アレハンドロ・ホドロフスキー『リアリティのダンス』③2014年08月06日 10:42

★間をおかずに③をアップするつもりが、目下公開中とかアレックス・アングロの訃報などでモタモタしているうちに気が失せて、でもやはり落ち穂拾いをして締めておこう。

 

孤独と自由は同じです

: 半世紀前にパントマイムのマルセル・マルソーと来日していたのはトレビアを読んで知ってましたが、25年前にも『サンタ・サングレ』のプロモーションで来日していたそうです。

: 今回の来日はイベント出演やら座禅説法やらと老体に鞭打って駆け回りました。

: 日本では禅は宗教ですが、アジア以外の外国人にとっては哲学、彼の場合も同じです。メキシコで禅僧高田慧穣に出会ったことが決定的でした。出会いについては自伝的回想録に詳しいが、入手したカタログには人生で出会った「誠実な5人のうちの1人」とありました。

: ほかの4人は誰なのか知りたいですね。

 

: 自分を肯定できなかった「少年時代を振り返る個人的なカタルシス」と前回書きましたが、自分を好きにならないと人生の再出発はできない。なりたい自分でなく、親が求める別人になるよう強いるのは、一種の精神的虐待ですが、少年は「別人になること」を選んでいる。確かに少年時代の「ウクライナの家」は「棘の家」であったかもしれないが、少年は孤独と引き換えに自由を獲得しています。孤独を選んだのも少年だし、孤独と自由はイコールです。

: 少年は両親に愛されたくて別人になることを選んだのだから、親に強いられたように見えても選択したのは少年自身でした。

 

       (セット用に再建された「ウクライナ商店」、火事で焼失していた)

 

: それにしても、こんな個人的なカタルシスに多くの観客が共感していることがちょっと不思議です。『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』に較べたら余程分かりやすいから安心できたのかもしれない。

: 分かりやすくなったとはいえ、カメラに映らなかった、映像に現れなかった背後の難解さは健在です。サーカスとか火事のシーンの色彩の美しさ、暗殺やら自殺のショッキングなシーン、加えて瞑想やサイコマジックなど舞台装置は色どり豊かですが、映画の本質は別ですね。

 

: 虚栄心の強いバランスの崩れた父親でしたが、商才に長けた働き者で心身ともに強健、学歴もなく後ろ楯もないウクライナからのユダヤ系移民が、短期間にあれだけの成功をおさめるのは並みの努力ではなかったはずです。

: あの世界的な不況時代に少年は餓えることもなく、父ハイメや友達カルリートスのように働かずに過ごせたのは、逆に幸せな少年時代だったといえます。高価だったアイスクリームも食べられた(笑)。

: 父のような貧乏が故の屈辱は受けずにすんだ。孤独には違いないが、一歩先を歩く人は同時代人には理解されにくく常に孤独です。チリの代表的な舞踊音楽の<クエッカ>は、一組の男女が組になって踊る。しかし赤い靴と空色の長ズボンを履いた少年は一人で踊る。白人だから当然「ミルク脚」をしているので他の子供のように半ズボンは履けない。そう「リアリティのダンス」は「孤独のダンス」なのです。 

                    (孤独だったアレハンドロ少年)

 

自分が信じたいものだけを信じる

: 若い時は当たり前ですが、誰でもたいてい不遜で成功を夢見ています。オレのゲイジュツは分かる人だけが分かればいい、と分からない人を排除してしまう。

: インタビューのなかで1970年代は「選ばれた観客に対して芸術を作っていたと思います」と語ってますね。また歳を重ねることは「素晴らしいこと」だとも。見ない夢は実現できませんが、他人を無視して生きることもできません。賢く歳を重ねることは至難ですが、ホドロフスキーはわがままだが頑固ジイサンにならなかった、そこが魅力。本作は自伝をベースにしていますがあくまでフィクッション、人は自分が信じたいものだけを信じて生きることしかできません。

 

: 転機はやはり三男テオの若すぎる死でしょうか。自分のエゴが崩壊したと言ってます。それがなかったら『リアリティのダンス』は生れなかっただろうとも。

: 既に述べたことですが、24歳で亡くなった1995年には、実父ハイメはイスラエルで生きてましたね。監督には詩人の実姉ラケルがいましたが、他に1970年代にイスラエルで生れた2人の異母弟妹もおり、テオと同年齢くらいでした。

