『マウトハウゼンの写真家』①*ネットフリックス ― 2019年03月03日 18:02
フランコがヒトラーに売り渡した7000人以上のスペインの囚人
★マル・タルガロナの「El fotógrafo de Mauthausen」が『マウトハウゼンの写真家』の邦題でNetflixのストリーミング配信が始まりました。ゴヤ賞2019で4部門(プロダクション・美術・衣装デザイン・メイクアップ&ヘアー)にノミネートされた作品。いずれもゴヤ賞は逃しましたが、ガウディ賞は同じ4カテゴリーを受賞しています。ナチの強制収容所マウトハウゼンに収容されたスペイン人の写真家フランセスク・ボシュを主人公にした実話ということで気になっていた作品。先行作品としてロレンソ・ソレルのドキュメンタリー「Francisco Boix, un fotógrafo en el infierno」(2000、56分、エミー賞ノミネート)、マウトハウゼン強制収容所を専門的に研究している歴史家ベニト・ベルメホ(サラマンカ1963)が執筆したボシュの伝記「Francisco Boix, un fotógrafo de Mauthausen」(2002)、2015年には「El fotógrafo del horror. La historia de Francisco Boix y las fotos robadas a los SS de Mauthausen」が刊行されており、タルガロナ監督も製作にあたって参考にしたと語っている。他にコミック本も発売されています。
★マル・タルガロナ監督は1953年バルセロナ生れの製作者、監督。フアン・アントニオ・バヨナの『永遠のこどもたち』、ギリェム・モラレスの『ロスト・アイズ』の製作を手掛けている。手始めに簡単なスタッフ、キャスト、プロットの紹介から。
(撮影中のマル・タルガロナ監督とマリオ・カサス)
「El fotógrafo de Mauthausen」『マウトハウゼンの写真家』
製作:Film Team / ICEC Insttitut Catala de les Empreses Culturals / ICAA / RTVE /
Rodar y Rodar / TV3(カタルーニャTV)
監督:マル・タルガロナ
脚本:ロジャー・ダネスRoger Danés、アルフレド・ペレス・ファルガス
撮影:アイトル・マンチョラ
音楽:ディエゴ・ナバロ
編集:ホセ・ルイス・ロメウ
プロダクション・デザイン:ロサ・ロス
美術:マグドルナ・バルガ
衣装デザイン:メルセ・パロマ
メイクアップ&ヘアー:ケイトリン・アチソンCaitlin Acheson(メイク)、ヘスス・マルトス(ヘアー)、ルチョ・ソリアノ(ヘアー)、他
キャスティング:イレネ・ロケ
製作者:István Major、ホアキン・パドロ、マル・タルガロナ
データ:スペイン、スペイン語・独語、2018年、伝記ドラマ、実話、歴史、110分、撮影地:ハンガリーのブダペスト、バルセロナ県テラサTerrasa(スペイン語タラサTarrasa)、2017年10月クランクイン、スペイン公開2018年10月26日、Netflixプレゼンツ、受賞歴:ゴヤ賞・ガウディ賞は上記の通り。
キャスト:マリオ・カサス(フランセスク・ボシュ)、リヒアルト・ファン・ヴァイデンRichard van Weyden(パウル・リッケン記録管理責任者)、アライン・エルナンデス(バルブエナ)、アドリア・サラサール(アンセルモ・ガルバン)、エドゥアルド・Buch(フォンセカ)、ステファン・ヴァイネルトWeinert(フランツ・ツィライス収容所所長SS大佐)、ニコラ・ストヤノヴィツ(ボナレヴィツ)、ルベン・ジュステ(ロサレス)、フランク・フェイス(ポパイ)、マルク・ロドリゲス(看護師)、アルベルト・モラ、ジョアン・ネグリエ(レヒアス)、ルカ・ぺロス(カール・シュルツSS大尉)、ライナー・レイナーズRainer Reiners(ポシャッハー採石場経営者)、マリアン・コクシス(ポシャッハー夫人)、トニ・ゴミラ(フランシスコ)、マカレナ・ゴメス(ドロレス)、Marta Holler(アンナ・ポイントナー寮母)、Denes Ujlaky(アンナ夫アルバート・ポイントナー)、エミリオ・ガビラ(アレクサンダー・カタン囚人A.K.)、パトリック・ペトロヴスキ(カポ)、Minnie Marx(売春施設担当者)他スペイン、オーストリアの囚人、ドイツの軍人など多数(G体は実在者、イタリック体は仮名の実在者。カタカナ表記が定まっていないものは原綴を入れた)
