続 フアン・アントニオ・バルデムの「あるサイクリストの死」2020年05月15日 22:18

               内戦の爪痕、貧富の二極化が鮮明

 

 50年代半ばのマドリードが舞台、撮影の大半はチャマルティン・スタジオ、ロケ地はマドリードとその近郊で行われた。ですから事故現場となるマドリード郊外の深夜のような静寂と暗闇は、現実だったと考えていい。雨に濡れた石畳が薄暗い街灯の光の中で映える、モノクロならではの美しさです。

 まだ石畳だった。時刻は夕食前だというのに、あの荒涼とした風景には胸を突かれます。

 チャマルティン・スタジオは19421月に完成、本格的な設備を整えたスタジオだそうです。マルセリーノ坊やでお馴染みの『汚れなき悪戯』(54)もここで撮影された。

 

 青春時代を内戦のうちに過ごしたフアンの世代は、過去から自由になりたい欲求が強く、理想と現実のギャップから精神的に屈折している。

 特にフアンの場合は、内戦前に愛しあっていた恋人が、今では実業家夫人におさまっている。二重の挫折感に襲われている。それに彼はファランヘ党員として従軍していて、現状に幻滅している。

 民兵としてではなく職業軍人みたいですね。

 ファランヘ党の性格は時期によって異なるのですが、内戦時にはフランコ側の母体となっている。スペインの伝統を重んじ、勿論カトリック至上主義、反ナチだがムッソリーニからは資金援助を受けているという複雑さです。

 

 フアンは姉カルミナの夫ホルヘのコネで現在の分析幾何学助教授という地位を得ている。

 日本では準教授と名称の変わった助教授とは少し違う印象です。正教授を補佐する教授補のような身分じゃないかな。現在は廃止されている。だから正教授になることが周囲から期待されている。

 つまり母親の目からは、フアンはまだ成功者として映っていない。

 

 学年末試験の風景に興味を惹かれました。途中で立ち去ったのが多分正教授だと思う。合否を決める試験なのに席を立つなんて、一種の職場放棄です。

 インテレクチュアルのいい加減さ、危機感のなさです。女子学生マティルデを含めて聴講していた学生に美人を揃えたのは、スペイン女性の美しさと先進性を宣伝するよう指導があったのかと勘ぐった。

 

A マティルデ役のブルーナ・コッラは、1933年トレント生れ、大人っぽくて大学生には見えませんでした。次の時代を指導するだろう新しい世代のリーダーとして登場させている

B いわばマリア・ホセのような古い世代の女性と対比させている。しかしルチア・ボゼーより2歳若いだけだから殆ど同世代、見た目の違いが分からなかった。                

 

          アルベルト・クロサスはラテンアメリカの二枚目だった

 

 フアン役のアルベルト・クロサス19211916年説もあるバルセロナ生れ、1994年に鬼籍入りしています。父親がカタルーニャ自治州政府の高官だったことで、内戦が始まると家族でチリに亡命しました。俳優としての本格デビューは1943チリ映画でした。アルゼンチン映画にも多数出演、あちらでは二枚目として活躍してい

B スペイン映画に出るきっかけは?

   

A 本作のスペイン側の製作会社スエビア・フィルム1941年設立セサレオ・ゴンサレスの推挙、バルデムに彼を起用するよう助言した。この大物製作者はガリシアのビゴ市出身ですが、若い頃はキューバやメキシコで仕事をしていた。その線で最初はマリア・ホセ役もメキシコのグロリア・マリンだった。

 

 本作出演を転機に、その後はもっぱらスペイン映画に出演、本数も多い。

 そうですね、一時的に戻ってアルゼンチン映画に出ることがあっても、生涯を閉じるまでスペインがメインでした。日本でも公開なったフェルナンド・パラシオス『ばくだん家族』65La gran familiaペドロ・マソー『試験結婚』72La experiencia prematrimonialなどがそうです

 海外にも紹介され、コマーシャルベースにも乗った。

 

 前者はファミリー・シリーズのひとつ、15人の子持ちのパパ役でした。未公開ですがエドガル・ネビーリェEl baile59では、シニカルで冷静な紳士役を演じ、シリアス、コメディともにこなし、演技の幅も広かった。ネビーリェはブニュエルと同世代です。より先にハリウッドに渡った経験豊かな監督、帰国してからも若い世代に影響をあたえている。もっと評価されていい監督です。

 

 フアンがまだ息があるのに見殺しにしてしまった自転車乗りアパートを訪ねるシーン、労働者階級の貧困を目の当たりにして慄然とする。

 事故以前からフアンは何のために自分は闘っているのかと苦しんでいる。内戦を生き延びたのに、将来を誓い合った恋人は既に人妻になっている。さらに貧富の差は拡大して決して交錯することがない。二極化なんて言うと聞こえがいいですが、平たく言えば三度のご飯が満足に食べられない階層と贅沢三昧ができる階層に分かれている、ということです。

 

