ガルシア・ベルランガの「死刑執行人」①*スペインクラシック映画上映会 ― 2020年06月09日 15:12
ガルシア・ベルランガの代表作「死刑執行人」は辛辣な喜劇
★今回のオンラインでの「スペインクラシック映画上映会」の最初の案内では10作がアップされておりましたが、本邦は4回シリーズで終了したようで、まことに残念です。マルコ・フェレーリの「El cochecito」(60「車椅子」)やカルロス・サウラの「Los golfos」(59「ならず者」)などの未公開作品は、結局鑑賞できないことになったようです。
★第4回目上映は、ルイス・ガルシア・ベルランガの三代悲喜劇の代表的作品「El verdugo」(63「死刑執行人」)でした。三大とは本作と『ようこそマーシャルさん』、「Plácido」(61「プラシド」)を指しますが、なかには「プラシド」ではなく前回アップした『カラブッチ』(57「Calabuch」)を推す人もいます。そして彼の頂点と一致しているのが「死刑執行人」です。ベルランガは検閲に苦しみ必然的に寡作を強いられましたが、これはスペインのシネアスト全員に当てはまることでした。
★監督として独り立ちしたばかりの『ようこそマーシャルさん』では、新人として検閲の目は厳しくなかったようですが、あれから十年、海外でも知られる危険人物の一人になっていました。検閲をかわす手段としてイタリアとの合作で成功した『カラブッチ』の経験を活かして、今回も同国との合作を画策し、主役ホセ・ルイスにイタリア俳優を起用しました。そして「死刑執行人」成功後は、その反体制的な内容の報復として、なかなか検閲を通してもらえなくなった。タイトルも内容も変更させられ、共同製作のかたちでやっとアルゼンチンで撮影した「La boutique」(67「ブティック」)は、ベルランガ映画の一番の駄作とまで言われました。体制側の暴走する権力乱用を垣間見る思いです。
★「死刑執行人」の作品解説者は、『「ぼくの戦争」を探して』の監督ダビ・トゥルエバでした。解説者は本作の共同執筆者の一人、その気難しさで近寄りがたかった名脚本家ラファエル・アスコナから、その類まれな才能を愛でられたシネアストです。スペイン=イタリア合作ということで、ベネチア映画祭1963でワールド・プレミア、国際批評家連盟FIPRESCIを受賞しました。「マーシャルさん」の主役を演じたホセ・イスベルトを老死刑執行人に、スペイン映画初出演のイタリアのニノ・マンフレディを新死刑執行人に、その妻にエンマ・ペネーリャを配しました。3人とも既に鬼籍入りしています。何しろ映画は半世紀以上前、因みにガローテ刑による死刑執行は、1974年アナーキスト二人を最後に翌年から銃殺刑になりました。
「El verdugo」(63「死刑執行人」)
製作:Naga Films(マドリード)/ Zabra Films (ローマ)
監督:ルイス・ガルシア・ベルランガ
脚本:ラファエル・アスコナ、ルイス・ガルシア・ベルランガ、エンニオ・フライアーノ
撮影:トニーノ・デッリ・コッリ
音楽:ミゲル・アシンス・アルボ
編集:アルフォンソ・サンタカナ
美術:ルイス・アルグェリョ
メイクアップ&ヘアー:(メイク)フランシスコ・プヨル、ホセ・ルイスカンポス、(ヘアー)マリア・テレサ・ガンボリノ
衣装デザイン:マルハ・エルナイス
プロダクション・マネージメント:ホセ・マヌエル・M・エレーロ
助監督:リカルド・フェルナンデス・スアイ、フェリックス・フェルナンデス
製作者:(エグゼクティブ)ナサリオ・ベルマル
データ:製作国スペイン=イタリア、スペイン語、1963年、ブラック・コメディ、87分、モノクロ、撮影地マドリードのスタジオCEA、パルマ・デ・マジョルカ、撮影1962年7月2日 公開マドリード1964年2月17日、バルセロナ5月5日、イタリア3月13日
