ロドリゴ・プリエトの『ペドロ・パラモ』②*原作者紹介2024年11月22日 19:25

            フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』の映画化

 

★前回ロドリゴ・プリエトが監督した『ペドロ・パラモ』の鑑賞記をアップしましたが、原作者並びに監督以下のスタッフ、キャスト紹介が積み残しになっていました。原作者の詳細な紹介までしないのですが、今回は作家の人生が映画(小説は勿論)と深く関わっているのでアップすることにしました。日本語版ウイキペディアからも情報を得られますが、生まれた年に1917年と1918年の2説あることもあり、また過去に製作された『ペドロ・パラモ』、短編集『燃える平原』に収録された短編のなかから選ばれて映画化された短編映画などを紹介したい。

 

       

 (ヘビースモーカーだったフアン・ネポムセノ・カルロス・ペレス・ルルフォ・ビスカイノ)

 

フアン・ルルフォ Juan Nepomuceno Carlos Perez Rulfo Vizcaino1917516日(1918年説あり)、メキシコのハリスコ州のサユラ地区アプルコ生れ(198617日、メキシコシティ没)、作家、写真家、歴史家、会社員。1922年、ホセフィナ学校に入学、初等教育を受ける。翌年6月、牧場主であった父親が殺害され、母親も4年後の192711月に亡くなった。学校がクリステロの反乱192629)で閉鎖されたため、1927年、叔父の判断でグアダラハラのルイス・シルバ学校に入学する。1929年、母方の祖母が住んでいたサン・ガブリエルに移り一緒に暮らすことになったが、その後グアダラハラのルイス・シルバ孤児院に預けられる。両親の死、続いて起きたクリステロの恐怖を目撃するという幸せとはほど遠い少年時代を送ったことになる。

 

クリステロGuerra Cristeraの反乱:1917年メキシコ憲法第130条でカトリック教会の権力制限が強化され、政教分離に基づき国家が宗教に優先することが決定される。教会や神学校の閉鎖が相次いだ。19266月カジェス大統領が第130条に違反した聖職者および個人に対して特定の罰則を定めた「刑法改正法」(カジェス法)に署名、同年8月にグアダラハラで暴動が発生、内戦状態になった。多くの司祭が追放並びに殺害されたが、1929年カジェスの傀儡だったエミリオ・ボルテル・ヒル臨時大統領が譲歩して、1929年、一応の終結を見た。193812月、ラサロ・カルデナス大統領によりカジェス法は廃止された。他国と戦った戦争ではない内戦だったので反乱とした。

 

1930年、雑誌「メキシコ」に参加する。1933年、グアダラハラ大学への入学を考えていたが、大学がストライキ中であったため、メキシコシティのコレヒオ・デ・サン・イルデフォンソ(メキシコ自治大学UNAMの大学予備校)の聴講生になり、1934年から4年間、UNAMのメキシコ哲学文学部での講義に出席した。大学進学過程を終了していなかったので入学資格はなかった。

 

1937年、内務省の文書係に採用され、同年詩人のエフレン・エルナンデスと親交をもち友情を築いた。後には作家フアン・ホセ・アレオラと出合い終生友情を育んだ。翌年には内務省の委託を受けてメキシコの各地を巡る視察の旅をするという幸運に恵まれた。これはその後の彼の作品に生かされることになる。1934年ころから書き始めていた短編を雑誌に発表し始め、1941年からはグアダラハラの出入国移民局に勤務し、次いで1947年から5年間、グッドリッチ・エウスカディ社の職長として働いている。ほか1962年から没するまで、メキシコシティの国立先住民協会のエディターを務めました。1944年に知り合ったクララ・アパリシオ1947年(英語版ウイキペディア1948年)に結婚、4人の子供の父親になった。因みに1964年に生まれた末子フアン・カルロス・ルルフォ・アパリシオが、後述するように映画監督として現在活躍中である。

 

         文学的なキャリアとレガシー、写真集の出版

 

