ペルー映画『アンデス、ふたりぼっち』劇場公開2022年07月05日 17:48

         死後における魂の永遠性と見捨てられていく老人たちの孤独

    

      

 

★第21回リマ映画祭2017でプレミアされた今は亡きオスカル・カタコラのデビュー作「Wiñaypacha」英題「Eternity」)が、この夏『アンデス、ふたりぼっち』の邦題で公開されることになりました(730日封切り)。5年前の製作とは言え、死後における魂の永遠性、無限の時、見捨てられていく親世代の孤独、家族の崩壊、と正にテーマは今日的です。アイマラ族の祖先伝来の生き方、宗教、家族、自然、伝統、苦悩などが調和よく語られます。アイマラ語の原題〈Wiñaypacha〉は「永遠、あるいは無限の時」の意ということです。仕方ないとはいえ邦題の陳腐さが歯がゆいことです。

 

オスカル・カタコラ紹介19878月、ペルー南部プーノ県アコラ生れ、監督、脚本家、撮影監督。アルティプラノ国立大学で演劇と情報科学を学ぶ。20211126日次回作「Yana-wara」撮影中、コジャオ州コンドゥリリで虫垂炎のため急死した。従って本作は長編デビュー作にして遺作となってしまった。本作は2013年、ペルー文化省が設立した「映画国民コンクール」で助成金40万ソルを獲得、これを元手にプロジェクトを立ち上げた。プーノ県の海抜5000メートルの高地で撮影、第21回リマ映画祭2017でプレミアされた。グアダラハラ映画祭2018ではオペラ・プリマ賞など3賞を受賞している。「アジア映画が好きで、特殊効果を派手に使用するのは好みではない。商業映画は撮らないと思う」と語っており、またイタリア・ネオレアリズモの作品、特にデ・シーカの『自転車泥棒』(48)は繰り返し鑑賞したと語っていた。

   

      

    (トロフィーを手にしたオスカル・カタコラ、グアダラハラ映画祭2018にて)

 

  

 『アンデス、ふたりぼっち』(原題Wiñaypacha2017年 

製作:CINE AYMARA STUDIOS  協賛:ペルー文化省Ministerio de Cultura de Perú

監督・脚本・撮影:オスカル・カタコラ 

編集:イレネ・カヒアス

プロダクション・デザイン:イラリア・カタコラ

製作者:ティト・カタコラ

 

データ:製作国ペルー、アイマラ語、2017年、ドラマ、86分、撮影地プーノ県マクサニ地区アリンカパック、撮影期間5週間、シネ・レヒオナル。2019年のアカデミー賞国際長編映画賞とゴヤ賞イベロアメリカ映画賞のペルー代表作品に選出されたがノミネートならず。配給:ケチュア・フィルム、Colomaフィルム(仏)、アマゾン・プライム・ビデオ(メキシコ、アメリカ)、公開:ペルー、メキシコ20184月、アルゼンチン20192月、日本20227月、他

 

映画祭・受賞歴:リマ映画祭2017ペルー部門作品賞、リマ大学映画コンクール2017ペルー作品賞、マル・デ・プラタ映画祭2017正式出品、グアダラハラ映画祭2018イベロアメリカ部門のオペラ・プリマ監督第1作作品賞・撮影賞、アンダー35の監督部門FEISAL賞の3賞、モントリオール先住民映画祭ドキュメンタリー部門Teueikan賞、他2019年のアンデス映画週間、パリ・ペルー映画祭、ウエルバ映画祭などに正式出品された。

 

キャスト:ロサ・ニナ(妻パクシ)、ビセンテ・カタコラ(夫ウイルカ)

   

    

        (パクシ役のロサ・ニナとウィルカ役のビセンテ・カタコラ)

  

ストーリー:海抜5000メートルの高地で暮らす老夫婦は、アイマラ語を喋るのは恥ずかしいと町に行ったきり帰らぬ息子アンテュクを待ちわびている。アイマラの文化と伝統を守りながら、親愛なる太陽神や大地母神パチャママに日々の糧と健康を祈る。ある日のこと、底をつきそうなマッチを買いにリャマを連れて町に下りていったウィルカが夜になっても帰宅しない。雨が降りだすなかパクシもカンテラを手に山を下りていくのだが、留守中に我が子同然の羊と牧羊犬がキツネに食い殺されてしまった。唯一夫婦に残されたリャマ、病魔に襲われたウィルカ、帰らぬ息子を待つパクシに次々と悲劇が襲いかかる。死後における魂の永遠性、無限の時、見捨てられていく親世代の孤独、家族の崩壊が静かに告発される。帰らぬ息子やマッチのメタファーは何か、風光明媚な自然の裏側に隠されているものは何か、ドキュメンタリー手法を多用した政治性の強い重たいフィクション。

