脇役に徹した個性派女優テレレ・パベス逝く2017年08月29日 10:46

 

       去る811日、脳溢血のためマドリードのラ・パス病院で死去

 

★訃報記事は気が重い。特に大好きだったテレレ・パベスとなると尚更です。TVを含めると100本近くの映画に出演しておきながら、ゴヤ賞助演女優賞を受賞したのが2014年、アレックス・デ・ラ・イグレシアの『スガラムルディの魔女』(13)だった。テレレ・パベスTerele Pávez(本名Teresa Marta Ruiz Penellaは、政治家ラモン・ルイス・アロンソを父に、芸術一家だったマグダレナ・ペネリャ・シルバを母として、1939729ビルバオ生れたが、育ったのはマドリードでした。四人姉妹の末っ子、うち二人の姉エンマ・パネリャ(19312007)とエリサ・モンテス(1934)も女優。姉たちの影響で女優の道に進み、3人揃って出演した映画が1作だけあるようだ。女優エンマ・オソレス(エリサの娘)の叔母にあたる。

 

    

 

1970年代のテレレ・パベス

   

 

1973年、編集者ホセ・ベニト・アリケ(2008年没)との間に息子が誕生したが、テレレは父子の認知を望まず、シングル・マザーの道を選んで、自分の父姓ルイスを取ってカロロ・ルイスCarolo Ruiz とした。母子関係はいつも良好とは言えなかったそうだが、没後カロロは涙の会見をした。同年生れのピラール・バルデムと共に、女性シネアストの地位向上にも尽力したテレレ・パベスだったが、去る811日、脳溢血のためマドリードのラ・パス病院で死去、813日、遺体はエル・エスコリアルの火葬場で荼毘に付された。写真下はマドリードのホテル・リッツで行われたゴヤ賞2017の前夜祭のような会合に出席した母子、彼女はマリナ・セレセスキーの La puerta abierta 6度目の助演女優賞にノミネートされていた。

 

 

      (息子カロロ・ルイスに寄り添うテレレ・パベス、20171月)

 

60年に及ぶ長い女優人生だったが、一度も主役を演じたことがなかった。しかし20世紀スペインでもっとも愛され尊敬された監督と称されたガルシア・ベルランガ、『無垢なる聖者』のマリオ・カムス、『セレスティーナ』のヘラルド・ベラ、ビセンテ・アランダ、ビガス・ルナ、そして1995年のホラー・コメディ『ビースト 獣の日』出演以来、アレックス・デ・ラ・イグレシアのお気に入りとなった。映画デビューはガルシア・ベルランガ19212010辛口コメディNovio a la vista(1954「一見、恋人」仮題)1959年、ベルランガがプロデュースして、ヘスス・フランコが監督したコメディ Tenemos 18 años に姉エリサの夫になるアントニオ・アロンソなどと共演した。その他マヌエル・バスケス・モンタルバンの陰謀小説を映画化したビガス・ルナの Tatuaje1979「刺青」仮題)などがある。

 

   

  (左から、パコ・ラバル、テレレ・パベス、アルフレッド・ランダ、『無垢なる聖者』から)

 

★出演作で一番評価が高いのが、マリオ・カムスの『無垢なる聖者』Los santos inocentes1984、アルフレッド・ランダが演じた主人公妻レグラに扮した。ミゲル・デリーベスの同名小説の映画化、1960年代のスペイン農民のレクイエムです。これは20世紀スペイン映画史に残る名画、パベスの最高傑作と言ってもいいでしょう。残念ながらまだゴヤ賞は始まっていませんでした。アンヘラ・モリーナやフアン・ディエゴと共演したゴンサロ・エラルデの Laura, del cielo llega la noche1987)で第2回目のゴヤ賞に初ノミネート、翌年も続いてノミネートされたが受賞できなかった。ビセンテ・アランダの「エル・ルーテ」の続編、El Lute II: mañana seré libre1988)に起用された。

 

          

            (演技が絶賛された『セレスティーナ』から)

 