(マウトハウゼン強制収容所の正面全景、ナチス・ドイツの国章を掲げた正門)
プロット:1943年、第二次世界大戦真っただ中のナチス強制収容所マウトハウゼンに収容されたスペイン人約7000人は、ナチスの無慈悲で残酷な仕打ちと飢えに米軍による解放まで苦しんだ。彼らの多くはフランス兵と共にヒトラーに歯向かった人々やスペイン内戦の敗残兵コミュニストたちである。フランコ独裁政権のラモン・セラーノ・スニェル外相によって、囚人たちは国籍を剥奪され第三帝国にギフトとして売り渡された。コミュニストの活動家フランセスク・ボシュは、マウトハウゼンの記録管理責任者パウル・リッケンに写真の技術を見込まれ、彼の片腕となって写真家として過酷な運命を生き延びようと決心する。「夜と霧」の布告、グーセン収容所近くの花崗岩採石場に設けられた「死の階段」186段、ナチのなかでも最も過酷な収容所の一つに数え上げられたマウトハウゼン強制収容所を舞台に、スペインのホロコーストが語られる。 (文責:管理人)
もう一つのゲルニカ、スペインのホロコースト
A: スペインは第二次世界大戦には参戦しませんでしたが、というよりスペイン内戦で疲弊した国土回復のため参戦できませんでしたが、ゲルニカの例でも分かるように、国民を犠牲にした点ではフランコもヒトラーと同じ穴の狢です。
B: 本作ではナチスの残虐行為は語られましたが、ヒトラーに無料の労働力として国民を売り渡したスペイン側の責任は、残念ながら語られません。これはまた別のドラマですが。
A: ナチの強制収容所といえば、150万のアシュケナージ系のユダヤ人をガス室に送り込んだ、ポーランドのアウシュヴィッツが先ず思い出されます。死者数は戦後すぐの1945年11月から翌年10月まで開廷されたニュルンベルク裁判では400万人とされましたが、冷戦後の1995年には150万人に改められました。実際のところ正確な数字は分からないということですね。
B: では、スペインの囚人7000とも8000ともいわれるマウトハウゼンはどんな役割をもった強制収容所だったのか。
A: マウトハウゼンは、1938年8月オーストリアのオーバーエスターライヒ州マウトハウゼン周辺に、アウシュヴィッツ同様ハインリヒ・ヒムラーの指示によって建設された。従って1940年に建設されたアウシュヴィッツより先だったわけです。収容所所長は映画でも残忍ぶりを思う存分発揮した親衛隊SS大佐フランツ・ツィライスでした。スペイン人の他、ポーランド人、ロシア人、犯罪者、政治家、ユダヤ人も少数だが収容されていた。
B: 1940年にマウトハウゼンから5キロほど離れたグーセンに建設された、より過酷な収容所の囚人数の合計は延べ20万人、うち半分以上が死亡したという。死者のトータルは122,766人から32万人と、幅がありすぎますが数え方にもよるのか、要するに正確な数字は今後とも分からないということです。映画の主な時代背景になった1943年の収容人数は15,000人、1年間の死者は7058人、半数が死亡している。
A: スペイン人のトータルの犠牲者は、正確かどうか分かりませんが4672名、半数も生きのびるとこができなかった。死に方は何十通りもあると豪語するシーンが出てきますが、アウシュヴィッツのような「ガス室」はなかった代わり、「ガス・バン」といわれる黒のバンに押し込めて処理する「ガス車」があった。
B: 映画でもシュルツ大尉に「簡単で清潔だ」とか言わせていた。病死のほか、冬場の冷水シャワー、餓死、拷問、脱走者防止のため電流を流した鉄条網、犬による八つ裂き、一発で終わるようコメカミを狙っての発砲、見せしめの公開絞首刑、自殺・・・あとどんなのがあるのか、気分が悪くなってきた。
30歳の若さで倒れたフランセスク・ボシュは英雄か?