★作家としては、1945年から1951年にかけて雑誌「パン・イ・アメリカ」などに発表した短編15作を収録した『燃える平原』を1953年に上梓した。なかで1950年に発表された El llano en llamas がタイトルに選ばれ、妻クララに捧げられている。1953年から翌年にかけて、1955年に中編小説『ペドロ・パラモ』として出版されることになるオリジナル原稿を3つの異なる雑誌に発表、1つ目のタイトルは Una estrella junto a la runa(仮訳「月のかたわらの星」)、2つ目は Los murmullos(同「ささめき」)、3つ目が小説の舞台である田舎町の名前 Comala でした。しかし最終的には主人公の名前 Pedro Páramo で刊行されたが、真の主人公はコマラです。

      

     

              (『ペドロ・パラモ』の初版表紙)

 

★『燃える平原』の翻訳書は、アンデスの風叢書の1冊として、199011月に刊行され、のち文庫化された。以下の邦題は訳者杉山晃の邦訳によった。代表作は1945「おれたちのもらった土地」1946「マカリオ」1947「おれたちは貧しいんだ」1948「コマドレス坂」1950「タルパ」とタイトルになった「燃える平原」、1951「殺さねえでくれ」、先述したように1953年に『燃える平原』として刊行している。最初のオリジナル版のタイトルは、Los cuentos del tío Celerino(仮訳「セレリノおじさんの寓話」)で15作でした。セレリノ叔父は実在の人でルルフォを旅に連れだして見聞を広めてくれた人だと後年語っている。1971年に「犬の声は聞こえんか」「マティルデ・アルカンヘルの息子」2編が追加され、現在の17作になった。またフレディ・シソが映画化した「殺さねえでくれ」は、メキシコ革命時代にあった実話をベースにしているということです。

 

       

                (『燃える平原』の表紙)

 

★『燃える平原』と『ペドロ・パラモ』の2冊だけでラテンアメリカ文学を代表する作家になったわけですが、ほかに短編集に入らなかった初期の作品、語り手が女性という Un pedazo de noche(仮訳「夜の断片」、1980年刊 El gallo de oro y otros relatos に収録)などがある。さらに1956年から1958にかけて2番目となる小説 El gallo de oro を書いた。ガルシア・マルケスカルロス・フエンテスが脚本を共同執筆したことで知られる、ロベルト・ガバルドン1964年に監督した『黄金の鶏』(邦題は「メキシコ映画祭1997」による、未公開)である。映画の台本として書かれたという理由で小説と見なされなかった。

  
  

                           (2017年刊のソフトカバー版の表紙)

 

★しかしルルフォによると「印刷される前に、ある映画プロデューサーがこの小説に興味をもち、映画の台本用に脚色されたのです。この作品も以前の作品同様、そのような目的で書かれたのではありません。要するに、台本としてしか私の手に戻っこず、再構築するのは容易でなくなった」。台本として書いたのではなく、これまでと同様、小説として書いたということです。この小説は1980年まで出版されなかったが、ずさんな版だったようで、本作のほかに、短編集に選ばれなかった初期作品など14編が含まれている。スペイン語版ウイキペディアによると、2010年版で多くの誤りが訂正され、独語、伊語、仏語、ポ語への翻訳が行われた。

     

        

★写真家として、6000枚のネガを残しました。作家の死後、遺族によって設立されたルルフォ財団が所蔵しており、選ばれた一部が刊行されている。El Mexico de Juan Rulfo 1980)、"100 Fotografias de Juan Rulfo"2010)など。また私たちは私たちの過去を知ることが必要であると、ハリスコ州の征服と植民地化についての書籍もあり、彼は歴史家でもあった。

 

           映像作家を刺激し続けるルルフォの作品たち

 

