ガルシア・ベルランガ*”Novio a la vista” 「一見、恋人」2015年06月21日 18:21

   

★セルバンテス文化センターで『ようこそ、マーシャルさん』(英語字幕)が上映されるようなので、それに合わせて1年後に撮られた“Novio a la vista”をアップします。これは以前カビナさんブログに寄せたコメント(20111月)を独立して読めるよう不要な部分を削除、新たに加筆訂正して再構成したものです。ベルランガの訃報に接したばかりの時期に書いたものです(20101112日、享年89歳)。カビナ・ブログは目下休眠中ですが、管理人の知る限り本作について日本語で読めるブログとして唯一のものです。時代背景の解説、スペイン語サイトでどう紹介されているかなど出典を明記しており、とても参考になります。

カビナ・ブログの記事はコチラ201111

 

★プロット、キャストなどの基本データを新たに加えました。タイトルは「一見、恋人」と直訳されていますが、未来の旦那さま、お婿さん選別の辛口コメディです。

 


   Novio a la vista(英題“Boyfriend in Sight”)

製作:Producciones Benito Perojo S. A.

監督・脚本:ルイス・ガルシア・ベルランガ

原案・脚本:エドガー・ネビーリェ

脚本(共同):ホセ・ルイス・コリーナ、フアン・アントニオ・バルデム

撮影:ミゲル・フェルナンデス・ミラ、セシリオ・パニアグア、セバスティアン・ペレラ

音楽:フアン・キンテロ

編集:ペピータ・オルドゥーナ

衣装:ウンベルト・コルネホ

データ:スペイン、スペイン語、1954年、コメディ、モノクロ、82分、

 

キャスト:ジョゼット・アーノ(ロリ)、ホルヘ・ビコ(エンリケ)、フリア・カバ・アルバ(ロリの母親)、アントニオ・リケルメ(アントニオ・コルティナ)、イレーネ・カバ・アルバ(ロリの伯母)、ホセ・マリア・ロデロ(フェデリコ・ビリャヌエバ)、ホセ・ルイス・ロペス・バスケス(レノバレス)、メルセデス・ムニョス・サンペドロ(ロリの伯母)、

  

プロット:舞台は1918年、スペインの海辺の避暑地リンダマール。ロリは大人への第一歩を踏み出そうとしている年頃の娘、ロリの母親の良識によれば、まさに結婚適齢期、お婿さんを探すに遅くはない年だ。同い年のエンリケは密かにロリを想っているが、学年末の試験が赤点、避暑地のホテルにカンヅメになって猛勉強とあいなる。母親は避暑地で出会った名門ビリャヌエバ家の御曹司エンジニアのフェデリコに白羽の矢を立てる。

 

     1984年は日本におけるスペイン映画元年

 

 本題に入る前に、そもそも何故他人のブログにこんな長いコメントを入れたかというと、スペインの監督で一番好きなベルランガの“Tamaño natural”(1973Life Size”)がアップされているのを読んだからでした。これは「等身大の恋人」という邦題で公開が決定していたにもかかわらず、当時でもバカバカしいとしか言えないような理由で頓挫してしまいました。

 東欧最大級といわれるチェコのカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で「世界の十大監督」の一人に選ばれながら、カンヌやヴェネチア映画祭で話題になりながら、日本公開がゼロというのは不可解です。

 

 1984年秋に東京国立近代美術館フィルムセンターで開催された「スペイン映画の史的展望<19511977>に、『ようこそマーシャルさん』と『カラブッチ』が紹介されただけでした。

 しかしこれは本当に画期的なイベントでした。スペイン映画がこれだけ纏まって紹介されたことは、かつてなかったからです。

 約1ヵ月間にわたって23本のスペイン映画が紹介され、映画関係者に「目から鱗が落ち」たと言わしめた映画祭です。その後すぐ、スペイン文化省主催の「第1回スペイン映画祭」が開催され、ポスト・フランコ体制下の10本が上映され、こちらも大盛況でした。

 

 カルロス・サウラ、マヌエル・グティエレス・アラゴン、マリオ・カムス、ビクトル・エリセのように両方で紹介された監督もおりましたが、ベルランガはこれには選ばれませんでした。

 もともと寡作な監督、この時期には“La escopeta nacional”(1977「国民銃」)、“Patrimonio nacional”(1981「国有財産」)、“Nacional Ⅲ”(1982「ナシオナル第三部」)、いわゆる「ナシオナル三部作」を撮っております。

 スペインでは爆発的な人気を博してベルランガも多くのファンを獲得した。どれか選ばれてもよかった。

 

 個人的には「スペイン映画の史的展望」が、『カラブッチ』でなく“El verdugo”(1963「死刑執行人」)を選んでくれてたらと今でも思っています。5年後の1989年に「第2回スペイン映画祭」が開催され、わずか7本と小規模だったせいか、この時も選ばれませんでした。

 アルモドバルの『欲望の法則』やホセ・ルイス・クエルダの『にぎやかな森』などが上映された。

  2作とも翌年公開されました。この映画祭は作品数こそ少なかったのですが、スペイン映画史に残る監督の代表作が揃っておりました。

B アルモドバルはこの年、『マタドール』『神経衰弱ぎりぎりの女たち』なども次々公開され、ちょっとしたブームになりました。

 

     検閲に苦しんだベルランガ

 