A: マリオ・カサスが12キロ減量して演じたフランセスク・ボシュの伝記映画、と言っても彼の人生をベースにしたドラマです。ニュルンベルク裁判に証人として出廷したときの公式記録では、「1920年8月14日にバルセロナで生れ、1940年6月にフランスで逮捕され、ドイツの捕虜となってその後マウトハウゼンに1941年1月27日に移送された」と応えている。共和派の1506人と一緒だったという。
B: コミュニストの活動家、スペイン内戦には共和国軍側に17歳で参加、バルセロナ戦線で戦った。内戦中にフランスへ亡命している。ドイツ語ができたので最初は通訳の仕事をしていた。その後は映画にあるように写真の腕を記録管理責任者パウル・リッケンに見込まれてカメラマンとして生き延びた。
(スペイン内戦時代のフランセスク・ボシュ、右は共産党のリーダー)
A: レニングラードでのドイツ軍敗北が分かった1943年2月にはネガは約2万枚あったということでしたが、映画にも出てきたように証拠隠滅を急ぐSS幹部によって焼却処分された。焼却を免れた約1000枚を仲間と分散して外部に持ち出し救出した。うち200枚ぐらいが自分の撮影した写真だとボシュは証言している。200枚の内訳は1945年5月5日の解放後に撮られたものだとも語っている。
B: 例えば元囚人というか正確には戦争捕虜であるが、鷲がハーケンクロイツを掴んでいるナチス・ドイツの国章に縄をかけて引き下すシーン、写真救出に協力してくれた娼婦ドロレスと同僚二人を撮ったもの、写真などが含まれる。
(縄をかけてナチス・ドイツの国章を引きずり下す元囚人たち)
(ドロレスと同僚の女性)
(ドロレス役のマカレナ・ゴメス、映画から)
A: ネガの殆どはパウル・リッケンが撮ったもので、絵画に造詣が深く芸術家気取りだった元美術教師は、構図や照明に拘り、写真の違法修整を行っていたことを映画は語っている。
B: ヒムラーとその部下エルンスト・カルテンブルンナーが揃ってマウトハウゼンを視察に訪れたときの有名な写真、186段もあった「死の階段」の残酷なシーン、部屋の消毒のため裸で広場に集められた囚人たちなど、後の裁判で重要証拠となったものは、リッケンが撮影したもので、同じシーンが映画にも登場する。
(花崗岩を背負って186段を昇るグーセン収容所の囚人たち)
(寒さに震えながら消毒が済むのを待つ囚人たち)
(構図や照明に拘って撮ったチェスをする囚人たち)
A: ボシュだけの手柄ではありませんが、リッケンが焼却処分を命じたネガを救出した功績は大きい。リッケン自身は自分の子供のように大切だったネガの焼却は本意ではなかったでしょうけれど。アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントが、彼は極悪人ではなく小心者の有能な小役人であり、完全な無思想性からくる「悪の陳腐さ、滑稽さ」と嘆じてスキャンダルになったが、リッケンもアイヒマンに一脈通ずるものがあります。
B: 「私は誰も殺さなかった、命令に従っただけ」とボシュに訴えるシーンがありました。第三帝国には決定的に不利な証拠物件であったが、自分が優れた写真家であったことを証明できた。歴史の皮肉を感じさせます。
(ネガ焼却に向かう、バルブエナ、ボシュ、リッケン、映画から)
A: 解放後は、フランスに戻り共産党の機関紙「ユマニテ/リュマニテ」の報道カメラマンとして働くも、マウトハウゼンで発症していた腎臓病のため1951年30歳の若さで鬼籍入りしてしまった。先述したようにニュルンベルク裁判に、1946年1月29日マウトハウゼンの生き証人として出廷、証拠として提出されていた写真ネガの状況説明を10時間に亘っておこない、1941年にヒムラーやカルテンブルンナーが当地を視察に訪れたことを証言した。
B: これが映画の最後のシーンですね。裁判官から「あなたが収容されていたとき訪問した人がここにいますか」と質問され、「はい、おります」と指さしているシーン。
A: ヒムラーは既に1945年5月23日に服毒自殺しておりますから、多分カルテンブルンナーでしょう。彼は往生際が悪く誰彼のせいにして生き伸びようとしましたが、1946年10月16日に絞首刑になった。
(法廷でマウトハウゼンの訪問者を指さすボシュ、1946年1月29日)
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://aribaba39.asablo.jp/blog/2019/03/03/9042972/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。