 

 

       〈息子不在〉のメタファーは何か―自伝的なフィクション

 

A: ドキュメンタリーの手法を取り入れたフィクションですが、監督の自伝的要素が強く、主役ウィルカを80代の母方の祖父ビセンテ・カタコラが演じている。第一条件が「アイマラ語ができる80代以上の人」だった。それでオーディションをしてキャスティングして何人かにリハーサルしてもらったが、直ぐ疲れたと言って休んでしまい撮影どころではなかった。それを見かねた祖父が買って出てくれたというわけです。父方の祖父母は既に亡くなっていた。

 

     

              (葦笛ケーナを吹くウィルカ)

 

B: パクシを演じたロサ・ニナも同世代、プロではありませんが、芸術的な素質や社交的な性格から、友人に勧められた。これまで映画館に行ったことがないばかりか映画も観たこともなかったとか。

A: 監督談によると「私が何をすればいいのかよく分からないが、お役に立てると思う」と快諾してくれた。本当に幸運で信じられなかったと語っている。しかしいざ演技の準備を始めてみると、これが容易ならざることで、撮影開始まで6ヵ月以上を要した。

 

B: 二人とも即興でどんどん演じてしまうので会話が噛みあわず、これは大変と思ったそうですね。

A: 撮影方法をマスターできなかったのは当然ですよね。結果的には二人は多くの美点をもち貢献してくれた。映画をご覧になるとロサ・ニナは皺くちゃですが可愛らしい声をしています。劇中話されているアイマラ語はボリビアやペルー、チリの一部で使用、200万人の話者がいるそうで、うちペルーは30万人、主に舞台となるプーノ県で話されている。


ケチュア語と同じくアイマラ語も文字をもたない言語、現在の表記はスペイン語のアルファベットと記号を使用している。ボリビアの1984年に続いてペルーも翌年公用語に認定されている。

     

    

             (撮影中の監督とロサ・ニナ)

 

B: プーノ県はペルー南部に位置し、撮影地は標高5000メートルの高地、県都プーノ市は3800メートル、この1000メートルの高低差にプロジェクトは苦しんだ。

A: 監督の父方の祖父母は4500メートルのところに住んでおり、公用語のスペイン語を解さなかった。6歳ごろから休暇には兄弟と祖父母の家に行かされ、1年のうち34ヵ月間一緒に過ごし、結果的にアイマラ語ができるようになった。父親も叔父たちも忙しく行くことは稀で、これが〈息子不在〉のテーマになっている。

B: この体験が主人公たちの感じていた寂寥感に繋がり、監督は今では消えてしまった風習や伝統の目撃者になることができた。

   

A: この映画を作ろうと思ったきっかけは、アンデスの高地を訪れると、子供世代の高齢になった両親の放棄を間近に見ることが多かった。最初こそ年に数回帰郷したが自然に足が遠のいていった。親たちは我が子や孫たちに見捨てられたと感じ、寂しさに苦しんでいた。

B: つまり、この高齢になった親世代を見捨てることが、中心的テーマの一つと言っていい。ウィルカは息子の帰郷を既に諦めているが、パクシはそうではない。

 

A: 帰郷しない息子は、自分たちの文化遺産を継承できない子供たちのメタファー、それは視聴者であるかもしれません。継承できない子供は、生まれなかった子供と同じです。監督は「アンデスの文化と言語は社会からほとんど評価されていない」と嘆いています。

B: 社会から疎遠になっている人々をサポートする必要があります。監督自身は両親のお蔭で長老たちは尊敬されるべきであり、彼らが知恵袋であることを学びましたが、現在では少数派になっています。

A: ペルーに限らず、若い人にとって年寄りは迷惑な存在とまでは言いませんが重荷になりました。これは世界中に存在している事実です。    

 

         山は映画のもうひとりの主人公―パクシが向かう場所

 

B: 物語はサント・ロメリートの祝いの儀式から始り、夫婦は元気に長生きできるように「災難が遠ざかり、幸運が訪れるよう」に「ここには黄金の捧げもの、ここは銀の神殿です」と歌い踊る。ウィルカの吹くケーナに合わせてパクシが踊る。音楽はこれを含めて2回あるだけです。観客は風の音、小川のせせらぎ、雷鳴、雨や霰の音、炎のはぜる音、リャマや鳥の鳴き声など自然に聞こえてくるもので占められている。

