作」というのは、第1作『永遠のこどもたち』07)と『インポッシブル』(12)のことで、本作が第3作になります。これで母子三部作は終りにするつもりだとも語っています。「この映画は、現実と虚構の間を描きますが、ジャンル的には第2作に近く、テーマ的には第1作に近い。というのもより現実的な家族を描きますが、領域的には死が身近にあり、エモーショナルな激しさを共有しているから」と監督。あるシーンを撮り終えたとき、スタジオにいた俳優やスタッフが、製作会社メディアセットの代表者のパオロ・ヴァシレまで不覚にも感動の涙を流してしまったそうです()

 

『インポッシブル』も本作も、ハリウッドの「ブラック・リスト」に載っていた。つまり多額の資金供給を探している脚本のリストです。「ハリウッドのプロデューサーたちも最近は保守的になっていてリスクをとりたがらない。スーパーヒーローが出演するとか、大企業が業務委託してくれるものが優先される」と監督。賭けを望まないのがホンネのようです。本作の製作費も2500万ユーロとハンパじゃない。2作の実績があったればこそです。米国の配給会社フォーカス・ヒューチャーズほか、上記の製作会社が出資している。

 

                   

                  (本作撮影中のバヨナ監督

★「この小説を読んだとき、映画にしてくれ、と本が自分を呼んでいるように感じた」と監督。また自分にとって『怪物はささやく』は、現実世界に立ち向かうのにファンタジーは必要だと教えてくれたエモーショナルな物語でもあると。翻訳書に倣って『怪物はささやく』と一応しておきますが、日本公開時の邦題がこの通りになるかどうかは分かりません。言語は残念ながら英語ですから、当ブログには該当しませんが、バヨナということで割り込ませています。