 前置きが長くなりましたが、さて本作は、『ようこそ、マーシャルさん』のカンヌ映画祭での大成功の1年後だけに当局の風当たりも強く苦労した作品。厳しい検閲のため内容が変質させられ、ベルランガ自身も作品に不満だったようです。

 カンヌでの成功が検閲側を刺激した。若手の場合、手持ちの資金も少ないから、検閲のみならず外部の圧力には不本意ながら従わざるをえない。

 

 検閲側としては「マーシャルさん」のテーマは、大戦後のアメリカによる欧州復興計画のチグハグさや当時ハリウッドを吹きまくっていたマッカーシズムを皮肉ったもので、反体制映画とは考えなかった。なにしろアントニオ・バルデムとの共同監督作品1作あるだけの新人、チェックも甘かったと思います。

 スペイン人のアナクロニズムを同時に笑い飛ばしていても、反フランコとは思わなかった。だからカンヌに持っていけたのかもしれません。

 

 実際はどうだったかというと、スペイン国民や外国人にはピーンときた。それで<注意人物>となり検閲は厳しくなった。しつこく引っ掻きまわされたあげくボツになったホンが山ほどあるということです。

 スペインの検閲は完成した作品をカットしたりモザイクを掛けたりするのでなく、脚本段階での事前検閲だから脚本が通過しないと撮れない。

 

 本作のテーマは、男の子のピーターパン症候群的解釈、世代間隔絶の社会的テーマ、娘の良縁探しを風刺したもの、いろいろ考えられます。まずテーマに入る前に、本作が「マーシャルさん」の次の作品であること、19555月に開催された「サラマンカ国民映画会議」前の作品であること、イタリア・ネオレアリズモの影響下にあること、脚本家のラファエル・アスコナに出会う前であることを押さえておきたい。

 ベルランガ映画を語るとき、製作年の時代背景、衝突しながらも二人三脚でいくつもの難局を乗り越えてきた盟友アスコナについての言及は落とせません。

 

 上記のように、原案はコメディの巨匠エドガー・ネビーリェ、製作者も大物のベニト・ペロホ。ネビーリェの古い脚本を翻案したものです。ベルランガの母方の伯父さんは、18世紀に起原をもつスペイン伝統の一幕物の喜劇「サイネテ」の作者、監督はその影響を多く受けている。

 ハッピーエンドにすることで本当のテーマをカムフラージュするやり方、ひねりを利かせる方法です。

 

 エドガー・ネビーリェは当時の映画界の重鎮、伯爵家の出身で外交官でもあった。文化担当官としてアメリカのスペイン大使館に勤務していたこともある自他共に許す第一人者。ベニト・ペロホもサイレント時代から活躍していたやり手の監督・プロデューサーです。50年代には監督業を止めておりますが、早くからトーキーがやりたくてフランスやハリウッドに行って映画を作った人です。

 駆出し監督としては、検閲を通すために大物をカシラに据えて煙幕を張る、トンガってばかりはいられないということですか。こういう大物の後ろ盾があったればこそ、検閲も手加減して日の目を見たのかもしれません。 

                                    (エドガー・ネビーリェとチャールズ・チャップリン)

 

 ベルランガは、ジョゼット・アーノが扮したロリ役に、まだブレークする前のBBベベことブリジット・バルドーを起用したかったそうです。しかし、他の作品に出演中でスペインに来られない。ぺロホは待つわけにいかない、とベルランガの希望をあっさり蹴ってしまった。不本意でも飲むしかない。

 俳優起用の目利きでもあった。吹替えだからフランス人でもよかったわけですね。 

 そうです。ロリ役のJ・アーノもフランス人です。

 

    男は子供も大人もピーターパン症候群

 

 英題は“Boyfriend in Sight”、資料では「一見、恋人」と翻訳されてます。最初のタイトルは“Quince anitos”または“Loli se viste de mujer”だったそうです。

 女の子の15歳というのはいわゆる社交界デビューの年齢、もう一つは娘の名前を<ロリ>、ロリータとしたこと、エンリケよりもベルランガの目は思春期のロリに向けられている。

 

 ナボコフの『ロリータ』の刊行は1955年ですが、1953年には既に完成していた。表面的には中年男の少女性愛という衝撃的な内容のためアメリカでは出版できず、最終的にはフランスのポルノグラフィの出版社が刊行しました。

 ベルランガのところにニュースが届いていたかどうか分かりませんが、なんとなく連想したくなります。ロリ役にBBを起用したかったことなど考えると。

 

 この小説が悲喜劇か政治小説かの読みは、コケティッシュな美少女ロリータと大学教授ハンバートのメタファーの取り方で解釈が変わると思います。キューブリックが1962年に映画化していますが、1963年の“Tamaño natural”では 少なくとも頭の片隅にあったと思います。

 テーマは全く別ですが、<実物大>のドールに流れ込んでいるかもしれません。

 

 ベルランガは、繊細で気分や、性に目覚めかけた年頃の女の子に興味があり、カビナさんが紹介のアレハンドロ・ディアスも、ロリは“Placido”(1961「プラシド・心優しき者」)に登場するマルティタに繋がっていると書いています。こちらは代表作と言っていいでしょう。

 先ほど触れた脚本家ラファエル・アスコナと最初に組んだ長編です。

 

 最初ロリは親に反抗してロングドレスを着ることを嫌がります。しかし、夏が終われば逆にセーラー服を拒否してドレスを選ぶのです。「もう、こっちのほうが似合うでしょ」と飼い犬に話しかけると、ワンちゃんも「うん、うん」と同意する。