★そのほかゴヤ賞関連では、ヘラルド・ベラの『セレスティーナ』96)の演技が認められてゴヤ賞確実と言われながらノミネーションさえされなかった。しかし1997年サン・ジョルディ賞を受賞した。3回目のノミネーションがアレックス・デ・ラ・イグレシアの『13みんなのしあわせ』(00だが、カルメン・マウラが主演、エミリオ・グティエレス・カバが助演を受賞したものの、テレレは受賞できなかった。4回目の『気狂いピエロの決闘』も空振り、アレックス映画のマスコット的女優となった『スガラムルディの魔女』13)で宿願を果たした。カルメン・マウラ扮する人食い魔女のリーダーの母親マリチェを怪演した。これは三度目の正直ではなく「五目」でした。今年2017もマリナ・セレセスキーの La puerta abierta16)で認知症の母親役を演じて6度目のノミネーションを受けた。ゴヤ賞ノミネーションはすべて助演女優賞です。

 

     

                  (魔女マリチェに扮した『スガラムルディの魔女』から)

 

      

 (涙、涙のゴヤ賞2014助演女優賞の授賞式にて)

 

★アッレクス・デ・ラ・イグレシアがゴヤ1996監督賞を受賞した『ビースト、獣の日』に初出演したあとも、上記以外に『マカロニ・ウエスタン800発の銃弾』(02)『グラン・ノーチェ!最高の大晦日』(15)『クローズド・バル』(17)などに起用されている。

 

   

  (左から、カロリナ・バング、カルメン・マウラ、デ・ラ・イグレシア、テレレ・パベス)

 

★テレレ・パベスを理解するのに避けて通れないのが父ラモン・ルイス・アロンソとの関係である。父はガルシア・ロルカ殺害に深く関与したことで告発され、テレレや姉二人ともにその重荷を背負って生きてきた。父親は内戦勃発の1936年、ヒル・ロブレス率いるスペイン独立右翼連合CEDA所属の元国会議員としてグラナダでは有名だった。アカ嫌いのルイス・アロンソは、グラナダのファランヘ党のリーダーとして幅を利かせていたという。ロルカ逮捕には関与したが、818日のロルカ銃殺には立ちあっていなかった。ダブリン出身だが1978年からスペインに移り住み国籍まで取った、ロルカ研究の第一人者イアン・ギブソンの著書に、逮捕の経過が詳細に書かれている。こういう事情を知らなかった若い舞台演出家が「ベルナルダ・アルバの家」のオファーをしたことがあったようです。時とともに内戦の悲劇も風化していくということでしょうか。

Federico García Lorca: A Life, ロンドン、Faber and Faber, 19891997年に翻訳書が出版)

 

★三人姉妹は集団的敵意の重圧に苦しみ、一時期父姓のルイスを省いていた。親の負債を子供がどれだけ負うべきかという是非はともかく、充分苦しんだという。私たち三人姉妹は「父親を恥じてRuizを省いていたが、もうすんだこと、父親としてはいい人だったのよ」とテレレは語っていたそうです。父親はフランコ総統が197512月に亡くなり後ろ盾を失ったことで不安を感じ、ラスベガスに移住していた三女マリア・フリア(19372017)を頼って数週間後にはアメリカに渡り、3年後の1978年に死去した。

 

★テレレを陶片追放から救い出してくれたのがデ・ラ・イグレシアだった。周囲の重圧をはねのける真摯な態度、傷つきやすさ、誠実さ、誰にも真似できない強烈な個性、それは彼女自身が編み出した演技だった。割り当てられた人物になりきる能力がずば抜けていた。「泣くべき時に泣き、どんな状況にも対応できた。モンスターだったよ」と『セレスティーナ』のベラ監督。トレードマークのような大胆なマスカラをつけ、しわがれ声をあちらで響かせていることだろう。

 

 

Novio a la vistaの記事は、コチラ2015621

『無垢なる聖者』の記事は、コチラ2014310日・11

『スガラムルディの魔女』の記事は、コチラ20141018

 La puerta abierta の記事は、コチラ2017112

ガルシア・ロルカの死についての記事は、コチラ2015911