映画祭・受賞歴:ベネチア映画祭1963出品、8月31日上映、FIPRESCI受賞、ナショナル・シンジケート・オブ・スペクタクル1963女優賞(エンマ・ペネーリャ)、シネマ・ライターズ・サークル賞1964オリジナル脚本賞(ラファエル・アスコナ、ルイス・ガルシア・ベルランガ、エンニオ・フライアーノ)、サンジョルディ賞1964受賞。
キャスト:
ニノ・マンフレディ(葬儀社社員ホセ・ルイス・ロドリゲス)
ホセ・イスベルト(死刑執行人アマデオ)
エンマ・ペネーリャ(アマデオの娘カルメン)
ホセ・ルイス・ロペス・バスケス(ホセ・ルイスの兄アントニオ・ロドリゲス)
マリア・ルイサ・ポンテ(アントニオの妻エステファニア)
アンヘル・アルバレス(葬儀社社員アルバレス)
マリア・イスベルト(アルバレスの妻イグナシア)
グイド・アルベルティ(刑務所部長)
アルフレッド・ランダ(サクリスタン)
エラスモ・パスクアル(サン・マルティン)
ホセ・オルハス(侯爵)
フェリックス・フェルナンデス(オルガン奏者)
ホセ・ルイス・コル(歌手)
シャン・ダス・ボラス(建設中のマンション警備員)
チュス・ランプレアベ(同見学者1)、フリア・カバ・アルバ(同2)、ロラ・ガオス(同3)
アグスティン・ササトルニル<ササ>(刑務所所長)
ビセンテ・リョサ(労働省職員)
セルヒオ・メンディサバル(侯爵の同行者)
マグダ・マルドナド(飛行場に夫の遺体を引き取りに来た未亡人)
エミリオ・アロンソ(未亡人の父親)
エミリオ・ラグナ(税関職員)
アントニオ・アルフォンソ・ビダル(刑務所付き医師)
ホセ・マリア・プラダ(シャンパンを持ってきた警備員)
アントニオ・フェランディス、ペドロ・ベルトラン、(刑務所所員)
エンリケ・ペラヨ(刑務所警備員)
マヌエル・アレクサンドレ(既決囚)
バレンティン・トルノス(書店員)
エレナ・サントンハ(書籍フェアーにきた女性客)
その他、ゴヨ・レブレロ、アグスティン・ゴンサレス、フランシスコ・セラーノ、ホセ・コルデロ、ドロレス・ガルシア、アグスティン・サラゴサなど多数
ストーリー:マドリード裁判所の死刑執行人アマデオは、誇り高く伝統を重んじる紳士である。今最後となる任務を終えたばかりで、遺体を引き取りに来た葬儀社の社員ホセ・ルイスと知り合った。アマデオの気がかりは後継者と婚期を逸した娘カルメンの婿探しである。ホセ・ルイスは恋人が見つからない。彼の職業を知ると女性たちは遠ざかる。カルメンも恋人が見つからない。父親の職業が分かると青年たちは遠ざかるからだ。カルメンとホセ・ルイスは急接近、カルメンは妊娠したことをホセ・ルイスに告げる。大急ぎで挙式、二人は公務員が条件の住宅を手に入れることができるアマデオと暮らす計画に浮き立っている。しかし既にアマデオは引退して権利を失っていたのである。婿が後継者になれば契約できる。父娘は今後刑の執行は決してないだろうからとホセ・ルイスを丸め込むことに成功する。そうこうするうちにマジョルカでの死刑執行命令書が届いてしまうのだった。
事実にインスピレーションを受けて製作された「死刑執行人」
A: 死刑執行人という一般庶民とは遠い存在の男性を主役に映画を撮るというアイディアは、ベルランガの知人でもある弁護士からもたらされた。それは1959年、バレンシアの連続毒殺犯の家政婦ピラール・プラデス・エクスポシトをガローテ刑で処刑した執行人の話でした。
B: 結果的にはこの執行が、スペインにおける女性最後のガローテ刑になったことで歴史になりました。
A: 執行人アントニオ・ロペス・シエラは、前夜から恐怖で辞職したいと叫んでいた。それで何本も鎮静剤を注射され、当日は酔っ払ってふらふら終了までに2時間もかかったそうです。