B ベルランガらしいブラック・ユーモアですが、要するにエンリケとのプラトニックな恋をおしまいにし、よりステータスが高く財力のあるエンジニアのフェデリコに鞍替えする。

 

                   (子供を卒業するロリ、まだ子供でいたいエンリケ)

 

B フェデリコの成金ぶりも可笑しいが、母親たちの<羨望の的>です。母親や娘たちが現実直視型なのも、夫の社会的地位や経済力で妻の評価が定まった時代には当たり前ですとベルランガは揶揄っているわけ。

結婚はあくまで家と家がするもの、自由恋愛など以てのほか、いくら反抗しても無駄ですよ、と映画は当てこすっている。

 しかし非難できません、不釣り合いな玉の輿結婚などは後ろ指を指された時代です。夏休みが終わっても男の子のまんまのエンリケは、曇った窓ガラスに指文字で「Loli」と書く。

 一方ロリは、早くも<良縁の相手>に鞍替えして「Federico」と書く。一見ユーモラスなシーンの中にもベルランガの生来のペシミストぶりが窺えます。

 

 第三者には逃避に見えても、本人的には苦しいから、ピーターパン・シンドロームの若者は増えつづける。

 日本でもモラトリアム人間が増えつづけ、アイデンティティの確立を先延ばしにして大人になりたがらない。仕事や家庭内の重圧に向き合えない傾向にあるから、スペインの専売特許とは言えません。

 しかし先述のA・ディアスは、スペイン映画に根深いコンセプトの一つとして、エリセを例に挙げています。

 妻も娘もありながら昔の恋人を忘れられず失踪してしまう『エル・スール』の父親のことですかね。

 

     世代間の摩擦は時代を問わず万国共通です

 

 プチブルのお嬢ちゃんお坊ちゃんにしても、今から見ると幼すぎ、1516歳といえば中高生、男子の制服が半ズボンというのもびっくりです。抵抗の仕方も子供っぽい。

 でもルイ・マルの映画に登場する戦前の男の子も半ズボンですね。まあ、これは1918年というか1953年当時の上中流階級のカリカチュア、子供に劣らず大人もかなり幼稚です。わざとそうしたのですよ。ベルランガは権力側のバカげた側面に対して辛辣な目を忘れなかったが、JA・バルデムのような正攻法はとらなかった。

 

 世代間の意思疎通はどの時代も上手くいかない。かつて「今時の若者は、・・・」と言われた世代が、いつの間にやら同じことを言うようになる。

 ストレスと同じで適度の断絶は社会の原動力にもなり、一概に悪いと言えない。本作では子供と大人の世代が何のメタファーになっているかです。世代間隔絶といえば、スタッフ側にもいえると思います。ネビーリェ=ぺロホVSベルランガ=バルデム=コリーナの水面下でのバトルです。

 

 JL・コリーナという人はベルランガと同郷の仲間、二つの世代ではユーモアの質が違うというか何かしっくりいかないということですか。

 目指す方向が異なっていたと思います。ベルランガが「テーマが変質した」と反発しているのはそのことでしょう。プチブルの能天気な避暑地暮らしや良縁探しを皮肉るだけでなく、もっと権力への抵抗が無駄である現実を描きたかったと思います。1918年とは第一次大戦が終わった年ですからね。本作のドタバタやギャグは一世代前のコメディを踏襲したものです。

 

 撮影はスタジオを飛び出しロケーションが主です。イタリア・ネオレアリズモの影響です。エキストラは撮影地ベニカシムの人々にお願いし、お祭り騒ぎで行われた。

 混乱続きだったようですね。リンダマール(美しい海)は架空の地名、実際はバレンシア州のカステリョン・デ・ラ・プラナ県にあるリゾート地ベニカシムで撮影された。現在でこそ人口18000の有名な避暑地となりましたが、当時はナイナイ尽くしだったということです。映画的には内戦前の高級リゾート地、外国の国賓級の避暑客で賑わったというサンセバスチャンあたりを想定している。A・ディアスは、ユロ伯父さんがフランスの高級リゾート地にバカンスに出掛け大騒動を繰り広げるコメディ、ジャック・タチの『ぼくの伯父さんの休暇』(1953)の影響があると書いています。 

                    (ベニカシムでの撮影風景)

 

 ベルランガの穏やかなユーモアも似ているかな。紳士は背広にネクタイにカンカン帽、御婦人方も盛装しているので扇子が手放せない。男の子の縞々のワンピース型水着、恋の語らいは糸電話、ローラースケート、クリケット、落とし穴ごっこ、子供側の武器が松ぼっくりとは。

 当時のファッションも楽しいですが、耳の遠くなった紳士の補聴器が昔の聴診器のようなラッパ型、クラシックカー、SPレコードに蓄音器などなど懐かしい小道具が揃っています。

 

 キャストは、若者3人は別として、脇はベテラン勢が固め、ホセ・ルイス・ロペス・バスケスの顔も。

 彼はベルランガの常連さん、第1作“Esa pareja feliz”(1951「幸せなカップル」)に引き続き出演しました。前述した「ナシオナル三部作」にホセ・ルイスをひっくり返したルイス・ホセ役で、後期の作品“Todos a la carcel(1993)が最後の出演作です。

 若いときから老け役、脇役が主でしたからテレビ出演を含めると膨大な数になります。

 

