アレハンドロ・ホドロフスキーの 『リアリティのダンス』 ②2014年07月19日 16:13

トコピージャはチリで一番有名な町

: チリのプレミア上映は、昨年8月のトコピージャだった。若いプロデューサーのハビエル・ゲレーロは華々しく首都でやりたかったでしょう。3万人の町で8000人が見に来たというのは驚きです。

: 南半球だから真冬で寒かった。R18+には監督は呆れ、プロダクションは憤慨した。反対にトコピージャ市民の協力は、300人のエキストラだけでなく感激の連続だったようで、それがプレミア上映の観客数に表れています。上映当日、監督は仕事で来られなくて、お詫びのメッセージ映像がスクリーンに大写しされた。

 

: トコビージャの人々は本当に尊敬に値すると感激していますね。市長役のカルロス・カンテロ氏は、実際に元市長だったとか。

: 監督は10歳で後にした故郷に再び戻るとは思ってもいなかったと語っています。ましてや映画のために戻るとは。再訪して驚いたのは、父ハイメが経営していた店「La Casa Ukrania」(ウクライナの家)以外なにも変わっていなかったこと。たちまち小さな子供に戻ってしまった。日本から移民してきた床屋さんに髪を切って貰っていたのだが、店内の家具調度も全く同じ、目眩がしてしまったと。勿論、店主は80歳ぐらいの息子さんに変わっていたが(笑)。

: じゃあ、セットを組まず、そのまま撮影できたのですか?

: お店は消防署のすぐ傍にあって火事の巻き添えで焼失していたから、そこだけ立て替えたそうです。首都サンティアゴで2ヵ月間下準備して、トコピージャでの撮影は5週間とデータにあります。

 

: 宣伝チラシには「チリの田舎町を舞台に」とありますが、世界大恐慌の煽りで失業者に溢れていたようですが、実際のトコビージャは無尽蔵の天然硝石のお蔭で栄えていた。

: 欧米(イタリア、イギリス、スペイン、ドイツ)、ギリシャ、中国、日本からの移民が多く住んでおり、文化的には信じられないほど豊かだった。ラテンアメリカ諸国はおしなべて多民族国家です。劇場を兼ねた映画館では海外のフィルムが上映され、同じく演劇団も来演して大いに楽しんだ。映画に出てくるサーカスだけじゃなかった。市立図書館には成功した市民からの専門書や文庫本の寄贈があり、本の虫だった監督も大いに利用したようです。それぞれ母国から持ちこんだ文化に固執しながらも溶解が起きるのは自然なことです。

 

 少年アレハンドロに寄り添うお爺ちゃんは何者?

: トコピージャの浜辺、少年の足元には数えきれないイワシが打ち上げられ、突然カモメの大軍がイワシ目がけて襲ってくる。飢えた人々の一団がその鳥の大群を追い払ってしまう。少年は恐ろしくなって浜辺から逃げ出すと老人の腕が彼を抱きとめる。

: この冒頭シーンのメタファーは、観客のそれぞれが違って受け止めると思います。少年を抱きとめた<老人>が誰かも含めて。監督が演じているから老アレハンドロと考える観客が多いかと思いますが、回想録を読んだ方は違うかも。父方の祖父アレハンドロは統合失調症で何度も異次元をさまよい最後は狂気に陥った人。この同じ名前の祖父は自分のなかに想像上の人物Reveレーベを住まわせていた。父ハイメも自分の都合によって息子の教育にレーベを利用した。次第に少年はレーベを友とするようになり、自分の内からわきあがる声をレーベに貸し与え、その助言を想像し、それに従って行動したと書いている。

 

(老アレハンドロと少年アレハンドロ)

 

: 他にも温厚で聖人のようだった母方の継祖父モイシェも混在しているのではありませんか。本作は同タイトルの自伝的回想録の少年時代がベースになっていますが、自由にアレンジした殆どフィクションです。

: 老アレハンドロでもレーベでも、夢想好きな少年アレハンドロの分身でも同じことですが。先に回想録を読んで映画を見た人は、極端にデフォルメされた父ハイメと母サラには呆気にとられたと思います。文学と映画という表現方法の違いもありますが、ジャンルの違い以上に二つには十年以上の時の流れがあったということです。監督の心の軌跡を垣間見ることにもなっています。