B: これが執行後にカルメンにもらすホセ・ルイスのセリフになった。
A: 弁護士から顛末を聞いたとき、「即座にあるイメージが浮かんだ。天井の高い空っぽの部屋を横切っていく二つのグループ、一つは罪人を引きずっていく集団、それに続いて死刑執行人を引きずっていく集団です。こうして『死刑執行人』が生まれたのです」とベルランガ。
(後半部分の山場、後ろの集団が警備員に引きずられていくホセ・ルイス)
B: しかし台本作りは困難を極めた。共同執筆者に「Plácido」で初めてタッグを組んだラファエル・アスコナを選び、加えてイタリアのエンニオ・フライアーノに応援を依頼した。
A: スペインを代表する名脚本家アスコナについては後述しますが、エンニオ・フライアーノとは、既に『カラブッチ』で共同作業をしていた。外国人に参加してもらうことで検閲者を牽制する策にでた。死刑が有効である国で死刑反対を主張することは慎重でなければならない。
B: 後日談ですが、ベネチア映画祭で上映された2週間後に、2人のアナーキストがガローテ刑で生涯を終えていますね。
A: そのせいでベネチア上映が論争のタネになった。スペインでの公開が遅れたのも、重箱の隅をつつくような見直しに時間がかかったからです。納得できないカットも多々あったが、公開するには受け入れざるを得なかった。特にビリディアナ事件があったばかりでしたから要注意でした。
テーマの一つにしたガローテ刑の歴史
B: ガローテ刑という処刑法は、スペインでは1820年から1974年まで行われていた。
A: スペインだけでなくスペインが宗主国であったキューバ、コスタリカ、フィリピンにも持ち込まれたということです。1974年3月2日にバルセロナ刑務所で執行されたアナーキストで反政府グループのサルバドール・プッチ・アンティックが結果的に最後となりましたが、正式に憲法で廃止が確定されたのは、フランコ没後の1978年でした。
B: これはマヌエル・ウエルガによって『サルバドールの朝』(06)として映画化され、当時人気のあったドイツのダニエル・ブリュールがサルバドールを演じ、本邦でもヒットしました。
A: 母親がスペイン出身で家庭ではカタルーニャ語を話していたこともあり、4ヵ月でスペイン語をマスターできたという語学の天才でもあった。またサルバドールと同日に、同じガローテ刑で処せられたのが東ドイツ出身のアナーキストHeinz Ches(実名ゲオルク・ミハイル・ヴェルツェル)で、タラゴナ刑務所でした。興味深いのは、死刑執行人ホセ・モネロはまるで映画のホセ・ルイス状態で、辞職したいと執行を拒んだが、結局最後には行った。
B: 苦しまずに即死できるはずが、執行人の腕力の差で終了まで20分以上もかかることがあり、立ちあった医師は、残酷な拷問だと語っています。
A: 海外からの非難を浴びても廃止できなかったのは頻発する政治テロ対策として有効だったからでしょうか。1789年のフランス革命以来フランスで執行されていたギロチン刑も、1977年まで行われていた。フランスが死刑廃止に踏み切るのは1981年ミッテラン内閣のときでした。
B: フランスだけでなくベルギー、イタリア、スイス、ドイツなどで行われていたそうですね。1960年から70年代は、いわゆる<政治の季節>だった。
ベルランガ流ブラック・ユーモアとアスコナ流のシビアな女性描写
A: テーマとしていろんなオプションの可能性があっても、政権との真っ向勝負は避けねばならない。そこでベルランガとアスコナが考えた作戦は、主人公が自身ではコントロールできない災難の悪循環に巻き込まれるようにした。執行人になることを受け入れたのは、カルメンと赤ん坊と一緒に暮らす家がどうしても必要だったから仕方なかった、それに舅も妻も執行の可能性はないと太鼓判を押したんだから、と観客を納得させることだった。