          (ホセ・ルイス・ロペス・バスケス、ゴヤ賞2004栄誉賞を受賞)

 

 晩年、「ウディ・アレンの映画に出るのが私の夢、彼がスペインで映画撮るときには、なんか役をくれないかなぁ」と冗談言ってましたが。

 呼ばれたのは、当時夫婦未満、恋人以上の関係だったハビエル・バルデムとペネロペ・クルスでした()

 役者として最も大切で難しいのは、「演技をしないこと、セリフがなく沈黙しているとき、視線の向け方。今ではそういうことに気をつかわないけど・・・」と。蓋し至言だね。

 ベルランガより1歳弟の1922年生れでしたが、200911月お先に旅立ってしまいました。

 

     1918年ではなく1953年が問題か

 

 まず「1918年、ヨーロッパ」という字幕を入れ、時代を明確に設定しています。

 女スパイが高官らしき軍人のポケットから秘密文書を抜き取っているシーンは、終わったばかりの第一次世界大戦のスパイ合戦をからかっているわけです。抱き合った二人の顔は映りませんが、色仕掛けに弱い殿方をも皮肉っているのでしょう。

B カップルでないオンナとオトコは要注意。もっと後で、夫たちの流し目を警戒した御婦人方が、おひとり様の美人避暑客を目の敵にするシーンに繋げている。

 

 王宮から皇太子らしきセーラー服の男の子が出てきて車で学年末試験会場に向かう。試験官が「ブルボン王朝についてご存じのことをお答え下さい」と促すと、件の皇太子は「えーと、ブルボン家の歴代国王は、フェリペ5世、ルイ1世、フェルナンド6世、・・・・フェルナンド7世、イサベル2世、アルフォンソ12世、それからパパ」とすらすら回答、見事合格します。

 <パパ>というのはアルフォンソ13世、国王には当時4人の男子がおりました。この年齢だと1907年生れの長男アルフォンソになるが、1933年に平民と結婚したため王位継承権を放棄している。

A  1953年当時の王位継承者第1位は四男のフアン王子、前国王フアン・カルロス1世の父親バルセロナ伯爵ですね。その自由思想のためフランコに嫌われて結果的には王位に即けなかった。この二人がミックスされていると思います。

 

B 1953年段階では即けるかどうか不明ですが、結果的に即位できなかった。

A  1975年フランコ没後ただちに即位したのは、フランコから後継者指名を受けていたフアン・カルロス王子で、フアン・カルロス1世として即位、既に20146月に退位しています。フランコはバルセロナ伯爵を即位させる気などサラサラなかったから、ここはかなり微妙な個所です。

 

 口答試験の次の番がエンリケ、同じ立派な椅子に座ろうとすると「お前の椅子はこっち」とばかり普通の椅子にさっと取り換えられる。

 エンリケは尻もちをつきそうになる、これなんかはネビーリェのユーモア。彼への出題は、オーストリア・ハンガリー二重帝国についての質問。友人から渡されたアンチョコ持参で臨むがしどろもどろ、バカンス明けに追試を受ける羽目になる。

 エンリケは「オーストリア・ハンガリー帝国はムニャムニャ」と、虎の巻用のハンカチを盗み見たり、序でに吹き出る汗を拭ったりしてオーストリア・ハンガリーを乱発していた。歴史が苦手なのはエンリケだけじゃない。

 

 つまり時代背景は1918年というより製作時の1953年にあるのではないか。スペインは1918年から30年以上も経っているのに旧態依然、他のヨーロッパ諸国がタテマエだけにしろ民主主義を勝ち取ったというのに、わが国の夜明けはいったい何時なんだ、という思いです。

 <1918>とわざわざ字幕を入れたのには意味があると。スペインは第二次世界大戦には参戦しなかったが、もっと残酷な内戦の傷跡に苦しんでいた。

 

 若いシネアストたちは、表現の自由がないこと、自分たちの映画が作れないことに苛立っていた。それが19555月の「サラマンカ国民映画会議」の開催、バルデムが読み上げたスペイン映画の定義、世界の水準に遠く及ばず「政治的に効なく、社会的に偽り、知的に最低、美的に無能、産業的に脆弱」という有名な宣言書になるわけです。

 この映画のテーマは、見方次第で前述したどれにも当てはまります。

 どの監督にも言えることですが、特にベルランガの場合は、作品を1本ずつ切り離さず時代の流れの中で見るほうがいい。どれから見るにしろ楽しみ方は幾通りもあります。すでに作品の大方がクラシック入り、シリアス・ドラマ、コメディ、エンターテインメントが複雑に絡み合っておりますね。

 

     転換点、ラファエル・アスコナとの出会い

 

 脚本家の第一人者アスコナとの出会いは、1950年代の終わり頃です。

 アスコナの容赦のないブラックユーモアとベルランガの祝祭的なドタバタが上手く連結した。アスコナとの第2作目“El verdugo”(1963、「死刑執行人」)がいい見本です。

 各登場人物に振りかかる不条理性や孤独感は身につまされます。

 

 詳しいコメントは「死刑執行人」の項に譲るとして少しだけ触れたい。本作がヴェネチア映画祭のコンペに選ばれるや、スペイン政府は硬化して上映を妨げようとして、西伊2国間の外交問題にまで発展してしまいました。イタリア側としては国家間の問題にしたくなかったが、スペイン政府は同じ年にコミュニストの反体制政治犯やアナーキストなど3人の死刑執行をちらつかせて牽制したんです。