B 労働者の事故死なんか誰も調べようとしないそういう社会的混乱の時代を生きている国の象徴として、フアンに貧民街を訪れさせている。自首の動機付けとしてではない。

 前述したように、フアンの相手をする隣りの奥さんは、監督の実の母親マティルデ・ムニョス・サンペドロバルデム家は、両親も俳優、息子ミゲルは監督、ピラールは女優、彼女の二人の息子カルロスとハビエル兄弟、娘モニカも俳優という映画一家です。 

 最近ハビエルがペネロペ・クルスと結婚、さらに増えました

 

        夫ミゲルはコキュ、美術評論家‘ラファ’は寄生虫 

 

 夫ミゲル役は辛い、権力も財産も容貌も不足ないのに女房に浮気された<寝とられ男>です。男としてまことに不面目このうえないのに堂々としていなければならない。

 理解ある亭主を演出することで、逆に妻を苦しめている。

 オテッロ・トーソは、ミゲルのような産業ブルジョアジーが台頭する背景には、外貨不足に陥っていたフランコ側が軍事基地の提供をエサに、アメリカから経済援助を引き出し自己の体制強化を狙いたい事情がありました1914年パドゥア生れ、スペイン映画出演は初めて、主にイタリアのメロドラマに出演している。1966年パドゥア近郊で自動車事故のため52歳の若さで鬼籍入りしてしまった。

 

 新興ブルジョアジーの台頭例として登場するのが、アメリカ大使館で開催されたパーティ。ユニークだったのが上流階級に巣食う熟達のパラサイト“ラファ”。ゴシップを嗅ぎまわって脅しをかけて生き延びている

 しかし腐った社会に「警鐘を鳴らす人」でもあるのです。二人の密通を嗅ぎつけていたが、轢き逃げ事件までは知らなかった。カルロス・カサラビリャ1900年ウルグアイのモンテビデオ生れ、国籍はウルグアイですが1981年バレンシアで死去している。戦前から活躍しており、バルデム映画にはカンヌ映画祭1954出品の Cómicos(「役者たち」)や、Sonatas59「ソナタ」メキシコ合作)に出演している。前者の「喜劇役者たち」は、その社会的批判性から危険人物と目されるようになった意義深い作品でした。

  

 ハリウッド映画にも出演していますスタンリー・クレマーのスペクタクル『誇りと情熱』57にケーリー・グラントやソフィア・ローレンと共演している。

 ハリウッドといっても当時、アメリカ人が製作費の格段に安いスペインで大作を量産していた時代があったのですが、これもその一つです。カサラビリャは脇役が多いのですが、なかでセサル・フェルナンデス・アルドバン El Lazarillo de Tormes では主役の盲人に扮した。これはベルリン映画祭1960の金熊賞受賞作品です。アクセントにウルグアイ訛りがあったせいか外国人役が多く、その特異な顔立ちから皮肉っぽい役柄を得意とした。

 

           

         (マリア・ホセを脅すラファことラファエル・サンドバル)

 

 タブラオ・フラメンコのシーンのカンタオーラは、グラシア・モンテスだそうです

 1936年セビリア生れ、グラシータの愛称で親しまれ、当時はまだ十代でしたが独特の声をしており、若いアーティストとしてセビリアで成功していた。歌っているのはフラメンコのファンタンゴスのAmor, ¿por que no viniste amor?です。

 

 ファンタンゴスというのは愛、悲しみ、宗教がテーマのフラメンコ、ぴったりです。

 このシーンは特別撮影用に録音された別バージョンだそうです。

 闘牛とフラメンコは格好の<輸出品>だったから故意に挿入されたように感じました。

 体制側からドル箱アメリカに気配りするよう求められたかも知れません。その後もカルメン・フロレスと共に<コプラ>の歌手としてファンを楽しませております。

 

 出番はほんの数分でしたが、助けを求めに行くサイクリスト役マヌエル・アレクサンドレは、マルコス・カルネバル『エルサフレド』でフレドになった人です。

 本作はラテンビート2005で上映され好評でした。1917年マドリド生れ、77歳のときの作品、今でも現役です。バルデム作品ではLa venganza58直訳「復讐」)に出演しています。

投稿2ヵ月後の20101012日、癌で死去、享年92歳。

 

             イタリア・ネオレアリズモの優れた教科書

 

 テクニックも当時としては斬新です。場面展開にハッとするシーンがいくつもあった。

 ベッドにいるマリア・ホセがマドリドから逃れたくて、夫に「どこか旅行に連れてって」とせがむシーン、夫に両手差し出すので抱き合うのかと期待すると、突然夫の顔はフアンの顔に入れ替わる。

 無力感ただようフアンの顔にね。口髭が似ているので一瞬アレっと思う。

 

 ラファの仄めかしで不倫がばれる。マリア・ホセが「他に知ってることは何?」と狂ったように問い詰めるシーン。夫ミゲルもラファを軽蔑ので見やる。やりきれなくなったラファが酔いに任せて傍らのワインの瓶を投げつける。