: テオにとっては叔父叔母になるんですね。

 

: 幸せとはいえなかった母親は四男アダンが生れたと同じ年(1979)に、実姉が暮らしていたペルーのリマで亡くなっています。「家族の癒しと再生」がテーマと言われていますが、家族とは既にこの世に存在していない両親ではなく、必ずしも良き父親ではなかった自分と子供たちとの関係修復だったと思うんです。更に言うなら映画のなかのハイメに自分自身を重ねているのではないかと。

: 独裁者イバニェスがピノチェトの写し絵だったようにね。3人の息子を含めて家族ぐるみで作った映画です。特に主人公のハイメをブロンティスに演じさせた。長男に祖父を演じさせることで監督は息子と和解したかったように感じました。

 

(ハイメ役のブロンティス・ホドロフスキー)

 

: ブロンティスが6歳になるまで父親としての責任を放棄していた。代わって今度は生母ベルナデット・ランドリューに捨てられ父に引き取られた。それからは異母弟クリストバルたちと一緒に継母ヴァレリーに育てられた。慈み育てられたとしても心に傷が残らないはずはないでしょう。兄弟でも弟たちとは立ち位置が違うのです。

: 両親を理解できたとしても小さい心は納得できなかったでしょう。理解と納得は違います。母ランドリューが飛行機事故で急逝したとき、父の胸に顔を押し当て何時間も悲しみに耐えたと回想録にありますが、自分を見捨てた母親でも子供は許すのですよ。

 

「過去というのは主観的な見方」

: 映画のなかのハイメはかなりカリカチュアされています。自己流に解釈したコミュニストであったようですが独裁者に正義の鉄槌を下そうとするほど狂気の人ではない。過去の記憶は書換えが可能です。科学的データの書換えではありませんから捏造ではなく、視点を変えれば別の過去が現れるというだけのことです。

: 「過去というのは主観的な見方だ」と語ってます。「この映画では主観的過去」を掘り起こして過去を変えようと意図したようです。

 

 
            (消防隊員のマスコットになった少年、最左翼がアナーキスト役のアダン)

: 第一次大戦が始まる前にウクライナからフランス経由でチリに逃れてきた一家は、イディッシュ語とロシア語(あるいはウクライナ語)しか話せなかった。チリの国語がスペイン語だったことも知らずに来たのではないか。とにかく一家を受け入れてくれた国がたまたまチリだった。

: 「ロシア系ユダヤ人の子としてチリのトコビージャで生れた」には違和感があります。

: 「ユダヤ系ロシア人の・・」でしょうね。ユダ王国の選民という意味でのユダヤ人はもはや存在しませんから厳密には「ユダヤ人」は存在しない。存在するのは「イスラエル人」です。時代によってユダヤ人の定義は変化しています。以前のように「ユダヤ教を信じている人」も当てはまりません。

 

: ハイメは無宗教を信仰し、サラはロシア人のゴイだった実父の立場をとっていました。だから息子アレハンドロに宗教教育はしなかった。

: ヨーロッパでは以前のように「ユダヤ人の母親から生まれた人」だけでなく「ユダヤ人を親にもつ人」と父親も含めるのが現在の定義のようです。ブロンティスたちの母親はユダヤ系ではありませんが、父親は4分の1ユダヤの血が入っています。息子たちは以前でしたらユダヤ系に含まれない。以下の数値がどちらを採用しているか不明ですが、ラテンアメリカ諸国に暮らすユダヤ系の人口は、一番がアルゼンチン(184,000人)、次がチリ(20,700人)でした。

 

: さて、ホドロフスキーの次回作はタイトルが『フアン・ソロ』(Juan Solo)と決定しているようです。「個人的ではないストーリーを語ります。底辺の底辺にいる一人の人間」が幸せになるという話のようです。

: 底辺ですか、そうですか、こういう上から目線の言葉は<癒し>以上に嫌いです。「ひとりぼっちのフアン」の完成は早くして下さい、23年は待てません(笑)。メキシコで撮影、長男ブロンティスが出演するのですね。彼はピーター・サースガードのソックリさんだとアメリカでは話題になっていますが、ホントによく似ています。ビリー・レイの『ニュースの天才』で全米映画批評家協会賞の助演男優賞をもらってオファーが増えたとか。関係ないね。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://aribaba39.asablo.jp/blog/2014/08/06/7407544/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。