 それが却って映画祭主催者の態度を硬化させたのか、ベルランガは「国際映画批評家連盟賞」を受賞した。 

                  (「死刑執行人」撮影中のアスコナとベルランガ)

 

 時期的にはベルランガの映画についての国際的評価は未だしでした。そこでイタリア駐在のスペイン大使が、国家としてのスペインを中傷するものだと公然と非難したんです。

 まさに泥仕合、本国からの要請があったんでしょうか。

 フランコ自身も切れて「ベルランガは共産主義者じゃないが、それよりタチの悪いサイテイのスペイン人」と言ったそうです()

 

 札付きの悪党にされちゃった。それでスペインでは映画が撮れなくなった。

 一国を代表する指導者のすることではありません。次作の“Las piranas”(“La boutique1967「ブティック」)はアルゼンチンとの合作、あちらで撮っています。これもアスコナの脚本、以後“Moros y cristianos”(1987「モーロ人とキリスト教徒」)まで全てアスコナが執筆しています。

 

 公開寸前でお蔵入りしたという「等身大の恋人」は厳密にはスペイン映画とは言えませんね。

 オリジナル版はフランス語、主人公役のミシェル・ピコリはベルランガの分身とも言われていますが、彼との出会いもアスコナに劣らず重要です。ベルランガは世紀末の1999年、「映画を撮るのはこれでおしまいにしよう」と決心してピコリを呼んだんです。

 最後の作品はピコリで〆ようと、それが“Paris Tombuctu”ですね。

 

    ありがとう、マエストロ、サヨナラはなし

 

 20083月にアスコナが急死したというニュースは衝撃的でした。81歳とはいえ現役でしたから。小説を脚色したものですが“Los girasoles ciegos”が同時くらいに届いた。

 ベルランガには弟を失ったような悲しみだった。

 それから2ヵ月も経たない5月、セルバンテス協会本部にある‘Caja de las Letras’というボックスに重要書類を預けに現れた。

 

 すっかり老人になって車椅子でした。保管した書類の内容はマル秘なんですね。

 生誕100年目の2021612日に開封することになっていて、鍵はセルバンテス協会長カルメン・カファレルに預けられました。公開されればフランコ時代の弾圧などが明かされるかもしれません。 


 昨年1113日に訃報が伝えられると、一斉にマスコミは惜別と感謝のことばを報道しました。

 20世紀のスペイン映画の謙虚な天才、彼ほど笑いと皮肉を交えてスペインを語ってくれた人は他にいないと。遺族によると「穏やかな」旅立ちだったというのが慰めです。

 「我がマエストロ」と常日頃からベルランガを尊敬していたアルモドバルも馳せつけ、エル・パイス紙にも哀悼の辞を寄せていました。

 映画の手法は違っていても、アルモドバルは正真正銘ベルランガの教え子です。

 

 マドリード市にベルランガの名を冠した<ベルランガ・ホール>というのが出来たそうですが。

 ベルランガ映画の全資料が集められた。『ようこそ、マーシャルさん』や「死刑執行人」以下全部揃って見られるそうです。20106月に開会式、ベルランガも車椅子で駆けつけ、それが公けの席の最後になりました。頬を伝わる涙を拭っている姿から、間もなくの旅立ちを予感した人があったかもしれません。

 

 ベルランガは役者でもあった。他人の苦しみを分かち合おうという「国境なき医師団」のキャンペーン(Pastillas contra el dolor ajeno)に出演しましたね。11月初め頃にYouTubeで見ました。

 主旨に賛同して自らカメラの前に立ったようです。おそらくこれが役者といわず全仕事の締めくくりでしょう。その静謐な佇まい、穏やかで優しさにあふれた映像に心が洗われます。140秒の短さ、スペイン語が分からなくても心は通じます。

 

 最後はベルランガ追悼になってしまいました。

 そうですね。私は評論家ではありませんから、客観的な立場から映画を語ろうと思ったことはないんです。自分の辿ってきた人生に即して、その時々で気に入った映画を選んでいる。だからスペイン人からこんなに愛されていながら1本も公開されないことが残念でならない。

 

 2010年、韓国の釜山国際映画祭が特別プログラム「フランコ時代の傑作スペイン映画」をやりました。

 ブニュエルの『ビリディアナ』、バルデムの『恐怖の逢びき』、カルロス・サウラの『狩り』『カラスの飼育』に混じって、「死刑執行人」も上映されました。東京フィルメックス映画祭を持ち出すまでもなく、最近の韓国映画は元気です。韓国でやれたことが日本でやれないことはない。

 赤裸々で優しく、ラディカルで思いやりのあった映画の詩人でした。


『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(1947)ラファエル・ヒル2015年06月19日 15:00

   郷士アルフォンソ・キハーノVS 騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ

 

★作者の名前も題名も知ってるが実際に読み通した人は少数派と言われるのが世界の古典『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』。前編は「機知にとんだ郷士hidalgoドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(1605)、後編は「機知にとんだ騎士caballeroドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(1615)と前編と後編のフルタイトルには重要な違いがある。「騎士道物語」の熱烈な愛読者アルフォンソ・キハーノは騎士ではなく郷士で、「騎士道物語」を読みすぎて、「騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」になるべく従士サンチョ・パンサを従えて旅に出る。だから「郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」というのは矛盾しているのだが、ここに作者セルバンテスの「機知にとんだ」作為があるわけです。