 割れるのはフアンの勤務する大学の窓ガラス、学生たちが石礫を投げて抗議している場面に転換していく。

 

 唸ったのは、マリア・ホセの友人クリスティナが、私たちが集めた寄付金は「おバカな貧乏人の子供のためよ」と歌うと、カメラが貧民街で遊んでいる子供たちに移動する。

 次は同じ構図で着飾ったお譲ちゃんお坊ちゃんが現れるという具合。

 

 寄付金はおバカな子供の酔っ払いとデブのおっ母さんを増やすだけという自嘲も込められている。

 検閲が通ったのは歌に託して逃げたからです如何にして検閲を通すかに知力を尽くした。

 当時のシネアストたちは検閲に神経をすり減らしていたので、、フランコ没後、検閲が廃止されると気が抜けて仕事が手につかなかった、というジョークがあるくらいでした。

 

 後年ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』73で使いました

 これから始まるのおとぎ話ですからね」と。教室から小学生の歌が聞こえてくる歌詞がそうです。1973年は既にフランコ体制も緩み始めていた時代でしたが、それでも警戒を怠らなかった。エリセの場合、他にもたくさん手込んだ細工をしています。反体制文化の発展のなかの単なる通過点にすぎないという評は公平じゃないです。

 

 

  監督キャリア&フィルモグラフィー

★フアン・アントニオ・バルデムJuan Antonio Bardem は、1922年俳優ラファエル・バルデムとマティルデ・ムニョス・サンペドロの長男としてマドリードに生れる。内戦勃発時は14歳だったので従軍していないが内戦の体験者である。内戦の初期はマドリードやバルセロナの共和政府地域、1937年からはサンセバスティアンやセビーリャのフランコ軍地域を転々とし、終結後はマドリードに移った。この体験はその後の生き方の根幹をなしている。

 

1943年、家族の希望で農業学校に入学するも卒業は1948年と長期を要した。その間、1946年からは農業省で働きながら映画の勉強を始める。また1947年開校した国立映画研究所に第1期生として入学する。同期生に「幸せなカップル」51、公開53)を共同監督したルイス・ガルシア・ベルランガがいる。この時期には「スペインクラシック映画上映会」でも上映される予定の『ようこそマーシャルさん』の共同脚本執筆者の一人。また『大通り』56)もエントリーされている。第16回ゴヤ賞2002栄誉賞受賞。同年1030日にマドリードで死去、享年80歳。

 

       

  (映画監督の息子ミゲル・バルデム、妹で女優のピラール・バルデム、ゴヤ賞2002授賞式)

 

198410月、東京国立近代美術館フィルムセンター(京橋フィルムセンター)で開催された「スペイン映画の詩的展望<19511977>」に続いて、11月に東京の渋谷で開催された「第1回スペイン映画祭」のとき来日している。1976年以降に製作された名作10作が上映されている。

 

日本語版ウイキペディアでも紹介記事が読めるので、以下に代表作を年代順に列挙しておきます。短編・TVシリーズ・ドキュメンタリーは割愛。

   

1951 Esa pareja feriz 「幸せのカップル」

1953  Cómicos 「喜劇役者たち」

1954  Felices Pascuas 「メリー・クリスマス」/「楽しいクリスマス」

1955  Muerte de un ciclista 公開『恐怖の逢びき』

1956  Calle mayor 『大通り』(映画祭タイトル)

1957  La venganza 「復讐」

1959  Sonatas 「ソナタ」メキシコ合作

1960  A las cinco de la tarde 「午後の5時に」

1962  Los inocentes 「無実の人」ベルリン映画祭FIPRESCI受賞

1963  Nunca pasa nada 「何も起こりはしない」

1965  Los pianos mecánicos 「自動ピアノ」(フランス合作)、公開『太陽が目にしみる』

1968  El último día de la guerra 『最後の戦塵』(未公開、TV放映)

1970  Varieetés 「ヴァリエラ」

1971  La isla misteriosa (伊=仏との合作)、公開『ミステリー島探検・地底人間の謎』

1972  La corrupción de Chris Miller 公開『真夜中の恐怖』

1975  El poder de deseo 「欲望の力」

1976  El puente 「橋」モスクワ映画祭作品賞受賞

1979 Siete dias de enero 「1月の7日間」モスクワ映画祭作品賞受賞

1982 Die Mahnung (スペイン語題 La advertencia)西ドイツ、独語

1997 Resultado final 「最後の結果」

 

TVシリーズは割愛したが、ミニシリーズ「Lorca, muerte de un poeta」(6話、60分)が198711月から翌年の1月まで、毎週土曜日のゴールデン・タイムに放映され好評だった。ドキュメンタリーとドラマで構成する、いわゆるドクドラマ、脚本には、マリオ・カムス監督、イギリス出身ながらロルカ研究の第一人者イアン・ギブソンが共同執筆している。


コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://aribaba39.asablo.jp/blog/2020/05/15/9247128/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。