 

: どの映画にも言えることですが、「コレはコレコレを意味しています」と断定するのは避けなければならない。観客は自分が受けたイメージに合わせて自由に解釈していいと思う。

: 回想録ではまだ果たせなかった和解を、80歳過ぎて映画にすることで、三代にわたる複雑で歪だった一族の和解がやっとできたという印象です。それまでは偏った価値観の両親、プリンセスのように家族に君臨した姉を許すことができなかったんだと思う。

 

: 現在では、2歳年上の姉ラケル・レアも鬼籍入りしましたからね。

: 母サラはハイメと別れた後ペルーで娘と暮らし、監督が50歳のとき(1979年)亡くなった。監督によると、ラケルは両親の愛を独り占めにしていたが、父ハイメの束縛から脱出するため偽装妊娠をして挙式を急がせたという。実際花婿はラケルに指一本触れてなくバージンだった。見栄っ張りなハイメは結婚費用に全財産をつぎ込んだあげく破産した。息子アレハンドロも末子アダンが生れた頃(1979)、未完の映画「牙」のプロデューサーが破産して、監督自身も一文無しになった。ハッハッハ。 

              (晩年のラケル・ホドロフスキー

 

ラケル・レア・ホドロフスキー:詩人、1927年トコピージャ生れ。15歳のときユダヤ系移民の数学教師サウル・グロスと結婚するも間もなく破綻。1950年代に国立サン・マルコス大学の奨学金を得てペルーへ移住、小説家、文化人類学者のホセ・マリア・アルゲダスと知り合い、ペルー文化に寄与。ユダヤ系アメリカ人、ビート文学の代表者、詩人アレン・ギンズバーグ(192697)とは互いに連絡を取り合っていた。両親が同じ船でアメリカに到着した間柄だった。20111027日、首都リマで死去(享年84歳)。処女詩集はLa Dimensión de los Días、他にPoemas EscogidosCaramelo de Salなど。

 

 誰にも愛されなかった父ハイメ

: 映画には父親ハイメをたばかった<女王さま>は登場しません。

: ハイメが唯一愛をそそいだ存在だったのに裏切った。緑の瞳の美しい娘でラケリータと父は呼んで可愛がった。王女さまの目には弟アレハンドロは透明人間、ハイメから無視されていた母サラと少年は、常に余所者として存在し、そういう関係で連帯していたのではないか。だから映画では姉は見事に消されてしまった。

: ハイメは勤勉な靴職人だった父アレハンドロを憎んでいたという。そういう父親と同じ名前を息子に付ける。やはり尋常とは思えない。ハイメの歪な人格には出自以上に、その苦労の大きさが影響を与えている。

 

: ハイメの兄妹は5人で日本風に言うと次男です。長男はドニエプル河の氾濫で溺死していたから実際上は長男だった。1914年に父親が死んだとき、母テレサと一人の弟、二人の妹が残された。実直な靴職人には何の蓄えもなく母子は道に放り出された。ハイメは家族を食べさせるため学業を止め、荷役人夫、炭売り、坑夫、店を持つ前はサーカスの空中ブランコ乗りの芸人だった。

: これは映画にも登場します。ろくすっぽ教育を受けていなかったから、監督に言わせると、マルクス主義も自己流の解釈だったようです。

 

: 主人公ハイメを演じた長男ブロンティスは「サーカスのブランコ用の綱に登らなくちゃならないし、祖母サラとのセックスシーンもあるし、拷問シーン、聖人との出会い・・・いい経験だが大変だった」と語っています。本作には監督の3人の息子全員が出演していますが、ハイメ役ほど精神的に厳しい役はない。事実上の祖父ハイメを孫の自分が演じるというより、父親の父親を演じるという意識があった。本当のサラは祖母だが映画では妻、パメラ・フローレスは妻と同時に潜在意識では祖母だから混乱した。

: 巷では監督だけに光を当てていますが、このブロンティスの怪演なしに映画の成功はなかったと思う。虚栄心と憎しみをエネルギーにした矛盾だらけの人格、苦労と怒りで心の発達が子供で止まってしまい体だけが逞しくなった人間の悲しみ、粗野と純粋が複雑に絡み合ったハイメを演じ切りました。