 

          (遍歴の旅に出るドン・キホーテとサンチョ・パンサ)

 

★今年2015年は「後編」刊行400周年にあたり、東京セルバンテス文化センターでは関連催しが目白押しです。映画『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(1947、日本語字幕付)が613日上映されたのを鑑賞しましたのでご紹介いたします。フランコ体制化の1947年にモノクロで撮られたという60数年前の映画です。日本語字幕は「ドン・キホーテ」の翻訳最新版を出された神奈川大学の岩根圀和教授、上映会にもご出席しておられました(『新訳 ドン・キホーテ』前編後編、彩流社、2012刊)。

 

  『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』Don Quijote de la Mancha

製作 Companñía Industrial Film Español S. A.(CIFESA)

監督・脚本 ラファエル・ヒル

脚本(共同):アントニオ・アバド・オフエル、(原作:ミゲル・デ・セルバンテス)

撮影:アルフレッド・フレイレ

音楽:エルネスト・アルフテル

編集:フアン・セラ

製作者:フアン・マヌエル・デ・ラダ

プロダクション:エンリケ・アラルコン、エドゥアルド・トーレ・デ・ラ・フエンテ

データ:スペイン、スペイン語、1947年、モノクロ、スペイン公開19483

受賞歴ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル(スペイン1948

 

キャスト:ラファエル・リベリェス(ドン・キホーテ)、フアン・カルボ(サンチョ・パンサ)、フェルナンド・レイ(学士サンソン・カラスコ)、マノロ・モラン(床屋)、サラ・モンティエル(姪アントニア)、フアン・エスパンタレオン(司祭)、ギジェルモ・マリン(公爵)、ギジェルミーナ・グリン(公爵夫人)、エドゥアルド・ファハルド(ドン・フェルナンド)ほか

 

*監督キャリア&フィルモグラフィー*

ラファエル・ヒル Rafael Gil Alvarez1913年マドリード生れ、1986年没(享年73歳)、監督、脚本家、批評家、製作者。1931年から日刊紙「ABC」や雑誌などに映画批評を執筆し始める。内戦中は共和派のグループのために10分ほどの短編ドキュメンタリーを多数手掛けた。内戦後は主に脚本を手掛け、1942年バレンシアの制作会社CIFESAからEl hombre que se quiso matar”(自殺したかった男)で長編映画デビューを果たした。本作はウェンセスラオ・フェルナンデス・フローレスの小説の映画化(1970年にもキャストを替えてカラーで撮っている)、その後もベニト・ペレス・ガルドス、ミゲル・ミウラなどの文芸路線を歩む。最初の成功作は“Eloisa está debajo de un almendro”(1943、エロイサはアーモンドの木の下に)、エンリケ・ハルディエル・ポンセラの戯曲の映画化、製作はデビュー作と同じCIFESA社である。他にEl clavo”(1944、釘)など合計8本をここで製作、概ねヒット作となっている。初期の短編ドキュメンタリーを含めると85作に及び、遺作は“Las alegres chicas de Colsada”(1984、コルサダの陽気な娘たち)である(日本語タイトルは直訳、以下同じ)。

 

                 (ラファエル・ヒル監督)

 

1940年代から50年代にかけて量産しており、当時の売れっ子監督の一人、良作もこの時期に集中している。『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の1947年には他に、宗教をテーマにした“La fe”(信仰)と“Reina Santa”(聖女王)を撮っている。軍事物の“Los novios de la muerte”、闘牛物の“Sangre en el ruedo”(闘牛場の血)など、いわゆる芸術性の高い作品とは言えないが、ブニュエルと同じように映画の「職人」であることを貫いたのではないか。

 

*主な代表作・受賞作は以下の通り(製作順)

1940La gitanilla”(ジプシー娘)ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル脚本賞

1942El hombre que se quiso matar 自殺したかった男)長編デビュー作

1942Viaje sin destino”(宛てのない旅)ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル作品賞

1943Eloisa está debajo de un almendro”(エロイサはアーモンドの木の下に)同上

1945Tierra sedienta”(干上がった大地)同上

1948Mare nosttrum”(我らが海―地中海)同上スペシャル・メンション、

シネマ・ライターズ・サークル(スペイン)1949監督賞

1948La calle sin sol (太陽のない通り)同上

1949Una mujer cualquiera (売春婦)同上

1953Teatro Apolo (アポロ劇場)同上、

1953La guerra de Dios”(神の戦い)サンセバスチャン映画祭1953作品賞・監督賞、

ヴェネチア映画祭1953ブロンズ賞ほか

1960Siega verde”(青草の刈入れ)ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル監督賞

 

1940年代には16本も撮っており、受賞作も40年代に集中している。有名作家の小説や戯曲をベースにしたのは、脚本段階での厳しい事前検閲を逃れるための一つの手段だったかもしれない。確かに体制側にいた監督ではあったが(そうでないとこんな本数は撮れないし、受賞もあり得ない)、体制御用達監督とまでは言えないし、彼を抜きにしてスペイン映画史を語ることはできないと思う。

 

    原作に忠実だった『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』

 

A: ドン・キホーテ物はスペイン以外でも撮られているが、なかで最も筋に忠実な作り方をしているのがラファエル・ヒルの『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』だそうです。上映前に岩根教授の映画紹介があり、先生も同じご意見でした。

