ロサ・マリア・サルダ逝く*リンパ腫癌に倒れる ― 2020年06月18日 11:01
ハリケーンのように半世紀を駆け抜けた女優ロサ・マリア・サルダ逝く
★6月11日、ロサ・マリア・サルダがリンパ腫癌で旅立ちました。親しい友人たちも彼女が病魔と闘っていることを直前まで知らなかったということです。死去する数週間前に、正確には40日前にジョルディ・エボレのテレビ番組に出演し、「もう私の人生に良い時は訪れないでしょう。78歳という年齢はだいたいそんなものです。私はどちらかというと病人、ええ、癌なんです。しかし皆さんはそのことを知らないはずです」と語ったことで、彼女が2014年から闘病しながら映画に出演していたことが分かったのでした。Netflixで日本でもストリーミング配信されたエミリオ・マルティネス=ラサロの『オチョ・アペリードス・カタラネス』(15)も、結局最後の映画出演となったフェルナンド・トゥルエバの「La reina de España」(16)も闘病しながらの出演だったということになります。
(ありし日のロサ・マリア・サルダ)
★ロサ・マリア・サルダは、1941年7月30日バルセロナ生れ、女優、コメディアン、舞台演出家、舞台女優、テレビ司会者、2020年6月11日バルセロナで死去、享年78歳でした。スペイン語とカタルーニャ語を駆使して約半世紀に渡って笑いを振りまきましたが、「自分を喜劇役者とは思っていません」と。ウィットに富んだ語り口、時にはシニカルだがパンチの利いた社会的発言、頭の回転の速さ、よく動く目と口で私たちを魅了しました。年の離れた弟ジャーナリストのハビエル・サルダ(1958)、1980年若くしてエイズに倒れた末弟フアンの3人姉弟。コミック・トリオLa Trincaラ・トリンカメンバーの一人、後に息子の父親となるジョセップ・マリア・マイナトと結婚した。1962年プロの舞台女優としてスタート、1969年からTVシリーズ、一人息子のポル・マイナト(1975)は、俳優、監督、撮影監督、TVシリーズ「Abuela de verano」(05)で共演している。
(一人息子ポル・マイナト・サルダとのツーショット、2004年)
★映画界入りは80年代と遅く、ベントゥラ・ポンスの「El vicario de Olot」(81)、ルイス・ガルシア・ベルランガの「Moros y cristianos」(87「イスラム教徒とキリスト教徒」)に出演している。1993年、マヌエル・ゴメス・ペレイラのコメディ「 ¿Por qué lo llaman amor cuando quieren decir sexo? 」 にベロニカ・フォルケやホルヘ・サンスと共演、翌年の第8回ゴヤ賞助演女優賞を受賞した。ゴヤ賞ガラの総合司会者にも抜擢され、コメディアンとしての実力を遺憾なく発揮した記念すべき授賞式だった。ゴヤ賞関連では、第13回ゴヤ賞1999の2回目となる総合司会者となり、つづいて第16回ゴヤ賞2002の3回目のホストを務め、ジョアキン・オリストレルの「Sin vergüenza」(01)で2個目となる助演女優賞も受賞している。
(ゴヤ賞ガラの総合司会をする)
(2個目となる助演女優賞のトロフィを手にしたロサ・マリア・サルダ、ゴヤ賞2002ガラ)
★舞台女優としては、1986年にブレヒトの戯曲『肝っ玉おっ母と子どもたち』に出演、1989年にはジョセップ・マリア・ベネトのコメディ戯曲「Ai carai!」を演出、舞台監督デビューをした。他に映画化もされているガルシア・ロルカの『ベルナルド・アルバの家』では、女家長の世話を長年務めた家政婦ポンシア役で演劇界の大女優ヌリア・エスペルトと共演した。エスペルトとはベントゥラ・ポンスの「Actrius」(96、カタルーニャ語「女優たち」)でも共演、翌1997年ブタカ賞を揃って受賞している。ポンス監督とはマイアミ映画祭2001女優賞受賞作「Anita no pierde el tren」(00、カタルーニャ語)他でもタッグを組んでいる。2015年には演劇界の最高賞と言われるマックス栄誉賞を受賞している。映画化もされたマーガレット・エドソンの戯曲『ウィット』をリュイス・パスクアルが演出した舞台にも立っている。
(マックス栄誉賞のトロフィを手にスピーチするサルダ、2015年)
(ヌリア・エスペルトとサルダ『ベルナルド・アルバの家』から)
(エドソンの戯曲『ウィット』に出演したサルダ)
★90年代以降は映画にシフトし、公開や映画祭上映作品として字幕入りで観られる作品が増えた。フェルナンド・トゥルエバの『美しき虜』(98、ゴヤ賞1999助演女優賞ノミネート)、ペドロ・アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』(99)、イマノル・ウリベの『キャロルの初恋』(02)、ダニエラ・フェヘルマン&イネス・パリスの『マイ・マザー・ライクス・ウーマン』(02)、イシアル・ボリャインの『テイク・マイ・アイズ』(03)、上記の『オチョ・アペリードス・カタラネス』と結構あります。
(セシリア・ロス、サルダ、ペネロペ・クルス、『オール・アバウト・マイ・マザー』から)
★ゴヤ賞以外にも、2010年スペイン映画アカデミーから「金のメダル」、同年マラガ映画祭マラガ賞、第3回フェロス賞2016 栄誉賞受賞、実弟のハビエル・サルダの手からトロフィを受け取った。同年ガウディ賞栄誉賞も受賞した。映画界入りが遅かったこともあり、晩年の活躍が目立った。
*第3回フェロス賞2016栄誉賞の記事は、コチラ⇒2016年01月21日
(フェロス栄誉賞に出席したサルダ姉弟、2016年)
(ガウディ栄誉賞のトロフィを代理で受け取った息子ポル・マイナト、2016年)
★昨年の11月にプラネタ社から ”Un incidente sin importancia”(仮訳「あまり重要でない事ども」)というタイトルの自伝を出版した。コメディアンの草分け的存在だった祖父母のこと、若くして亡くなった看護師の母親のこと、そして黒い縮れた髪、地中海の青い海とも薄暗い湖のようにも見える目をした、一番ハンサムだった末弟フアンのことなど、亡き人々へ送る手紙として後半生の30年間を綴っているようです。母親が亡くなったとき25歳だったロサ・マリアには、まだ8歳だったハビエルと、もっと小さいフアンが残された。二人の弟の母親でもあったようです。フアンは1980年、まだスペインでは謎の病気だったエイズの犠牲者の一人になった。地獄のような2年間の闘病生活を共にしたということです。あのサルダの明るさと強靭な精神は何処から来たのでしょうか。本書を「初めての世界へ旅立つのはなんて複雑なんでしょう!」と締めくくったサルダ、生涯にわたり自由人であり続けたサルダも病魔の痛みから解放された。
(”Un incidente sin importannte”の表紙)
★コロナの時代に訃報を綴るのは気の重いことですが、サルダの光と影、特に今まで語られなかった影の部分に心打たれアップすることにしました。ツイッターでは、俳優のアントニオ・バンデラス、ハビエル・カマラ、「トレンテ 2」で共演したサンティアゴ・セグラ、政界からはペドロ・サンチェス首相がサルダの偉大さについて自身のSNSで哀悼の意を捧げている。ほか多くのファンからは涙のつぶやきが溢れている。8月開催がアナウンスされたマラガ映画祭で急遽特集が組まれかもしれません。
(地中海に面したマラガの遊歩道に建立された自身の記念碑の前で、2010マラガ賞受賞)
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