★ルルフォの作品は、短編を含むと結構の数が映画化されている。玉石混淆ですが、以下に年代順に列挙します。映像は保証の限りではありませんが、YouTubeで見ることができるものもあります。本作『ペドロ・パラモ』も、1967年にカルロス・ベロがペドロにジョン・ギャビンを起用して撮ったモノクロ版があり、カンヌ映画祭1967のコンペティション部門に選ばれている。撮影監督がメキシコ映画黄金期を代表するガブリエル・フィゲロアで、先述のガバルドンの『黄金の鶏』も彼が手掛けている。メキシコ時代のルイス・ブニュエルと『忘れられた人々』、『ナサリン』、『砂漠のシモン』など何作もタッグを組んだ撮影監督としても有名です。

 

      

     

              (ペドロの二人の息子の出合い、フアンとアブンディオ)

 

        

        

        (ドロレスに求婚するようフルゴル・セダノに指示するペドロ)

        

★ルルフォの創作の主軸には、父親の不在と憎悪があり、背景にはメキシコ革命とクリステロの反乱の結果がある。革命によって土地所有者の権利がなくなったわけでもなく、ルルフォに限らず多くの家族の崩壊をもたらした。特別なことを何も持たない「普通の人々」を登場人物にしたルルフォの作品には、孤独が付きまとう、彼にとって書くことは苦しみであったに違いない。作家が寡作なのは、2冊ですべてを書ききったからでもあるでしょうが、この絶対的な孤独の存在も理由の一つだろうと思います。

  

1956年「タルパ」長編、監督、短編集『燃える平原』収録作品の脚色

1964年『黄金の鶏』(邦題メキシコFF1997による)長編、監督ロベルト・ガバルドン

1965年「La fórmula secreta」中編42分、監督ルベン・ガメス、

    1980年刊の El gallo de oro に含まれた詩がベース

1967年「ペドロ・パラモ」監督カルロス・ベロ、カンヌFF1967正式出品

1972年「El Rinn de las Vírgenes」監督アルベルト・アイザック、

    短編集収録の「アナクレト・モローネス」と「大地震の日」の脚色

1985年「殺さねえでくれ」ベネズエラ製作、監督フレディ・シソ、短編集収録作品の脚色

1986年「El imperio de la fortuna」監督アルトゥーロ・リプスタイン、

            “El gallo de oro がベース

1991年「ルビーナ」監督ルシンダ・マルティネス、短編集収録作品の脚色

1996年「Un pedazo de noche」短編30分、監督ロベルト・ロチン、初期短編の脚色

2008年「Burgatorio」(仮訳「煉獄/苦悩」)短編23分、監督ロベルト・ロチン、

    短編集収録「北の渡し」、初期短編「Un pedazo de noche」、「Cleotilde」を脚色、

    アリエル賞2000短編賞を受賞

2014年「マカリオ」短編24分、監督ジョエル・ナバロ、短編集収録作品の脚色

2024年『ペドロ・パラモ』監督ロドリゴ・プリエト

(以上、TVシリーズは割愛)

 

★映画監督になった末子フアン・カルロス・ルルフォ・アパリシオは、ドキュメンタリー映像作家として、パートナーのバレンティナ・ルダック・ナバロと二人三脚で活躍している。IMDbによると、代表作は監督が父親ルルフォを探してハリスコを旅する「Del olvido al no me acuerudo」(99)で、アリエル賞のオペラプリマ賞、編集賞ほか、モントリオールFFの初監督作品賞など多数の受賞歴がある。作家で親友だったフアン・ホセ・アレオラ、母クララなどが出演している。父親に関係する作品は本作だけのようです。2006年に撮った「En el hoyo」は、国際映画祭巡りをした話題作、アリエル賞2007のドキュメンタリー賞他、サンダンス、カルロヴィ・ヴァリ、グアダラハラ、リマ、マイアミ、各映画祭の受賞歴多数。メキシコ先住民のサンダル履きのマラソンランナーを描いた、『ロレーナ:サンダル履きのランナー』201928分)が、ネットフリックスで鑑賞できる。100キロのウルトラマラソンの勝者、美しい風景と民族衣装、感動します。

 

★次回は監督以下、スタッフ、キャスト紹介を予定しています。

  

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