B: 神奈川大学からの助成金を得て、字幕はスペイン語科の学生も参加して練られたそうです。

A: 原文に忠実とはいえ、暴力や卑猥な言葉は削除されていたということでした。またドン・キホーテのセリフは騎士らしく厳かなものに、サムライ言葉に訳したとも。

 

B: 騎士に限らず概ねセリフは長いから日本語でも字幕を追うのは容易じゃありませんでした。白いスクリーンに白文字で載せてあるダイアローグは全然読めないことも・・・

A: お金を取るプロの仕事ではないから致し方ありません。スペインからも商業用ではなく教育に関連した場所だけの上映が許可されたということでした。

B: 最近の映画は100分前後の映画が多いから、137分はいかにも増長の印象が拭えません。

 

A: 「日本ではあまり知られていない女優」サラ・モンティエルが出演していることに触れられていましたが、彼女に限らず知られている女優など一人もおりませんですね()

B: 姪アントニアに扮していて、美しさは飛びぬけています。

A: しかし、まだ泣かず飛ばずの頃で本作出演でも人気はイマイチでした。ブレークするのは1957年、ハリウッドでの成功を手土産に帰国してからです。アルモドバルの『バッド・エデュケーション』にポスターで登場してましたが、1951年生れの監督の少年時代には超有名になっていた。

B: 晩年は同じ女優とは思えないほど肥って、でも引退しませんでした(2013年没、享年85歳)。 

     (死の床に臥すアロンソ・キハーノと姪アントニアのサラ・モンティエル)

 

ゲオルク・ヴィルヘルム・パブスト「ドン・キホーテ」1933年、ミュージカル映画で独英仏語の三つのバージョンがあり、うちフランス版が優れておりDVD化されている。ドン・キホーテはロシア出身のオペラ歌手「歌う俳優」と呼ばれたフョードル・イワノヴィッチ・シャリアピンが演じている。

〇その他、スペイン≂メキシコ合作のコメディ「ドン・キホーテ」(73)の主役はフェルナンド・フェルナン≂ゴメス、マリオ・モレノ<カンティンフラス>がサンチョ・パンサを演じた。

〇オーソン・ウェールズの「オーソン・ウェールズのドン・キホーテ」(95)は、ウェールズが最後まで監督できず、ヘスス・フランコが引き継いで完成させた。

〇テリー・ギリアムのドキュメンタリー(02)、アスセン・マルチュナ他「キホーテ映画に跨って」(07)(セルバンテス上映627日)、TVアニメーション(97)(セルバンテス上映711日と18日)、スペインで一番有名な人物がドン・キホーテです。

 

   『ドン・キホーテ』は不滅です

 

A: 解説のなかでよく分からなかったのが、Ley(法)をPaz(平和・秩序)に置き換えてあるというところで、聞きもらしがあるのかも。

B: また最後のシーン、二人の主従が同じ格好で遍歴の旅に出る後ろ姿がスクリーンに現れ、「これは終わりでなく、始まりである」というナレーションが流れる。これは原文になく、それをどうとらえるかと仰られていた。

A: 登場人物の不死性を暗示しているのではないですか。つまり『ドン・キホーテ』は不滅ですという監督と脚本家の偉大な作家セルバンテスへの敬意です。

B: 他にラファエル・ヒル監督の紹介、岩根教授の解説はだいたいこんなところでしょうか。

 

A: ヒル監督がセルバンテスに関わったのは、1940年にフェルナンド・デルガドの“La gitanilla”の脚本にフアン・デ・オルドゥーニャと執筆したのが始まり。セルバンテスの『模範小説集』の冒頭作品「ジプシー娘」のことで、上述したように「ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル」脚本賞を受賞しています。

B: 作品賞ではありませんが最初の受賞です。これは翻訳書が国書刊行会から刊行されている(牛島信明訳)。

A: 内戦終結間もないころで製作はCIFESA社。新しく生まれ変わったスペインで最も世界に知られた作家セルバンテスの小品は検閲も通りやすかったし、フランコ派の受けも良かったから受賞もしたのでしょう。実際ヒロインはジプシー娘ではなくジプシーの老婆に赤ん坊のとき誘拐された良家の子女だったわけで、それでメデタシメデタシに終わるんです。

 

             (風車に投げ飛ばされるドン・キホーテ)

 

B: 岩根教授が「暴力や卑猥な言葉は削除されていた」と解説されていましたが、これは作り手の意図なのか検閲で削除されたのか微妙ですね。

A: 脚本作成の基本は「可能な限り原文に忠実でいく」と決めていたが、それは原典への尊敬だけでなく、スペイン王立アカデミーの許可を得やすいという理由もあった。なかなかすんなりと検閲を通らず何ヵ所も修正削除を余儀なくされたと語っていたそうです。

B: だとすると原文にあった庶民の卑猥な言葉は修正削除個所だったかもしれない。

A: 原文にある残酷な件りを和らげる、読んでいない庶民でも知っているエピソード、例えば風車と闘うシーンは必ず入れる、なども工夫したとか。

 

   ヒル監督のドン・キホーテ、元気で逞しい女性たち

 

A: セルバンテスは1547年生れ(1616没)、つまり1947年はセルバンテス生誕400年の年にあたり、映画化は祝賀行事の一つとして企画されたようです。ヒル監督は当時売れっ子監督で体制の受けもよかった。この映画がフランコ最盛期に作られた映画であることを忘れてはいけない。

B: 一応の賞讃を受けることができたが、原典に添えられたエル・グレコ風のイラストとは違った印象を受けますが。

A: ドン・キホーテ役は体制派の名優だったラファエル・リベリェスが演じた。体形は原作より少し太めで、それに合わせてロシナンテも痩せ馬というほどではない。高邁な精神の持ち主で、知識も豊かなうえ雄弁、ユーモアを解し、とても純粋です。しかし時代錯誤、悪への挑戦と挫折の繰り返し、男らしくあろうとするが本物の騎士ではないから失敗ばかり、周りの嘲笑を受けるというパターンは同じかな。

 

B: 旅籠の主人の悪ふざけの儀式によって騎士になった、つまり正式の叙任は受けていない。.