 

: 監督もブロンティスには一目置いていますね。さて、サラを演じたパメラ・フローレスは、チリ生れのオペラ歌手、女優。第2作目、デビューはフランス映画。その叙情的な声にはうっとりします。今後いい監督に出会えることを期待したい。

: 実際の両親も映画同様「蚤の夫婦」で、妻のほうが夫よりかなり大きく、パメラの胸のように豊満だったという。体形に合わせて声もオペラのアリアのようだったらしく、サラのセリフをオペラ風にしたアイディアはそこから生れたのかもしれない。

 

       (パメラ・フローレスとイェレミアス・ハースコヴィッツ、映画から)

 

: 母親についてのホドロフスキーの記憶には曖昧なところがあり、回想録と家系図Metagenealogia(後述)には矛盾があります。必ずしも幸せとはいえなかった母親を美化できるのは、子供しかおりませんから不思議ではありません。(サラ・フェリシダー・プルランスキーについては前回①UP

 

息子たちの母親は誰?

: 生れた順にハイメを演じたブロンティスから。

: ブロンティスはベルナデット・ランドリューを母に1962年メキシコで生れた。パリの演劇界ではよく知られた俳優。母親は父親を愛したが、父親はそうではなかった。仕方なく生れたての赤ん坊ブロンティスを背負ってフランスへ、父との再会は6年後、6歳で呼び戻されるまで父親を知らない子供だった。そして6カ月後に『エル・トポ』(70)で映画デビュー、これは前回書きました。

: 監督曰く、呼び戻したのではなく、母親ランドリューがアフリカから送りつけてきたという。

: 荷物じゃあるまいし、まったく。実際は監督が迎えに行った(笑)、愛が憎しみに変わっていたというわけです。他に『ホーリー・マウンテン』、『サンタ・サングレ』に出演しています。

 

: ランドリューはその後、先鋭的なコミュニズムの政治活動に専念、1983年スペインの飛行場で離陸に失敗した飛行機に乗り合わせていて亡くなった。

: ぐちゃぐちゃになった遺体を一人で確認したブロンティスは、まだ21歳の多感な青年だったから、トラウマを抱えることになった。ランドリューの子供はブロンティスだけです。行者になったクリストバル、アナーキストになったアダン、1995年に事故死したテオの3人の母親はメキシコ出身のヴァレリー、比較的長続きしましたね。彼女は『ファンド・アンド・リス』(68)や『エル・トポ』にヴァレリー・ホドロフスキー名で出演しています。娘エウヘニアの母親は分かりませんでした。今はフツウの人生を送りたいと一家とは離れて暮らしています。

 

(行者に扮したクリストバル・ホドロフスキー)

 

: 次男クリストバル(同アクセル)、1965年メキシコ生れ。サイコシャーマン(患者に即興の劇を演じさせる心理療法をする)、俳優、造形アーティスト。『サンタ・サングレ』では主演、本作では行者になりました。

: 四男アダン(同アダノフスキー)、1979年パリ生れ(公式サイトに南アメリカとあるがWikiと回想録によった。カタログは未確認)。俳優、監督、ミュージシャン(ベースギター奏者、ピアノ、作曲)とキラキラ輝いている。本作ではイバニェス暗殺に失敗して自殺するアナーキスト役と音楽を担当した。『サンタ・サングレ』、ジュリー・デルピーの『パリ、恋人たちの2日間』(2007)などに出演。短編The Voice Thief2013、米・仏・チリ)が「ジェラールメ映画祭2014」(仏)で短編賞を受賞した。父親アレハンドロも出演、ストーリーも共同執筆して応援した。本作のプロデューサーの一人ハビエル・ゲレーロ・ヤマモトも出資している。

 

                       (アダンとホドロフスキー)

 

 ホドロフスキーは何婚したの?

