「ロベルト・ボラーニョに捧ぐ」ドキュメンタリー上映&トーク2013年10月01日 12:33


★さる926日にセルバンテス文化センターにおいて、ロベルト・ボラーニョの実像に迫るドキュメンタリー(55分)が上映されました。原題Roberto Bolaño : El último maldito2010/10/22Rtve.es(スペイン国営放送制作、邦題『最後の呪われた作家』)

 

★ボラーニョ以外のインタビュー

マリオ・バルガス=リョサ:ペルー出身の作家、2010年ノーベル賞受賞。初長編作『都会と犬ども』がビブリオテカ・ブレベ賞を受賞(バルセロナのセイクス・バラル社が主宰)。

フアン・ビジョロ:メキシコの作家、2001年よりバルセロナ在住。

ホルヘ・エラルデ:アナグラマ社の編集主幹(創業者の子孫)。『野生の探偵たち』『2666』などを刊行し、1998年『野生の探偵たち』をエラルデ賞に選んでボラーニョを世界に送り出した。

ペル・ジムフェレール:詩人、作家。ここではボラーニョの『アメリカ大陸のナチス文学』(近刊)などを出版したセイクス・バラル社の編集者として登場している。

ルイス・ヌニョ:熱心ボラーニョ・ファン、その他、最後の17年間を過ごしたブラネス市の友人隣人、行きつけのカフェやバルの経営者、ビデオ・クラブ・セラ、書店、文房具店の各オーナーなど多数。

 

★写真での登場

*詩人ニカノール・パラとのツーショット(199825年振りにチリを訪れたときのものか)。

*今は亡きウリセス・リマこと親友マリオ・サンティアゴ・パパスキアロとのツーショット(『野生の英雄たち』刊行前の19981月に交通事故で死去)。

*家族写真(両親、母親と妹と本人、妻カロリーナと息子ラウタロと本人)など。「自分は母親似で、彼女の影響を受けている」と語っていた母親も200810月に死去している。

*カロリーナ・ロペスへのインタビューはなく写真のみの登場でした。ほかにもインタビューが期待されたボラーニョが親友として挙げていたバルセロナ在住のアルゼンチン作家ロドリーゴ・フレサン、『2666』の「初版への注記」を書いたイグナシオ・エチェバリア、友人エンリケ・ビラ=マタスの登場もなかった。取材しやすい友人隣人のインタビューが長すぎた印象だが、ボラーニョがユーモアに富んだ上から目線の人でないことが浮き彫りになっている。

 

★映画ドキュメンタリー作家が腰を据えて制作したものではありませんから、どうしてもお手軽感は拭えませんね(経済的理由かも)。バルセロナに偏っており(チリとメキシコは遠いから仕方ない?)、もう少しボラーニョの内面に踏み込んだ編集ができたのではないかという印象でした。個人的にはボラーニョが「書くことよりも読むことのほうが大切」と語っていたのが印象に残りました。書棚にズラリ並んだ詩集や小説のなかには黙って失敬してきた本も混じっているかと想像して思わず笑いが。ニカノール・パラの詩集が目につきました。尊敬する作家としてカフカ、ボルヘス、コルタサルには借りがあると。ビオイ・カサレス、シルビナ・オカンポ、マヌエル・プイグ、フアン・ルルフォ、ホセ・ドノソ・・・エトセトラ、まるで図書館。

 

「記憶は嘘をつく」というのは誰にも言えることですが、記憶は取捨選択される。更に選別された記憶は訂正されるから用心しないといけない。特にカメラを向けられると「人間は演技する動物」だから時には無意識に事実を増幅させてしまう。ボラーニョのように惜しまれながら理不尽な死に方をすると尚更です。すでに神格化が始まっており、これはボラーニョが望んでいたことではないはずです。

 

★さて、事実と嘘を織りこんで自ら伝説を作り上げてきた風変わりな作家の実像に迫ることができたでしょうか。バルガス=リョサが言うように、読者はボラーニョに育てられているのかもしれないし、神話化に参加しているのかもしれません。ボラーニョの才能を「発見」して私たちに作品を届けてくれた出版人の存在がなければ、まだボラーニョは私たちの目の前にいなかったという思いに駆られました。最後に言いにくいことですが、白画面に白文字が載ってしまう部分がかなりあり、これでは徹夜をして字幕翻訳をして下さった方は勿論のこと、字幕ありを頼りに集まった観客にも残念なことでした。更に邦題の≪呪われた≫はどうですか、“maldito”には「社会や権力から無視された人、のけ者、はみ出し者」などの意味もあるかと思いますが。例えば「ボラーニョ、究極のアウトサイダー」なんてどうでしょうか。

 

★オマケ1:≪ロベルト・ボラーニョの部屋≫開設

ブラネス市のコマルカル図書館内に常設のギャラリーが2008104日にオープンしました。ドキュメンタリーにも出てきた克明な制作ノートや海外で出版された翻訳本、ボラーニョゆかりの品々が展示されている。この地を選んだ理由として、長子ラウタロが「南米の作家と言われているが、ブラネスが好きで、ずっとここで暮らしたい」と父親が話していたからだと語っている。この開設セレモニーには、親しく交際していたロドリーゴ・フレサン、エンリケ・ビラ=マタス、A.G.・ポルタが参列した。母親は残念ながら式典前日に息子の元に旅立った。

 

★オマケ2:ピノチェトの軍事クーデタとボラーニョ

1973年、Unidad Popularを介してアジェンデ政権応援に一時帰国する。ビート世代による極端な自由主義を求めるセンセーショナルな時代であった。バス、ヒッチハイク、船を乗り継いでチリには8月に到着した。子供のとき住んでいたビオビオ州(首都の南方)のロスアンジェルスの親戚、ムルチェン、ビオビオ州の州都コンセプシオンなどを訪ねていた。クーデタ勃発の911日には、母の友人だった詩人ハイメ・ケサダ(メキシコのボラーニョの家に一時寄宿していたことがあった)に会いに行っていた。反ピノチェト・グループに参加しようとしたが、ハイメから「家から出るな、君にもしものことがあったら、お母さんに何と説明する」と押しとどめられた。実際のところ武器もなく、首都サンティアゴの地理にも疎く参加は難しかった。しかし挙動不審のせいかコンセプシオンにいる友人を訪ねた帰途のバスで逮捕された。なんとかカウケネス時代の友人の力添えで8日後に釈放された。

ピノチェトの軍事クーデタに反対してチリ入りしたのではないが、偶然に遭遇した国家権力の凄まじい暴力を体験することになった。この体験が後の短編DetectivesLlamadas telefonicas1997『通話』収録)のなかに生かされることになる。またこれは彼の分身ともいうべきアルトゥーロ・ベラーノの人格造形にもなった。ハイメ・ケサダの説得を受けいれチリを離れることにした。その後1998年に雑誌“Paula”が主宰した短編コンクールの審査員として招待され25年振りに帰国するまで故郷の地を踏むことはなかった。この折りニカノール・パラを訪問している。

 

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