   

A: この儀式からヨーロッパ大陸からもたらされたカソリックが元からあった宗教と独自に融合していることが知れる。また新しい年の始めには、コカの葉を携えて神聖な丘に登りパチャクティの儀式を行う。肥沃な畑や動物、新年になっても戻ってこない息子の健康を太陽神に祈る。また重要と思われるのがパクシがしばしば見る夢の内容に注目です。二人の咳、ウィルカの苦しそうな荒い息やいびきが伏線になってラストに雪崩れ込んでいく。

 

         

            (新年の祝いをするウィルカとパクシ)

 

B: 表層的には淡々と進んでいきますが、実はウィルカはコカの葉を通して前兆を読みとっていた。セリフを追っているだけでは本質が分からない。そして底をつき始めたマッチが大きな転回点になる。

A: マッチはグローバリゼーションの比喩、彼らはかつてはマッチという文明の利器に依存しないで暮らしていた。夫がマッチを買いに下山していくが手に入らず、妻の火の不始末のせいで物語は急展開していく。

B: 自給自足の日常のはずが、既にそうではなかったわけです。

 

        

         (マッチを買いにリャマと連れ立って下山するウィルカ)  

 

A: またアンデスの文化では、小山には男と女の性別があるということです。山は映画のもう一人の主人公、アンデスの世界観に倣って妻が向かうラストシーンに多くの観客は衝撃をうけると思います。

B: 公開前ですからこれ以上は触れることはできません。

A: 撮影場所を探すのに苦労したと語っていましたが、薄い酸素に慣れているとはいえ、5000メートル以上の高さでの撮影は大きな挑戦だったはずです。風光明媚な美しさは写真向きではありますが、その後ろに何が隠されているかを、私たちは読みとらねばなりません。

 

   

       (パクシとウィルカが並んだ石積みの象徴的なオブジェ)

 

        

     (パクシが向かう場所は何処か)

 

B: 本作には政治的批判をこめたメッセージが随所に見られます。美しい山岳映画、静かな夫婦愛を描いたヒューマンドラマではありません。

A: 先住民をないがしろにする国家への批判です。ペルーは地理的に大きく分けると、首都リマがあるコスタ(12%)、日本人観光客に一番人気のマチュピチュのある高地のシエラ(28%台)、アマゾン川のセルバ(60%)の3つの地形に分類される多文化国家です。コスタ地域に30パーセント以上の国民がひしめいている。プーナという4100メートル以上の高地は、寒冷のため人が暮らすには適しないと言われ、この地域で主にケチュア語とアイマラ語が話されている。若い人は都会に出て、スペイン語とのバイリンガルです。

 

B: 監督は「ペルーには母語となる言語は約49あるが徐々に消えていってます。国家がその回復を推進し始めたのはここ数年のことで、すると保存の名目で悪用する人が現れ、微妙な問題です」と。

A: 確かにデリケートな問題を抱えていますが、ただ保存すればいいというわけではない。次世代が継承できるようサポートするシステムが必要です。しかし映画のように家族が崩壊しなければ言語も慣習も伝統も残っていくはずです。その家族の存続が難問です。

 

B: 本作は5年前の作品ということで日本語字幕付ではありませんが、既にYouTubeNetflix、プライムビデオなどで視聴可能です。

A: 管理人はYouTubeスペイン語字幕で鑑賞しましたが、映像を堪能するなら映画はスクリーンに限ります。

 

  

 関連情報

ペルーコンテンポラリー映画祭~千年の文化が宿す魂の発見」として、インスティトゥト・セルバンテス東京でペルー映画5作の上映会があります(715日~16日、日本語字幕付)。オスカル・カタコラの『アンデス、ふたりぼっち』は含まれておりませんが、製作を手掛けた叔父ティト・カタコラのドキュメンタリー「パクチャPakucha2180分)がエントリーされています。アルパカの毛刈りの儀式を追ったものです。パクチャとはアルパカの精霊ということです。本作は夭折した甥オスカル・カタコラに捧げられています。監督は他にオスカルが2007年に撮った中編「El sendero del chulo」(45分、ドラマ)の撮影も手掛けています。

日時2022716日(土)13301450

場所:インスティトゥト・セルバンテス東京 地下1階オーディトリアム

*入場無料・要予約

 

    

      

           (ありし日のオスカルとティト・カタコラ)

 

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