: 結婚した、いや恋人だったという女性がマリアンヌ・コスタLa via del tarot2004)とMetagenealogia2011の共著者です。これも前回少し触れました。正式に籍を入れたのか親密なパートナー関係だけだったのか複数のウラが取れなかった。ホドロフスキーがタロットを読みといて行うサイコマジックの処方行為の記録を取っていた女性。1960年代の初めにフランスで生れ、大学では比較文学を専攻、作家、ロック歌手、感傷小説の翻訳者。紛争後のサラエボで、フランス文学のアシスタント、アンドレ・マルロー文化センターの協力者として働いたという大変な才媛。詩集も出版していて、舞台女優でもある。今年春に来日した監督はインタビューで、新妻パスカル・モンタンドンとは、「10年前に結婚」と語っていましたから、関係を解消した後も仕事はいっしょに続けていたことになります。

 

  (マリアンヌ・コスタと監督)

 

: パスカル・モンタンドンとは親子ほど年が離れていますから、最初は名前の公表をしないよう周囲に頼んでいたとか。世間的にはスキャンダルの類です。

: 長男次男より若いのかな。70歳を過ぎて再婚、イスラエルに移住したという父ハイメがダブります。憎み合った父子でしたが不思議な縁です。あちらは子供まで2人できた! パスカルは本作の衣装デザインを手掛けている、ヴェトナム系フランス人の画家、デザイナー。彼女の一目惚れのようです。監督はさすがにビビって、パスカルの父親(つまり舅)に承諾を貰いに行った。舅より1日だけ若かったので許して貰えた。アッハッハ。

 

                     (パスカル・モンタンドンと監督)

 

: 回想録には夢で最初の妻「デニス」と再会するくだりがあります。

: この女性は繊細で知的で狂気につけ狙われていた。故郷カナダの精神病院に入院させたとき、20本脚のテーブルの制作に没頭していたという。夢では、デニスのまわりには親友で詩人のエンリケ・リン、トポール、息子テオがいたという。デニスを含めると何人と結婚したのか、他に短期間のパートナーもいたから(ヘビースモーカーだったので直ぐ別れた)正確には分からない。また変わるかもしれないしね。

: 鬼才と一緒に暮らすのは容易なことではありません。

 

個人的なカタルシス

: 近年、スペイン語映画でこれほどジャンルを越えて話題になった監督作品は記憶にありません。ボラーニョが「チリの作家」と紹介されるたびに覚えた違和感がホドロフスキーにも当てはまります。「チリ生れの」ぐらいが妥当でしょう。

: 「チリの監督」では括れない。ブニュエルの小人、『フェリーニのアマルコルド』、サーカスに魅了され裕福な家庭を飛びだしてピエロをやっていたトッド・ブラウニング監督を思い出す人は相当のシネマニア。

: でもそれらとは「違うのが私の映画」と監督は語っています。

 

: 未公開のThe Rainbow Thief1990)から数えて23年振りの映画が大成功、世界を駆け巡っています。ブロンティスも台湾→エストニア→フランス→メキシコ→ケベック→アメリカと、父親と手分けして行脚をしています。

: メキシコでは最近とみに存在感を増してきた「モレリア国際映画祭2013」で上映され、今年6月に一般公開されたのには驚いた。1974年の『ホーリー・マウンテン』では、撮影の途中で「アレハンドロに死を!」と叫ぶ群衆にマンションを取りかこまれ、やむなくニューヨークで仕上げた。年末に生活の本拠をパリに移した理由の一つと思います。ずっと時代が下ったカルロス・カレロの『アマロ神父の罪』(2002)でさえ暴動が起きて上映中止になったくらいだから、公開は無理だと思っていた。

 

: アジアでは「釜山映画祭13」がさすがに早く、「香港映画祭14」、「エルサレム映画祭14」と上映が続いているが、国民の大半がカトリックの中南米諸国では目下のところチリとメキシコぐらいです。

: 軍事独裁政で苦しんだスペインやアルゼンチンはまだのようですが、多分公開されないのではないか。泣き虫の独裁者などあまりに嘘っぽくて皮肉も空回りして楽しめない。他人が踏み込めない個人的な辛い記憶からの解放に政治を持ちこむことへの拒否反応が予想されます。

: 豊かな色彩や音楽は楽しめても、鉱山事故で手足をもぎ取られた人々のゴミ扱いは、事実だっただけに爆弾を落とされたように感じる人がいるかもしれない。

: 日本は長いこと戦争や飢えを知らずにいるから、こんな感想は無用でしょうか。

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