B: 当時は住宅難で若いカップルは家探しに奔走していたという背景があった。仕立て屋を営む兄夫婦の家も半地下みたいで、それに兄嫁は家賃をもらっているのに義弟を邪魔者扱いしていた。
A: 兄夫婦を演じたホセ・ルイス・ロペス・バスケスとマリア・ルイサ・ポンテの掛け合いも笑わせました。二人はベルランガ映画の常連さん、コメディでは大体女房のほうが強いのが定番です。女嫌いとも女性に辛辣だったともいわれたアスコナの人格造形、大体に女性は意地悪に描かれる。
B: 兄嫁は義弟のガールフレンドのカルメンを「どうせあばずれ女よ」とチラリ見しただけで決めつける。生活に余裕がないから亭主に八つ当たりして憂さ晴らしをしている。
(義理で結婚式に列席した兄嫁は、さっさと帰宅したいと夫を急かす)
A: 兄アントニオは葬儀社の制服を縫ってやるなど弟思いだが、勝ち目のない女房には逆らわない。我が子の頭のハチが大きいのが気がかりなのか、仕事用のメジャーで測っているのを女房に見咎められ「この子は普通だってば」と叱られている。
B: カルメンも繊細とはほど遠い。夫がマジョルカだろうがどこだろうが行きたくないと苦しんでいるのに、「買ったばかりで着てない水着があるの」海水浴ができるから行きましょう。
(浮き浮きと1回も着てないレトロな水着を披露するカルメン)
A: モノクロだから色は想像するだけですが、スペイン60年代の水着は見ものです。アマデオも「わしもマジョルカには行ったことないなぁ」なんて、父娘であれこれ説得する。罪人が先に病死したりして中止になることもある。
B: なんとか家族4人の観光旅行を兼ねた初仕事に出かけることになる。
A: 書籍フェアーに現れたエレナ・サントンハ扮するインテリ女性に「ベルイマンかアントニオーニに関する本ありますか」などと尋ねさせている。当時ベルイマンはスウェーデンを代表する映画監督として『野いちご』や『処女の泉』を発表、アントニオーニも「愛の不毛三部作」と称される『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』を次々に発表して映画界の話題をさらっていた。
B: 気配りしながら、知ったかぶりの映画通女性を皮肉っている。犯人はアスコナかな。
(映画通のインテリ女性を演じたエレナ・サントンハ)
A: ホセ・ルイスのような庶民が見る映画はワイラーの『ベン・ハー』、彼は自分がチャールトン・ヘストンに似ているとご満悦だった。ハリウッド映画だが撮影の殆どをローマのチネチッタというスタジオで撮ったから、こちらはエンニオ・フライアーノの発案かもしれない。
B: 公開されるや大ヒットとなり、倒産寸前だったMGMを救った映画としても有名になった。全編後編合わせて212分、観客は首や腰が痛くなったはずです。他に「ミスター・ペマン」の本を探してましたが、これはどういう人ですか。
(飛行場で葬儀社の先輩アルバレスと一緒にカメラにおさまるシーン、
ニノ・マンフレディとアンヘル・アルバレス)
A: 大急ぎで調べたのですが、作家、詩人、ジャーナリスト、雄弁家でもあったホセ・マリア・ペマンのことで、君主制主義者とありました。1928年プリモ・デ・リベラ独裁政権時代にスペイン国歌の歌詞を書き換えた人でもあるようです。問題山積のスペイン国歌の複雑な推移については深入りできません。ただスペインの観客には意味があったのでしょう。ベルランガのコメディには隠れた切り札があって一筋縄ではいきません。(続く)
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