A: 原作では本物の騎士でないことを自覚して、自分が虚構の世界で騎士を演じていることを知っていたが、映画は分別を失くした人として描かれていたように思います。ドン・キホーテは間違ったことは言ってない。つまり言葉と行為のあいだに落差があり、ここが面白いところです。

B: 狂気なのは郷士アロンソ・キハーノであって騎士ドン・キホーテではない。一致しているのは女性たちの元気の良さ、賢さ、男性優位の社会を笑い飛ばしている。

 

A: 原作者が生きた時代の女性が本当にこんなだったのか知りませんが、少なくともフランコ時代の女性は、女性も闘わねばならなかった内戦中より縛りがきつかったのではないか。時代精神は不寛容、人種差別主義、カトリック至上主義でしたから。

B: 残酷なシーンは削られたと言いますが、残酷な仕打ちを受けるのは常に主人公側でした。

 

            (銀月の騎士カラスコに敗れるドン・キホーテ)

 

A: 映画のキホーテの人格は、作り手が意図したことかどうか分かりませんが、不寛容で分別を欠いたフランコ主義を象徴しているようにも思える。フェルナンド・レイ扮する名門サラマンカ大学を出た学士サンソン・カラスコと決闘して破れ、騎士を断念して故郷に帰る。

B: カラスコ学士はキホーテの友人で、彼を故郷に戻そうとこちらも「偽の騎士」を演じている。

A: 偽物同士が闘う可笑しさ。最後に熱病に罹って夢から覚めると元の郷士アロンソ・キハーノに戻っている。少し脳みそが足りないはずのサンチョのセリフにちょっと感動します。彼も僅かながら遺産が貰えるんですけどね。

B: 岩根教授が「最後に涙する」と話されていましたが、その通りになりました。映画を見て、じゃ原作にも挑戦しようとする人が出たら嬉しいとも。

 

    時代にあわせ作りたい映画を撮ったラファエル・ヒル監督

 

A: ドン・キホーテを演じたラファエル・リベリェスは、絶世の美女といわれたアンパロ・リベリェスの父親、ヒル監督の「釘」、「エロイサはアーモンドの木の下に」、「信仰」、「太陽のない通り」などに出演、監督とは父親より縁が深い。

B: 監督の映画はいずれも未公開です。1984年秋に初めてスペイン映画が纏めて日本に紹介された「スペイン映画の史的展望<195177> 」や「第1回スペイン映画祭」でも紹介されませんでした。

A: 40年代の映画はヒルに限らず「出来が悪く、面白味が全くないからである」と、「スペイン映画小史」の著者アウグスト・M・トーレスは本映画祭の冊子の冒頭に述べています。

B: 出来の悪い中に本作やフアン・デ・オルドゥーニャの『愛と王冠の壁の中で』(48)が挙げられている。

A: 名指しされた『愛と王冠の壁の中で』が戦後間もなくの1952年に公開されています()。女王フアナにアウロラ・バウティスタ、美男王にフェルナンド・レイが扮した。

B: サンソン・カラスコ<銀月の騎士>になってキホーテを打ち負かす役でした。

A: ブニュエルの話題作に出演しているので日本では認知度が高い。1994年で死去する直前まで現役でありつづけた息の長い俳優でした。

B: 本作のフェルナンド・レイは二枚目、ガラン役者だったのですね。

 

A: サンチョ役のフアン・カルボは、ヒル監督の“Huella de luz”(光の跡43)や「干上がった大地」などに出演している。日本登場はハンガリー出身のラディスラオ・バフダの『汚れなき悪戯』(55)でしょうか。これにはラファエル・リベリェスも出演している。

B: ガルシア・ベルランガの“Calabuch”(カラブッチ56)にも。彼の代表作『ようこそ、マーシャルさん』の上映&トークの会がセルバンテス文化センターであります(722日)。

  

             (サンチョ・パンサ役のフアン・カルボ)

 

A: ヒル監督が好きだった監督は、ウィキペディアによるとムルナウ、チャップリン、キートン、ジョン・フォード、ハワード・ホークス、フランク・キャプラ、それにキング・ヴィダーだったとある。

B: なんか出身国は違ってもハリウッド監督が多いね()

A: 訃報に接したフェルナンド・レイは「私が無名だった頃から信頼してくれた監督、頭の中は映画工場のようで、アメリカ映画の熱烈なファン、特にキング・ヴィダーが好きだった。根っからのシネアスト、作りたい映画を作った」と語っている。

B: 代表作として「太陽のない通り」を挙げる批評家が多い。契約した製作費と期限を守ってエンターテインメント映画を作った「職人」監督でした。